はてなキーワード: 資本家とは
弱者男性の大半は普通に仕事して納税してるわけで、どのへんが癌なん?それより税金を貪る政商や政治家や公務員のほうが本格的な癌だけど。反撃してこないサンドバッグを生み出しそちらを叩かせ不満の矛先を金持ちに向かわせないようにしようっていう資本家の思惑にまんまと乗せられてない?
働きたくないンゴねぇ……
働かずに金がないなりの暇潰しをして生きるよりもそれなりに良い暮らしをしたいから、それを秤にかけて嫌々働きはする。けどやっぱり労働はダルいって言ってんの。
それくらいの事もいちいち説明されねーと分かんねーのか?バカが。
そんな陳腐な相対化をした所でおれの心が瘉える訳でも余暇が増える訳でもないが?バカが。
そうやって謙虚さと弱腰を履き違えてる労働者が資本家をつけ上がらせてナメられんだよゴミが。
自分の欲求も分かってねえ弱虫、自ずから湧いてくる欲求もなくなった老人は感謝とか義務とか、外から与えてもらえる宗教がねーと働いてらんねーもんな。働いてねーと暇で仕方ねーもんな。雑魚が。
敵「金で得られる快楽やモノなんて虚しいよ?」
一億歩譲って浪費に飽きたド級の金持ちに言われるのならまだしも、テメーは誰なんだよ。
俺は車を乗り回す楽しみも高級時計を着ける満足感も知らねー。資本主義に刷り込まれた欲求だろうが、一度おれの心に入り込んだのならそれはもうおれのものなんだよ。
たとえ後になって虚しいものだと思ったとしても、それはおれが実際に体験して初めて納得が生まれんだよ。
手にした事のないものを最初から諦めて腐しても、それは酸っぱいブドウにしかならねーんだよカスが。
いくら金のかかんねー読書が素晴らしかろうが、知識が散歩を豊かにしようが、別種の飢えから目を逸らす言い訳にはならねーんだよゴミが。
ゴータマ・シッダールタが捨てるものすらなく最初から持たざる者だったら悟りを開けたか?自分を差し置いて豪邸の門の前で苦しむ者を見て、何かを思えたかよ?
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.jcp.or.jp/akahata/aik23/2023-08-08/2023080801_02_0.html
ここで「資本家の犬」とか言ってるアホは
もう半世紀以上生きてるジジイですが、
あー、これ今回の終末的な恐怖って割とガチかなーって思い始めてる。
70年代の子供の頃はノストラダムスの大予言で脅されて
90~2000年代の気候温暖化とか、ジャングルが開拓される衛星写真とかみてても
また同じ手合いの奴かもとか楽観的に構えていた部分もあったけど、
さすがに北極、南極のここ数年の氷の解け方や、twitterのタイムラインに出て来る
ここ100年の二酸化炭素量や、平均気温や海水温がここ近年でアホみたいに
急激に上がっているのを見ると、もう引き返せないラインを越えてるんじゃないかって気がしている。
科学の力と人類の総意で問題を解決しないといけない感あるけど、
なんかもう、戦争とか、資本家や政治家のやりたい放題を見てると、
そんなん絶対無理じゃんって思えて来る。
環境活動家でもなんでもないけど、みんなで地球なんとかしないといけないんじゃない?
って思うけど、どうにもならん感があるなあ。
Shin Hori氏の「なんとなく社会福祉だけはあってほしいアナーキスト」というパワーワードが話題になっている。
ttps://twitter.com/ShinHori1/status/1686574496952758272
個人的な仮説だがこのパワーワードの起源は、旧社会党の綱領的文書であった『日本における社会主義への道』(以下、単に『道』と略す)にあるのではないかと思う。
『日本における社会主義への道』第一章第一節(3)福祉国家論批判
ttp://roudousyaundou.que.jp/syakaitou_015.htm
(中略)
もとよりわれわれは彼ら(引用者注:資本家側)に譲歩を要求し、西欧先進諸国に比しいちじるしく立遅れているわが国の社会保障等をさらに前進させなければならないが、その彼らの譲歩にも「利潤の枠内」という厳然たる限界のあることを明確にし、またこれらの分配における部分的譲歩によって、基本的な生産関係における労働者の民主的要求を眠らせたり、勤労諸階層の革命的エネルギーを後退させたりすることのないようにしなければならない。
上記の引用文の「彼らに譲歩を要求し...」が、「社会福祉だけはあってほしい....」の起源ではないかと個人的には睨んでいる。但し『道』においては、この後に続く言葉は「アナーキスト」ではない。では何なのか。
同(3)
したがって、福祉国家論に対する闘いは、資本家の譲歩を一層拡大し、国民の要求と民主主義的進歩をかちとっていくなかで、資本主義の下では真の意昧での福祉国家は実現されないことを明らかにし、さらに革命を通じていわゆる福祉国家の限界を突破した社会主義にむかって前進しなければならないのである。
つまり、「社会福祉だけはあってほしい....」の後に続く言葉は、「資本主義。但し、その資本主義は社会主義化のつなぎに過ぎない」ということになる。
ちなみに『道』でいう社会主義とは、ソ連や中国とは異なる社会主義だそうである(詳細は同第二節「社会主義の原則と基本目標」を参照)。
『道』が示唆している考え方は平たくいえば、「福祉を拡充できるだけ拡充しろ。でも、給付と税負担の関係などトレードオフは考えない。だって、資本主義はどの道、社会主義に取って代わられるのだから」というものである。これは一見すると荒唐無稽な無責任に見えるが、実は筋が通った無責任である。例えば、3か月後に取り壊す予定の家に対して丁寧にメンテンナンスする必要はなく、好き放題して改造したり掃除をサボったりしても問題は起きないだろう。『道』の起草者たちにとっては、資本主義は3か月後に取り壊す予定の家のような仮初めのものであり、その維持に注意を払う必要性を感じなかったはずである。
『道』が旧社会党で承認を受けたのは1964年であり、まだこの時期の日本では社会主義化がリアリティーある構想であったことに注意する必要がある(日本が世界第2位の経済大国になるのは1968年)。問題は、資本主義が仮初めのものではなく、将来的にも社会主義化をしないのならば『道』の考え方はどうなるのか、である。
『道』を読むと、資本主義下での議会制民主主義に対するネガティブな評価が目につく。
http://roudousyaundou.que.jp/syakaitou_019.htm
したがって、現存するブルジョア民主主義としての議会制民主主義を、勤労大衆は、形式にとらわれて、すべてがそのまま、価値あるものとして考えてはならないのであって、そこに資本家階級の支配が貫徹している支配機構としての側面を見抜かなければ、基本的な誤りをおかすことになる。
先の「筋が通った無責任」と相まって、これが左派知識人に無責任体質の種をまいたのではないかと、個人的には推測している。
『道』策定時は社会主義化がリアリティーある構想であったが、時代が下るにつれてそれは荒唐無稽になっていったと思われる。そのため、おそらく1970年代末以降は「但し、その資本主義は社会主義化のつなぎに過ぎない」の部分が忘れ去られた一方で、議会制民主主義に対するネガティブな評価は雰囲気として後世の左派知識人に継承され、「なんとなく社会福祉だけはあってほしいアナーキスト」を誕生させたのではないか。「但し、その資本主義は...」を忘却し、議会制民主主義に対するネガティブな評価を雰囲気として継承された点が、「なんとなく」の部分として凝縮されているように思う。
『道』に通底する時代精神あるいは社会認識が、「貧困の文化」ならぬいわば「無責任の文化」を日本の左派知識人の間に醸成させてしまったように感じられるのである。
最近のパヤオの新作とか見て改めて確信したけど、天才って予算とかスケジュールとか内容とか色々鬱陶しい制約がある中で作品作らせた方が圧倒的に傑作生み出せる率高いよな。
パヤオの初期の名作を作ってたころは彼もまだ中堅で予算もスケジュールも充分でない中で「これコケたら次のチャンスはもうないかも?」っという緊張感で作品作ってたからちゃんと一般ウケしやすい傑作作ってくれてたけど、「もののけ姫」や「千と千尋の神隠し」で興行的にも作品的にもピークを迎えた後は「もうあなたは巨匠なので予算とかスケジュールとか気にせず好きに作ってください」なんて甘やかすからどんどんわけわからん方向に行ってしまった。
皮肉なのはアーティストに多大なストレス負担をかけてるスケジュールやスポンサーなどの制約が、「この限られた条件下でいかに少しでも良くするか」っという構造を生み出して結果として万人にも受け入れられる傑作が生まれやすいってことよね。
古い例だと当時人気アーティストだったゴダイゴなんかは過密なツアースケジュールの中の限られた時間で一気に作り上げた「銀河鉄道999」がいまでも通用する名曲に仕上がったし、それこそ中世のイタリアのミケランジェロもスポンサーであるカトリック教会の過度な干渉や予算管理にもめげずにあの歴史に残る数々の傑作を作り上げたわけじゃん。
作り手としては予算とかスケジュールとか気にせずに好きなように作りたい!って想いは強いんだろうけど、結果的にはさまざまな制約の中で神経擦り削りながら作った作品の方が評価されやすいんだよな。
まぁパヤオなんて今更世間の評価なんて気にしてないって感じだからさらにタチが悪いんだけど。大嫌いな資本家様に首根っこ抑えられてた時の方があんた輝いてたよ。