はてなキーワード: 高度成長期とは
この映画を見れば気づけるぞ
<ざっくりとした内容>
主人公は中卒で学がなく非正規社員で経理。しかし支社でまともに仕事をしているのは彼だけ。語学が堪能なのも彼だけ。
あとは酒飲んで上司にゴマすって出来たら東京本社に行きたいな〜とお気楽に過ごしてる。上に詰められた時だけ仕事をしている振りをする。
主人公はこんな仕事を投げ出したくなるが、両親にホワイトカラーであることに感謝し留まるように諭されたり、自営業(畜産業)で破滅的な状態になった友人に「サラリーマンは席座ってるだけで給与が出てお気楽で良いよな」とか言われてしまう。
最終的には主人公は不正の片棒を担ぐことを頑なに拒否し、
北海道へ島流し(ただしイチから関係や組織を作れる?風な希望に満ちた終わり)
ー以下コピペー
一定割合で回さない金はどうなるの?となると貯蓄になるんだよ。だからそれが期間の最後に落ち着く金になるんだよ。だけど、簡単に説明しているいいサイトがないので、ここで説明する。数式見難いけど。
無限等比数列の和の公式は初項a,公比rとして、a/(1-r)-①だ。この展開の理由は流石に無限等比数列の和で検索して他所を見てほしい。
そうすると国民所得Yとはまさにこのa/(1-r)の式になる。
期間の最初に動き出した金というのが投資(以前の貯蓄の取り崩し含む、資金調達しての支出。最初に動き出した金)Iで、
Y=I/(1-c)となる。
なのでcが大きいと、分母が小さくなって国民所得が大きくなる。もちろん初項Iが大きくても国民所得が大きくなる。
財サービスの価格と需給量についての需要と供給を表す需要曲線にも変動を与える。
では、貯蓄の方はどうか?
まず第1段階がI(最初に動き出した金)
第2段階は消費がIc,貯蓄はI(1-c)
第3段階は第2段階の消費のみにかかるので、消費はIc^2,貯蓄はIc(1-c)
第4段階は第3段階の消費のみにかかるので、消費はIc^3,貯蓄はIc^2(1-c)
つまり、貯蓄Sは初項I(1-c),公比cの等比数列の和なわけです。
これを①式に代入するとI(1-c)/(1-c)=Iとなる。
なので経済は最初に動き出した金Iと、次に回す金の割合cこそが大事。またこれに基づいて需要曲線も変動する。
バランスシート不況で損を取り返すために貯蓄をしようとした。これでcが下がった。加えて直接cにかかる形での税金の消費税を上げ、
次に回す金の割合が低い主体をフリーハンドで減税した。限界消費性向cの平均より低い限界消費性向の人間に回る金を増やすと、平均のcは下がる。
これでもcが下がった。
とすると、全体としてのcが下がる。Iとして政府が財政出動しても効果が薄い。これこそが失われた30年の原因の一つ。
次に回す金が少ない主体に多めの税をかける、具体的な支出のみに対しての減税のみをする。これでもcは上げられる。
「経済構造が変わった」というならそう。この基本原理を無視して、自由にすればうまくいくんだ!という人々の暴走によってね。暴走を止めさせないとならない。
高度経済成長期はこれらのケインズが提唱した数々の数式に基づいて運用されていた。ただし、数式外の問題による供給不足までは取り扱えないがために否定された。ただ、数式外の問題の供給不足も、例えば経常赤字の継続で外貨借金の増大と輸入不可、そもそものオイルショックのような資源の供給不足、戦争による生産設備の破壊などね。だけども、その供給不足になる要因を一つ一つ対処していけば、ケインズの元の運用が正しいとなる。ケインズを無視し、政府が財政調整の役目を放棄したが故の高度成長期以降の経済低迷だから。経済構造が変わった原因が、政府が新自由主義にとらわれて無能力になったから。というのは言えるかもしれないがね。
戦後もGHQ主導でいろんな制度が整えられ、GHQに怒られない範囲で国内の指導者は自分とお友だちの利益を確保しようとした
この間、国民は指導者含めて、国家感や社会はどうあるべきかのような考えはなにも変わらず…
高度成長期は、もともとの日本人の勤勉性、というか、みんな同じように行動しようの根性と、いろんな設備の導入によって結果的に高度成長が実現された
この間も同じく全国民なんにも変わらず…
その後、今に至る…みたいな?
だって、安倍とか麻生とか見てる限り、彼らなんにも考えてないし、実際小泉含めその場のノリとお友だちの同士の利益のみ考えて政治してるじゃん?
それに国内の企業トップは、社員を生かさず殺さずでこき使う、これも軍部と同じ。
刀が銃に、銃がパソコンに、
変わっただけ?
だとしたら、日本が再び変わるためには中国に一回侵略されるくらいのことが起きないといけない?
日本人の無意識に抱えている、ネイティブスピーカーへのあこがれは
ときには、動機付けになるが、多方、語学学習の阻害要因にもなりうる。
とくに、ネイティブ並みのコミュニケーション能力を目指す考え方は
恥ずかしい発音をしたくない、文法含め、間違ったことをいって恥をかきたくない、という心理が
どれだけ機会損失につながっているか、実践訓練を妨げているかわからない。
特に日本人同士では顕著だ。日本人同士で「あのさ、お前何言ってんの?」とは絶対に思われたくない心理。
なので、例えば、自分よりも会話能力が上回っていると感じた日本人とは自然と会話自体を控えるようになってしまう。
一方、留学したり海外旅行では、日本人の視線を感じないことも多いため、堂々と間違えることができる。
留学時、なるべく、日本人と接しないようにした、と告白する人が語学を身に着けていくのはそれなりの理由がある。
最近、フィリピン留学などが流行しているようだが、これは、非ネイティブという利点を有効に活用できてよいと思う。
ネイティブ並みを目指しているひとにとって、未熟な言葉をネイティブと会話するよりも恥ずかしさは少ないはずだ。
そのうちに、経験や機会を阻害していた自分自身のネイティブ並みへのこだわりも消えていくかもしれない。
忍者ハットリくんやマンガ道などで知られる藤子不二雄A。そのなかに「添乗さん」という作品がある。
これは1970年代、高度成長期を上り詰め、一般の日本人が海外ツアー旅行に行き始めた時代を背景に
添乗員の悲哀を通じて、人々の海外旅行観をコミカルに映しとったた名作だ。
この作品は、個人的には同氏の最高傑作のひとつだと思っている。
見開き2ページで構成された、この小噺集のなかに、とあるエピソードで
ネイティブ英語を鍛えてきたと自負するおっさんがハワイ行の機内でドリンクを注文する場面が登場する。
添乗員に対して「キミィ。英語のわかるスチュワーデスを呼んできてくれたまえ」といって、やってきたのは
しかし「スカッチャンドワーラー、プリーズ」と話しかけるものの、
見かねた添乗員さんが、スコッチを欲しいと言っています、とコソっと耳打ちすると
「オー、スコッチ・アンド・ウォーター!オーケー」といって、おっさん語をようやく理解できてスッキリした表情。
その他のエピソードでも藤子不二雄Aの観察眼はいろいろと鋭い。
当時は、「百万人の英語」のハイディ矢野などを通じて、リエゾンの重要性を洗脳されていた時代である。
試しにネイティブの発音をマネしてかっこつけて話そうとすると、通じないことが多かった。
恐らく、ニューヨーカーの発音、南部なまり、西海岸の英語、オセアニア系、ブリティッシュ英語、これらをジョークとして使い分けられる程度の能力があれば
相手に応じて、発音のコントロールができて、通じるようになるような気がしている。
えてして、ネイティブの多様性を理解できず、山形弁をマネしようとして失敗しちゃってる奴が大阪で話をしているようなものである。
しかし、それはあたかも大阪弁と山形弁を使い分ける変なガイジンなんであって、何を目指しているのか、という自問自答になるだろう。