はてなキーワード: 王位とは
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孫権は自ら軍を率いて曹操軍の籠城する合肥城を攻める。しかし、張陵の奮戦に苦しめられた挙げ句、疫病の発生により撤退を余儀なくされた。更に張陵に追討ちをかけられ、命からがら逃亡した。
・沙苑の戦い
西魏軍は葦原に身を隠し、東魏軍の列が乱れたところを一斉攻撃する戦法で勝利した。東魏軍は6000名が捕らえられ、7万人が捕虜となった。
・パリ包囲戦
885~886年 ★西フランク王国200vsヴァイキング3万~4万
西フランク王国の首都パリをヴァイキングの大軍が包囲。フランク人達は1年にもわたる激しい抵抗を繰り広げ、やがてカール3世率いる援軍が到着したため、ヴァイキングは撤退した
1336年 南北朝・建武の乱 ★足利軍1000vs菊池軍1万
博多へ侵攻する菊池軍と足利尊氏が遭遇。菊池軍に離反者が相次ぎ、敗北した。
・ベオグラード包囲戦
オスマン帝国はハンガリー王位を巡る内戦に乗じてセルビアへ侵攻、ベオグラードを包囲した。ハンガリー軍は5ヶ月に渡って抵抗し、これを退けた。
・クルヤ包囲戦
1450年 オスマン・アルバニア戦争 ★アルバニア軍8000vsオスマン軍10万
スカンデリベグ率いるアルバニア軍がオスマン帝国に包囲された。アルバニア軍は敵軍の補給を断ち、士気の低下と病気の流行に苦しめられたトルコ軍は撤退した。
・ベオグラード包囲戦
1456年 ★ハンガリー軍4000vsオスマン軍3万~40万
コンスタンティノープルを陥落させたトルコ軍は勢いに乗じて、ハンガリーへ侵攻するが、ベオグラードで英雄フニャディ・ヤノーシュの活躍の前に敗れ去る。
・ヘミングステットの戦い
1500年 ★ディットマルシェーン500~1000vsデンマーク軍1万2000
ディットマルシェーンの農民達がカルマル同盟に対して反乱を起こす。農民達はバリケードを築き、土地を氾濫させたため、デンマーク軍は数的優位を活かせなかった上、大勢が溺死したため、撤退した。
・ロドス包囲戦
1522年 聖ヨハネ騎士団6700vs★オスマン帝国8万~12万
ロドス島を支配する聖ヨハネ騎士団をオスマン帝国が包囲。半年にも及ぶ激戦の末に騎士団は降伏。シチリア島へ移った。トルコ軍にも2000~5万の死傷者が出た
・クーセグ包囲戦
1532年 ハンガリー軍700~800vsオスマン軍12万~20万
ウィーン遠征へ向かうトルコ軍がハンガリーの小さな町クーセグを包囲。貧弱な装備ながらも守備隊は25日間抵抗し続け、ハプスブルクの援軍を恐れたスレイマン1世は撤退した。ハンガリー軍は最後まで降伏しなかったという説と降伏を受け入れたが少数のトルコ人しか砦に入れなかったという説がある。
現モンテネグロの町カステルヌーヴォをバルバロス率いるトルコ軍が完全包囲。スペイン軍は降伏勧告を無視し、1ヶ月にも及ぶ激戦の末に100名を除いて全滅したが、トルコ軍も8000人から2万人が戦死した。
・アンドリエンの戦い
1550年 アラウコ戦争 ★スペイン・ピウンチェ連合軍500vsマプーチェ族2万人
マプーチェ族はスペイン軍に夜襲を仕掛けるが、スペイン軍は警戒を怠らなかったため、返り討ちにされ、3000人が戦死した。
・エゲル包囲戦
1552年 ★ハンガリー軍2000vsオスマン軍3万5000~4万
イシドヴァーン・ドヴォ率いるハンガリー軍がトルコ軍に包囲されるも、厚い防壁、イシドヴァーンのリーダーシップ、トルコ軍の内部対立に助けられ、防衛に成功した。
・マラッカ包囲戦
アチェ王国はポルトガルからマラッカを奪還しようと大軍を派遣し包囲するが、3000人以上の犠牲者を出して敗北した。
・ファマグスタの戦い
1570年~1571年 オスマン・ヴェネツィア戦争 ヴェネツィア8500vs★オスマン軍10万~12万
キプロスのクリスチャン最後の砦ファマグスタが1年近く激しい抵抗を繰り広げた後に降伏した。ヴェネツィア軍は7600人が戦死し、トルコ軍は1万~2万人が死傷した。当初トルコ軍は砦内のクリスチャンの安全を保証するもその約束を反故にし、ヴェネツィア人たちを虐殺し、指揮官のブラガディンは耳と鼻を削がれた上、皮剥の刑に処された。
・英賀合戦
1577年 戦国時代・中国攻め ★小寺軍500vs毛利軍5000
織田寄りの小寺氏を討伐するため、毛利は大軍を派遣する。しかし、小寺軍は敵が上陸した直後を奇襲した。更に農民達に旗を挙げさせ、それを敵の援軍と勘違いした毛利は兵を引いた。
・クヴォダンスコの戦い
1577年~1578年 クロアチア軍300vs★オスマン軍5000~1万
クロアチアの都市クヴォダンスコをトルコ軍が包囲した。防衛軍は3ヶ月に渡って籠城し、3度の大規模な攻撃を退けた。守備隊が全員餓死若しくは凍死した後にトルコ軍は砦を占拠し、敵兵の遺体を手厚く葬った
伊東軍が建設した石城を島津軍が包囲する。しかし、石城は三方を急流、背後を険しい崖に覆われた天然の要塞であったため、島津は一度撤退した。伊東軍の死者10人に対し、島津軍は500人が死亡し、大将の島津忠長も重傷を負った。2ヶ月後島津軍は1万人の大軍を派遣して城を堕とした。
・ナジカニジャ包囲戦
1601年 ★オスマン軍9000vsハプスブルク6万5000~10万
現ハンガリーの都市ナジカニジャをハプスブルクの大軍が包囲。オスマン軍は潤沢な物資があるように見せかけながら防衛戦を繰り広げ、73日目に奇襲攻撃を仕掛けた。これを敵の援軍と勘違いしたハプスブルクは軍を撤退させた。
マラータ王国の台頭を警戒したビジャープル王国は討伐のために軍を派遣する。マラター軍はビジャープル軍の追撃から国王シヴァージーを逃がすため、狭い砦で命がけの戦いに挑んだ。この戦いで両軍とも兵力の半分を失ったが、シヴァージーは逃亡に成功した。
・ハドウの戦い
1694年 ポーランド・オスマン戦争 ★ポーランド軍400vsクリミア・ハン軍4万
ポーランド領ポジーリャに侵入したタタール軍とポーランド軍が激突した。ポーランド軍は木製の柵で守りを固め、弾薬が尽きれば、モンゴル軍の矢を打ち返すなど奮戦し、撃退した。ポーランド軍の損害は100名足らずに対して、タタール軍は1万人以上であった。
・アナントプルの戦い
シク教の台頭を恐れたムガル帝国は討伐軍を派遣する。しかし、グル・ゴービンド率いるシク教徒たちに敗れる。
・ナフプリオ包囲戦
現ギリシアの町ナフプリオをヴェネツィアはトルコから奪還することに成功し、更にパラミディ要塞を建設し、防衛強化に努めた。しかし、トルコの大軍に包囲され、1週間ほどで陥落し、住民達は虐殺されるか囚人として連行された。しかし、この戦いでトルコ軍も8000人以上が戦死した。
・ガングワナの戦い
1741年 マールワール軍1000vs★アンベール・ムガル・バラトプールなど連合軍1万~4万
マルワール王国はアンベール王国の戦争に敗れ賠償金と土地を要求されるが、国民が怒ったため、報復戦争を開始する。マールワール軍の騎兵ははアンベール軍を強襲し、蹴散らすものの、ムガル軍の砲撃によって敗北した。マールワール軍は全員が戦死するか負傷したが、連合軍は12000人が負傷した。
・レイバー橋の戦い
1855年 第二次フランス・トラルザ戦争 ★フランス軍14vsトラルザ軍1000人
セネガルとセントルイスを繋ぐレイバー橋をトラルザ軍が襲撃するも、14名の守備隊に撃退された。フランス軍は3名が負傷しただけであったが、トラルザ軍は127名が死傷した。
江戸幕府は将軍徳川家茂自ら軍を率いて長州討伐に出征する。しかし、西洋化が進められた長州の装備に苦しめられた挙げ句、家茂が病死したため、撤退した。
1879年 第二次アフガン戦争 イギリス軍75vs★アフガン軍2000
カブールの英国居住地に居たピエール・カヴァナリ郷をアフガン人が襲撃した。護衛達は奮戦し、600人死傷させたが、2名を除いて戦死した。
・マイワンドの戦い
1880年 第二次アフガン戦争 イギリス軍2500vs★アフガン軍2万5000
アフガン人とイギリス軍が激突、数で勝るアフガン人が勝利を収めた。しかし、イギリス軍の死者1000人に対し、アフガン軍の死傷者は1万人以上と勝者の払った犠牲も大きかった。
・シャンガニ・パトロール
1893年 第一次マタベレ戦争 イギリス南アフリカ会社37vs★マタベレ軍3000
イギリス南アフリカ会社は現ジンバブエのマタベレ王ロベングラの逮捕のために軍を派遣するが、待ち伏せに遭い3名を除いて全滅した。しかし、マタベレも400~500名が戦死した。
1896年 フィリピン革命 ★スペイン軍100vsカティプナン800~1000
マニラの東サンフアンでフィリピン独立を求める秘密結社カティプナンが武装蜂起を起こすが、スペイン軍に敗れ撤退した。この戦いがフィリピン独立戦争の始まりとなった。
・カカロン・デ・シリの戦い
1897年 フィリピン革命 ★スペイン軍600vsフィリピン6000
ブラカンでフィリピン人がカカロン共和国の設立を宣言し、砦を築いた。スペイン軍は討伐軍を派遣し、砦を攻略した。反乱軍の残党達はスペインに対してゲリラで抵抗を続けることとなる。
・サラガリの戦い
1897年 ティラ作戦 イギリス領インド帝国軍21vs★パシトゥーン人1万人
ティラ地方のアフガン人がイギリスに対して反乱を起こし、サラガリに駐在していたイギリス軍を襲った。イギリス軍は全滅したものの、アフガン人も450名が死傷した。
・サンタ・クルス包囲戦
1898年 フィリピン革命 スペイン軍700vs★フィリピン軍1万
ラグナのスペイン軍最後の拠点サンタ・クルスをホセ・リサールの兄パシアノ・リサールが包囲した。スペイン軍は2ヶ月に及ぶ抵抗でフィリピン軍に大損害を与えたが、降伏した。
・ベーラー包囲戦
1898~1899年 フィリピン革命 スペイン軍50vs★フィリピン軍800
教会に立て籠もったスペイン軍をフィリピン人達が1年にわたって包囲する。スペイン軍はフィリピン軍が700名の兵力を失う程激しく抵抗し続けたが、スペイン本国が敗れたことを知り投降した
1939年 第二次世界大戦・ポーランド侵攻 ポーランド軍1200vs★ドイツ軍1万7000
ドイツ軍がポーランド軍の防衛するウェンギエルスカ・グルカ村を通過する際にポーランド軍と2日間交戦する。ドイツ軍は勝利したものの、多大な犠牲を強いられ、ポーランド軍の戦死者は7~20名、7名が処刑された。
・ヴェステルプラッッテの戦い
1939年 第二次世界大戦・ポーランド侵攻 ポーランド軍205vs★ドイツ軍2600
ドイツ軍が自由都市ダンツィヒのヴェステルプラッテ半島を攻撃。ポーランド軍は1週間に及ぶ激戦の末に降伏。ポーランド軍の死傷者67名に対し、ドイツ軍の死傷者は300~400名であった。
・ウィズナの戦い
1939年 第二次世界大戦・ポーランド侵攻 ポーランド軍350~700vs★ドイツ軍4万2000
ドイツ軍がウィズナ村を通過した際にポーランド軍の激しい抵抗に苦しめられた。3日間の死闘でポーランド軍は壊滅したが、ドイツ軍も1400名の死傷者を出した。
・ミルの戦い
1940年 第二次世界大戦 オランダ侵攻 オランダ軍2000vs★ドイツ軍3万
ドイツ軍がミル村を通過する際にオランダ軍の激しい抵抗に遭った。ドイツ軍は勝利したが、500人以上が死傷し、オランダ軍は80人が死傷した。
・ソーミュールの戦い
1940年 第二次世界大戦 フランス侵攻 フランス軍2500vs★ドイツ軍4万
フランス軍の訓練生達がドイツ軍の攻略に2日間抵抗した。フランス軍の死傷者250に対し、ドイツ軍の死傷者は400名で戦車も7両破壊された。訓練生達の勇気はドイツ軍指揮官クルト・フェルトですら賞賛した。この戦いはペタン元帥の停戦呼びかけの後に行われたため、最初のレジスタンスであるとされる。
・ニリムの戦い
1948年 パレスチナ戦争 ★イスラエル軍39~45(内12人女性)vsエジプト軍500~800
イスラエルのキブツ(共同体)ニリムをエジプト軍が包囲した。エジプト軍は装甲車、航空機などの支援を受けて攻撃したが、イスラエル軍の防御を突破できず撤退した。
・3234高地の戦い
1988年 ソ連のアフガン侵攻 ★ソ連軍39vsムジャヒディーン、パキスタン軍450~650
3234高地に配備されたソ連空挺隊がムジャヒディーンの襲撃を受けた。ソ連軍は34名の死傷者を出しながらも200名以上を殺害し、撃退した。
・ヴコヴァルの戦い
1991年 クロアチア紛争・ユーゴスラヴィア紛争 クロアチア軍1800vs★ユーゴスラヴィア・SAO36000
クロアチア東部の都市ヴコヴァルをユーゴスラヴィア軍が87日間にわたって包囲した。クロアチア軍は大半が死傷し、多くの民間人も虐殺・追放されたが、ユーゴスラヴィア軍も3600人が死傷し、戦車と武装車両1100両以上と航空機3機が破壊された。
おまいらが「これはすごい」のタグをつけてブクマした記事を教えてちょーだい。
ちなみにわしがここ最近「これはすごい」つけた記事。どれもめっちゃ濃くて面白い記事です
〇小林まこと×増田俊也【対談】我が柔道部物語!! : 増田俊也公式ブログ|
http://blog.livedoor.jp/masuda_toshinari/archives/52112360.html
『柔道部物語』の作者小林まこと先生と、『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』『七帝柔道記』の著者・増田俊也が柔道の魅力について、存分に語り合った2万字対談。「ゴング格闘技」掲載記事。
〇佐藤康光九段、藤井猛九段、菅井竜也王位座談会「創造の原動力」
https://book.mynavi.jp/shogi/detail/id=77983
将棋プロ棋士、升田幸三賞受賞者であり序盤のパイオニアとして知られる3人が「新手」について存分に語る。「将棋世界」掲載記事。将棋のことが少しはわからないと、内容はわからないかも。
〇小人プロレスと都市伝説 - 男の魂に火をつけろ! ~はてブロ地獄変~
https://washburn1975.hatenablog.com/entry/2021/03/25/150654
小人プロレスの歴史のまとめ。けっこうブクマついてるので、読んだ人は多いかも
〇いま囲碁界で起きている“人間とAI”の関係──「中国企業2強時代」「AIに2000連敗して人類最強へと成長」将棋界とは異なるAIとの向き合いかた
https://bunshun.jp/articles/-/43711
『りゅうおうのおしごと』の白鳥士郎が囲碁棋士と、囲碁のAIソフトについて対談。囲碁は詳しくないのだけど、面白かった。
〇“真空飛び膝蹴り”沢村忠はリアルに弱かったのか? 全241戦「フェイク試合だった」疑惑を検証する - 空手 - Number Web - ナンバー
https://number.bunshun.jp/articles/-/846495
『沢村忠に真空を飛ばせた男/昭和のプロモーター・野口修評伝』の著者が、キックボクサー沢村忠(ポケモン・サワムラーの名前の元ネタ)の裏側を探る。
〇『御意見無用』復刊記念・ありま猛氏インタビュー あだち兄弟にギャンブル漬けにされたお陰で『連ちゃんパパ』は生まれた? | - マンバ
王家の一員だけど継承順位的に王位を継ぎそうにない人って、どういう心境で過ごすものなんだろうね。「ロイヤル特権ウェーイ」って強かに生きられる人物ならある意味幸せだろうけど。
ヘンリー王子って何かメンタル弱そうというか、生きるのしんどそうに感じる。身内に味方がいなさそうというか。問題児のようにふるまってるけどすごく脆くて、利用されやすそう。
父親は長年不倫したあげくその相手と再婚しちゃうし、母親も不倫して事故死するし、かなり大変な家庭環境だよね。むしろここまでよく育ったと思うよ。お兄さんは将来王になる男だから気概も違ったんだろうけど、良い嫁さん貰って幸せそうで、常に比べられて。頼れるメンターや相談相手いなかったのかな。メーガンのような人に捕まっちゃってお子さんまで生まれて、大丈夫だろうか。
しんど過ぎてクスリに手を出したりしないでほしいな。王室メンバーの苦労なんて1ミリも汲めてない自分でさえ、「この実家帰りづらい」と思うよ。この人の他人に言えない苦悩は相当のものだろうと思う。身から出た錆であっても、批判ばかりされて気の毒に感じる。メーガンには妻として夫のメンタルケアに気を配ってほしいところだが、しそうにないしね……。
メーガン騒動に巻き込まれた王室も災難だろうけど、チャールズ皇太子とダイアナ妃が結婚した時点で、この悲劇は始まってたのかもしれないね。
1/29を記念してキン肉マンの完璧超人始祖編あたりの話が無料で読めたから一通り読んでみた。
面白かった。
色々あって、最後にそれぞれの陣営で強さの考えが違えど、力自体は拮抗する表現が良い。
完璧超人陣営も最終的に没落したり他の陣営に合併するわけでもないと言う終わり方も良い。
完璧超人が持つ絶対王者のカリスマ性は、正義超人でも悪魔超人でもないな。
読み終えるまでに3時間位掛かったな…。
リアル世代では無かったけど、劇場版キン肉マンを子供のころから見ていたから好きな作品だった。
2世から連載を追いかけてたから、実は本編について良くわかってない話もある。
オメガ・ケンタウリの六鎗客編でビッグボディが活躍したという噂で連載を追いはじめたから、完璧超人始祖編が良くわかってなかった。
「私は良いと思う」とか「俺はブロッケンJr、おまえはザニンジャ…」のくだりのネタしか知らなかったけど、結構重要なシーンじゃないか。
長すぎて読めない:AIの推奨手と解説聞きながら藤井SUGEEE!してればおk
(対象読者:駒が規定の動きに従って取ったり打ったりできるのは知ってるくらい)
かつて、電王戦というイベントがありました。故米長邦雄永世棋聖(ちんこにまつわるエピソードが豊富)の鬼手/奇手として遺ったそのイベントは、プロ将棋界に大きな爪痕を残しました。2013年、コンピューター(当時はAI=人工「知能」とは呼ばれていませんでした)に破れた最初の現役棋士、佐藤慎一五段(ギターと歌がうまい)のブログに多くの中傷コメントが寄せられたことに始まり、その後プロ棋士が泥仕合の末の引き分けを挟みながら連敗すると「コンピューターに負ける棋士達に偉そうに生きていく資格はあるのか?」という問いが投げかけられました。その後はプロ棋士も一時的に巻き返して勝ったり負けたりになりましたが、その勝ち方に対しても「コンピューターに対するハメ手」ではないかという意見が上がるなどしましたし、2016年3月にAlphaGoが囲碁のトップ棋士を破るに至っては、もはや二人零和有限確定完全情報ゲームで人間がAIに勝つのは不可能だろうと考えられました。実際AlphaGoに敗れた棋士は、2019年に「AIに勝つことができない」ことを理由の一つとして引退しています。2017年に佐藤天彦当時名人(ABEMAトーナメントの煽り文句が「おしゃれマスター」なのはひどすぎる)が番勝負を連敗で落とすに至って、「絶対に将棋で人間はAIに勝てない」という合意が形成されていきました。
藤井聡太二冠(初手を指す前にお茶を飲む癖があり、昨日の王位戦にはお~いお茶がスポンサーした)は、そんな2016年末、「プロの将棋棋士とか存在する意味ある?」という疑念がマッハな時代にプロデビューし、2017年度にまたがってあのデビュー後無敗で29連勝とかいう前後不覚、いや空前絶後の記録を打ち立てたのです。藤井二冠の将棋の魅力は色々に語られますし私も以下で色々に語っていきますが、当たり前であるが故にスルーされがちな第一の理由としてシンプルに「強い」ことが挙げられるでしょう。誰しも推しがしょんぼりしている姿は見たくないものですし、そこから逆照射して強い人を推しにするのも自然なことです。藤井二冠の強さは誰しも知るところですが、端的に説明するならば2018年に達成した記録4部門(勝率、勝利数、対局数、連勝数)独占が挙げられるでしょう(なお過去の独占者:内藤國雄、羽生善治、羽生善治、羽生善治、羽生善治)。今回の「二」冠についてもそうですが、レーティングや勝率など将棋についての数字で表せる強さに関しては、ほとんどすべての場合において現状藤井二冠に勝てる人はいないでしょう。そのことは世間に対する「わかりやすくすごい」というアピールに繋がっているのだと思います。駒の動かし方すらわからなくても、何かでデビュー後29連勝するのがとんでもなくすごいことだというのは誰でもわかりますからね。
さて、「数字に関して藤井二冠はすごい」と言いましたが、ではこれが「数字じゃない部分は藤井二冠は大したことない」という皮肉であるのかと言えば、そんなことは全くありません。まあ将棋が勝ち負けのつく勝負事である以上、どうしても「勝てば官軍」的な側面は存在してしまうのですが、それを抜きにしても多くのプロ・アマチュアの意見の一致するところとして「藤井将棋は華がある」というものがあります。
世の中にはプロ棋士に評価されるプロ棋士、されないプロ棋士、というものが実は存在します。その基準は将棋に対するそもそもの姿勢であったり、序盤の構想力であったり、終盤の鮮やかさであったり、あるいは元も子もなく勝率であったり、さまざまです。しかし、羽海野チカ先生(キラキラ系だと思ったら違ってむしろアコガレ側だというのを吉田豪のインタビューで知ってより好きになった)が『3月のライオン』で「信用」という言葉を用いて描いたように、それは確かに存在します。その言葉を借りて言うならば、藤井二冠は今棋界で最も信用を得ている棋士といえるでしょう。その源は何かと問えば5連覇中の詰将棋解答選手権に明らかな終盤力でしょう。「詰まないと思ったけど藤井くんが詰ましに行ったからまさかと思って調べてみたら詰んでた」というエピソードをどれだけのプロ棋士の口から異口同音に聞いたのか数えきれません。昨日も村山慈明七段(兄弟子の飯島栄治七段をトーナメントで負かしたのを忘れて「叡王戦どうされました?」と聞いた)がそれを言ってました。他方で、序盤力で羽生九段(って呼び方違和感あるよね)の若い頃と比較して、「新人の羽生の序盤は荒削りで終盤の豪腕で勝利をもぎとっていたが、藤井はそうではない」と度々評されてきたあたり、「序盤、中盤、終盤、隙の無い」という格言に当てはまる棋士のような気がします。ちなみに藤井二冠はコロナ前後の課題として中盤力を意識的に強化したようです。
さて、ここまで散々凄いことかのように言ってきたのですが、実はプロ好みのプロ棋士というのはさほど珍しくありません。何十人かはいるでしょう。しかし、「プロ好みで」かつ「アマチュアにも好かれる」棋士、しかも勝ちまくっている棋士といえば片手で十分なレベルでしょう。「プロ好み」「勝ちまくり」についてはすでに説明したので、以下では藤井将棋のどのような部分がアマチュア好みであるのかを解説します。アマチュアもまたプロに負けず劣らず基準が多様なのですが、結局は一つです。「オレが観てて面白いか否か」。以下では、その点について昨日の封じ手を中心に論じていきたいと思います。
さて、封じ手です。封じ手とは何でしょうか。大丈夫です。たまに先走っちゃうけど私は「駒の動かし方というものが存在する」レベルの知識の人にも分かるように書いてるつもりです。封じ手とは2日制の棋戦で用いられる作法で、どこかまで指して、じゃまた明日、となっては最後に指してない側の人が一晩考えられてあまりに有利なので、手番の人が誰にも見せず「封じ」て、翌日に開封するということでそれを相殺しようという試みだと私は理解しているのですが、実際は「お前それ同歩の一手やん」みたいな封じ手も多く、謎です。たぶん同歩の先に必然手順があってその先にある分岐を実質的に封じているのだとは思うのですが、封じ手やったことないし全く分かりません!誰か解説して!ともあれ、封じ手(NARUTOとかの技名っぽい)の瞬間にドラマチックなことが起こることはまれです。でもなー、そこで起こすのが藤井二冠なんですよ!
さて、王位戦第4局の封じ手は8七同飛車成でした。これは、一手前に木村王位(自ら将棋の強いおじさんと称するユニークな解説名人の称号は当分は奪われないでしょう)が飛車の前に銀を進め、飛車にお帰り願う手に対するものでした。お帰り願われては仕方ないので、飛車を逃げるだろうというのが大方のプロの見解でした。しかし。藤井挑戦者はここで30分以上の、当たり前の一手があるに場面しては長考を行います。まさか、と解説がざわめきます。飛車を切る手順を考えているのではないか。お帰り願った銀を飛車で食いちぎり、その飛車を金に取らせる手順を考えているのではないか。長考のまま封じ手の時間となった。解説では飛車を切る手順と逃げる手順の比較を行っています。解説の橋本崇載八段(金髪パンチパーマゴリラから一時期太ったがまた巻き返して爽やかになった)は「いやー同飛車成は指せないですね。いや指すには指せますけど。ただ封じ手でしょ?手が震えて紙に書けないですよ」と言う。それほど異色の手なのだ。
同飛車成について私の印象を言わせてもらうならば、「アマチュア5級~3級の人がやりそうな手」です。お帰り願われたんだけど、そのまま言いなりになるのも業腹なので、切ってしまう。飛車と銀の交換で、相手は最強の駒・飛車をどこにでも打てるのに対し、自分は飛車より弱い銀をどこかに打つ権利を得る。普通はそれでは勝てないが、相手が考えてない手を指した結果、相手の陣地は乱れ、時間も使わせることができる。お互いに強くないのでそこからごちゃごちゃっと泥仕合にして最後はなぜか飛車を切った方が勝ってしまう、というのはそのレベルの人たちの将棋ではありがちです。ムカついたからという理由で飛車を切り飛ばし、それで勝ってしまう。こうなると将棋はやめられません。もちろんそれはお互いに棋力が低いから成り立つ無茶で、相手が強くなっていくにつれてそうした手は通らなくなり、みんな普通の手を指すようになります。プロがよく言う「将棋は当たり前の手の積み重ね」「将棋は悪手を最後に指した方が負ける」という格言はそれを物語っています。ある程度強い人同士の将棋では、必殺技みたいなすごくいい手というのはなかなか出てきません。相手もそれを読んで必殺技を出させないようにするわけですから。しかし、です。藤井二冠にそれは当てはまらないようです。今回の同飛車成も、以前に指した数々の「AI越えの鬼手」も、いかにも無茶で派手な、必殺技的な手です。つまり3級~5級の頃にみんな指していて、今はもう出来なくなってしまった手です。将棋は一般に、2級と初段に壁があるといいます。2級になるためにはそうした無茶な手を捨てられるようにならなければならないし、初段になるには詰将棋や定跡を覚えなければならない。そうやって人は昔の無茶苦茶でありながら楽しかった将棋を失い、しかし強さを得ていきます。そうして強くなった人にとって、3級~5級の人の将棋というのは、少年期の懐かしい思い出のように映ります。昔は楽しかったな、でも今はあんな無茶はできないな。しかし、藤井二冠はその少年のような(というか少年なのですが)手を数々の大舞台で指して、そして強敵を破ってしまう。そりゃテンション上がりますよね。
さて、藤井二冠のデビュー前後でAIが棋士の地位を脅かしていたという話をしました。今もネット中継ではAIによる評価値や予想手が画面上に表示された状態で視聴者・解説者は将棋と向き合うことになります。そんな中で生まれた面白い解説の常套句があります。「これは人間には指せない手ですね」。初めてその言葉が使われたのはおそらく第2回電王戦のどこかだと思うのですが、最初のうちは否定的なニュアンスが多分に含まれていました。人間なら一目でもっと上手く指せるのに、コンピューターにはこんな変な手を最善手として示してしまう、と。しかし次第にその言葉は畏怖と諦観を込めて使われるようになります。AIはこの手を最善と示している、確かにそれは正しいのだろう、しかし人間にはそこまで深く読むことが出来ないから指せないのだ、と。現在の棋士はおおむねその諦観を受け入れているように見えます。AI的な最善よりも、人間の身の丈にあった答えを。ほとんど神話か寓話の世界の話ですが、その姿勢は間違っていません。人間が鳥の真似をしたところで、翼を焼かれるだけですから。しかし少数の棋士は、その諦観を受け入れません。その筆頭が藤井二冠でしょう。彼は徹底してAIの感覚を身につけようとし、かつ成功している人間であるように思われます。先ほど述べたように、「コンピューターのような」という言葉が蔑称として使われる時代はもう過ぎました。それは単なる時代的なドグマではなく、すでに述べたとおり実際に「面白い」のです。藤井二冠はきっと、ラジオの時代にポップスターがいたように、テレビの時代にプロレススターがいたように、AIの時代に生まれるべくして生まれた将棋スターなのだろうと思います。
将棋はきっとこの先永遠にAI=神様との比較にさらされ続けます。その中で、我々よりもずっと神様に近い人が諦めてしまう。きっとこの構造は人類史上普遍的なものだと思います。そして、その諦めは決して不幸とイコールではない。そのことは多くのプロ棋士が「コンピューターには指せない」=「人間に特有の」戦法や戦術を用いて証明してくれています。しかし、もし、人間が諦めずほんとうに神様を目指したとしたらどこまで行けるのか。その問いに対して藤井二冠の活躍は答えを出し続けてくれているように思います。私にはできない、あなたにもできない、困難な道を歩むことを彼は決めました。ならばせめて、その後ろ姿をずっと眺めていたいとは思いませんか。私は思います。というか散々述べたように後ろ姿を眺めるのが楽しすぎてやめられない状態にあります。まあ、私は振り飛車党なので実は推し棋士は別にいるんですけどね。
(2021/2/7追記)書きました anond:20210207093448
藤井聡太棋聖が瞬く間に二冠、そして八段となり、世間は大きく湧いている。
けれど、ここでは、番勝負で敗れた木村一基九段の話をさせてください。
将棋ファンをやっていて一番辛かった瞬間は、と問われれば、2016年の第57期王位戦七番勝負第7局を挙げる。このシリーズ、通算6回目のタイトル戦挑戦となった木村一基八段(当時)が、羽生善治王位を相手に3勝2敗と先行し、悲願の初タイトルに王手をかけていた。しかし、第6局、第7局と木村は連敗する。またしても、悲願の初タイトル獲得はならなかった。これで木村は、あと1つでタイトル、というところで8連敗を喫した。あと一つは、どこまでも遠い。
いつもは負けた後も気丈に振る舞う木村だが、この日は様子が違った。記者の質問に言葉が詰まる。言葉が、出ない。結局、言葉を発さないまま、木村は右手を小さく振って質問をさえぎった。8度目の正直。期するものはどれだけだったか。胸にこみ上げた思いはどれだけだったか。胸が潰れるような思いだった。こんなに辛いことが世の中にあっていいのか、と思った。
この時、木村43歳。次々と若手が台頭してくる将棋界である。43歳の木村に残されたチャンスは多くない。もしかしたら、これが最後のチャンスだったのではないか。そんな思いが頭をよぎった。
そんな思いが頭をよぎったことを、私は今でも恥じている。
それから3年後の2019年。木村は再び王位戦で7度目のタイトルに挑む。そして、豊島将之王位(当時)を相手に、4勝3敗でタイトルを奪取。史上最年長記録となる、46歳での初タイトル獲得である。43歳で8度目の正直を逃し、それでもなお、木村は這い上がってきた。そして、ついに悲願は実った。解説会場で見守っていたファンは、立ち上がって木村に拍手を送ったという。この悲願は、将棋ファンにとっての悲願でもあったのである。
将棋ファンをやっていて、一番辛かった瞬間と、一番嬉しかった瞬間。その両方を味わわせてくれた木村一基は、私にとって特別な棋士である。
ついにタイトルホルダーとなった木村一基王位も、1年後には初めての防衛戦を迎える。2020年7月、第61期王位戦。木村の前には、まだどこか慣れない和服に身を包みながらも、凛とした佇まいで盤の前に座る挑戦者がいた。
藤井聡太七段(当時)。厳しい、あまりに厳しい防衛戦が幕を開ける。
七番勝負第1局。藤井七段の先手番で角換わり。木村王位は、38手目に△4四歩と突く。これは、「攻めてこい」という手で、ここを突くと先手の猛攻が始まる。強い受けを得意とする木村。初めて上位者として臨むタイトル戦。藤井七段の攻めを堂々と受け止める覚悟で突いた歩であった。
当然、藤井七段は次の手から攻めかかる。厳しく、刺さるような攻め。藤井が攻め、木村が受ける。それが延々と続いた。受けを身上とする木村である。面目躍如の粘り強い受けが次々と飛び出す。絶体絶命と思える場面でも、受けはある。藤井の攻めが止まり、一手でも木村に攻めの手が回れば、たちまち逆転である。
しかし、その手は最後まで回ってこなかった。藤井聡太七段、攻め始めてから守りの手を指すことなく、攻め倒しての快勝。盤上に衝撃波が残るような、そんな幕開けとなった。
第2局。先手番の木村が選択したのは得意戦法の相掛かりであった。この戦型は、定跡が整備されておらず、一手一手が難しい戦いになる。お互いの構想力、真の力量が問われる戦型ともいえる。木村と藤井、互いに盤上没我し、深い読みで盤の底の海を泳ぐ。2日目の午後になってもまだ本格的な戦いが始まらない。あまりに難解な応酬の中、一歩抜け出したのは木村だった。8六に角を上がった手が、藤井も困ったという好手。深い読みと、これまでの艱難辛苦に裏打ちされたような丁寧な応対。木村がついに優位に立った。
しかし、藤井は全く楽にさせてくれない。逆転に向けて絶えず圧をかけ続けるような指し手で、木村を追い詰めていく。序盤、中盤で考えに考え、優位を掴んだ木村。終盤まで来ると、時間が残っていない。時間に追われるように指した手は、わずかに足りなかった。木村一基、2連敗。終局後、遠くに目をやった姿が印象的だった。
迎えた第3局。第2局と第3局の間に、藤井は初タイトルの棋聖を獲得していた。これでこの番勝負は、初タイトルの史上最年長対史上最年少の番勝負となった。果てしない苦難の末にタイトルを手にした木村に、彗星のごとくタイトルまで上り詰めた藤井が挑む。同じタイトル1期でも全く対照的であり、意味が違う。将棋の神様がどこかで筋を書いているとしたら、将棋の神様が憎い。
戦型は矢倉。先手番の藤井が、土居矢倉に雀刺しという温故知新の構想を披露する。盤上を転換する角が輝いている。改めて、恍惚とするような構想力である。またしても藤井の攻めを木村が受け止める展開となるが、藤井の攻めは淀みなく、木村、苦しい。
はっきりと苦しい90手目。木村は自陣に銀を打った。うめき声が聞こえてくるような苦しい銀打ちである。この手を見て、中継画面を思わず凝視した。辛抱も辛抱、鬼辛抱の受けである。ここに銀を打ったところで、幸せになる未来はなかなかやってこない。それでも木村は打つ。これまでも打ってきたし、ここでも打つ。
中継を見ながら並べていた将棋盤に、木村の手つきを真似しながら何度も銀を打ち付けた。自慢できるような華麗な手ではない。しかし、これが木村の手なのだ。
「これが木村一基だ」。そう念じながら、何度も、何度も打ち付ける。報われてくれ。幸せになってくれ。まずは一つ、返してくれ。
木村の執念の粘りに引きずられたのか、藤井が終盤に一手寄せを誤る。辛抱を続けてきた木村に巡った最終盤の大チャンスである。しかし、そこから木村が優位を掴む手は相当に見えづらく、難解だった。突然現れた勝利へのか細い糸だったが、木村、惜しくもこれを掴めない。番勝負は3連敗、あっという間のカド番となった。
2020年8月19日、王位戦七番勝負第4局。カド番の木村は、相掛かりに命運を託す。敗れはしたものの、第2局で優位を築いた得意戦法に全てを懸けた。
カド番とは思えないような積極的な指し回しに、藤井も一歩も引かずに応じる。激しい突っ張り合いの末に封じ手を迎えた。飛車に銀を当てられた藤井。36分の考慮に沈んだ末、次の一手を封じた。飛車を逃げるか、バッサリと斬ってしまうかというところである。そして、後者は相当に勇気がいる。
封じ手の場面、ある一手を思い出した。藤井聡太を代表する一手の一つ、「△7七同飛成」。場面は異なれども、あれも飛車をバッサリと斬る手であった。鮮烈な一手が去来して、予感を巡らした。そして、翌日開かれた封じ手。藤井棋聖はやはり、飛車を斬り飛ばした。
一歩も引かない突っ張り合いは2日目も続く。しかし、局面は藤井に傾いていった。終盤の局面は、見れば見るほど、木村にとってどうしようもない。全てを悟った木村王位は、潔く駒を投じた。藤井新王位が誕生し、木村にとっての初の防衛戦の幕が閉じた。
木村から見て「0勝4敗」という星取りは、正直すぐには信じ難い。紙一重の、いや、間に紙一枚もないような攻防の中で、残念ながら木村は勝利を掴むことができなかった。どこまでいっても勝利の遠かった番勝負。そこには、歴然たる「差」があるのかもしれない。しかし、木村一基王位は、初めての防衛戦となるタイトル戦で、最後まで全力で戦い抜いた。彼が初めてタイトルを獲得した時、解説会場でファンたちがそうしたように、今回も立ち上がって、全力で拍手を送りたい。
藤井新王位は、記者会見で木村の立ち振る舞いから学ぶことが多かったと述べていた。それは、偽らざる実感だったと思う。多くのタイトル戦を経験してきた木村だが、これまでは全て挑戦側。上位者として迎えるのは初めてで、しかも相手は自分よりも30歳近く年下の若者、加えてこのコロナ禍の中での異例づくめのタイトル戦である。戸惑う部分は大きかったはずだが、それを感じさせないくらい、木村の振る舞いは堂々としていた。
初めての封じ手で所作に戸惑った藤井棋聖。優しく所作を示したのは対戦相手の木村であった。その封じ手、通常は2通であるが、今回は3通作成することを提案したのもまた木村である。通常より多い1通は、販売し、収益を豪雨災害の被災地などに送ることを想定したチャリティー用である。
目を覆うような負け方をした後でも、感想戦をリードし、記者の質問にも気丈に答える。厳しい番勝負の中でも、木村は他者へのまなざしを忘れない。あと一歩のところで敗れ続けてきた。苦難に満ちた将棋人生が、棋士・木村一基を創っている。
感想戦の後、駒箱に駒をしまう。タイトルホルダーとしての最後の所作を終えて、木村一基の王位戦は幕を閉じた。47歳。あの時より、4つ年を取っている。しかし、木村一基はまた戻ってくる。苦しい手しか残っていなくても、まだ指し続ける。「百折不撓」折れない心は、木村の信念である。
今度は、微塵も疑っていない。
永世称号保持者
タイトル5期以上
カッコが付いている人は稼働していた時代が違いすぎて単純に比較できない人
あと何期かでS級4組に昇格する現役棋士
タイトル戦3期で竜王戦のみ現役となっている桐山清澄九段は事実上不可能なのでここに入れない。年齢や近年の実績から豊島と天彦以外は4組昇格厳しい。
藤井聡太は挑戦中の王位と本戦トーナメントに残っている竜王をダッシュし三冠になれば今年中にS級奨励会に入会、更に来年これらを防衛するか王将・叡王・王座のいずれかを奪取でタイトル2年目でS級4組に昇格。羽生善治ですらS級4組は4年かかっているのに(それでも充分化物)!
年齢 | 棋士 |
---|---|
58 | 大野源一(B1/11位) |
57 | |
56 | |
55 | 塚田正夫(A級/32位) |
54 | |
53 | 花村元司(A級/19位) |
52 | 升田幸三(A級/9位) |
51 | 丸田祐三(A級/15位) |
50 | |
49 | |
48 | |
47 | 大山康晴(名人/1位)原田泰夫(B1/13位) |
46 | 加藤博二(B1/16位) |
45 | |
44 | |
43 | 灘蓮照(A級/18位) |
42 | |
41 | |
40 | |
39 | |
38 | 二上達也(A級/7位) |
37 | |
36 | 【山田道美(A級/5位)】 |
35 | |
34 | 有吉道夫(A級/5位) |
33 | 佐藤大五郎(B1/14位)芹沢博文(B1/17位) |
32 | |
31 | |
30 | 内藤國雄(A級/3位)加藤一二三(A級/4位) |
29 | 板谷進(B2/20位) |
28 | 大内延介(B1/8位)西村一義(C1/10位) |
27 | 米長邦雄(B1/6位) |
26 | |
25 | |
24 | |
23 | |
22 | 中原誠(A級/2位)桐山清澄(B2/12位) |
21 | |
20 |
1950年代半ば過ぎより、将棋連盟は財政事情から1年間に採用される新四段を年に2人から3人と極端に絞っていた時代で、そのため若い世代に分厚い有力グループができる新陳代謝があったわけでもありません。もちろん俊英はきちんと昇段していくわけですが、そもそも奨励会の人数自体が少なく、年齢制限も有名無実な時期さえありました(なので1960年に移ってもほぼ変化がないため、遡るのはここまでにします)。そういうこともあって1960年代は大山康晴が全タイトルを独占する時間が長く続き、二上達也や加藤一二三が僅かにそこに手がかかる程度の圧倒的な独走状態でした。しかし打倒大山にその生涯を賭けたと言っていい山田道美が67年に棋聖位を奪取します。難病に斃れた山田はこの時点からわずか1ヶ月前の70年6月に36歳でA級在位のまま死去(そのため表中に特掲しました)。しかし山田が開いた研究会でも鍛えられた中原誠が翌68年に山田から棋聖を奪取し20歳の若さで初タイトル。さらに内藤國雄が中原から69年に棋聖を奪取と、大山統一王朝の終焉が間近な時期でした。
年齢 | 棋士 |
---|---|
57 | 大山康晴(A級/3位) |
56 | |
55 | |
54 | |
53 | |
52 | |
51 | |
50 | |
49 | |
48 | 二上達也(B1/19位) |
47 | |
46 | |
45 | 木村義徳(A級/34位) |
44 | 有吉道夫(B1/12位) |
43 | |
42 | |
41 | |
40 | 加藤一二三(A級/6位)内藤國雄(A級/7位) |
39 | 板谷進(A級/21位) |
38 | 大内延介(B1/15位) |
37 | 米長邦雄(A級/2位) |
36 | |
35 | 勝浦修(A級/4位) |
34 | 森雞二(B1/16位) |
33 | 石田和雄(A級/10位)田中魁秀(B2/17位) |
32 | 中原誠(名人/1位)桐山清澄(A級/13位) |
31 | 佐藤義則(B2/14位) |
30 | 森安秀光(A級/5位) |
29 | |
28 | |
27 | 青野照市(B1/8位)宮田利男(C1/20位) |
26 | |
25 | |
24 | |
23 | 小林健二(C1/11位) |
22 | |
21 | |
20 | 福崎文吾(C1/18位) |
19 | |
18 | 谷川浩司(B2/9位) |
中原誠(名人・十段・棋聖・棋王)米長邦雄(王位)大山康晴(王将)
筆者にとってはここから数年後が将棋に興味を持ち始めた時期のため個人的には印象の深い顔ぶれが並ぶのですが、改めて1990年の世代表と比較すると、羽生世代と55年組が年齢の関係で登場していないことを除けば、主たる顔ぶれに大きな変化がありません。大山から中原への世代交代を経て米長の台頭と加藤の才能の遅れながらの円熟を迎えた70年代の熱が、80年代いよいよその盛りに達しようとするまさにそういうタイミングであり、それが1990年の段階でまだまだ勢いを持っていたと見るべきでしょう。そういう意味でも、羽生善治は「最も最適のタイミングで出現した」と言えるのかもしれません。
そういう熱の中に、1人とびきりの若さで登場した谷川浩司の衝撃、をリアルタイムで感じることのできない当時の私の年齢ではありましたが、こうして見ればその存在感の突出さも別の意味で理解できようというものです。ただ、谷川は80年代を通してついに「自らの統一王朝」を開くまでには至らず、中原と押し引きを続けている間に羽生とも戦わざるを得なくなるという状況を迎えました。
藤井聡太の大師匠板谷進とその弟弟子石田和雄がA級に、さらに板谷進の弟子小林健二が将来を期待される俊英として名を連ね、板谷四郎一門のある種の盛りを迎えています。途中石田の弟子高見泰地が叡王位を獲得するとはいえ、ここから40年を経て「東海にタイトルを」が結実するというのは、年月の長さを感じます。
(なお、データはけんゆう様作成の「将棋棋士成績DB」を参照しています。けんゆう様には感謝を申し上げます)
年齢 | 棋士 |
---|---|
67 | 大山康晴(A級/27位) |
66 | |
65 | |
64 | |
63 | |
62 | |
61 | |
60 | |
59 | |
58 | |
57 | |
56 | |
55 | |
54 | 有吉道夫(A級/22位) |
53 | |
52 | |
51 | |
50 | 加藤一二三(B1/13位)内藤國雄(A級/17位) |
49 | |
48 | |
47 | 米長邦雄(A級/8位) |
46 | |
45 | |
44 | |
43 | |
42 | 中原誠(名人/3位) |
41 | |
40 | 淡路仁茂(B1/18位) |
39 | |
38 | 真部一男(A級/50位) |
37 | 青野照市(A級/7位) |
36 | |
35 | |
34 | |
33 | |
32 | |
31 | |
30 | 高橋道雄(A級/12位)福崎文吾(B1/20位) |
29 | |
28 | 谷川浩司(A級/1位) |
27 | 南芳一(A級/5位)島朗(B2/14位) |
26 | 神崎健二(C2/19位) |
25 | 塚田泰明(A級/11位)中田宏樹(C2/16位) |
24 | 森下卓(C1/2位) |
23 | |
22 | 阿部隆(C2/10位) |
21 | |
20 | 佐藤康光(C1/5位) 先崎学(C2/15位) |
19 | 羽生善治(B2/6位) |
18 | 屋敷伸之(C1/9位) |
中原誠(名人・棋聖・王座:この直後8/1に屋敷伸之に棋聖位を奪取されます)谷川浩司(王位)羽生善治(竜王)米長邦雄(王将)南芳一(棋王)
このシリーズで一番の縦長ですが、その原因は言うまでもなく大山康晴です。この2年後69歳でA級在位のまま死去。ほんの数年前までは羽生善治ならそれに並びうるのではと思われていましたが、さてそれが達成できるかは見ものです。私も健康に気をつけてせめてその歳までは健康に生きていたいと願っております。あと、有吉道夫・内藤國雄の西の両巨匠もまだまだ指し盛りですね。ご両名はそれぞれ74歳、75歳まで現役を務めました(内藤は規定による引退を待たずの自主引退)。このお二人が関東在住でしたら、2020年において長老格として加藤一二三だけがメディアを独占する、ということもなかったのではないかなあ、とも。
この表だけ見ると谷川浩司の周りにずらっと名前があって多士済々。しかもタイトルホルダーやタイトル経験者、A級在位者が多い。特に南芳一にいたってはこの前後数年でタイトル5期を重ねるなど最充実期といっていい活躍。にもかかわらず「谷川世代」という呼ばれ方はついにされず、しかもその後の歴史を見るに多分それは正しかった。1991年を最後に、福崎文吾まで含めてこの年代の棋士は谷川以外誰一人タイトルに届きませんでした。そういう意味では、棋界の「見る目」というのは冷徹なほどに的確です。また、もしかしたら2020年における30歳前後の棋士たちへの評価に重なる部分があるのかもしれません。
この表だと塚田泰明とは1つしか年齢が違いませんが学年では2つ、プロ入りでは3年度下なので、55年組よりは「羽生世代」に近い位置づけをされる森下卓。昨年木村一基が初タイトルを奪取するまでは「無冠の帝王といえば森下か木村か」と言われる存在でした。この年24歳、C1在籍ながら準タイトル戦格の全日本プロトーナメントを制しています。棋界一の律儀者とも称される物腰の柔らかさとじっくりとした矢倉を得意とする棋風で人気も高く、一般棋戦優勝8回、タイトル挑戦6回を数えながらついに54歳の今日までタイトルに手が届いていません。そのことについては本人の口からも幾度か語られてはいますが、それを判定できる人はだれもいないのでしょう。書かずもがなの無内容なことながら、それでも一筆書かずにおれないところがあります。
はい、30年前にもうこうやって出てくるわけですよ。この表の中には名前ないですけど村山聖と森内俊之はレート的にはすぐこの下にいますし、郷田真隆と丸山忠久はこの年の4月に新四段になったばかり、翌91年4月には藤井猛が、同10月には深浦康市が四段に上がってきます。そして屋敷伸之が上記の通り、2回目のタイトル挑戦中で中原から棋聖を奪取し史上最年少タイトルホルダーに輝く。上は大山から下は屋敷まで、そして中原・谷川・羽生の3人のスターを抱えるこの時期の「幅の広さ」はその前後には見られない豊穣さといえましょう。
レーティングという指標で見るなら、実は羽生は藤井聡太よりもほんの少しだけ早い17歳6ヶ月で全棋士中1位になっています(88年3月、藤井聡太は2020年2月に17歳7ヶ月。この比較こそ数字遊びに過ぎませんが羽生のほうが藤井よりプロ入りが遅く勝率も低いのに対局数と勝数の要素でこうなっています※追記:eloにせよglickoにせよ「将棋棋士の場合は」全体のレートがマイルドにインフレする(対して大相撲力士のレーティングは目立ってインフレしない)ので攻略する頂の高さは羽生より藤井の方がずっと高いのでした。その分藤井のほうが増やしやすくはありますが)。この時期は、ちょうど羽生にしては珍しい「不調」といえる時期で、もしかすると当時史上最年少でのタイトル獲得に伴う環境の激変の影響が出ていたのかもしれません。この年の秋には谷川の挑戦を受けた竜王戦で防衛を果たせず、年明けの棋王戦で南から棋王位を奪取してすぐにタイトルホルダーに復帰するものの、「前竜王」の呼称がなくなった現行の方式であれば、この4ヶ月弱ほど「羽生七段」になっていたということになります。そういう意味では、藤井聡太のここから1年ほど、あるいは高校を卒業したあとの1年くらいの動向には注目すべきでしょう。これまでは学業優先で免除されていた普及活動、将棋連盟主催のイベント、タイトル戦主催者企画のシンポジウムや講演会の依頼、単著の執筆依頼、テレビ出演への依頼などがそれでなくても多い対局の合間に豪雨のように降ってくるわけですから。
ここまで来たら羽生世代でとことん笑ってみよう。20年前までさかのぼっても全然動かないんだもの。
年齢 | 棋士 |
---|---|
60 | 加藤一二三(A級/30位) |
59 | |
58 | |
57 | |
56 | |
55 | |
54 | |
53 | |
52 | 中原誠(B1/17位) |
51 | |
50 | |
49 | |
48 | |
47 | 青野照市(A級/31位) |
46 | |
45 | |
44 | |
43 | 田中寅彦(A級/40位) |
42 | |
41 | |
40 | |
39 | |
38 | 谷川浩司(A級/2位) |
37 | 島朗(A級/23位) |
36 | |
35 | 塚田泰明(B2/18位) |
34 | 森下卓(A級/8位) |
33 | |
32 | 中川大輔(B2/19位) |
31 | |
30 | 佐藤康光(A級/6位)先崎学(A級/26位) |
29 | 羽生善治(A級/1位)藤井猛(B1/3位)森内俊之(A級/4位)丸山忠久(名人/5位)郷田真隆(B1/10位) |
28 | 深浦康市(B2/9位)屋敷伸之(C1/14位) |
27 | 木村一基(C1/11位)野月浩貴(C2/20位) |
26 | 三浦弘行(B1/7位)行方尚史(C1/15位)鈴木大介(C1/16位) |
25 | 堀口一史座(C1/13位) |
24 | 久保利明(B2/12位) |
23 | |
22 | |
21 | |
20 |
羽生善治(王位・王座・王将・棋王:四冠の平常運転、直後に谷川から棋聖を奪取して五冠)谷川浩司(棋聖:この直後無冠に)丸山忠久(名人)藤井猛(竜王:やっぱり竜王といえば藤井)
順位戦のシステム上、ベテランが上位クラスで奮闘と粘りを見せやすいという特性があります。中原十六世名人は00年3月にA級から陥落し引退も囁かれていたのですが引き続き順位戦にとどまり、むしろそれまで以上の自由な棋風に変貌しました。ただ、やはり競争は厳しく、この年度で田中と島が、その次の年度で加藤(とベテランではありませんが先崎も)が陥落し以後A級には復帰できませんでした(加藤の62歳A級は史上2位の高齢で実に見事なものです)
96年3月に羽生の七冠独占を許した谷川ですが、その年のうちに羽生から竜王位を奪取、さらに9年には羽生から名人位も奪取し羽生より先に永世名人資格を取ります。98年には佐藤康光に名人位、藤井猛に竜王位を奪われてまた無冠になりますが99年に郷田真隆から規制位を奪取、上記の通りその棋聖位も1年で羽生に奪われるものの2年後の02年には40歳で羽生から王位を奪取。分厚い羽生世代と40歳で伍していく気迫と覚悟には、全盛期とはまた異なる谷川将棋の魅力として輝くものがありました。
id:BigHopeClasicです(元増田ではない)
ブコメの中に「10年前はどうだったんだろう」というのがあったので、ちょうど10年前のを同じ基準(レーティングトップ20+A級棋士)で作ってみました。
年齢別の方がわかりやすい面もあるのでそちら基準で(名前の横のカッコ内は順位戦クラスとレーティング順位です)
年齢 | 棋士 |
---|---|
50 | 高橋道雄(A級/31位) |
49 | |
48 | 谷川浩司 (A級/15位) |
47 | |
46 | |
45 | |
44 | |
43 | |
42 | |
41 | |
40 | 佐藤康光(B1/6位) |
39 | 羽生善治(名人/1位)丸山忠久(A級/4位)森内俊之(A級/9位)藤井猛(A級/12位)郷田真隆(A級/14位) |
38 | 深浦康市(B1/7位) |
37 | 木村一基(A級/18位) |
36 | 行方尚史(B1/16位)三浦弘行(A級/17位) |
35 | |
34 | 久保利明(A級/2位) |
33 | |
32 | |
31 | |
30 | 松尾歩(B1/11位) |
29 | 山崎隆之(B1/5位) |
28 | 阿久津主税(B2/13位) |
27 | |
26 | 渡辺明(A級/3位) |
25 | |
24 | |
23 | 広瀬章人(C1/8位)戸辺誠(B2/10位) |
22 | 佐藤天彦(C2/20位) |
21 | |
20 | 豊島将之(C1/19位) |
羽生善治(名人・棋聖・王座:三冠なので不調と半ばマジ気味にネタにされてた時代ですね)/深浦康市(王位:ちょうどこの時期広瀬章人と王位戦を戦い広瀬が初タイトルを獲得します)/渡辺明(竜王:敵なしの6連覇中)/久保利明(棋王・王将)
十七世名人の谷川については多くを語る必要もないですが、50歳でA級を堅持していた高橋道雄については説明を。
昭和55年度(1980年度)は、今とはシステムが違うとはいえ1年度で8人もの棋士が四段に昇段し、かつその中で5名ものタイトルホルダー(高橋道雄、中村修、島朗、南芳一、塚田泰明)を輩出するという将棋史上でも空前のビンテージイヤーとなりました。そこでついた名前が「55年組」です。ただ、彼らとほぼ同じ年齢の谷川浩司は彼らより4年も早くプロ入りしていたためか「谷川浩司と同じ世代」というくくり方にはされることがありませんでした。この辺は「実年齢でくくるのか」「プロ入り年度でくくるのか」というくくり方で「羽生世代」と大きく異る部分ですね(ありていにいえば「くくる側の願望や思惑」が出るところでもあります)。
さて、谷川には及ばないものの17歳18歳で早々に四段昇段した他の4人と比べると、高橋は一歩遅れて20歳で四段昇段となりました。将棋界は面白いもので、このわずかな昇段年齢の差がその後のキャリアで大きな差を生むことが知られていますが、高橋は他の誰よりも早く23歳で初のタイトルを獲得し、そしてやや早枯れの傾向のあった同期たちの中では一人熟年まで力を保ち、48歳でA級に復帰し52歳までA級にとどまりました。「棋界における世代」の一挿話として特筆した次第です。
いやもう、さすがに呆れるしかないですよね、森内こそ順位戦から撤退してフリークラスに転籍しましたが、10年後の表から名前が消えたとはいえ行方はB1にとどまっていますし藤井猛もB2でまだまだ力強さを見せています。この分厚さと力強さが、20歳年下の豊島の世代まで重い蓋になったのがよくわかると思います。
この時点ですでに、松尾・山崎・阿久津(と橋本崇載)の4人は「もう若くないぞ、そろそろ一花咲かせないとあまり時間の余裕がないぞ」と言われ始めていたはずです。とはいえ、この4人でタイトル獲得どころか挑戦に届いたのさえ山崎1人、A級昇級すらままならないことになるとはまださすがに予測されていませんでした(松尾と山崎はA級に上がれず、橋本は1回、阿久津は2回昇級したもののすべて1年でB1に送り返されています)。それでも山ちゃんを諦めない。
上記の通り、この年のこの直後に広瀬が初タイトルを獲得するのですが、その翌年羽生に奪い取られてしまいます(なお「魂を抜かれた」のはさらにその4年後になります)。
もちろん天彦、豊島は渡辺に続く新鋭としてひとかたならぬ期待はありましたけど、初タイトルはともに28歳のときでした。広瀬も含め30歳手前で「実力と実績の均衡が取れて充実の盛りを迎えた」のですが、特に豊島についてはそれでも「遅れてしまった」感はあります。
というわけで、10年前にさかのぼってみると、「渡辺の孤独」により見えてくる部分があるのではないでしょうか。というかむしろ「谷川浩司の孤独」のほうが浮かんでしまうのかもしれないなこれ、とここまで書いて思いました。
ナンバーツーの系譜に名を連ねる渡辺明が、次代のナンバーワンの台頭によって久々に注目されている。
長年の将棋ファン的には、歴史の必然というか、ついに渡辺明にもこのときが来たな、という感想を持つ。
将棋界というのは不思議なところで、いつの次代も絶対的なナンバーワンが存在する。
圧倒的な棋力で他の棋士を寄せ付けず、2、30年君臨し、次代のナンバーワンに禅譲する。
次代のナンバーワンはデビュー時点で文字通りのトップレベルの棋力を備え(*1)、また2、30年棋界に君臨する。
"常勝将軍"木村義雄(*2)、"巨星"大山康晴(*3)、"棋界の太陽"中原誠(*4)、"永世七冠"羽生善治、そしておそらくは藤井聡太だ。
中には全盛期にナンバーワンに勝てなかっただけみたいな棋士もいる。
ナンバーツーに誰を入れるかは2ch将棋板でも議論になるところだが、升田幸三(*5)、米長邦雄(*6)、谷川浩司(*7)、渡辺明は間違いない。
これに加藤一二三(*8)、佐藤康光(*9)、森内俊之(*10)あたりを入れるか、あるいはもっと色々な棋士が含まれるか、そもそもナンバーツーと言えるほど絶対的な棋士は谷川だけ、2番手集団で十分、以下略。
印象的なエピソードが数多あっても、決して色褪せない圧倒的な数字には及ばない。
むしろ万年2位の悲喜こもごもにこそ、心動かされるのが人の性ではなかろうか。
俺はそういうエピソードが好きだ。
木村義雄名人に糞と言い放った升田幸三。そのくせ陣屋事件を引き起こした升田幸三。(*11)
大山にいじめられ続け(と中原にまで言われる)、大山が衰えてやっと短い全盛期を迎え、中原と互角にやりあい名人も奪った加藤一二三。(*12)
二十歳そこそこの森下卓に頭を下げてまで自らの将棋を鍛え直し、49歳にして中原を下し名人位についた米長(*13)。
7番勝負の最中に阪神大震災を被災し、関西の将棋ファンの期待を一身に背負った王将戦で羽生六冠王の挑戦を退けた谷川(*14)。
羽生と初代永世竜王をかけて戦い、棋界初の三連敗四連勝で竜王を守りきった渡辺明(*15)。
そして藤井聡太の初戴冠において、カメラを背負う側となった渡辺明。
一方で、羽生さんは本当にすごい、と語る。
自身がナンバーワンに連なる存在でないことを自覚し、自分は羽生と藤井聡太の間の棋士だ、と、悟ったようなことを語る。
そして、あまり語ってはいないが、名人に対するこだわりは絶対にあると思う。
ただまあ棋士なんて常識が無い人間ばかりなので、それはそれでいいんじゃないですかね。
渡辺明が悲願の名人を獲り、そして藤井聡太の挑戦を受けたりしたら、クッソ盛り上がるだろうな。
谷川、渡辺明のプロ入直後の成績は中原、羽生、藤井聡太と比べると劣る。当時のトップレベルから少し(渡辺明は大分?)落ちるようだ。
名人8期(現役晩年まで名人しかタイトルが無かった)、十四世名人。
十三世名人関根金次郎の弟子。十二世名人小野五平や坂田(阪田)三吉からも指導を受けたらしい。
本文では中原デビュー後すぐにトップ棋士の座を譲った風に書いているが、中原誠に勝てなかっただけで他の棋士には変わらず勝ちまくっていた。
中原デビュー後の10年間は大山・中原時代と言っていいだろう。
佐瀬勇次名誉九段門下。膝に扇子を突き立て肘を乗せるスタイルは木村王位ら一部の佐瀬門下に受け継がれている。
タイトル通算12期、十八世名人資格保持者、永世名人(名人通算5期)を羽生より先にとった。
第1期王将戦(木村義雄名人対升田)は升田の4勝1敗で王将獲得となったが、第6局が木村名人の香落ちで行われることになっていた。
升田は対局場である陣屋旅館まで来るも結局対局を拒否し、大騒動に発展する。
真相は不明。升田は自身の子供のころからの夢「名人に香車を引いて勝つ」と名人を侮辱するかのような香落ち対局の間で葛藤し、このような行為に至ったのではないかとか言われている。
棋士総会より一任された木村義雄の裁定により、升田の処分はお咎め無しとなった。
ちなみに大山王将(名人)との第5期王将戦では升田は香落ち上手も指して勝った(http://www.ne.jp/asahi/yaston/shogi/osyo/osyosen/05/osyo05.htm)。
翌年21歳の谷川に奪取された(史上最年少名人)。谷川によると、「加藤先生には申し訳ないが、名人は中原先生であって欲しかった」。
名人就位式で「来年はあいつ(羽生)が獲りに来る」と予言し、翌年本当に羽生に奪取された。
翌年羽生は六冠を保持したまま再び挑戦者に名乗りを上げ、さすがの谷川もついに土俵を割る。寝癖の七冠王誕生時にカメラを背負った。
当時渡辺明は竜王連続4期、羽生は通算6期であった。羽生が卓越した大局観を見せつけた第1局、渡辺明が激戦を制した第4局、第7局が名高い。
でも渡辺明は他タイトルは挑戦もろくにできないまま永世竜王になったため、当時の将棋ファンの評価は微妙な感じだったように思う。
ナンバーワンの系譜なんてホントのところは偶然の産物でしかないと思うし、当たり前だが将棋に神様はいないし選ばれた人間だけが名人になれる訳じゃないと思うけど、現実にそういうことが起きると人間はなんか運命的なものを感じて面白がるよね、ってだけの話。