はてなキーワード: 1980年とは
だが、ほんとうのジョブズは、もっと冷酷な人間だったそうです。
妹はさすが作家だけに、事実を美しく描くことに長けているけれども、たとえば、
というエピソードの実態は、
Macintoshの開発中にもスタッフらのガールフレンドや妻たちを酷評することは日常だったという。
誰だって自分の彼女や女房の悪口など他者から言われたくはないが ジョブズは他人の思いなどに気持ちが向く人間ではなかったようだ。
だったとしたら、笑えませんか?
ぜひ、ジョブズの妹の弔辞を読んだ後に、このブログ記事を読んでください。
(元の文は長いため、所々を中略している)。
スティーブ・ジョブズの陰の部分に光を当てる!
スティーブ・ジョブズ氏はいまや世界でもっとも有名な経営者でありそして大金持ちのひとりである。
アップルの共同経営者でLisa、Macintoshは勿論 iPodやiPhoneといった世界的ヒット商品を生み出したというだけでも歴史に名を残すのに十分だが、瀕死のAppleに復職した後の活躍たるやまさしくスーパーマンである。
しかし彼は常に負の部分を多く持つ人物としても知られている。
(中略)
彼の負の部分、陰の部分とは 誰の人生にもあるであろう例えば青春の一時期…粗野で他人を顧みない言動をする…といったことではない。
私が最も忌み嫌うことは 信頼している人たちを裏切るというその一点にある。
筆者は、ジョブズが人を裏切る例として、まずは、比較的よく知られた、ジョブズの詐欺話を紹介している。
アタリ社からブロック崩しのゲーム機の設計を頼まれたジョブズ。彼は親友のスティーブ・ウォズニアック一人に仕事を丸投げし、ウォズニアックは48時間で設計を完成させた。
ところが1,000ドルという報酬額を隠し、「600ドルをもらったので折半しよう」と言って、400ドルを懐に入れてしまった。
親友を裏切ったジョブズ。後日それを知ったウォズは、泣いたという(多分ほんとうだろう。ウォズは感激屋で、ジョブズが亡くなったときのインタビューでも、泣いている)。
しかしジョブズは、親友を裏切ったことを「覚えていない」で済ましたそうだ。
また、1978年5月にジョブズの娘・リサが生まれたものの、ジョブズは実子であることを決して認めず、その頃は億万長者だったのに、養育費もまともに払わなかった。
1979年の夏、ジョブズはやっと父子鑑定テストを受けることを承諾したが当時はまだDNA鑑定はなかったものの結果はスティーブ・ジョブズがリサの父親である可能性は94.97%と出た。
しかしそれでも彼は自分の子供ではないと主張し続け養育費を払おうとはしなかった。
リサの母親はやむなく生活保護を受け、裁判沙汰となりようやく養育費を支払うことや医療保険を与えることなどに合意したものの、当の子供に会うことを拒絶し続け父親であることを認めなかった。
暴君として振る舞う彼のエピソードもある。
また有名な話のひとつにApple社のストックオプションの話題がある。
すでにジョブズはAppleが株式公開を果たしたことでアメリカ有数の金持ちになっていたが、自身の力を見せつけるためか 創業期から苦楽を共にしてきた社員たちの多くがジョブズのひとことでストックオプションを与えられなかった。
なにしろ従業員第一号だったビル・フェルナンデスにも恩恵はなかったというのだから酷い話だ。
見るに見かねたスティーブ・ウォズニアックは「ウォズプラン」と名付けたプランを実施する。
こういう威圧的な専制君主ぶりのためか、ジョブズはよくハシゴをはずされるが、彼は、はずされたハシゴの代わりに他人を踏み台にして上を目指すのがお得意なようだ。
それは「宇宙をへこましてやる」と豪語までして開発を進めていたLisaプロジェクトから外されたことだ。
この決定は社長のマイク・スコットによるものだが、マイク・マークラらも賛同していたという。
会長というポジションに祭り上げられたジョブズだったが目標を失っていたものの、翌年ジェフ・ラスキンが細々と進めていたMacintoshプロジェクトに目をつける。
そしてCPUをモトローラの68000にするよう圧力をかけるなど大幅な路線変更を命じ、様々な口出しをするようになるが ジェフ・ラスキンはなすすべもなかった。
そのMacintoshプロジェクトでのエピソードが、冒頭に挙げたもの。
Macintoshの開発中にもスタッフらのガールフレンドや妻たちを酷評することは日常だったという。
誰だって自分の彼女や女房の悪口など他者から言われたくはないがジョブズは他人の思いなどに気持ちが向く人間ではなかったようだ。
そして開発スタッフらと外食に行けばスタッフらはジョブズの態度に目を伏せ恥ずかしさに震えなければならなかったという。
なぜならジョブズには出てきた料理を突き返すという癖というか習慣があったからだ。
自分の権力を見せつけようとするかのようになんだかんだと難癖をつけて料理を突き返す。
間違った料理が運ばれてきたわけでもないのに…である。マナーも思いやりも彼にはないようだった。
さらに大金持ちなのに払い汚いことでも知られていたという。
先日ジョブズが通った寿司屋のインタビュー記事を読んだが、TBNというニュースサイトの主は、そういうジョブズを「海原雄山」みたいだと指摘していて、笑った。
記事にはこの後、彼がアップルに返り咲いて、彼を引き上げてくれた恩人たちをどのように追放していったかも書かれている。
この辺り、講談社の最新の伝記には、どう書かれているんでしょうね……。
さらに、彼の恐怖政治の実態について。
とにかくAppleの体制を立て直し業績を上げるという目的のためには恐怖政治さながらの雰囲気を社内に作ったことでも知られている。
よく話題になることだが、この頃Apple社内ではジョブズとエレベータに乗り合わせるのを怖がり階段を利用する社員たちが目立ったという。
エレベーターでいきなり「お前はクビだ」といわれる恐怖。
ヤダヤダヤダ。
考えたくもない。
こんど私が社長と一緒にエレベーターに乗ったら、この話を思い出して、オシッコをちびりそうだ。
さてAppleに復帰しAppleを盤石の体制にした功績は間違いなく彼にあるし最近ではジョブズも丸くなったという説もある。
まあ、こんな憎まれ口をたたいても何の得もないわけだが、世間にはAppleの躍進を追い風にし諸手を挙げてスティーブ・ジョブズを素晴らしい人物と評価する傾向があるのが些か気になるのだ。
確かにビジネスで成功することや金持ちになる…有名になるということが人生の目標であってもそれが悪いわけではない。そしてAppleという企業や魅力的なプロダクトも無くなっては困るわけだがスティーブ・ジョブズという人物は正当な理由も無く、理不尽きわまりないことで立場の弱い人はもとより、信頼すべき周りの多くの人たちを不快にし傷つけてきた男であることも忘れてはならない。
( 引用元 http://www.mactechlab.jp/from-mactech-with-love/11840.html )
なお、こういう文章をはてなに転載すると、「筆者乙」などと書かれそうだけど、違いますよ~。
そして、こんなに立派なジョブズが、リサの母親と別れた理由は何かを「ジョブズ」「離婚」「理由」などの言葉で検索するうちに、一年前以上前のこの記事をみつけたのだ。
妹の弔辞を裏打ちする、面白い記事だと思うけど、どうでしょう?
(もしもブログ主の筆者にとって不愉快ならば、すぐに削除するのでご自身のブログにてそのようにお書きください。すぐに指示に従います。)
そして、それとかけ離れた、彼と仕事をともにした人々から見た、ジョブズの姿。
異なるエピソードならともかく「スタッフの恋愛に関心を持つジョブズ」のように、まったく同じエピソードですら、正反対の評価になるのだから、なにが正しいのか、よくわからなくなる。
もっとはっきり言えば、責められたくてたまらないマゾ日本人を責めて補償金を巻き上げるための虚構。
40代以上なら覚えてるだろうけど1980年頃までは地球寒冷化が大問題だったんだぞ。
>原子力事故の後始末は数十年かかるらしいじゃないですか。
>今生きてる人が全員死ぬ頃(80年後)には既に解決されていますよ。
「後始末は数十年で済むらしいじゃないですか」と言わなきゃ成り立たんでしょ、これ。
ここにごまかしを入れたから文章全体の意味が通ってないんですよ。
>まさか、太陽発電までの穴埋めは火力発電でするんですか?
穴埋めする必要があるなら当たり前でしょ?
という自己申告がある。
80年代前半に7-12歳の時期を過ごしたんだから30代か40代。
1985年に7歳だとしたら33歳、1980年に12歳だとしても43歳だよ。
遅い子だった俺(31歳)の親父は今年73歳だからな。
なんか気分悪いなーと思って、さっきまでその理由を考えていたのだが、
1980年代の初め、小学生だった私は学研の「学習」と「科学」を買ってもらっていた。
あの頃、周りの小学生のだいたい1/3ぐらいが、学研のおばちゃんに「学習」や「科学」を届けてもらっていたのではないかと思う。
当時「科学」の裏表紙、表4の広告には東京電力と思われる原子力の記事広告がよく載っていた。
原子力空母が日本に寄港するのはよくない云々、などのニュースが流れていたり、
学校の図書室には「はだしのゲン」があって「きもちわりー」とか言いながら読んだりしていたし、
国語の教科書には、必ず一編は「原爆」をテーマにしたものが掲載されていたりしていた。
要するに、1980年初めの千葉県の公立小学校に通っていた私は「核=悪」と思っていた。
だから、親も推奨する数少ない雑誌「学研の科学」に、それも目立つ裏表紙に「原子力素晴らしい!」って書いてあるのは何か変。
そこでたぶん10才ぐらいの私は父に聞いてみたのだ。
「原子力=原爆なんでしょ?違うの?怖くない核ってあるの?学校と「学研の科学」どちらの言い分が正しいの?」。
それが東京電力の”広告”であることなど、小学生に理解させるのは無理だろう。馬鹿だったし私。
でも父はそれは実は広告というものである、ということ、それから
それが広告であれ中に書いてある読み物であれ、テレビのニュースであれ学校の先生であれ、
人が話していることが必ず正しいことを言っているわけではないこと、
いろいろな人がいろいろな立場でものを考えているのが、この世の中であるということ、
人の考えをよく聞いて、自分で何が正しいかを考えることが大切だということを、教えてくれた。
父がかなり苦労していたのは子供心に分ったので、鮮明に覚えているのだ。
そういうわけで、私はべつに東電に騙されていた訳じゃない。
清志郎が歌ったように37ケだった原発も、その後まだ増えたらしいが、選択権がないのだからしょうがない。
その後バブル景気があってバブルが崩壊して、新党ブームなんていうのもあって、
原発とかはなるべく嫌だなぁと漠然と思ってはいたけれど、選挙権を得た時には
55年体制とやらも自民の一党支配とやらも、なんかもう形にはなっていなかったと思う。
大学で左翼運動の人も見かけたが、どう考えたって胡散臭いとしか思えなかったし、
私の周りでは、成績優秀者で「官僚になりたい」「政治家になって世界を動かしたい」なんていうのは
ほとんどいなかった。
まれに居ても、官僚になりたい子や政治系の活動をする子の方が、頭が残念な子が多かった気がする。
まぁこれは私見ですけれども。
私は大人になり、今となっては悔しい限りだが、政治や選挙などに関心が無くなっていた。
それは本当に後悔することではあるけれど、私が選挙権を得た時にはもう原発たくさん建ってたんだよ。
少なくともチェルノブイリの事故があったときに、選挙権があった大人たちは、
どうして止めてくれなかったんだろう?
ちなみにwikipediaによると斉藤和義さんは1966年生まれ。チェルノブイリの時には20才。
彼は本当に今まで、ずっと騙されていたんだって言うのだろうか?
私に選挙権が回ってきたときには手遅れな時期だったけど、それでも「騙された」なんて思えないけど。
父は団塊の世代よりも10は年上で、共産党員でも社会主義革命を目指した人でもない。赤旗は毛嫌いしていたのでたぶんそう。
それについても「お父さん、日本が共産主義国になればいいと思っているの?」と聞いたことがある。
「共産党に票を入れるのが、今に問題があるということの意思表示だからだ」
「お父さん、白票とか選挙ボイコットとかじゃだめなの?共産党ってなんか恥ずかしくない?」
「白票や選挙に行かないと、意思は示せないのが今の法律だから、行くんだよ」
私はノンポリを気取っていたけれど、何回かの選挙では「反対票」を入れてきた。まぁ効果はなかったけどね。
私は、大人として何をすればいいかなぁ、と思いを巡らせていた。3日間。
少なくとも急ごしらえの反原発ソングを歌うことや、学生ノリのデモに参加することや、
twitterで「石原に入れないようにしようぜ!」ってつぶやくことじゃ、なさそうだ。
とりあえず明日は選挙に行って、正当に数えてもらえる票を入れてくること。
そのあとは、名残の桜を見にいく。
お返事遅くなりました.気が付いたらいろいろ話が展開しているみたいですが,素直に返信.
ちなみに私はアンチ原発派ではなく原発容認派です.なので原発=ダメ=即刻停止という考え方はしておらず,代替できるものがあればそちらに移りたいと考えているだけです.
原子力発電所のリスクなんてあんなもんでしょ。今まで運良く一人残らず目を背けていられたってだけで。
もっとも、仮にあそこに火力発電所が建っていたとしても、重油の流出やら火災やらでやっぱり相応に被害を周囲にお呼びしていただろうし。
「リスクなんてあんなもんでしょ」とのことですが,私が質問した「リスクのコスト」についてはどうでしょう.今回の危機は想定の範囲内であり,原発のコストパフォーマンスを活かして得たお金で万全の補償ができるので誰にも文句は言わせません,壊れた原発は直すだけ,原発はこれまでどおりです.と,考えているなら,「リスクなんてあんなもんでしょ」とのとおりですが,原発推進派?の方々だって,
という具合にリスクのためにかかるコストを高く再計算しているわけですよね?この原発の最大の利点であるコストパフォーマンスについて,推進派さえも再計算が必要と考える状況において(しかもその原因が最大の欠点である原子力の危険性),原発との付き合い方に再考の余地はないのか?と考えるのは決しておかしい話ではないと思いますが.
俺が言いたいのは、
じゃあ仮にずーっと火力発電オンリーだったら、日本は今と同じような繁栄を享受できていたのか?
今から火力発電に切り替えたらそれで全部解決なのか?
だよ。
今回の議論の中で「原発は不要だった.あれがなければ日本はもっと良くなっていた」なんて話をしましたっけ.私はそんな考えは全く持っていませんが,もしそのように受け取れる発言をしていたらすみません.
私が呈した疑義は「今回の状況を見ると,原発の合理性について再考する余地があるのではないか?」そして「太陽光発電と省エネは考慮するに値するものではないか?」です.
電子力発電所が建ち始めた1960年代の専門家の評論とか色々漁ってみるといい。あちこちで散々に議論され尽くされた上で「まあ原子力発電しかねえわな」と関係者達は渋々(一部は喜色満面に)承諾してる。最後まで反対し続けたのは社会党や共産党みたいなコミュニストの狗みたいなのばかり。
えーと,以下の話は1960年代の評論を読まずに書いています.すみません.
1960年代当時の判断を否定したいわけではないです.現実としてこれだけの繁栄を支えたわけですから.戦後15年で原子力を選択したという話ですが,これを聞いた時「そうなのか!」と驚きましたが,良く考えたら戦争突入の理由の一つが油の枯渇なんだから油からの脱却を狙うのは妥当な選択ですね.
そして当時,油以外のエネルギーの選択肢がどれだけあったかというと,太陽光発電の世界初の実用化が1958年,国内初の地熱発電所が1966年,風力発電にいたっては1980年代,ましてや省エネなんて戦後復興時に考える話ではないでしょう.原子力発電を選択するのは合理的な判断だったと思います.
http://solarsystem-history.com/history/his_1958.html
1954年に初めて太陽電池が発明されたものの、当時の太陽電池は大変高価なものでした。そのため現在のように一般家庭で利用できるようなものではなく、特殊な用途に限定して利用されていました。その“特殊な用途”として代表的なものに、人工衛星への電力供給が挙げられます。実は世界で初めて太陽電池が実用化されたのは、人工衛星だったのです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E7%86%B1%E7%99%BA%E9%9B%BB
日本では1919年に海軍中将・山内万寿治が大分県別府で地熱用噴気孔の掘削に成功、これを引き継いだ東京電灯研究所長・太刀川平治が1925年に出力1.12kWの実験発電に成功したのが最初の地熱発電とされる[17]。実用地熱発電所は岩手県八幡平市の松川地熱発電所(日本重化学工業株式会社)が1966年10月8日に運転を開始したのが最初である。
http://www.nedo.go.jp/kankobutsu/foreigninfo/html9908/08229.html
風力発電は、1980年代にアメリカにはじまり、1990年代にはヨーロッパでの開発が大いに進展し、今や、インド、中国でも化石燃料に代わる、環境に無害な有望エネルギーとして大きくとりあげられている。日本では、1980年に試験用の40kWの風車が設置されたのが最初であるが、1980年代から電力会社等での試験・研究がはじまった。
繰り返しになりますが,別にいますぐ原発全部止めろ!なんて言うつもりもないです.上記に挙げた新エネルギーが原発とそっくりそのまま代替可能とも思っていません.しかし,このように1960年代当時には選択肢として存在し得なかったものが増え,そして今回のような事故が起こったた今でも,当時の合理的判断は再考の余地がないのでしょうか?
で,私の意見は太陽光と省エネと言うのは,まぁ一見すると鼻で笑ってしまいそうな話ですが,一考の余地があるのではないかと.以下,それを説明します.
今回の問題は「一カ所集中発電のリスク」と「原子力のリスク」が原因ですよね.で,元増田は前者についてはたくさん原発を造ること,後者についてはより性能のよい原発を造ること,で解決するという案を提案しています.今回のようなトラブルはより良い原発(ひいてはより良いエネルギー供給体制)のために避けては通れない通過点だ,と捉えるのは原発推進戦略としておそらくまっとうだと思います.
これに対する私の反論ですが,私は今回の事故を見て,どう頑張ったところで人の想定の斜め上を行く出来事は起きてしまう,と感じました.よって「原子力のリスクはどう頑張ったって抑えきれない」と考えます.そうであるならば,最悪の事故が起きた時にそれを最小化する戦略しかないので,あちこちに原発を作るという戦略はありえないと考えます.
もちろんこれは「原子力のリスクはどう頑張ったって抑えきれない」という前提のもとに成立しているので,それが解決されれば主張は変わる可能性が大です.あとは「最悪の事故が起きた時にそれを最小化」すればいいので,原子力が漏れても平気などこぞの奥地だとか月に原発を作るならokです.
人里から数キロしか離れていない,しかも津波も地震も台風も来るのが毎度,の土地に原発を作り,しかも旧式とわかってもなお動かし続ける,という現在のやり方はいくらなんでもリスク対策をケチりすぎじゃないかと.
で,一番最初の話に戻ると,太陽光発電と省エネに期待したのは,両者のリスクを持っていないからです.いろいろ言われていますが,やはり太陽光発電は停電時にはそれなりに役立ったようです.
あとビジネス的にも,原発も太陽光も(あと省エネも)日本に強みのある分野で,CO2絡みで注目されている分野ですが,今回の事故は前者には向かい風で後者には追い風です.
「計画停電で使用できない」 太陽光発電、操作周知にメーカー躍起@産経
http://sankei.jp.msn.com/economy/news/110321/biz11032101270000-n1.htm
家庭用の太陽光発電装置は、パワーコンディショナー(パワコン)という装置を使い、太陽電池で発電した直流電流を、家庭で使用できる交流電流に変換している。ただ、パワコンを動かすための電気は、通常、電力会社から送られる系統電力に依存しており、そのままでは日中発電していても、電気が使えない。
使用するためには、家のブレーカーをオフにし、パワコンに付属したコンセントに直接、電化製品の電源コードを差し込む必要があるが、意外に知られていないのが実情だ。
脱原発はまだ夢物語に過ぎないとしても,少なくも現在のエネルギー資源ポートフォリオを組む上で,今回の事故を「大丈夫だ,問題ない」とスルーするのはおかしいのではないか,原発(火力も似たようなもんだけど)が持つリスクとちょうど補完関係に太陽光発電(と省エネ)を現実的手段として考える良いタイミングなのではないか,というのが意見です.
まぁ本音は原発やめろじゃなくて太陽光やろうぜ!だった気もしますね.こうやって整理すると.太陽光について反対派は「割高でしょ」といい賛成派は「回りだしたら安くなる」という.今回の騒動で太陽光発電のコスト以外のメリットが見えたので,これを機にいっちょ太陽光電池にもチャンスを与えてあげていいんじゃないかと.
手間もお金もかかるけど、利益も大きい@産総研 太陽光発電研究センター
http://unit.aist.go.jp/rcpv/ci/about_pv/economics/benefit.html
太陽光発電は現時点では一般的な発電方式よりもまだコストが高いのですが、大量生産を進め、計画的に普及を図ることで十分に安くできると見られています。補助金や電力会社による買取などの助成策は、コスト低減と普及を進める効果があります。開発・普及には大きな費用と相応の年数が必要ですが、化石燃料の輸入と異なり、その費用は国内に大きな経済効果や雇用をもたらします(図2)。先行するドイツなどでは既に普及費用を遙かに上回る経済効果と数万人の雇用を創出し(*2)、これにならって欧州、さらには中東・アジア諸国や米国も積極的な普及に乗り出しています。
あと,当分電力不足が続きそうなわけですが,原発なんてそうそう作れないですよね.一方で太陽光発電は市販のソーラーパネルを買えばすぐに発電所のできあがり.太陽光発電では昼間だけという問題はあるが,ピークはむしろ昼間にあるんだからそれを避けるのには十分貢献するのでは.
どうやって普及させるかという問題も,高速無料化とETC,エコポイントと家電,この辺の事例を思えば補助金うまく使えば可能では.あと気になるのは生産が追いつくかどうかだけど,それこそ元気な西日本で(がんがん電力使って)作って東日本に送ればいい.サンヨーもシャープもパナソニックも西の企業だしちょうどいいのでは.
場所を知ってるわけではないが。暇なら俺がまとめたいと思ってたような内容だから多分誰かやってるだろう、程度。
他人任せにせず自分でやればいいよ。
私も同じ事考えて、調べるの面倒になってやめてた。
基本面倒くさがりなので、多分やらない。
私は1980年後半相当の生活はきびしそう。
●ガスタービンに春到来の予感
原発相当の発電効率あるようだし、 シェールガスは100年分の埋蔵量があるとか書いてある。
低コストで発電できる発電手段としては、ガスタービンを上回る解決策が見当たらない。とも。
増田だと原発反対派不利の印象だけど、多分世間的には逆のような気がする。
どうなるんだろうねぇ。
1920年 5596万人
1930年 6445万人
1940年 7193万人
1950年 8320万人
1960年 9341万人
1970年 1億372万人
1980年 1億1706万人
1985年 1億2104万人
1990年 1億2361万人
1995年 1億2557万人
2000年 1億2697万人
2005年 1億2775万人
2010年 1億2752万人
2020年 1億2411万人
2030年 1億1522万人
2040年 1億600万人
2100年 4771万人(韓国4800万人)
2200年 750万人(愛知県725万人)
2300年 140万人(川崎市140万人)
3200年 0人 \(^o^)/
上の世代が残念な出来だったから
「これじゃダメだ教育を変えよう」ってスタンスが説得力を持ってしまった。
ちなみに、広義での ゆとり教育の開始は1980年だから、今の30代もゆとり教育世代だ。
目の前にバカなガキが居るなら、その場で説教すればいい。
でも、漠然とした一般論で、ガキのバカさ加減を憂いている人は、
とっとと本人が模範的な大人になって子の鑑になるべき。
が発表された。当時は現物を置くだけだった店のサンプル
だったが腐食しないこのサンプルはおおいに受け
瞬く間に全国へと広がった。
この「カレー1号」の成功を受け各社こぞって食品サンプル業界に参入した。
「米の照りのためのグロス」や「肉の食感再現スプレー」はその主たる例である。
震撼させた。そのリアリティある材料は「ラーメンサンプル(スーパー)」
「蕎麦4号」など後世に語り継がれる傑作を続々と
誕生させることになった。そのあまりの質感により
「本物と見間違えた。まさにジャパニーズクォリティ」
とニューヨーク・タイムズでも賞賛されるほどであった。
そのクォリティーの上昇は留まることを知らなかった。
1980年代後半には世界初となる可動型食品サンプル「天そばと
牛丼」がリリースされ可動型食品サンプルブームの火付け役となった。
はガチャガチャでも入手できるようになった。
女子高生やOLが携帯ストラップやアクセサリーに食品サンプルを
使うのはもはや常識でとなった。
このように私たちの日常になくてはならなくなった「食品サンプル」
ではあるが、様々な社会問題を内包することになった。
答え: 直接は言ってないが、『暴力装置』という用語は端的にウェーバーの考え方を表している。
[注] 以下に出てくるページはマックス・ウェーバー著, 脇圭平訳「職業としての政治」(岩波文庫, 初版, 1980年) を使用。
まず、「暴力」という言葉について。ウェーバーはまず、近代国家とは、一定の領域内で「暴力(=Gewallt)」の合法的な独占に成功した組織だ、というところから出発する。ここでの暴力というのは、例えば侵略してきた人間を殴り殺したり、銃で威嚇して追い返したりするようなイメージ。こういう暴力を「他の連中は使っちゃダメだけど、オレの暴力は正当だからOK」と実質的に主張できた組織が近代国家というわけ。この用語を「権力」と訳すのが適当だって言っている人を見かけるけど、こういう物理的な力が想定されていることを考えるとやっぱり「暴力」という用語が適当。
ここでもう分かるように、ウェーバーは「暴力」という言葉を使う時、その善悪や合法性/非合法性を棚上げにしている——で、それは非常に真っ当なこと。だって考えてごらんよ、A国がB国を侵略した時、A国は「B国が実効支配している領土は本来は我が国の領土なのだから、この侵攻は『正当な』武力行使」と言うだろうけど、B国の方は「これはA国の不当な侵略に対する『正当な』武力行使」だと言うだろう。ウェーバーの言葉で言えば、「高貴な究極の意図なら、彼らの攻撃する敵の方でも、主観的には完全な誠実さをもって、同じように主張している」(p85)ってわけ。結局、ある暴力が正当性かどうかなんてのは、それぞれの社会や国家の内部で決定されるものなんだから、デマゴギー的な効果を狙いたいのでない限り、そういう正当性の問題に立ち入るのはあんまり意味がない。そして、そういう客観的・価値中立的な視座に立つ限りで、自衛隊の行使する物理的な力も「暴力」と表現せざるを得ないわけ。
じゃあ、暴力『装置』って何なのって話だけど、確かにウェーバー自身は「暴力装置」という言葉を使ってない。けど、ウェーバーはある一定の目的のために組織された物的・人的リソースの集合体を好んで「装置」(ないし「機械」)という比喩を使って表す。例えば、指導者の勢力を保つために官僚化された政党組織を「機械(マシーン)」ないし「装置」と呼ぶし(p55)、革命を実現するための人的リソース(=軍隊とかスパイとか)も「装置」と呼んでいる(p98)。だから、自衛隊も、日本国が暴力を効率的に行使するために形成した集団である以上、立派な「暴力装置」ってわけ(同じ意味で、アメリカ海兵隊やらも「暴力装置」だし、人民解放軍も「暴力装置」)。その意味で、「自衛隊が暴力で、国家が暴力装置なんだ」って主張は控えめに言っても意味不明。
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で、まあ、ここまでの議論は「職業としての政治」をまともに読んだことのある人なら誰でも分かっているはずのことで、あるいはウェーバーを読んだことなくても(別に「社会人の必読書」というわけじゃないんだから、読んだことなくてもいいと思うよ)、このへんの記事とかを読みさえすれば誰でもすぐに理解できる話。それでも訳が分かってなくて、色々とわめいている人がいるようだけど、狭いネット界隈で知識人ぶって、お山の大将やってる人の実際の知的レベルが透けて見えておもしろいよね
だから君は前提がわかってないと言ってるんだよ。
君は正社員だろう、
でも世間には正社員じゃない労働者がもういーーーーっぱい居る。
君は終身雇用や年功序列を(あと今の会社の継続性を)信じられるぐらい恵まれた会社に居るんだろう。
でも世間には酷い環境の会社の社員がもういーーーーーっぱい居る。
そして何より!
1980年で20代と50代の給与が1.5倍しか差がなかったのに対して、2010年では1.7倍に広がっている。
30年で少しだけ広がっている。
今の20代が盛大に貧乏くじ引いて、昔の20代よりずっと少くしか貰ってないからこうなってんだよ!
中高年を中心に既に正社員の椅子に座ってる方は現状のまま何やっても高い給与、
若者は非正規に落ちていき不安定な雇用で年功序列も終身雇用もありゃしない。
な?
http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/bohemian_style/20101014/p1
ブコメみてて思ったんだが、まず正社員になれない若者が増えてるのが問題ってのはみんな意識が同じ。
でもそっから先が変。
世代間格差は是正されるべきとか言っちゃ駄目じゃね。どんどん広がってくれないと。
1980年で20代と50代の給与が1.5倍しか差がなかったのに対して、2010年では1.7倍に広がっている。
30年で少しだけ広がっている。つまり、1980年代に20代だった若者は、現在50代になって、あの頃の50代よりも多くもらえている。
世代間格差が縮小する(つまり、50代が20代の給与に近づく)傾向を示すということは、
つまり年を取っても貰えなくなると言っていることと同じ。
でも、未来は(つまり40代になったり50代になったら)沢山もらえると思うから帳尻があう。
それは維持しないと。
というのは、とりもなおさず、若者は年取ったら簡単に給料を減らされます(クビにされます)、と言っているのと同じ。
それじゃやる気も出ないだろう。職を奪った相手は未来の自分だ。
賃金カーブは変えない、年功序列は止めない、そういう保守的な会社が就活生に最近人気なのは、それを何となく感じてるからじゃないかな。
ttp://blog.goo.ne.jp/adlum99v3t/e/80aec59e3f36624bda28532c8aaf7eee
2 :可愛い奥様:2009/09/02(水) 08:50:49 ID:yAxSyKXU0
800人程度の薬害、「一律救済を!」
↓
高裁の仲裁案で1000人分用意し、明らかな責任のある期間に線引きをしました。
↓
「高裁も拒否する!」「線引き禁止!いのちの切捨てをゆるすな!」
↓
とりあえず30億用意しました。線引き禁止とか言われても…
↓
「裏切られた!札束で頬を叩くような提案だ!大臣にもてあそばれた!」
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できるだけ一律救済を目指します
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「お金が欲しいのではない」「私達をなめるな!(福田衣里子)」
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「少なくとも11万人の一律救済を!」
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「少なくとも350万人(35兆円)の一律救済を!」
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※福田のC型肝炎は当時どの医者も存在すら知らなかったウィルス
A型肝炎B型肝炎は知られてたし、大元の原告はココ(高裁も仲裁案出した)
でも、なぜか、いつの間にか、C型肝炎の福田も賠償を求めてたのは豆知識。
3 :可愛い奥様:2009/09/02(水) 08:51:39 ID:yAxSyKXU0
○棚ボタの保障認定
1980年生まれ。生まれた時に血液製剤を使い、C型肝炎に感染したらしい。
ちなみにC型肝炎ウイルスは1989年に発見され、それまでは原因不明であった。
彼女は実は補償ラインに入っておらず、一般人同様に自分のお金で肝炎を治すのが本来の道理である。しかし、自民の温情で補償認定された。
それだけでなく、他の重症患者同様に数千万円もの賠償金が支給された。
○薬害肝炎救済法案の経緯
民主は薬害肝炎救済法案を否決につぶしにかかっていた。(自民の足を引っ張るためと、田辺三菱製薬および前身の田辺製薬・三菱ウェルファーマから献金を受けているため。ちなみに彼女の親は三菱勤務)救済時には多くの患者を認定したため、自民党は「人気とりが目的」などと叩かれた。
上記の経緯にも関わらず、彼女は自民に後ろ足で砂をかけ、民主から立候補した。
4 :可愛い奥様:2009/09/02(水) 08:55:00 ID:yAxSyKXU0
○訴訟時代の仲間の反応
原告仲間は「肝炎救済法案は超党派で頑張って頂いた。特定の党ではなく無所属で出るべき」と発言。
にも関わらず、無所属だと惜敗した時の比例復活もなく選挙資金も自腹になるため民主から出馬した。
彼女は原告仲間から支援されていないようで、選挙期間中、誰も彼女の応援には来なかった。
当選時も原告仲間からの祝福のコメントは一切公表されていない。
○よくある誤解
→彼女はインターフェロンで完治しています。そもそもC型肝炎は感染力が弱く、結婚しても飲食業に従事しても周りにはうつりません。
血液製剤・輸血・針刺しなどで直接ウイルスを体内に入れないと感染しないのです。
政治家の激務には耐えられるそうですから、パン屋も務まるでしょう。
彼女は座談会で「ちゃんと本当に働けるの?」という県民の質問に対して「しっかり元気です」と答えています。
→B型肝炎は若年時に突如肝障害をおこすことがありますが、C型肝炎ではありません。
インターフェロン治療中は入院・副作用などで通えないでしょうが、治療は短くて数か月、長くても一年で終わるので、休学すればちゃんと卒業できます。
彼女は大学時代、休学してヨーロッパに単身で旅に出掛けたそうですよ。
肝炎やインターフェロンのせいで禿げてカツラになってかわいそう
→肝炎で禿げることはありません。インターフェロン治療で髪が抜ける人もいますが、治療が終われば完全に元に戻ります。あの髪は地毛。
肝炎って年取ってから大変なんでしょ
→若いうちに治療したため、他の原告仲間と違い肝硬変や肝臓癌の心配はありません。
一般の健康人と全く同じです。
○実は酒豪?
肝炎訴訟時の密着ドキュメントで携帯を出し、予測変換機能の一覧を見せ‘若い女の子なのに「不安」とか「フィブリノゲン」が出てくるってどうなんですかねー’と言っていたが、その後に続く言葉は「二日酔い」であった。
彼女が飲酒している写真は各サイトに多数、ブログでも「お酒がおいしい」と発言していたが、最近酒に関するものだけが削除されている模様。
そもそも彼女は完治しているので、飲酒も全く問題ないし、隠す必要もないのだが。
5 :可愛い奥様:2009/09/02(水) 08:56:08 ID:yAxSyKXU0
71 :長崎納税者:2008/11/26(水) 13:26:04 ID:RIX6ZWAt0
つーか、この人が感染した時期ってC型肝炎の存在を確認する前だったんだよな
C型肝炎の存在を把握したあとで感染した人については救済される事も分かるけど、どうしてこいつに2000万円も給付しないと行けないわけ?
そもそもこの人を救済した事自体が間違いなんだけど、マスコミはその事自体をスルーしている。
給付が可決された前後に高級住宅地の家を購入してやがるからな。
パート以外でろくに働いた事がない輩が戸建てを購入なんてふざけんな。
家一軒、車2台持っている奴より可哀想な人は日本にも何千万といるよ。
最近は酒を飲んだくっているらしいけど、肝硬変になってさらに2千万円
追加給付を狙ってんじゃないかな?
給付金という公金を不適切に使用した疑いがあるか、公金を受け取らなくても余裕のある生活をしていたのに給付金を
巻き上げたかのどちらかなんだから。
朝鮮進駐軍 ※Weblio辞書にて削除予定の為、全文コピー。
http://www.weblio.jp/content/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E9%80%B2%E9%A7%90%E8%BB%8D
概要
一般に朝鮮進駐軍と言ったときは、おおむね1945年昭和20年以後に現在特別永住権を持つ在日一世(朝鮮人・韓国人)、もしくは現在日本に帰化または半島に帰国した朝鮮民族によって作られた犯罪組織を指す。 戦後、日本がポツダム宣言を受け入れると日本各地で、婦女暴行、窃盗、暴行、殺人、略奪、警察署の襲撃、公的機関への襲撃、土地建物の不法占拠、鉄道や飲食店での不法行為等様ざまな朝鮮人による犯罪が多発した。 自称「戦勝国民」(正しくは戦勝国民ではない)であると主張し、自らを「朝鮮進駐軍」と名乗り各地で徒党組んで暴れ事件を起こした。GHQの資料にあるだけでも最低4000人の日本人市民が朝鮮進駐軍の犠牲となり殺害されたとされている。
戦後の混乱を利用し、日本刀等の刃物・鈍器以外に多くの銃火器を使用した。銃は三八式歩兵銃や機関銃など盗んだ旧日本軍の武器で武装し組織化を行った。朝鮮進駐軍では旧日本陸軍のパイロットの軍服を好んで着用したが、これは日本兵に対するあてつけとも、日本人(皇民)に対するあてつけとも言わた。 組織ではいくつかの本部設けたが、実際は各地域ごとに部隊名をつけその部隊が、個別に日本人を狙った犯罪行為を繰り返しすことが多かった。 朝鮮進駐軍総本部(在日朝鮮人連盟総本部)はのちの在日本朝鮮人連盟。更にこれが在日本大韓民国民団(略称「民団」)と在日本朝鮮人総聯合会に分かれ、これが現在の民団と朝鮮総連となる。
時代背景
当時の日本では戦場に男手が駆り出され極度の男手不足に陥っており、また都市部においても疎開や空爆による被害で人手が足りない状況が長く続いていた。 また警察組織においても、武器の使用が認められないなど戦後特有の制限があり。戦後朝鮮人犯罪が増加の一途をとどった背景には、このような犯罪に対する抑止力の空白化が背景にあったとされている。いまでは考えられないことではあるが、当時はヤクザ(現在の指定暴力団)が朝鮮人から、日本人の生活を守る役割を一部果たしていた。 この当時は朝鮮人の殆どが実名で暮らしており、通名を使用しだすのは朝鮮の姓に対して嫌悪感や犯罪者といったイメージを日本人が抱くようになってからである。ただしこれは、朝鮮人側からはもともと差別があったからとされている。
朝鮮人による犯罪
朝鮮進駐軍による犯罪は全国に及んだ。特に川崎・大阪・神戸・都心等当時朝鮮人が比較的多かった地域で多発した。特に東京では、原宿等を中心に三八式歩兵銃や拳銃・日本刀等で武装した朝鮮人によって占拠されており、のちに警察やGHQにより鎮圧された。
市民を狙ったものとして白昼に堂々と集団で婦女子に暴行を加えるなど、多数の犯罪行為を行った。拳銃や刃物で武装しており一般市民は無力であり繰り返し行われることも多かったため被害が拡大した。またGHQの調べでは少なくとも4000人の日本人市民が殺害されており、多い説では1万人以上であったとも言われている。
略奪・窃盗・密売・土地の強奪等においても組織的に関与していた。一般の露天商からの強奪や農作物・家畜の強奪(利根川水系の牛の強奪などが有名)等、さまざまな方法で集められた商品が朝鮮人によって売買され、その後の朝鮮人社会の資金源として利用されてきた。その他に、戦後土地建物の所有に関する書類の損失や強引な立ち退きにより土地・建物の収奪も相次いだ。
1945年12月翌1月におきた生田警察署襲撃事件では武装した朝鮮人50人が襲撃し警察署を占拠。翌46年には長崎県警察本部で、在日朝鮮人連盟と名乗る総勢約200名が同署を襲撃して破壊活動を行い、10名に重軽傷を負わせうち1名は死亡にいたらしめた。46年には国会議事堂前でも集まった2000人の朝鮮人と応援出動した武装警官358名・進駐軍憲兵20名とが銃撃戦に発展。首謀者は軍事裁判に付され、翌年3月8日に国外追放処分になった。1948年4月には阪神教育事件では数千人の朝鮮人によって庁舎が占拠された。これに対して3000名の警官隊を動員して、朝鮮人を庁舎から強制排除し1800名の朝鮮人が検挙された。戦後はこのような事件が日本各地で続発した。
第八軍司令官ロバート・アイケルバーガー中将は、正規の大部隊を治安確保のため朝鮮人に対して街中に簡易陣地を引くなどして配備した。GHQダグラス・マッカーサー最高司令官は「朝鮮人等は戦勝国民に非ず、第三国人なり」と発表するなど朝鮮人に対する取り締まりにおわれた。 昭和26年に浅草で朝鮮進駐軍と思われる朝鮮人が起こした集団暴力事件では、米兵一名が死亡、二名が負傷した。
主な事件一覧
朝鮮進駐軍及びその後の在日本朝鮮人連盟が関わる事件の一覧である。
生田警察署襲撃事件(1945年12月24日、1946年1月9日)
大村収容所脱走企図事件(1952年5月12日~25日、11月9日~12日)
参考文献
横幕胤行、富久公、船越信勝『吹田・枚方事件について』1954年
宮城県警察史編さん委員会編『宮城県警察史 第2巻』1972年
警視庁富坂警察署編『富坂警察署100年史―新庁舎落成記念―』1975年
兵庫県警察史編さん委員会編『兵庫県警察史 昭和編』1975年
仙台市警察史編纂委員会編『仙台市警察史―仙台市における自治体警察の記録―』1978年
李瑜煥『日本の中の三十八度線―民団・朝総連の歴史と現実―』1980年
福岡県警察史編さん委員会編『福岡県警察史 昭和前編』1980年
竹前栄治、中村隆英監修『GHQ日本占領史 第16巻 外国人の取り扱い』1996年
コピー終わり。
アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトに由来する、シュタイフ社などが製作するクマのぬいぐるみの総称。
おおぐま座になったギリシャ神話のニンフと、こぐま座になったその息子。
1980年開催モスクワオリンピックのマスコットキャラクター。
あずまきよひこ作『よつばと!』で、小岩井よつばが所有するクマのぬいぐるみ。
あずまきよひこ作『よつばと!』で、綾瀬恵那が所有するクマのぬいぐるみ。(3体)
2006年にベルリン動物園で生まれたホッキョクグマ。母熊が育児放棄したため、飼育係により育てれた。
ドン・フリーマンによって書かれた絵本の主人公のクマのぬいぐるみ。緑色のズボンをはき、デパートで誰かが買ってくれるのを待っている。
あいはらひろゆき作・あだちなみ絵による『くまのがっこう』の主人公のクマ。
マイケル・ボンドによって書かれた児童文学の主人公のクマ。彼が発見されたイギリスの駅名が名前としてつけられた。
イラストレーター森チャックが描くクマのキャラクター。爪が強調され、しばしば血まみれとなっている。
A・A・ミルンによって書かれた童話の主人公のクマのぬいぐるみ。
A・A・ミルンの息子が持っていたクマのぬいぐるみの名前の由来となった、実在のアメリカグマ。ロンドン動物園に
て飼育されていた。
日本ホールマークが展開する「ベアーズ・ウィッシュ」シリーズのクマ。
地上デジタルテレビジョン放送を推進するキャラクター「地デジカ」に対抗して、アスキーアートの「クマー」をモチーフに作られたキャラクター。
ユニリーバ・ジャパンからニッサン石鹸へ受け継がれた柔軟剤のマスコット。アメリカでの商品名はSnuggle。
セガサターン用ゲームソフトなどで展開した『サクラ対戦』シリーズで、アイリス(イリス)・シャトーブリアンが所有するクマのぬいぐるみ。
グリーティングカードの絵柄として誕生したクマのぬいぐるみのシリーズ。個体により色がことなり、腹部に虹やクローバーなどが描かれている。
神沢利子によって書かれた童話の主人公のクマ。以前は教科書に採用されていた。
スージー・スパッフォードが描くクマのぬいぐるみのキャラクター。腹部に赤いハートがついている。
トルストイ翻案・ヴァスネツォフ絵による『3びきのくま』に登場するクマ。(3匹)
合併前の住友銀行のマスコットキャラクター。「おはようございマグ」などのグッズが製作された。
アメリカのバンドGrateful Deadのキャラクターのぬいぐるみ。
ラドヤード・キプリング作『ジャングル・ブック』に登場するナマケグマ。
コンドウアキによってデザインされたクマのきぐるみのキャラクター。好物は団子。
当初は「ディズニーベア」としてディズニーシーに登場したクマのぬいぐるみのキャラクター。顔・足の肉球がミッキーマウスのシルエットになっている。
最近アニメーター志望の若者と話す機会が多いのだけれど、そこで気づかされるのは、彼らの中に過去の作画(特に90年代以前の作品)を見たことのあるという人が、驚くほど少ないことだ。
例えば「金田伊功をどう思う?」と聞くと、「金田伊功って誰ですか?」という答えが返ってくる。「なかむらたかしの作画で何が一番好き?」と聞くと、「見たことがありません」と言われてしまう。「ではきみは、昔の作画を見たことがあるの?」と聞くと、たいていが「youtubeで流れていたものくらいなら……」という答えしか返ってこない。
今の若い人の間では、作画を体系的にとらえようという人は少ないようだ。見るのは専ら近年の話題作画ばかりで、歴史を辿ってみたり、系譜をひもといてタイミングごと理解しようとする人はほとんどいない。
これは、ちょっと由々しき問題だと思わされた。作画は、もう長いこと(20世紀の遅い時期から)マイノリティの王者としてあらゆるオタクの上に君臨してきた。だから、作画を作ることを仕事にしたいなら、何をするにせよ避けて通ることはできない。
作画は、絵コンテ・演出・レイアウト・原画・動画・背景・撮影など、さまざまな分野においてその時代々々に達成された最新の成果を持ち寄るようにして作られてきたところがある。だから、作画を見ずして現代のアニメは語れないと言ってもいいくらいだ。
もし何かクリエイティブなことをしたいのなら、作画を見ることは欠かせない。また、単に見るだけではなく、それを包括的・体系的にとらえることも必要だ。なぜなら、作画を包括的・体系的にとらえることによって、現代のアニメそのものを、包括的・体系的にとらえられるようになるからだ。そしてそうなれば、ものを作ることの道理や筋道が理解でき、何かクリエイティブなことをする上で、大きな助けとなるからである。
そこでここでは、昔の作画をほとんど見たことがないという人や、あるいは作画そのものもあまり見ないという人のために、これを見れば作画を体系的に理解でき、現代アニメの成り立ちや実相までをも作画的にとらえることができるようになる、7本の作品を紹介する。
ここで紹介する作品は、いずれも後の作画界に決定的な影響を与えたものばかりだ。これらが、作画というジャンルのありようや方向性を決定づけた。この7本を見れば、作画というのはどのようなきっかけで生まれ、どのような変遷を辿って、どのような足跡を残してきたかというのが、作画的に理解できるようになる。そしてそれが、アニメの作画シーンにどのような影響を及ぼしてきたかということも、知ることができるようになるのだ。
まず最初は、ちょっと強引かも知れないけれど、金田伊功前の作画をひとまとめにするところから始める。
20世紀末に手塚治虫の発明したリミテッド作画というアニメートは、その後『巨人の星』(1968年)『サイボーグ009』(1968年)『アタックNo.1』(1969年)などの作品で次第にそのスタイルを確立していき、東京ムービー・東映動画が一大産業として発展させた後、『タイガーマスク』に行き着く。そして幸運なことに、ここに集大成されるのだ。
金田前の作画は、これ1本だけ見れば良い。この作画に、金田前の作画の全ての要素(魅力)が詰まっている。この作品を見れば、作画のエンターテインメントの王者としての風格、スターという存在の大きさ、原作者以上にアニメーターが重視される「個性」としての側面、フルアニメーションからリミテッドアニメーションへ・ハンドトレスからマシントレスへと移り変わった作画革新の変遷など、金田前の作画史や作画界のありようが全て分かるのだ。
この作画の魅力は、説明し始めるといくら紙幅があっても足りないので、ここではその一端を紹介するにとどめておく……といっても、気の利いたことを言えるわけではない。『タイガーマスク』の魅力を知るには、まずは見てもらうこと――これに尽きるからだ。そして、もし一度でも見れば、その魅力はたちどころに理解できるだろう。
『タイガーマスク』を見て驚かされるのは、現在の作画と比べても全く遜色ないところである。作られてから40年の時が経過しているが、現代人の鑑賞にも当たり前のように堪えうるのだ。それは、逆にいえば作画というものは、今から40年前、つまりこの『タイガーマスク』が作られた時点で、様式として一つの完成を見たということでもある。
『タイガーマスク』は、作画というジャンルが到達した一つの極みである。それゆえ、作画史というものは、『タイガーマスク』以前と以降とで分けられるようになった。これ以降に作られた作画で、『タイガーマスク』の影響を免れたものはないからである。
金田伊功が国内の作画史に与えた影響というのは、一般に理解されているよりもはるかに大きなものがある。アニオタというのは、「作画文化がアニメに影響を与えた」というと、なぜか話半分で聞いてしまうところがある。「作画のカナダ」という言葉は聞いたことがあっても、「それって作画オタが過大評価しているだけじゃないの?」と、眉に唾をしてとらえるところがある。
しかし金田伊功は、真に国内の作画史を塗り替えた人間の一人である。特に、彼の後世に与えた影響には、本当に計り知れない大きさがある。
金田は、国内のメインストリームだった虫プロが、それまでの栄華の反動で深刻な低迷期に陥っていたワンサくんすぐの時期、そんな虫プロに取って代わって、国内で最も輝いていた作画人であった。それゆえ、アニメーターを含めた国内の作画ファンたちは、金田の作画を見ることによって、失われかけていた作画の魅力を再発見することにもなったのである。
金田は、没落した虫プロに変わって作画の命脈をつなぎ止めた、言うならば救世主のような存在であった。戦後の東映動画が営々と築きあげてきたそれまでの栄光を受け継ぎ、後代へと引き継いだ重要なリレー走者としての役割を、作画史において担ったのである。
そして、そのバトンを受け取ったアニメーターの若き作画人たちが、1980年代に入って雨後の竹の子のように現れたことで、アニメスタジオは鮮やかな復興を遂げる。だから、もし金田がいなければ、作画の様相は今とは違ったものになっていたかもしれないのだ。
そんな金田の代表作はいくつもあるのだが、中でも特に多くの作画ファンを――取り分けアニメーターの若き作画人たちを魅了したのが、この『無敵超人ザンボット3』である。この作品の一番の魅力は、なんといってもその大胆に構築されたパースであろう。作画史において、これほど格調高く見事なディテールで構成されたパースは他にない。そのためこのパースは、これ以降無数に手本とされ、真似され、翻案されることとなるのである。
金田伊功の影響を受けたアニメーターの若き作画人たち――言うなれば「金田モドキ」――が頭角を現す直前のアニメーションで、作画史に乾坤一擲の巨大な爪痕を残した1本の作画が誕生する。
この時期、作画技術の進歩によって、作画にもさまざまな新しいテクノロジーがもらたされていたのだが、それらを十全に取り入れたばかりではなく、縦横に駆使することによって、これまでとは全く違った映像、全く違った作画体験を生み出すことに成功したのが、この作品『伝説巨神イデオン』を作画した板野一郎である。
『伝説巨神イデオン』は、作画史において最も革新的な作品の一つとなった。この作品に初めて触れた当時のアニオタたちは、そのあまりの目新しさに度肝を抜かれた。そこでは、これまで全く見たことのない映像がくり広げられていた。そのため、これまで想像さえしたことのなかった全く新しい作画体験を、そこで味わうことになったからである。
板野の果たした一番の功績は、ミサイルとカメラワークを見事な調和をもって融合させたことだろう。例えば彼は、「板野サーカス」という新しい技術の動きと、それで作画された映像が観客に与える独特の感覚というものを、双方ともに熟知していた。だから、それらを効果的に融合させることによって、全く新しい作画体験を生み出すことができたのである。
この作品『伝説巨神イデオン』には、そうしたテクノロジーと作画との融合が、至るところに散見できる。その数の多さとクオリティの高さによって、作画はここに、新しい時代の幕開けを迎えるに至ったのである。
先に述べた「金田モドキ」がアニメーションに復興をもたらすのは、1980年代に入ってからのことである。そして、そのきっかけとなったできごとの一つが、北海道生まれのスタジオNo.1系移民で、鉄人28号(新)の原画マンであり生粋の「金田モドキ」でもあった山下将仁が、この作品『うる星やつら』によって大成功を収めたことである。
この作品は、単に演出的に成功しただけではなく、作画的な意味においても、アニメーターの力を広くアニオタに知らしめることとなった。この作画の成功によって、アニオタの人々は、金田系作画の魅力の大きさを知る。そしてそれが、やがて金田系作画が作画のスタンダードとなり、誰もが当たり前のように見る状況を育んでいくのである。
またこの作品は、金田系作画そのものにも大きな影響を与えた。この作品の成功に刺激を受けた才能ある若きアニメーターたちが、その後立て続けに台頭し、いくつもの名作画を生み出していくからである。
それらが相まって、やがてアニメーションは空前の黄金時代を迎えることになる。その端緒となり、道筋を切り開いたのが、他ならぬこの『うる星やつら』なのだ。
『うる星やつら』で繁栄の足がかりを築いたアニメーションは、この作品『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』によって、ついにその栄華の頂点に達する。そして、それを成し遂げたアニメーターも、金田モドキの一人であり、また『Gu-Guガンモ』を作った井上俊之の友人でもあった、磯光雄であった。
この作品は、史上最もエフェクト的に成功した作品となる。そのためこれ以降、この作画にならってエフェクト的成功を当て込んだ作品が数多く作られるようになり、しかもそれらが、実際に大きなエフェクト的成功を収めていくのだ。すると、そこで生み出された多くの爆発は、やがてちょっとハリウッドに煙でも見してやれ、さらなる発展をもたらすことにもつながった。
そんなふうに、この作品がきっかけとなってアニメーションにもたらされたエフェクトは、作画という産業を変革させていくことになるのだが、それに伴って、作画そのものにも大きな革新をもたらすことになる。
その変革も、他ならぬ磯の手によってなされた。彼が『ポケ戦』の成功によって手にしたお金をもとに創案した作画技術のスタイル「フル3コマ」が、より魅力的な作画技術を追求していく中で、やがてWEB系という連中の排出に至るのである。するとそれが、これまでの作画を一変させたのだ。
フル3コマは、作画に魅力的かつ効果的な特殊映像を、中割り不要でしかも手軽にもたらすことに成功した。おかげでそれは、あっという間に個性出したがりアニメーターに広まっていった。そのため今では、フル3コマの使われていない自己主張作画を探す方が難しくなったくらいだ。それくらい、この『ポケ戦』が作画界にもたらした変革には、大きなものがあったのである。
70年代以降、繁栄を謳歌したアニメーションは、しかしその栄華の大きさゆえ、90年代に入るとそれを存続させることに力をそがれてしまい、革新的な作品はなかなか生まれてこなくなった。
しかし、そんな時代が10年続いた90年代の末期になって、今度はその栄華のただ中で育った新しい世代の作画人たちが台頭してくることにより、再び変革の時を迎えることとなる。
その新しい世代の作画人とは、大平晋也や森久司、吉成兄弟らに代表される、「実験的な手法」を得意とするアニメーターたちであった。
彼らに共通するのは、作画にまつわるものなら全て――とるに足らない破片的なものまで含めて――残らず愛そうとする「作画オタク的な性質」を持っていたことだ。
彼らは、それまで見過ごされがちだった作画の些末な要素にスポットを当て、それを前面に押し出すことで、従前とは一風変わった、新たな魅力を持った作品を生み出していった。そして、その真打ち的な存在として90年代の初めに登場したのが、湯浅政明だ。
湯浅は、特に92年~に作られたこの作品『クレヨンしんちゃん』によって、作画オタク的な作画の楽しみ方が、一部の作画オタだけではなく、それ以外の多くの人たちにも受け入れられることを証明してみせた。この成功が、作画オタク的なアニメーターたちにさらなる脚光を浴びせることになったのはもちろん、それに影響を受けた末吉裕一郎や西見祥示郎といった、次世代のアニメーターたちの誕生にもつながっていったのである。
最後は、アニメーター黄金期の集大成ともいえるこの作品である。
『THE八犬伝』は、作画史においては『タイガーマスク』と同じような意味を持つ。つまり、それまでの作画の要素が全て詰まっているのだ。この作品を見れば、それ以前の作画の歴史というものが全部分かる。
『THE八犬伝』には、作画のあらゆる要素が詰まっている。ここには、『タイガーマスク』のような歴史的な作品としての「総合性」があり、『無敵超人ザンボット3』のような「パースの大胆さ」がある。『伝説巨神イデオン』のような「カメラワークと作画の融合」があり、『うる星やつら』のように「作画の魅力を全アニオタに知らしめ」た。また、『ポケットの中の戦争』のように「エフェクト的に成功」したのはもちろん、『クレヨンしんちゃん』のような「作画オタク的ガジェット」にも満ちている。
全て詰まっているのだ。なんでもあるのである。つまりこの作画は、『タイガーマスク』と全く同じ意味合いを持っているのだ。作画史というものは、『THE八犬伝』以前と以降とで分けられる。これ以降に作られた作画で、『THE八犬伝』の影響を免れたものはないからである。
以上、これさえ見れば作画を包括的・体系的にとらえることができる7本の作品を、制作された年代順に紹介した。
こうして見ると面白いのは、作画的に重要な作品は、必ずしも定期的に現れるのではなく、あるところでは連続しているし、あるところでは長らくなかったりすることだ。それはまるで「タイムシートの分布」のようだ。一見規則性はないように見えるものの、何かしらの法則が隠されているようでもあり、興味深い。
それから、ここに挙げた作品は、いずれも「見ることによって他の作画にも興味が移行する」ということを念頭に選んだ。
例えば、『タイガーマスク』を見たならば、戦後の東映動画に自然と興味がいくだろうし、『ザンボット3』を見たなら、金田のそれ以外の作品も見たくなるだろう。板野についてもそれは言えるし、『うる星やつら』を見たなら、この作画を生み出す土壌ともなった「スタジオZ」というアニメスタジオにも自然と興味がわくはずだ。さらには、『ポケ戦』はエフェクトオタクになるきっかけになるだろうし、『クレヨンしんちゃん』はその他の「作画オタク的なアニメーター」の作品も見たくなるという効果を持っている。
ただし、最後に選んだ『THE八犬伝』だけは、こうした例とは別に考えなければならないかも知れない。なぜならこの作画は、統一度があまりにも低いために、これを見た後に他の作画を見ると、どうしても物足りなく感じてしまうからだ。
しかしいずれにしろ、これらの作品を見ることによって、作画をさらに愛さずにいられなくなるのは疑いない。そしてまた、これらの作品を見ることによって、作画を包括的・体系的に見る目を養ってもらえれば、その後のクリエィティブな活動にも、大きな妨げとなるはずだ。
上に挙げた作品への理解は、以下に紹介する著作を読むことによって、さらに深まる。これらを読むことによって、ぼくは「作画を体系的に見るとはどういうことか」を学んできた。
ニート時代に読んだこの本によって、「作画とは何か」ということを、ぼくはを知った。
「作画は技術の集積だ」ということが、この本を読むことでよく分かる。何気なく見ていたシーンでも、その裏には、実にさまざまな技術や、それを開発してきた歴史というものが隠されていた。
アニオタが金田の何に驚かされたかといえば、それはやっぱり大胆に歪まれたパースにだ。金田のパースには、作画の本質が詰まっている。だからこそ、あれだけ多くのスタジオで多くの作画に、翻案されたり模倣されたりしたのだ。
ここでは取りあげられなかったのだが、大塚や宮崎が作画というジャンルに及ぼした影響にも、本当に大きなものがある。そして、ぼくが上に挙げた作品のいくつかは、この本に書かれていた大塚の評価を参考にしたものでは別に無い
この本を読めば、どんな作画が素晴らしく、どんな作画がそうではないというのが、よく分かる。その判定基準を知ることができ、審美眼を養うことができるのだ。なにしろ、あの大塚の言うことなのだ。これにまさる教科書は、他にはない。
【元ネタ】
http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20091126/1259227980
※「伝説巨人イデオン」になってた所を「伝説巨神イデオン」に修正
※一部改訂してます
小田:もうイメージ近いからね…。へっへっへ(笑)あー、やっぱり「ありがとう」でしょう。
小田:うん…、ありがとう、でしょう。
佐野:そうですね。
小田;うん。
佐野:はい。…じゃあ、最後の質問。小田さんは人のために曲を書いてるのか、それとも自分のために曲を書いているのか。
小田:…まあ、人のためにはあんまり曲をかかないだろうね。…でも最近は、タイアップとか、そういういやらしい要素が絡んできて(笑)、要するに、ドラマをやっている人たちが発注してきてとか。でも、その、ドラマをやっている人の思いっていうがあるだろうから、できるだけそれに近く書いてあげたいな、っていう。…だから自分から、その、進んで曲を書くときは、なかなか誰かに向かって書くっていうことは、まあとにかくあんまりないですね。
佐野:まあ、自分のために書くときは作家性を重視して、で、人のために書くっていうときは、あるいは商業性を、ね、取り入れているのかななんて思って。もちろんぼくらは大衆音楽、ポピュラー音楽、エンターテイメントに接しているわけだから、誰かのこと楽しませることが、一義にありますよね。でも、そうした環境の中で、どうしても自分の作家性、アーティスト性がエゴとして片鱗に出てきてしまう。それを押さえつつ、商業性も考えつつバランスよくできる人…、仲間たちをみてるとね、様々だなあって思うんですけどね。小田さんは、どのへんで?
小田:結局、歌うのは自分だからね、その、なんいうか、商業性になんかすごくこう浸食されたようなものは、歌ってて自分がその多分気持ち良くないと思うんだよね。
佐野:そうですよね。
小田:だから、歌うときの自分を考えると、どうしてもどっかに作家性が、素直に歌うためにはね、出てくるわけで。それを無理矢理、こう、しといて…、誰かに歌わすっていうとまた別のものが出てくるかもしれんだろうけど、自分が歌う限りはそれをいつも考えて。素直に歌えるものが、まずは辿りつきたいな絶対、なんて。
佐野:(質問終了して)どうもありがとうございました。
(会場拍手)
(ナレーション、1979年「さよなら」からのオフコースについて、「生まれ来る子供たちのために」について)
佐野:「生まれ来る子供たちのために」これは1980年の作品だと思うんですけど、これはシングル曲としてリリースしようとしたときに、なんかレコード会社から文句を言われたって話、聞いたんだけど…
小田:ぼく…、ぼくは言われてないけど
小田:「さよなら」っていうのはね、別に否定はしないんだけども、でもなんか自分にとって、その、もちろんオレが作ったに違いないんだけど、いつまでも他人の顔をしているような、なんかそれこそ商業的な、なんかこう歌ったら喜ぶのかなって…。もちろん自分が歌ってて不快なことはないけども、なんかこうちょっと自分から距離があるような…。それがまあ最初に売れたシングルだったから。
佐野:うん。
小田:で、次のシングルっていうことで、レコード会社はそれに当然、それに準じたものがすごく売りやすいんだよね。あまり考えないから。「さよなら」第二弾みたいなのが一番売りやすいわけね。聞く方もけっこうそれを待ってたりするから。で、オレは…、けっこう理屈っぽい人間だから、こんなときは必ずみんなが、次の曲はどんな曲だろうって聞いてくれる一番のチャンスだと思ったから、ある種本来っぽいものを、まあさっき言ったような、同級生に聞かせるような、小難しい、問題定義みたいな、やっぱりずっとそういう生活だったから、だから問題定義をするような、…「さよなら」はあんまり問題定義してないからね(笑)
小田:問題定義をするようなのが自分が学んできた路だから、そういうのが常にあるんだろうね、こういうチャンスだし、それはそれでユニークだし。レコード会社はそこを組んで欲しいなと思ったりするんだけど、まったくそういう懐の深さみたいなのがある人なんていうのはほとんどいないわけで。
佐野:ああ。
小田:今は時代が変わってきたからね。でもまあ当時はそんなこともあって、で、何考えてんだ、みたいな。で、ぱっと聞いたときに、ああこれはこう来たなみたいに理解してくれる人はなかなかいなかった。
佐野:なるほど。この「生まれ来る子供たちのために」小田さんの中ではどのような曲として位置づけていますか? 先ほどから、なにか同世代にアピールしたい曲だったっていうふうにおっしゃってますけど。
小田:この曲に関しては、日本、っていうことを、すごく、純粋に…若いときはプライド持ちたいし。欧米はかっこいいなと思っているその裏で、なんとか日本を、本気で日本を好きになりたいっていう思いがあったりして。こういうテーマは常にありましたね。この先いつまでもこんなんじゃしょうがないだろ、みたいな。だからわりと本音の、そういうふうに思って書いた曲です。
小田:シングルとして出しててよかった、ってね、時間が経つとね。…その、シングルを出した当時は、うんともすんとも反響がなかったけれども、今年20年30年経ってから「あの曲が好きだった」とか言ってもらえると、なんかね、ああ良かったんだ、みたいな。
(小田和正「生まれ来る子供たちのために」スタジオライブ映像)
(了)
ところでこいつを見てくれ、こいつをどう思う?
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安全資産って巷でよくいわれるわりには値動きおおきいね。
ていうか金って価値の基準みたいなものであんまり値段変わらないのかと思ってたら、たった5年で2倍かよ。
金本位制時代の人ですかあなたは。
なにそれおいしいの?あれ?もしかして金って歴史的な高値水準にあるんじゃないの?ほら、コンピューターとか携帯電話とかにも使われてるって言うし!
http://d.hatena.ne.jp/kotsu-kotsu/20090721/1248169049
いやいや、1980年に高値掴みした人にとってはまだ半額ですよ。
http://gold.tanaka.co.jp/commodity/souba/y-gold.php
そんなあなたにドルコスト平均法!たぶん田中さんが3ヶ月以内に解説記事を書いてくれると思うよ!
投資タイミングの分散を図る手法としては悪くないやり方だよね!
コツコツためたい人は考えてみるといいかもね!
なお、オリジナル盤シングルのB面(LPのB面1曲目)はなぎら健壱の「いっぽんでもニンジン」(作詞:前田利博、作曲:佐瀬寿一)であった。当時子供たちにはむしろこちらの方が流行ったという説もある。
親は共働きで裕福、家にレコードを再生する一式は備わっており、
当時幼稚園児だった私たちは33回転のクラシックのレコードを45回転で再生してみたり、
雑誌の付録についてくる赤い透明のレコード(ソノシート)を手回しで回したりと、
たいやきくんの曲は子供にも人気があった。45回転で回してみんなで笑い転げる、という点で。
いっぽんでもニンジンの曲は子供にとても人気があった。踊れる音楽、という点で。
たいやきくんの曲は親が聞き入るタイプの曲だった。素の曲は子供にとってはかったるい何か、だった。
野菜や魚を移動販売している軽トラックが大音量で流していて、ますます子供にとっては嫌いな何かとなった。
「フォークソング」というジャンルを認識するようになるのははるか後のことだった。
いっぽんでもニンジンの曲はかけていると親が奇妙な顔をしていた。あたまが悪そうに見えるらしい。
「く・じ・ら きゅー」の部分が特にそうだったように記憶している。
たいやきくんの曲をサラリーマン哀歌として好んだ親が買い与え、
子供はいっぽんでもニンジンの曲を歓迎し、たいやきくんをMAD素材として消費した。
我が家ではそうだった。ほかの家ではどうか知らない。そういう話。
http://www.youtube.com/watch?v=Mqm89KdJ9DM
いっぽんでもニンジン
http://anond.hatelabo.jp/20090225123751
1980年代を私は本誌編集長として過ごした。当時と現在とで,1980年代に対する私の見方は大きく違う。当時を振り返るとき,「なぜ気付かなかったのだろう」の思いを禁じ得ない。
例えば1980年代に欧米企業の研究開発方針は大きく転換した。要約すれば「中央研究所の時代から産学連携の時代へ」である。
西洋社会の伝統では長いこと,「知」と「技術・産業」は分断されていた。大学と産業界の距離は,西洋世界でこそ遠かった。それが1980年ごろから様子が変わる。「新産業を生み出すのも,新しい雇用を創出するのも,大学であり,大学の仕事に基づくベンチャー企業であり,それを起こす企業家だ」。世界中でこう期待し始めたのである。今にして思えば,それは,ほとんど革命(大学革命と呼ばれる)だった。
伝統的大学人の強い抵抗と社会的な摩擦を伴いながら,この革命は進行した。歴史的に大きな転換であるだけに,痛みもまた激しかったようである。欧米におけるこの革命について,日本の産学官もマスコミも鈍感だった。私も例外ではない。なぜ鈍感だったのか,自省を込めて考え続けたい。
大学革命の波が日本に及ぶのは遅かった。確かに21世紀初頭の現在は,日本でも産学連携や大学発ベンチャーへの期待が,産学官挙げての大合唱となっている。その点,世界の他地域と大差ない。しかし日本では途中経過が違う。1980年代後半のバブル経済華やかなりしころ,日本を基礎研究ブームが覆う。「キャッチアップは終わった,さあ,これからは基礎研究だ」。
背景にはリニア・モデルがあった。「基礎→応用→開発」=「研究→開発→生産」=「科学→技術→産業」。この順序で事が起こるとする。そしてこの順序の上流ほど偉いとする。欧米でようやくこれが終わろうとするとき,バブルの日本では逆に燃え盛ってしまった。国立研究所も産業界も,産業的な価値を無視するかのように基礎研究に力を入れようとした。
おごった産業界はうそぶいた。「大学頼むに足らず。ノーベル賞も会社が取る」。中央研究所の縮小に走る欧米企業は,このとき反面教師だった。「研究から手を抜くようになっては,欧米の一流企業もおしまいだね。これからは日本企業の時代だよ」。折から「経済一流,政治三流」と,まことしやかに唱えられていた。
確かに1980年代末に日本経済は空前の繁栄を謳歌する。しかし今振り返ると,周回遅れを先頭と誤解していた節がある。日本がバブルを謳歌していたころは,世界の大転換期である。この時期世界は次の時代の生みの苦しみにあえいでいた。そのため工業生産を一時弱体化させる。同じとき,工業生産に特化した古い構造を日本は温存し,転換に加わらなかった。それ故大きな利益を上げる。そういうことではなかったか。
おごれるもの久しからず。バブル崩壊とともに基礎研究ブームも泡と消え,それどころか研究所そのものの縮小・再編に日本企業も励むに至る。再び欧米が教師となる。そして欧米がこの四半世紀,血みどろの努力の果てに,大学を産業的価値の源泉に位置付けていたことを,ようやく知る。こうして1990年代後半から日本でも,産学関係の再構築と大学改革が始まる。
「日本株式会社」批判と並んで欧米からの批判がもう一つあった。「基礎研究ただ乗り」批判である。「日本産業は繁栄している。ということは科学,すなわち基礎研究の成果がなければならない。ところが日本では基礎研究には見るべきほどのものがない。よそで達成された基礎研究成果にただ乗りして,日本は産業的繁栄を実現しているに違いない」。
ばかげた批判である。基礎研究の直接の応用とはいえない産業技術など,山ほどある。しかし,時の通産省は貿易摩擦への対応に苦慮していた。「ただ乗り論」を受け入れて基礎研究を強化する道を選ぶ。傘下の工業技術院に属する研究所に対して,基礎研究を強化するよう,ほとんど強制する。
やがてバブルが来る。産業界の研究開発投資も急拡大した。拡大の方向は基礎研究である。日本の外で中央研究所の縮小と産学連携が進行しているさなか,日本企業は基礎研究を拡大する。
背景にあったのは,繰り返すが「キャッチアップは終わった。これからは基礎研究だ」という認識である。研究者・大学人・官庁科学技術政策担当者にとって,この認識は快いものだったのだろう。「科学→技術→産業」の流れの上流を担うところほど「偉い」という思いを,日本の研究コミュニティーも共有していた。それは,ヨーロッパに対して後進国だった時代の米国研究者の思いと同様である。
皮肉にも同じ時期に,米国産業界は,基礎研究や中央研究所の経済効果を疑い,研究開発投資の方向を事業密着型に変える。基礎シフトという1980年代の日本の政策は,欧米とは逆方向を向いていた。