はてなキーワード: ブレードランナーとは
私は家賃・光熱費払ってるんですけど、『不動産管理会社が電気料金を滞納する』という素敵イベントが発生しまして……
夜、冷えるんですよ。ええと、昼も日が全く差さないので寒いです。
土壇場で停電が回避されることもままあるんですけど、漆黒の一夜に備えてただいま宿を探しているところでございます。
フードクーポン支給されているような米国人を想像してください。そんな感じの人たちが深夜から早朝にかけて席を陣取っています。
一泊2500円くらいですね。
ネカフェの多すぎるアメニティを使いこなせればここ一択なんですけどね。
私は漫画読めないですしおすし、ノーパソ・モバイルバッテリー・Wi-Fiルーター持ってるんでネット環境も必要ないですね。
一泊3000円。
外国人がカプセルホテル見るとビックリするらしいですけど、私もビックリしますよ。
泊まったことはありません。
でも写真見ただけで『どこのブレードランナーだよ』っていうサイバーパンク感に打ちのめされます。
あれ窮屈でしょ。寝られりゃいいってもんじゃねぇぞ。
ちなみに私が泊まるかもしれないカプセルホテルは『広々としたサウナ室』をウリにしています。そこ広くしてどうする。
以上が殺伐とした一夜候補たちです。
私は前世でどれほど悪いことをしたのでしょうか。
マックは深夜になるとフロアの半分くらい立ち入り禁止になるので、座れない可能性があります。
他方のネカフェはまともそうですが、横になれる席が取れないとキツイです。
また、『カプセルホテルでブレードランナーしなきゃ』という謎の使命感もあります。
3000円……払っちゃう?
なんか見かけたので自分用も兼ねて訳してみた。良作映画と同時に良作小説も摂取できるすばらしいリストです。
ちなみに意訳多いので「許す」と「赦す」を正しく使い分けたい向きは原文にあたってください。あと個人的には『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』も結構楽しみにしてます。
元記事:
http://litreactor.com/columns/5-most-anticipated-book-adaptations-of-2015
毎年この時期になると、「今年期待できそうな新作映画のリスト」が各所でアップされますよね。そういうリストに載せられた作品のうち何本かは、小説本から脚色作品です。ところが、彼らが取り上げるのはなぜか『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』ばかり。アホか。誰がンなもん楽しみにしとるねん。というわけで、ここにあなたが本気で楽しみにできる小説原作作品のリストを用意してみました。
去年『アイ、フランケンシュタイン』観た人はわかると思いますが、まあフランケンシュタインものってどうしても現代の視聴者のお口にはバッド・テイストすぎますよね。しかしですよ、『クロニクル』の脚本家であるマックス・ランディスが脚色を担当した本作は、いい意味で予想を裏切ってくれるんではないのでしょうか。本作はフランケンシュタイン博士の助手であるイゴールの視点から、彼とまだ若き医学生だったころのヴィクター・フォン・フランケンシュタイン博士との馴れ初めを描いた、メアリー・シェリーの原作の前日譚的ストーリーです。
フランケンシュタイン博士を演じるのは『shameless/シェイムレス』、『X-Men:ファースト・ジェネレーション』のジェイムズ・マカヴォイ。イゴール役には『ハリー・ポッター』のダニエル・ラドクリフ。映画の公開は十月二日予定となっております。
訳者の雑感: せむしの助手イゴールは原作には登場しない人物で、出典はボリス・カーロフ主演の『フランケンシュタインの復活』(1939)です。この時点で「本が原作」と言い張るのはどうなのかな。そもそも学生時代のフランケンシュタイン博士が題材ってどこに需要あるんだって思われそうですけど、なにせ『キル・ユア・ダーリン』のラドクリフと『X-MEN: FC』のマカヴォイですからね、濃厚なBLが期待できそうです。脚本家も『クロニクル』の人だし、なおさら……ねえ?
ちなみに、監督のマクギガンは『PUSH 光と闇の冒険』などいくつか映画も監督していますが、日本で有名なのはなんといってもドラマ『SHERLOCK』の「ベルグレービアの醜聞」と「バスカヴィルの犬」でしょう。
日本ではなぜかDVDスル―になりがちなマカヴォイ&ラドクリフコンビですが、今作はどーなるでしょうか。やっても単館系かな。
去年は『ゴーン・ガール』がやってくれました。いいことに本作の原作はですね、その『ゴーン・ガール』より面白いんですよ。良い映画にならないはずがない。原作者のギリアン・フリンはいまや犯罪小説界のトップランナー、映画化にもひっぱりだこです。『ゴーン・ガール』のファンは『冥闇』もきっと大好きになることでしょう。なぜなら、『ゴーン・ガール』よりイカれたお話だから。
これは子供のころに両親を殺されたある女性のお話です。彼女は自らの証言で実の兄を監獄送りにした過去を持っているんですね。で、それから二十五年が経って、「キルクラブ」と名乗る殺人狂同好会の助けを借りて、事件の真相を探ろうとします。
公開時期は未定ですが、二〇一五年のどこかにはなるはず。出演はシャーリーズ・セロン、クリスティーナ・ヘンドリクス、ニコラス・ホルト、クロエ・グレース・モレッツです。
訳者の雑感:原作の『冥闇』(小学館文庫)は、個人的には『ゴーン・ガール』には及ばないものの、上に書かれているとおり傑作ミステリです。いわゆるイヤミスです。捕捉しておくと、主人公がなんで「キルクラブ」の連中と絡むようになるかといえば、過去の事件によって人生を破壊された彼女が日々の生活費を得るために家族の遺品や体験談なんかを好事家に「切り売り」しているからです。そうです、クズ野郎です。『ヤング=アダルト』でいかんなくクズ女っぷりを発揮したシャーリーズ・セロンにはまさに適役なんじゃないでしょうか。
フランス資本で規模的は大作と言いづらいでしょうが、出演陣がかなり豪華なのでフツーに日本でも公開されそうです。
実質去年公開作なんですけど、ズルしてもぐりこませてみました。だって、映画祭でしか上映されてなくて、筆者はまだ観てないんだもん。っていうか、ほとんど誰も観てないし。原作は記憶喪失の化学者を題材にしたクレイグ・クレヴェンジャーのカルト小説です。
出演は『ヴァンパイア・ダイアリーズ』のジョセフ・モーガン、『Justified 俺の正義』のウォルトン・ゴギンズ、『ヘルボーイ』や『パシフィック・リム』のロン・パールマン。
まだ公開時期は公式にアナウンスされていませんが、推測するに、今年中には拝めるんじゃないでしょうか。っていうか、そうじゃなかったらキレる。
訳者の雑感: 未訳作品な上に原作者自体が数年前に一作ちょこっと訳されてそのままなカルト作家なんで、どうにも前情報がない。ある朝、記憶喪失の化学者が麻薬密造に関わった容疑で監獄にぶちこまれたと思ったらこれまた唐突に解放され、失われた記憶と失踪したガールフレンドを求めて彷徨う話らしいです。元記事に引用されてる画像がいかにもいつものロン・パールマンってふてぶてしさで好印象ですね。http://litreactor.com/sites/default/files/imagecache/header/images/column/headers/487195087_640.jpg
ロス・クラーク監督はドキュメンタリー中心に撮ってきた人で、本作が劇映画初監督。トレイラーをみるかぎり、なかなかシャープな画作りしてます。日本では公開されるかなあ……ロン・パールマン効果でDVDスルはギリギリ保証されそうではありますが。
J.G. バラードは難儀な小説家だ。『ハイ-ライズ』はおそらく彼の最高傑作でしょう。ちょっと前にこの小説が映画化されるって聞いて、マジビビりましたね。原作を読んだことのない人たちに説明しておくとですね、タイトルにもなってるハイ-ライズとは超豪華高層マンションの名前で、その内部では文字通り階層によって分断された住民たちによる血で血を洗う階級闘争が勃発しています。高層マンション版『蝿の王』みたいなもんです。とってもバイオレントでとってもクレイジーで、とってもワンダフル。映画もおんなじくらいクレイジーであってほしいですね。
主演は『アベンジャーズ』、『マイティ・ソー』でお馴染みトム・ヒドルストンと、『バットマン vs スーパーマン』でバットマンの執事役が決まっているジェレミー・アイアンズ。公開日の九月十七日をお楽しみに。
編集者のコメント: !!!!! ベン・ウィートリー監督作じゃん!!!! よっしゃあああああああああ!!!!!!
訳者雑感: ベン・ウィートリーは第二のデヴィッド・クローネンバーグの座を狙っているんでしょうか。せいぜいブランドン・クローネンバーグと争ってほしいものです。他に誰もそんなポジション欲しがらないでしょうけど、がんばれ、応援してるぞ。
ともかく、『キルリスト』や『サイトシアーズ』で日本でも熱狂的なファンを生み出した「奇妙系スリラー界の風雲児」ベン・ウィートリーが、あのバラードの、あの『ハイ-ライズ』を映画化する、これは期待しないわけにはいきませんよね。原作はおなじみハヤカワ文庫SFからですが、当然のごとく絶版なので、なんとか日本でも映画を劇場公開までもってって復刊の一助となっていただきたいものです。DVDスルー(『キルリスト』)→アートシアター系公開(『サイトシアーズ』)と順調? にステップアップしているので芽はありそう。
アンディ・ウィアーの『火星の人』は、二〇一四年に筆者が読んだ本のなかでもマイベストな一冊です。クソみてえな『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』の記事を山ほど読んで損した時間の埋め合わせに、ちょっとこの映画化作品について調べてみましょう。ちなみに私は先月作った「今年のマイベストリスト」にも『火星の人』を選出しております。
概要はこうです。ある宇宙飛行士が火星で一人、遭難します。もしかすると、そこから永久に脱出できそうにないかもしれない。彼は生き延びるために「科学」と呼ばれるふしぎな力を行使することを強いられます。自らの命をかけて惑星に戦いを挑む男と、全力で彼をぶち殺しにくる惑星との、知的で、ユーモアに溢れたアツいバトルがはじまる!!!
映画はリドリー・スコットが監督予定で、主人公のマークを演じるのはマット・デイモン。十一月二十五日公開予定です。
訳者の雑感: 原作の『火星の人』はハヤカワ文庫SFから絶賛発売中。「ライトなハードSF」と称される軽妙な作風も相まってか、最近のSFにしてはめずらしく幅広い層から広範な支持を集めています。今年の「SFが読みたい!」のランキングでも票を集めるんじゃないんでしょうか。いっぽうで監督のリドスコは『悪の法則』、『エクソダス:神と王』と近作がこのところ立て続けに興行・批評両面で失敗してやや低調。『ブレードランナー』の続編を作ると宣言して即監督を降りたりと何かとケチがついてますが、『プロメテウス』以来のSF回帰作は吉と出るか凶と出るか。日本ではおそらく二〇一六年公開でしょうね。
さて、以上が私が最も期待している今年の小説原作映画作品です。ほんとは他にももっとあることはあるんでしょうが……でもまあぶっちゃけゴミばっかなんで語ったところで意味ないでしょう。上にあげた五作品は「すくなく見積もっても傑作になりそうなチャンスはある」作品です。とりわけ『ダーマフォリア』は僕達を導く希望の光なんで、今年公開してくれないと困る。
ところで、リストにあげた五作品の原作小説もぜひ読んでみてください。どれも一読の価値がある逸品ばかりです、たぶん映画もね。
http://anond.hatelabo.jp/20130522221629
私の大学生のときの彼女が思ったことをいう人で、あと甘えたがりだった。(彼女の生活が暇だから)ずっと一緒にいたいみたいな。
「嫌われる限界を試す」みたいな女性ってのもいる。それを「どこまで愛してくれてるか」と勘違いしてるというか。
2年ほど彼氏彼女の関係でいて、ふとしたきっかけで好きという感情が消えた。
他愛もない話で、ほかの男性とドライブにでかけてネックレス買ってもらって、普通に私とのデートでつけていたのがきっかけだった。ごく普通に話すのよね。そういう事を。
私の了見が狭いってのもあったが、好きだという感情を持ち続けることができなくなった。
Sexとか労働というか、億劫。 ただただそれまでに行なっていたことが無駄になってしまったような気がして疲れてしまった。
それまでは私の方が主に熱心であり、関係を維持するためにコストを割いていたのに、
それ以降、まったく触ってこなくなったので、彼女も衝撃を受けていた。
なんか「私には性的な価値がある」と思っている女性が、突然さわられなくなると、それなりに落ち込むようだ。
彼女観点では「男性と関係を維持する方法」が見いだせなくなったため、関係は終わった。
愛されることばかりに慣れていると、愛される方法がわからなくなるらしい。 あるいは愛する方法が
ただ一方が一方に対して献身的に身を捧げる、という経験も悪くないと思う。心の底からそう思う。
そういうのって若い時にありがちだし、簡単な事で愛想をつかしてしまうのもありがちな事だと思う。
男性観点でみると恋愛の経験はあった方が良いと思う(ただ離婚はコストがかかるのでしないほうが良いとは思う)
女性観点でみるとどうだろうか。私は恋多き女性ってDQNかな、と思うクチなんでよく分からない。
しかし関係が終わった後、食玩のテディベアが玄関ドア先の手すりの上にあったのはビビった。
ブレードランナーの話をしたことがあったので。 あの人じゃないといいんだけど。
君の今の気持ちも覚えておいてほしい。 将来いつか役に立つこともあると思う。
(ただし、その女の子は結婚には向かないと思うので、人生のレベルアップの観点でのみとし、楽しくくらした方がいい
良い男性と悪い男性がいるように、良い女性と悪い女性もいる。 悪女と付き合うのも若い時には悪くないと思うよ)
雨宮ねいさんがチラ見してくれたようなので脊椎反射してしまいました。
みなさん、よいお年を!
ニコラス・ルッカ(Nicolas Rucka)
様々な風景を見せるようになった日本アニメにおいて、押井守は彼独自の場所を築き上げるに至った。SFエンターテイメントという枠に捉えられる事もしばしばだが、彼の仕事はその要件を遙かに凌いでいる。押井はジャンルという括りに疑問を投げかけ、SFと現代の生活との間にまっさらなリンクを構築してみせた。彼のこうした姿勢は、アニメーションという体裁の境界を拡張するアプローチ・スタイルと結びついている。それは「攻殻機動隊」のすばらしい続編である「イノセンス」に見てとれよう。
ルッカ: あなたの作品は第二次世界大戦前後のヨーロッパの様式、とりわけ東側諸国の影響が大きいかと思います。それはどのように培われたのですか?そしてこれまでの作品で表現されてきたあなたの世界観にどのような位置を占めていますか?
押井: 若い頃からヨーロッパ映画を見て、楽しんできた。古典的で、古いスタイルの様式、雰囲気といった東ヨーロッパ的なものは静謐で美しく、そしてノスタルジックで、ひどくそそられたね。
ルッカ: もうちょっと続けますけど、あなたの映画で言及される70年代終わりから80年代にかけての欧米産サイバーパンク小説や映画、ウイリアム・ギブソンの「ニューロマンサー」やリドリー・スコットの「ブレードランナー」などは日本の街並み、風景、そしてテクノロジーの影響を強く受けています。で質問なんですけど、こうした話法を引き続き採用するのか、それともより高位のゴールでこれら要素を取り入れるかって事なんですけど?
押井: 僕の作品はサイバーパンクに分類される事が多いけど、個人的はそうじゃないと思う。「ブレードランナー」みたいに本当に楽しまされた映画があって、映画作りの上である程度役に立っている部分もあると思う。でも僕以外にもっと影響を受けている人ってたくさんいるんじゃないかな?人間とサイボーグを題材にした映画を作るなら、「ブレードランナー」にふれないわけにはいかない。このテーマに関する先駆けだからね。こうした話法を採用するか、それともしないのかなんだけど、僕のゴールは未だかつて誰も見た事のない新しい映画を作る事だからね。それは「イノセンス」で証明できたと思ってる。
ルッカ: あなたの作品、とりわけ「アヴァロン」なんですけど、タルコフスキーを偲ばせる要素が多く見受けられる。そうした影響は?
押井: 今はそうでもないけど、昔はすごい好きだった。でも「ストーカー」や「惑星ソラリス」、「鏡」は今でも好きだね。
ルッカ: 押井さん、これは私見なんですけど、犬との交わりを人間より優先させているかと。こうした傾向は主題的化身の選択、それとも人間という形態はもはや必要ではないという人間意識のあり方のどちらと結びついています?
押井: 僕個人的には犬との結びつきを優先させる。でもそれは人によってまちまちだと思う。人間が「主体」の一部を失い出すと、己が何者かを知るために他の何かと関わらざるを得ない。それは僕のように犬だったり、猫や他の動物かもしれない。生き物である必要はない。機械、車、コンピュータ、街、自分以外だったら何でもいい。それが失われた「主体」を見つけ出すって事です。
ルッカ: 人類というあり方は時代遅れのものですか?もしくはそうなると?
押井: おっしゃりたい事に確信はもてないけど、間違いなく人類というあり方は失われつつある。動物は常に同じであったし、これから先も変わらない。でもテクノロジーの発展によって人類は常に変化するし、変化せざるを得ない。でも、変化や進化を恐れてはいけないし、それを受けいれ、共存する事を学ぶ必要があると思う。
ルッカ: 映画作りの際には何から手をつけますか?印象的なイメージ、本、音楽から着想します?まずは脚本から?
押井: 僕の頭の中には違ったアイデアがたくさんある。それをどうやって映画で生かすか、って事なんだよね。企画が来る頃にはすでに何かが頭の中にあるんだ。発想の多くは小説や写真集に目を通したり、いろんなクリエイターと話す事によって生まれるけど、実際の具体的なアイデアや映画の基礎といったものは作品作りの前に決まってるんだ。
押井: いつもって訳じゃないけど、だいたいそうだね。実写か、アニメかによるけど、中核となるグループはたいてい同じ。彼らは本当に才能があって、辛抱強いと思うし、あ、でもわがままで頑固だけどね、ぼくは十全の信頼をおいている。彼らがいなかったら、映画は絶対に作れない。
ルッカ: 制作準備にはどのくらいの時間をかけます?そこでは何を?
ルッカ: 「イノセンス」では実際の制作、そして編集ははどれくらいかけました?
「共感能力は人間の決定的な条件」というのは、映画ブレードランナーの原作、フィリップ・K・ディック「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」(Philip K. Dick, Do Androids Dream of Electric Sheep?, (1968) )の重要なモチーフだった。
人間そっくりにつくられ、一見すると見分けがつかないアンドロイドを人間から見分けるテスト、それは共感能力を測定するテストだ。社会の様々な問題に対して「人間として適切な反射速度で」共感できる力、あるいは共感を引き起こさせるマシンに入って共感を感じる力が、人間の条件ということになっている。だがその中でも「宇宙船の中など極めて人工的な環境で育てられた場合、人間であっても(アンドロイドのように)高い共感力を育てきれないケースがあり得るのではないか?」といった疑問は提示されていた。あるいは「共感能力がないというだけの理由でアンドロイドは人間より劣ったものとされるべきなのか?」とも。結局作品の最後で、人間が熱中していた「共感を引き起こさせるマシン」はアンドロイドが作ったものであり、主人公の警官がかわいがっていた羊も作り物だということが判明し、一方人間たちは自らの感情を淡々とマシンでコントロールすることに慣れきって、警官は疲れ果てて眠ってしまう。作中から「ノーマル」な「共感能力」を持った存在が全て消え去ったところで作品は幕を閉じる。
「共感能力は人間の重要な条件だ」という前提のもと、共感能力を失った人間たちが生きる絶望的な未来(核戦争後の荒れ果てた世界)をディックは詩情を込めて描いて見せた。すなわち、どちらかといえば感情を失ったアンドロイドの方が「生存適者」であるという世界の中で、人間は人間であり得るのかという問い。だがそれを笑えるほど立派な未来に我々が生きているのかどうか。
思想良心の自由が平然と侵され、ある考え方生き方を強制されるような社会は、「共感能力」を必要としない荒れ果てた世界だ。だがそんな未来はそれほど遠くないように感じられる。一方、世の中で幅を効かせているのはまさにその「共感能力」を失ったようにしか見えない、アンドロイドのような大人達だ。そして、そんな風に感じてしまう自分自身もまた、リック・デッカード(主人公の警官)のように、自分自身こそがアンドロイドのように感じられ作り物の中にリアルな生と限りない慰めを感じて、そして疲れ果てて眠るしかない生を生きているのではないか。
何かが間違っている。
何かが間違っているのでなくてはならない。
ふと気がつくと、そんなフレーズを呟いているような、そんな今日この頃。
みなさんはいかがお過ごしですか?
少子化という事態は、人口の減少は消費の減少を意味する。だから政府は個人消費に頼らない経済政策を打つだろう。高所得者優遇を進めることで、個人消費の激減を抑えるようにはするだろうが、貧民の増加に対しては、手は打たないだろう。自己責任原則の過剰さが言われ始めるようになったが、その言葉はすでに10年前から一人歩きを始めている。もう、全てが遅い。失業した人間や給料の低い人間、雇用が不安定な人間は、その人自身の責任とされ、政府による経済政策の失敗、ひいては官僚機構の無謬性と無責任性の維持のために、自己責任原則はこれからも跳梁跋扈し、大企業の正社員たちは自らの幸運に安堵し、生活を維持するために、そうではない人々への同情は、形にはならず、それを訴える声に耳は貸さなくなる。ネットでの叫びは、匿名性の名のもとに、罵倒される。
階級社会の現実というものなのだが、社会は連帯ということが必要とされる。いつしか、それが消えてしまった。大晦日の格闘技興行で、韓国系日本人を破った選手が日本人は強いとか勝利後のマイク芸でしゃべったそうな。それはそれでよい。負けた韓国系日本人は、大ブーイングを浴びるだけのことをしたのだから。あの勝利のローキックに快哉を叫んだ日本人は多いだろう。しかし、日本人は強いという言葉に素直にうなづくくらいしか、社会の連帯がなくなってしまったのかと思うと、悲しい。連帯が消えてしまった国家・社会は崩壊するしかない。崩壊した後に何があるのだろう。どこに自己の帰属を求めればよいのだろう。自己の帰属が会社だった時代が羨ましい。国家が前面に出てこない幸福な時代。もうそういった幸福な時代はやってこない。
連帯も失われ、セーフティネットも形骸化していく中で、若い連中は将来が描けない。描けるのは、高所得を得ることができる人々だけで、それ以外の連中にそれは無理な相談となりつつある。自己責任原則はここでも登場する。将来が描けないのは自業自得だとか、趣味の世界に走って、異性に関心を持たない嘆かわしい連中が増えた、何だと、萌えだぁ? こんなことしているから、少子化になるのだといわんばかりのマスコミによる大合唱。マスコミに勤める人々は、基本的に勝ち組だ。将来テレビがなくなることはない。テレビを持てなくなる人や見られなくなる人が出ても、彼らは安泰だ。現状のビジネスモデルは、若干の変更が加えられて存続するだろう。そういった連中は、ステレオタイプの若者像を過去何年にもわたって報道し、増幅してきた。ネットでの抗議などは蚊ほどにも感じない。炎上と称しているのもあと数年で、炎上対策がなされ、ネットでの抗議などは意味を持たなくなるだろう。
事実ではなくイメージが先行するのは、さして驚くことではない。イメージで社会が、政治が、国家が語られ、事実や正確な統計は省みられない。イメージが100%正確ではないということではない。一部の人々にとっては正確なのだ。その一部の人々の利益は守られるだろう。そしてそこからあぶれている人々は、貧民としてラテンアメリカのような陽気だけど貧困にあえぐという像を押し付けられる。江戸末期に外国人が来て、日本の一般庶民が大変従順で、幸せそうであることに注目している。彼らは武士たちの巧妙な統治によって、従順化させられていた部分が多分にあるだろう。おそらく数十年後にはきっとそうなる。大して面白くもないお笑い番組を年末年始に放送しているのは、愚民化への一歩ではないだろうか。芸人は罪はない、としておこう。一部芸人を除外すれば、多くはフリーターのようなものだ。今年の今頃にはあの人何処に行っただろうとか言っている、某筋肉自慢の高学歴芸人だっているはずだ。それに多くの人は笑い、年末年始を過ごし、貧民化した人々は、また仕事に向かう。明日とも知れない不安定な生活を少しでも支えるために。ああ、忘れていた。年末年始も仕事だという人もいる。そういう人もまた、不安定な生活を支えるために、懸命なのだ。人間らしい生活など、何処に行ったのだ?
19世紀の労働者たちは生活向上のために戦った。社会主義やら共産主義という方向に行ってしまったのはさすがにアレだったが、それでも権利獲得のために戦い、いくつもの権利を勝ち得た。しかし、権利とは勝ち得た後が大変であることを忘れていた。権利が形骸化させられること、これは最も恐れるべき事態だが、21世紀日本ではそれが起こっている。貧困が自己責任化するまであともう少しだ。生活保護も形骸化し、雇用保険も同じく形骸化する。ありとあらゆる国民生活を支える社会制度が、崩壊する。崩壊しても制度は残るし、運用者が要る。すなわち。それらを運用する官僚たちだけが生き残るのだ。そういった、本末転倒な事態まであと少しだ。日本は22世紀には存在しないだろう。21世紀中に国家の態なさず、事実上崩壊するだろう。希望というものなど、もはや何処にもない。絶望しかない。政府が少子化を訴えても、危機感が迫らないのは、政府自身が手を打つ気がないからだ。
将来、世界史史上稀に見る、統治能力を失って自己崩壊した国家の一例として、日本国が挙げられることとなるだろう。若者たちよ見えないか、ブレードランナーのような情景が眼前に広がるのを。最低限の秩序もないが自然状態をかろうじて回避している、夜警国家以下の情景が。
ひとつの実例を考えてみよう。
放送後20年以上を経ても根強い人気を誇る古典的作品だが、よく見るとこの作品はかなりひどい。「これはひどい」タグをずらずら並べたくなるほどひどい。
これだけいい加減で支離滅裂な作品を、「三流品」と呼ぶ以外になんと呼べるだろうか?
繰り返す。
この作品には20年来のファンが少なからずいる。
だが。
三流品(ボトムズ)を愛することがいけないとは思わないが、それが三流であるという事実は、誰にもどうにもできない。
いくら誉めたって三流品(ボトムズ)が一流品になったりはしない。
それは誰にもどうにもできない。
どうにもできないんだよ。
血液型占い、水からの伝言等のエセ科学の精緻な議論はここを読んでいるおまえらがやるとして、私は現実的にどうやって彼らエセ科学教徒(以降、彼らと呼ぶ)を改宗させるか、というのを論ずる。
「論座」では足りない。メーカー、電力系の会社が金を出してまでやるべきことではないか?マイナスイオンを冠した製品を作っているところはお断りだが。
彼らに対して、感情という面で訴えかけることは納得できないものもいるかもしれないが、目的のためならば仕方ない。おまえらの中にだって、ハヤカワ文庫のSFもの、スターウォーズ、ブレードランナーなどのSF映画、攻殻機動隊、ガンダム等のアニメに傾倒しているものがいるだろう。それらを本気で科学的でないといって馬鹿にするのか?しないだろう。フィクションとしてのエセ科学(超科学と言ったほうがいいか)と社会的、優生学的な問題を含む血液型性格診断や、安い道徳のために「科学的な事実」として紹介される水からの伝言等、様々な問題を孕むエセ科学の違いなんて彼らに理解できるもんか。彼らには適当な物語を与えといて、とりあえず引き離すほうが得策だ。
例えば「世の中の血液型性格診断(差別と言い換えてもよい)に人生を狂わされながらも、果敢と立ち向かっていく物語」とか「水からの伝言を証明しようと奮闘するマッドサイエンティストと戦う科学者たち」とかそういうのがいいね。痴漢冤罪が映画化される時代なのだから、エセ科学の問題が社会問題になっている昨今、上に挙げたような物語が映画化されてもおかしくないではないか。
エセ科学教徒よ。道徳を説くならば、神話や童話、プロジェクトXでも使えよ。科学のようでそうでないエセ科学物語なんか使うな!
去年、福岡で飲酒運転による事故が起きてからというもの、飲酒運転に対するバッシングは苛烈を極めている。これを使えばよい。
たった一つの事件が世の中の流れを大きく変えることだってあるのだ。暴論だが、小中学生が自殺したとして、遺書には「血液型で性格を一方的に決め付けられ、傷ついた」とか、「水からの伝言を否定したら、仲間外れにされた」とかって書いてあればよい。こうして社会問題化すればエセ科学は一種のタブーとなるに違いない。マスコミが大々的に報じれば完全にこちら側の勝利だ。これも一種の社会的な物語であり、道徳的な科学者連中は承服しかねるだろうが、了承してくれたまえ。だが、現実的にこのような事件が起こってもおかしくないとは思わないかね?
この手は今すぐできるのだが、現実的にはかなり難しい。おまえらがどういう学校、職場にいるのかは知らんが、雑談としてエセ科学チックな話題を振ってくる人間の一人や二人はいるだろう。そのときに反論できれば有効なのだが、おまえらが「血液型で性格が決まるわけねーだろwww。なぜなら……」と言っても、彼らは(夢のないやつだ<フィクションとしての「夢」と区別されなければならないのは前述したとおり>)とか、(空気読めねー奴だ、話題もないし、別にいいじゃん)とか(まじになってんじゃねーよ。頭かてーな、そんなんだから彼氏or彼女できねーんだよ、科学的とかどうでもいいの)とか思うに違いない。これらの思考に対して我々は有効な反論ができない。彼らと物語を共有できない以上、反論することそれ自体がタブーなのだから。結局スルーするか、付き合い上ノッてあげることしかできない。
結局のところ彼らの言論を「シュード・サイエンティフィック・ハラスメント(Pseudo Scientific Harassment)」、エセ科学ハラスメント略して「エセハラ」としてセクハラ並みの扱いにするしかない。だが、認知までに長い時間がかかりそうなので、これには道徳的科学者諸君の啓蒙活動がたいせつになってくるであろう。
しかし、これをやってしまうと彼らから我々が「サイエンティフィック・ハラスメント」と逆批判を受けてしまうことになってしまうので現実的には使えないだろう。やっぱりこの手法は無理か……。
本筋とは関係ないがカナダでは"Scientific Harassment"が問題になっているようだ。民間の医薬品メーカーが公的な研究資金をもらいながら研究結果の一部しか公表しなかったり、科学的な議論を法廷に持ち込んで意見を阻害したりしているのが問題らしい。
世の中にはUFOに宇宙人が乗っているだとか、マイナスイオンとかいろいろエセ科学はあるけれども、血液型性格診断はその中でも性質の悪い猛毒だ、と考えている。
正直言って最近問題になっている「水からの伝言」は、たいしたことではないと考えている。小学生程度の人間にわかりやすくて、道徳的な物語として使えるというメリットがあるし(科学的な事実として受け入れるかどうかは別にしてだよ)、芸能人や有名人が事実として広めたとしても、TVで「幽霊、超常現象は存在するんですねぇ」と発言する位のレベルであり、笑い話として通用する。小学生に教えたとしても「サンタクロースは存在する」ぐらいのレベルで受け取ってもらえるかわいいものなのだ(今は、の話なので芽は摘み取っておくべきだが)。
だが血液型性格診断は違う。人間として生きてゆくには、「性格」というアイデンティティが必要だが、血液型性格診断はそれを生まれながらに決定付けるという非道な行為を恥ずかしげもなく行っていおり、教育的、社会的な弊害が大きい。環境的な要素をまったく無視しており、一部の青少年の心を傷つけることは必定である。居酒屋の笑い話としてならばまだいいが、幼少期の性格形成に影響を与えることは間違いない。最近格差社会がどうとか騒いでいる割には、生まれながらの血液型で人生の性格が決まる性格格差社会を推奨しているといってよい。
その他の弊害は適当に検索してくれ。
最後に、小中学校で教員をしている人たちは、圧力やしがらみによってゲーム脳や水からの伝言などの授業をするかもしれない。だが血液型性格診断だけはやめておくれよ。もちろん反面教師としてならば、どしどしやっておくれ。