はてなキーワード: 脳科学とは
まわりが悲しむから→知らんがな
それでも俺は止める→言葉じゃ止められないがな
インドの子供の方がツラいぞ!→は?インドの子供が俺の人生おくってたら泣いて帰りたがるわ不幸は相対化できねぇぞハゲ
おっぱい揉ませてあげる→ただの肉に興味ねぇから肩揉んでやるよ
五万円あげる→マジかよやったぁ死ぬの止めるね
三ヶ月後
死にたい…
※1
かまってほしいんですよね?→かまってもらったらなんか解決すんの?しないだろそんな自明なことなのに他人に構ってって求めねーだろバーカバーカ
※2
「しにたくないから宇宙ハンターになる!」←社会的にしんでるだろ
※3
本当は死ぬ気がないメソッド→簡単に死ねるようにしてからに言ってくれあと俺以外の自殺志願者もやればいいんだろやればに追い込むからやめろ
※4
やってみればいい→電車に飛び込んでしねずに車いす生活やら首吊り不十分でベッドぐらしやらになったらおまえ養ってくれんの?
※5
体が本体だ→これ脳科学的にはあるらしいけど認めると犯罪者への罪どーすんのみたいな話にもなるからキワドい
※6
自殺企図を持つ人を説得すると留まるデータが→マジか初めて知ったわ、風潮的にはメンヘラには触るなが正解になりつつあるのにな、なお未遂者は何度も繰り返す模様
※7
死にたい奴は家を飛び出してでも死ぬ→昔やって失敗したんだなこれが
※8
やっぱ怖いんじゃーん→死ぬのが怖いんじゃなくて失敗した時のリスクが怖いだろ犯罪しない理由と一緒、死にたいときに死ねる身体じゃなくなるって怖い
コレに対して、俺は、
「脳科学なんて分野無いです。ですので、学ぶことも不可能なはずです。ウィキペディアにも、『脳科学ってのは、神経科学などの俗称で、そんな分野無い』ってあるでしょ。本当に学んだなら、行動科学や、神経科学を学んだという発言になるはずです。あなたの発言嘘ですよね」と返したことがある。
しかし、東大生は、「僕は医学部に行くつもりはないので、」という意味不明の発言をした。
これ、どうなんだよって思うわ。
教養盾にとって、東大って名前だけで、実質伴わない発言で許されてるのって、どうなの。ってか、東大ってそんな勉強もしないしね。
一部学術領域といっても、理系の研究分野のほとんどは論文重視でしょう。一部の領域ではトップカンファレンスでの口頭発表が重要視されるみたいだけど。
朝日新聞に「脳の発達段階のサインと思って」という脳科学者の記事がある(http://www.asahi.com/articles/ASH806WJZH80UEHF00Z.html)。
この記事の真ん中あたりの文章から「脳科学」の言葉を省くと、例えば、次のような、すっきりした、ひじょうに分かりやすい文章になる。
社会的な行動をつかさどる機能は、思春期から25歳くらいまでにつくられます。おおまかに三つあります。
一つ目は思いやりです。人が傷つくことは言わないとか、誰かが悲しむと自分もつらいとか。幼い子は残酷なことをしたり、言ったりすることがありますね。
二つ目は合理性の判断です。大人になると損得勘定で意思決定しますね。「冷たいやつ」と言われる人は、子どもより大人の方が多いでしょう。
三つ目は空気を読んで自らの振る舞いを決める、つまり社会性です。男性より女性の方が発達が早いことがわかっています。例えばウソ。女の子は5歳くらいからウソをつき始めます。空気を読めないのは、女子より男子の方が多いと思いませんか?
これらの発達を促すには、しっかり食べて寝ること。あとは健全な刺激を受けること。つまりコミュニケーションです。共感や同情、社会性は一人では身につかないので、コミュニケーションの相手が多い方が望ましいです。
要するに、大人として生きるのに大事なのは次の3つ、ということだ。
ちなみに、元は次のような文章。
脳の中で共感性や意思決定、社会的な行動をつかさどる機能は成熟が遅く、思春期から25歳くらいまでにつくられます。おおまかに三つあります。
一つは眼窩前頭皮質(がんかぜんとうひしつ)。思いやりの領域です。人が傷つくことは言わないとか、誰かが悲しむと自分もつらいとか。幼い子は残酷なことをしたり、言ったりすることがありますね。それは眼窩前頭皮質が未発達だからです。
二つ目は背外側部(はいがいそくぶ)。合理性の判断をつかさどります。大人になると損得勘定で意思決定しますね。「冷たいやつ」と言われる人は、子どもより大人の方が多いでしょう。
三つ目は上側頭部(じょうそくとうぶ)。空気を読んで自らの振る舞いを決める、つまり社会性です。男性より女性の方が発達が早いことがわかっています。例えばウソ。女の子は5歳くらいからウソをつき始めます。空気を読めないのは、女子より男子の方が多いと思いませんか?
これらの発達を促すには、脳も食べ物によって作られるわけですから、しっかり食べて寝ること。あとは健全な刺激を与えること。つまりコミュニケーションです。共感や同情、社会性は一人では身につかないので、コミュニケーションの相手が多い方が望ましいです。
脳科学がなくても分かっていたことに、「眼窩前頭皮質が・・」「背外側部が・・」「上側頭部が・・」といった言葉を足すことに何の意味があるのだろう?
もともと分かっていたことに合わせて脳の部位を紹介することに何の意味があるんだろう?
「脳科学がなければ人々が気づかなかったこと」
を語って欲しい、と思う。
なお、記事に出ている脳科学者の方は、しっかりした話し方をしているし、立派な科学者なんだと思う。この記事を取り上げたのも、たまたま今日見かけたのがこの記事、というだけで。
学校で教える科目に三角関数が必要なのか、簿記は、プログラムは、ダンスは義務教育に追加すべきか。そういうエントリーが目端に映る今日このごろ。確かに今の学校教育には何かが不足しているような気がしないでもないし、過剰な教育によってあらゆる部分が中途半端になっているような気もする。
そう考えているとふと気づいた。そもそも「勉強のやり方を教える」という授業が不足しているのではないだろうか。
習ったことを忘れないようにするためには忘却曲線の知識が必要だ。学校側でも復習はさせているがそれだけでは時間が足らない。生徒たちの自発的な学習は必要不可欠だ。そうでないなら皆テストで100点を取っているはずだが小学校ですらケアレス以外の理由で酷い点を取る生徒がいる。彼らに予習や復習をさせる必要がある。だけど彼らはやらない。何故か、その重要性に気づいていないからだ。
予習複数の重要性を教えるのに「頑張りなさい」だけでは絶対に説得しきれない。そんなのは教える力のない教師の泣き言にしか聞こえないだろう。だがここで生徒と教師が脳科学の知識を共有したらどうなるだろうか?学校から帰ってきて10分勉強するだけで将来の勉強や居残りの時間が何時間も減少すると知ったら。確かにそこまでやっても勉強しない生徒はいるだろう。だが脳科学の知識を身に付けることで正しい学習方法に目覚める生徒も少なからずいるはずだ。
また長期的な学習スケジュールを立てることの有用性も教えるべきだろう。期日までに勉強が必要な量の概算を出す、それをカレンダーに振り分ける、学習の進行具合を記録して軌道修正をする、学習してきた記録を見て学習した事自体を誇らしく感じる。大学受験を終える頃には大部分の学生は自分でコレが出来るようになるのかもしれない。だがこれはもっと早いうちに身につけた方がいい技能、知識だ。大人になっても身につけていないなんて事になったらそりゃもう大変だ。これも隔週や月に1度でいいから生徒に方法論と有用性を教えて、それが身についているか確認をすべきだ。小学生にはまだ早いかもしれないが、高校受験を見据えた中学生には絶対に教えるべきだ。
既に学校では個々の教師が自主的にそういう話をしているという反論もあるだろう。だが、それはあくまで学校教育全体の管理から離れた教師側の自発的な活動でしかない。そういう授業をする時間を儲けるべきなのだ。くだらない総合的学習の時間とやらでも削れば教える時間は出来るはずだ。むしろ総合的な学習として「勉強・学習・努力・生活の仕方の基礎」を教えるカリキュラムを組むべきなのではないだろうか?学校が本来教えるべき物は学ぶという姿勢そのものなのではないだろうかと私は思う。学ぶという姿勢を身に付けるためには学び方を知ることは非常に重要なはずだ。
数年前から「社会学者」という古市某という人が、若手の論客として幅を利かせているのを、よく見かけるようになった。
「学者」というからには、どんな研究をして、いかなる学術論文を発表されているのかと思ってCiNii Articlesで検索をかけてみたが、
ざっと見る限り、いわゆる総合雑誌とかの記事が多くて、しかるべき査読を経たような学術論文はほとんど発表されてないようだ。
参考までにwikipediaを検索してみると、この人は「大学院生」だとなっていた。
なるほど。
学者というのは、やはり、研究成果を世に問い続けてこその存在であって
既存の知見を上手く組あわせて、ただかみ砕いて説明したり、
ちょっとした思い付きで、複雑な問題を分かったったような気にさせたり、
ちょっと斜めからなんか気の利いたようなことを言って場を盛り上げる人たちとは違うと思う。
古市某のような感じでテレビにでているのだけれど、「○○学者」じゃなくて「○○評論家」という肩書を使っている人たちもいる。
まあ、評論家といえば、どこまで裏付けがあるのかよくわからないけれど面白げなことを放言して「ホンマでっか?」と言わせる人たちだという印象が、
ここ数年でついてしまった感じがあるのだが、個人的には、本当の評論家というのは、たとえば「現代美術が全く分からない人」にたいして、
15分で「現代美術とは何か」説明してくださいといわれたら、とりあえず、「魅力の一端」くらいを伝えてくれて
「なるほど、ちょっと面白そうだな、今度、そういう目で現代美術を見てみようかな?」とか思わせられるような人のことじゃないかと思っている。
「○○漫談の人」というのは、
以前、番組のゲストにきた杉村太蔵に対して、有吉が「アナタ、今、本業はなんなの? 政治漫談の人?」と言っていたのを見て、
「やはりうまいこと言うなあ」と感心して以来、個人的に使っている。
この言葉を使い始めて以来、世の中を見回してみると「脳科学漫談の人」とか、「生物学漫談の人」とか、「国際関係論漫談の人」とか、いろんな漫談の人が活躍していることに気付いた。。
なお、巷には、脳科学をネタに、なにかと「Aha~」と言っている茂木某のことを「アハ芸人」と呼んでいる人もいるが、
お笑い好きの自分としては「芸人」という言葉を安易に使ってほしくないという気持ちがある。
やはり笑いにそれなりに命を懸けている人たちこそが「芸人」なのであって、「アハの人」は、自分の中では「脳科学漫談の人」という棚に整理している。
マスメディアは、「学者」「評論家」「漫談の人」をちゃんと区別してはくれないようなので、したり顔で何かを語っているタレント以外の人を見かけると、
自分の中で「こいつは学者」「こいつは漫談の人」と整理しているのだが、気が付くと「漫談の人」の棚ばかりが溢れんばかりになってしまっている。
脳にかかわるものって、医学方面からだったり生化学方面からだったり、心理学、コンピュータ科学、あと工学方面とか
境界領域だから様々なアプローチがあって、それぞれに分野名ついてるし、
まとめて神経科学とは呼ぶけど、わざわざ「脳科学」と肩書つけるのはシロートに分かりやすくする以上の意味はない
http://www.asahi.com/articles/DA3S11392974.html
いや生理心理学とか認知心理学とかって思いっきり脳を対象とする学問でしょうが何が異色だってがっくりきてな
「脳科学者」としてメディアに出てる某クオリア芸人のアハ体験とか、認知心理学ど真ん中の領域だと思うんだけど、
図地分化とか非注意の見落としとか変化の見落としとかそれぞれ別個の問題を全部まとめてアハ体験って呼んでて
何故女子には「ただし美女に限る」という言葉がなくて、男子に「ただしイケメンに限る」という言葉があるのだろう。
異性を容姿で判断してる割合が高いのは、脳科学的に女性でなく男性のほうなんだけど…という疑問。
「ただし美女に限る」という言葉、これは女子は言葉にしなくてもよく知っている。この世は可愛い子が得するということを幼少期から叩きこまれてあきらめている。なのでわざわざ言葉にしないのだ。
似たような意味の「可愛い子は得よね」は、容姿でえこひいきする男性ではなく、得をしている女性を叩く言葉である。
一方、「ただしイケメンに限る」は、とても頻繁に聞く。己が異性を容姿で判断しているから女性もきっとそうなのだろうという想像力のなさがそう言わせる。
「ただしイケメンに限る」はどちらかと言うと、得をしているイケメンでなく、容姿でえこひいきする女性を叩く言葉である。
男女共に容姿が優れていると選ばれるのは当たり前だ。そこからさらに性格や能力がプラスになるのだ。異性を選ぶ際にどちらを重要視するかというと、男性は前者、女性は後者である。
男性における容姿の基礎点は、女性のそれほどではないことを感謝し、「※ただしイケメンに限る」と女性を侮るたびに女性からポイントを引かれていることを自覚してほしい。
政治家でなくとも良い、
例えば、テレビを見ている内にそのような話題が取り上げられた際、
この芸能人はそれに賛成なのか、反対なのか。
相手の立場を知りたくなるという欲求がある。
気になって当然であると言える。
あながち結論の異同に依って、敵味方を判断する事は出来ないように思う。
極論、
という二つは判断過程は同等だが、結論だけ違うという一つの例だ。
しかしこの二つは、表層だけでぶつかり合い戦う事となる。
何とも悲しい結末だ。
結論だけ知ろうとする事は容易く、
知れば相手との関わり合いを容易にもつ事ができる。
少し踏み込むと、仲間意識を醸成できるし、あるいは、相手を糾弾する事ができる。
相手が賛成か、反対かの表層を知りたくなる気持ちは、