はてなキーワード: 断腸とは
は難病の揶揄などではないものの、誹謗中傷と受け取られかねない、極めて攻撃的なツイートではなかったのか。
本人を中傷する意図は微塵もないが、氏が示した理路に、全く納得することができない。
@Li_Kotomi #note https://note.com/li_kotomi/n/n9e5771570c83
しかし、すでに何回も釈明した通り、私は安倍さんの難病を揶揄したことがありません。これは一部のアンチによる悪意的な解釈であり、デマです。
については、以下のような李氏本人による連続釈明ツイートがすでにあって、
政治家の「断腸の思い」発言を揶揄したいくつかの昔のツイートに対して違反報告をなされ、困惑しているが、ひとまず要求に応じて当該ツイートを削除した。
そして当該ツイートの意図が分かりやすいよう、以下の通り書き直す。
「断腸の思い」という言葉は中国の故事に由来し、元々は子猿を捕らえられた母猿が、悲しみのあまり腸が寸断したというお話。
つまり「断腸の思い」というのは本来、極めて哀傷痛切な感情を表現する言葉だが、政治家が何度も繰り返すうちに、安っぽい政治的な常套句に成り下がってしまっている。
それに対して、私は違和感を抱いている。
「一斉休校措置」も断腸の思い、「緊急事態宣言」も断腸の思い、「五輪無観客」も断腸の思い。
腸というのは、そう何度も断つものではない。
と言うのだが、
(朝日新聞記者の「安倍首相、臨時休校は『断腸の思い』」という記事を引用リツイートする形で)
本当に腸を断ってくれないかな
#安倍やめろ(2020/02/29)
元々のツイートを「腸を断つのをやめた方がいい」という意味に受け取るのは、私にとっては難しい。
確かに当該ツイートが、安倍前首相の潰瘍性大腸炎を揶揄したものではないというのは納得できる。
本人いわく、病気のことは知らなかったとのことだし、
そもそもが安倍前首相自ら使用した「断腸の思い」という故事由来の表現を、氏が受けての発言だからだ。
直前の故事を受けるとするなら、
「腸を断たれて死ぬ『ような思い』だけじゃなく、『本当に』腸を断ってもらえないだろうか」と解釈するのが、最も妥当なのではないだろうか。
故事にならうならば、腸を断った母猿はどうなっているか。少なくとも、激しく傷付いているはずだ。
「本当に腸を断ってくれないかな」は、どう読み替えても、「『断腸の思い』という表現をこれ以上軽々しく使ってくれるな、誠実に政治を行え」という解釈にはならないのではないか。
これは難病の揶揄などでは決してないものの、非常に攻撃的で、誹謗中傷に相当しうるツイートではなかったか。
「断腸の思い」とか「責任を痛感」とか、この政権が発する言葉一つひとつが嘘っぽくてなにひとつ本物の重さが感じられない。本当に聞いていられない。
https://twitter.com/li_kotomi/status/1283963125633445889(2020/07/17)
は5か月後のツイートなので、それが真意だと言われても、はいそうですかとはならないだろう。
その辺りを掘るとむしろ、安倍前首相の体調に言及したツイートが複数出てきてしまう。
言葉がきつすぎた点に関しては批判されても仕方ない部分もありますが、しかし「反日」「外省人」「左翼の工作員」といった浅はかなレッテル貼りや、「難病を揶揄した!」といった事実に反する指摘は、受け入れられるものではありません。
おまえらは通販でものをたのむ、すると緩衝材に茶色の長い長い紙が入ってくる
よくしわをのばしてみるとそのひと連なりのワンピースにはところどころミシン目が入っている
おまえはシワを伸ばしてミシン目にそってアコーディオンまたはつづら折りのようにその長い紙をたたむ
そして折山が一箇所にたまったあとおもむろに手をぬらしてその山をなぞり
ばりー!ばりー!とミシン目をひきさく
なおプロレスラーが電話帳やジャンプを派手に引き裂いてみせるのももともとはこの反故紙が目当てだ(民明書房)
おまえはハンバーグをつくる 手でひき肉を練るとおいしいが手はネチョネチョになる
水栓もさわれるようになるしあとは手に優しい食器用洗剤を一たらしして普通に手をあらえばさっぱりだ
反故紙は再生後であって再再生しづらいため近い未来燃やされる紙だ
それを最後の一働きをしてもらってもえるゴミに出すことで水質汚染を避ける
そして手ばかりでなくどんな油汚れ皿も拭える、非常に洗いやすくなるのでおすすめだ
さて昨日煮込んだ話をしよう
これはNHKの人気レシピ100という本の中の土井先生レシピをもとにした
土井先生のママみはなかなかすごいぞ ツイッターでみてるとついフォローしたくなるぞ
平野レミからおてんばみを抜いた感じ あるいは忍たまみを感じる向きもあるようだ
(タマネギ1個みじんいため、牛乳+パン粉かちぎり食パン、卵、肉、塩コショウ、塩は小さじ3/4と多め)
ナツメグもパン粉もいらん、胡椒と食パンでよいというのが土井先生のやさしさ
それをよくこねて寿司一貫かもすこし大きいくらいで丸める ペタペタ空気抜きとか手に水つけとかまんなかへこませとか全部いらん ただ丸められればいい
フライパンで焼き付ける、おもてうら3~4分とあったがひっくりかえせるような硬さまでオレはもうちょっと焼いた たぶんでかすぎた
脂ののこったフライパンに赤ワインとトマトケチャップと水(レシピより少なめ。加圧状態では蒸発しない)をドバァして塩小さじ1いれてひと煮立ちしてゴムベラで全部圧力鍋にいれる、焦げも旨味
色紙(2センチ角以上の正方形)に斬ったタマネギ1つをついかして煮立ったらアクとあぶらをとって
蓋して12分くらいの加圧+水冷開封でタマネギがドロドロになってボールも中心まで火がとおってる
そしてボールを先に大皿にもりつけ、なんとのこったタマネギと液体を濾すのだ ひえ~~~シノワか!
それを煮詰めればデミじゃないがデミよりもっとおいしいソースができる、これを煮詰めてボールにかけて食べるとある
のだがやはりアルコールやポリフェノールのせいか、合い挽きの油が乳化しやすくてドロドロすぎてやばい
デミはこれを完全乳化させたものであって意外と油脂の多いソースだ、油脂は本当に香りがいいのでどうしてもおいしくなる
でもオレのように脂肪がとれない体質の人は
このソースは一度冷凍庫で急冷して上澄みのオレンジ色の脂肪をすべて取るべきだとおもう、
このソースづくりでは濾したざるを洗うのがクソ面倒なのだが反故紙にまいて濾せなかったタマネギをすてればいいのである
味は美味しいのでご飯にかけても市販のピーマン肉詰めフライなどにかけてもうまい
洋食屋にアルバイトにでたらこれずっと洗ってるんだろうなとおもった
20220218ブログに再録した
どれくらい好きかっていうと、サンドを包んでいたビニールについたたまごを綺麗に舐めとりたいくらい好きだ。
鼻に抜ける、一歩間違えたら「くさい」に分類される濃厚なにおい。
たまらん。
春ということで、ランチは最近オフィス近くの公園で食べている。
年明け早々寝過ごして終電を逃し、タクシーのおっちゃんにいかに自分が哀れか、金がないか、ここからどれだけ遠くに住んでいるかアピールし、媚を売り、それでも「あーそーなんだねー」と流され続け、
泣く泣く諭吉を差し出した(当たり前)、当時はまだ23歳だった私が見れば
「おい弁当はどうした?」「断腸の想いで手放した緒川先生のサイン入り漫画は?※1」と
ぶん殴られるだろうが、24歳となった年長者だからこそ言えることもあるのだ。
「パタゴニアのフリースにダボダボのチノパン履いてる女に媚を売られて鼻の下伸ばすじじいがいるかよ」
公園に話を戻そう。
千切りキャベツと冷凍コロッケと白米の入った私の弁当を見て、何か言わなきゃ気が済まない先輩も、
(「ずいぶん大胆なお弁当だね〜」)
こちらが舌打ちしてもかき消されてしまうほどデカい音でタイピングをする上司も、
(バチバチ、、、バチバチバチ、、バチバチバチバチ、、、バチッ「Enter」)
(「なに食ってんすか」)
ここにはいない。
代わりにいる奴らがいる。
私のランチ仲間を紹介しよう。
「鳩」、「(鳩のケツを追いかける)クソガキ」、そして「自転車おじさん」だ。
春が鳩にとっても「春」なのかは知らないが、奴らは常に3羽で行動している。
まずはじめにやってくるのはやたら黒ずんだ(多分)メス。
正面に座って、じっと見つめてくる。
初めて会った時、片足しかなくて大好きなたまごサンドをうっかり与えそうになったが、
ちぎった瞬間二足歩行で突進してきたので、思わず「殺す」と言いそうになった。
だから女って嫌いだ。
続いてやってくるのはそいつ狙いの(多分)オス。
鳩特有の気味の悪い緑がかった光沢のある首を膨らませ、「ホホホホー」なんて言いながらメスのケツを追いかける。
そして3羽目も(多分)オス。
ただこいつはオス①の子分のようなポジションで、金魚の糞のように①の後ろをついて歩くだけ。
彼らは食べ始めに1度、思い出したように中盤に1度、そして食後に1度、必ず挨拶に来る。
律儀な奴らだ。
そんな奴らを狙っているのが「クソガキ」だ。
めちゃくちゃ短いズボンの制服を着た、目玉親父もびっくりの4頭身。
にしても子どもというのはどうしてこうも視界が狭いのだろうか。
いや、決して将来展望とか思考について語られる時に使われる「視野」ではない(なんせ奴らは人間未満だからだ)。
鳩を見つけたら、鳩しか見えない。
黒目を3mmでも動かせば、たいそう旨そうにたまごサンドを頬張る私という人間が目に入るはずなのに、見えない。
生物は自分よりも強い奴からは逃げるという習性があるんじゃないのか。
まず、食べ物を持つ私は「与える」側なので、間違いなく鳩より格上。
そして、追いかけ回して相手にとうてい手の届かないところへ行かれてしまうクソガキは、
間違いなく鳩より格下だ。
しかし、クソガキは私から逃げなければ、恐れることもない(いかにも自分を嫌いそうな生物(私)が近くにいたら萎縮するもんじゃないのか)
なぜなら、見えない気づかない怖くない、からだ。
(予定は一切ないが、自分の子どもにはこの3つの「ない」は言い訳にならないことをぜっっっっっったいに教えよう)
さて、そんな「私に萎縮しない」鳩を見つけたクソガキが何をするか。
答えは簡単だ。
追いかけ回す(地面を歩くアリを潰すように、地面を闊歩する鳩を追いかけるのは、子どもの性らしい)。
ダッ(クソガキが鳩を脅す)
バサッ(鳩が飛び立つ)
この瞬間、つい3秒前までの私が信じていた勢力図が一変する。
間違いなく私はこの3者からなるヒエラルキーの最下層へ転落する。
そして「満足にたまごサンドも食べれないランチタイムなんて…」
と、悲劇のヒロインに甘んじるのだ。
そんなどうでもいい勢力抗争に一瞥すらしない人物、それが「自転車おじさん」だ。
おじさんは、いつも公園の桜の木の下で自転車の修理をしている。
それもいつも同じ自転車だ。
春とは言え、まだ吹く風は肌寒く感じるなか、おじさんはいつも半袖を着ている。
自転車の後ろのカゴには空気入れとボコボコのアルミバケツが積まれていて、
蛇口で水を汲みながら、器用に(そもそも何を修理しているのかわからないが)タイヤをいじっている。
その作業を私はぼーっと眺めながら、
「ホームレスはみんなチャリンコ修理できますよ(関西弁)」と真顔で言っていた先輩を思い出すのだ。
このおじさんはホームレスなんだろうか。
修理はどこで学んだんだろうか。
なぜ一回で修理を済ませられないんだろうか。
いつもいるということは、まさかここが家なんだろうか。
どこでお金を稼いでるんだろうか。
自転車はおじさんをどこへ連れて行ってくれるんだろうか。
私がここに来なくなったらクソガキに危険が及ぶんじゃないだろうか。
etc…
こんなしょうもない妄想をするのが、ここ最近のランチタイムの楽しみだ。
おじさんが修理を終えた時、
クソガキが鳩に満足した時、
鳩がパンを飲み込んだ時、
公園はまた静けさを取り戻す。
くぐもった鳩の鳴き声も、クソガキのランドセルについた鈴の音も、私がランチの入ったビニール袋を漁る音も、おじさんがタイヤをクルクル回す音も、一斉になくなる。
残るのは春風に舞う桜の花びらだけ。
どうでもいい話ですが、なんか書いてすっきりするためだけの自己満足増田なのです。
妻と結婚する前に、最後につきあってた彼女は、自分基準では本物の理想の人でした。
知り合って、お互いを知って、徐々に好きになっていくというのではなく
理想としてイメージしていた人が、突然目の前に現れたという感じで。
理想の人が、本当に実在するなんて夢にも思っていなかったし、そんな人がまさか自分の彼女になるなんて夢のまた夢でした。
東京の街で、何万人とすれ違う今でも、そしてどんなきれいなタレントでも自分にとって彼女を超える理想の人はこの先の人生でいないと断言できます。
追記:どういう意味で理想だったのか?というのがあったのですが、なんか書いてしまうと陳腐になりそうで書いてませんでしたが一応書いておきます。
いろんな要素があるので一言で言うのは難しいのですが、もちろん容姿も100点です。ただ、それだけではなくて、普通の女の子にはない、ちょっと常識外くらい合理的に自分らしく生きている人、危なっかしいくらいの自由奔放さ。人を好きになるということの価値観、これまで歩んできた人生、などなど、ちょっと言い表すのが難しそうです。
ある日、そんな彼女と、ちょっとした偶然も重なりまさか、まさか付き合うことになってしまいました。
ただ、1点、彼女には若干ヒステリックな面とちょっとした暗黒面(障碍者への嫌悪)がありました。
そんなに好きなのだから、なんでもハイハイ受け入れて聞いていればよかったのですが
今後も対等に付き合っていくためには、こちらもしっかり反論しないと長く関係を築けないだろうと思い
折れてしまってもいいことに、あえて対等に反論するようにしていました(内心フラレるのではないかとびくびくしながらも平静を装って)。
結果、毎日のようにヒステリック攻撃を受けていたのですが、仲が良い時ももちろん有り、つきあう分には全然耐えることができていました。
友人の家で10人くらいで集った会で、今妻と知り合いました。天真爛漫できれいな人だとは思いましたが、なにせ理想の人とつきあっているので、全然興味がその時はありませんでした。
しかし、その会の翌月くらいから今妻の猛アプローチが始まりました。
直接的に好きだとか言ってくるわけではないので普通にメッセージのやり取りはしつつも流していたのですが
ビンビンに気持ちが伝わる感じで、それでいてきれいな心の人だというのが伝わってきました。
30中盤にさしかかり結婚を意識し始めた自分は、つきあうとか、そういうことだけではなく、本気で自分の人生を冷静になって考えようと思いました。
そしてこんなことを考え始めました。
10年後、その先も隣で笑顔でいてくれるのはどっちなのだろうか。どっちがイメージできるのか。
結局、自分は結婚後の平穏を望んでいることに気付いてしまいました。
そこで断腸の想いで理想の人と別ることを決心し、今妻とつきあい、そしてその1年後に結婚しました。
今でもこんなことを思い出して書いていることに、今妻への罪悪感はありますが。
二度とその理想の人と会うことも連絡を取ることもないでしょう。
理想の人に会えたことで、もうこれ以上がないというところを知ってしまったからです。
つきあうのと、結婚するのは何が違うのか。ずっとよくわからなかったのですが、今ならそれがわかった気がします。
この先の人生をイメージできるかどうか。なのだろうと思いました。
理想の人と結婚できるなんて、幸せなこと。というのは、その理想像が人によって違うから一概には言えませんが
なんかこうやって書いてみると、つまらない、はいはいだからって感じの記事ですね。それが書けるから書いているのだと思いますが。
安心だのうまい食い物だの四季だのという第一次的欲求満足を維持するためにそれ以外のより高級な価値が悪魔的な勢いで犠牲になっている。そもそも四季みたいな美観はどうでもいいし、うまい飯と安心を確保しているこのシステムは実は努力でしかないし、犠牲が悲劇的な形で見えないところに押しやられている。そうすると安心やうまい食い物も手放しには喜べない。実はヤクザがエゴで民衆から収奪した利益の上にあぐらを掻いている心理状態を「日本は豊かで平和で理想的」という事実と混同していないか。お前が安心した生活の中でうまい飯を食い四季や美観を愛でる背後には多くの断腸や涙や悲劇があるんだよ。いっぺん死ねや鬼畜性器どもが。