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2023-07-22

「〜の変」「〜の乱」のまとめ(後編)

「〜の変」「〜の乱」のまとめ(前編)

名称概要
1531年享禄・天文の乱浄土真宗本願寺派権力闘争である享禄の錯乱管領細川晴元一向一揆を利用したら暴走してしまったので本願寺を討伐した天文錯乱
1532年北部九州天文の乱大内氏大友氏が北九州を巡って抗争を行うなかで、大内義隆大友氏の支援を受けた少弐氏を滅ぼし、豊前筑前肥前を平定した。
1533年稲村の変安房里見当主里見義豊が、叔父里見実堯を誅殺したところ、その息子の里見義堯が謀反を起こして義豊を殺し、自らが当主となった。
1536年花倉の乱駿河守護今川氏輝と弟・彦五郎が急死、その他の弟で出家していた玄広恵探栴岳承芳が後継を争った。栴岳承芳勝利今川義元を名乗った。
1537年河東の乱北条氏今川氏は長く同盟を結んでいたが、今川氏武田氏と手を結んだため、武田氏と争っていた北条氏今川領に攻め込み河東地域占領した。
1542年天文の乱伊達当主・稙宗とその息子・晴宗の内紛。婚姻外交が進んでいた奥州を二分する大乱に発展した。最終的に晴宗が当主となったが伊達氏は衰退した。
1550年二階崩れの変豊後大名大友氏において、嫡男の義鎮を支持する勢力が、当主の義鑑と三男の塩市丸を襲撃して殺害した。事件後に義鎮が当主となった。
1551年大寧寺の変周防大名大内義隆に対して、家臣の陶晴賢が謀反、義隆は自害に追い込まれた。後継は大友から迎えられ、陶晴賢が実権を握った。
1565年永禄の変畿内勢力を誇る三好氏が、将軍足利義輝を襲撃して殺害した。その後、将軍の後継争いから、三好氏の内紛へと発展していった。
1568年本庄繁長の乱越後上杉家臣・本庄繁長が上杉謙信に対して反乱を起こした。繁長がよく戦い、謙信被害も大きかったので、繁長は降伏して帰参を許された。
1569年本圀寺の変本圀寺にいた将軍足利義昭三好三人衆が襲撃した。幕府軍がよく守るあいだに畿内織田方の勢力が救援に駆けつけたため、三好三人衆は敗れた。
1569年大内輝弘の乱九州に侵攻した毛利氏の後方撹乱を狙った大友氏が、大内氏再興を目指す大内輝弘を周防挙兵させた。毛利元就九州侵攻を諦めて引き返し鎮圧した。
1570年元亀の変伊達晴宗と伊達輝宗の父子が対立するなかで、晴宗に重用されていた中野宗時が謀反の疑いをかけられ、中野一族粛清追放された。
1574年天正最上の乱出羽最上氏の当主となった最上義光と、その父・義守が対立し、伊達氏が義守に味方して内乱となった。最終的に義光有利で和睦した。
1576年三瀬の変伊勢北畠氏は織田氏に降伏し、織田信雄を養子に迎えて家督を譲っていたが、その後も叛意が残っているとされ、そのため北畠一族粛清された。
1578年御館の乱上杉謙信の死後、その甥の景勝と、北条氏から迎えた景虎という、謙信養子二人で後継争いがあり、武田氏を味方につけた景勝が勝利した。
1578年天正伊賀の乱伊勢を掌握した織田信雄が続いて伊賀に攻め込んだが敗退、数年後に織田氏はあらためて大軍で侵攻し、伊賀を平定した。
1582本能寺の変織田家臣・明智光秀が謀反を起こし、本能寺宿泊していた主君織田信長を襲撃した。信長自害した。
1582天正壬午の乱織田信長の死去により武田旧領から織田軍が撤退し、空白地帯となった武田旧領を巡って徳川北条上杉が三つ巴で争った。
1585年粟ノ巣の変伊達氏に降伏した畠山義継が、前当主伊達輝宗を拉致した。追いかけた伊達軍により、輝宗ともども義継は討ち果たされた。
1591年九戸政実の乱南部晴政の死去に起因する後継争いか南部家臣・九戸政実が反乱を起こした。南部当主・信直は豊臣秀吉に救援を求め、諸大名軍により平定された。
1599年庄内の乱島津忠恒重臣伊集院忠棟を誅殺した。伊集院氏は籠城して徹底抗戦したが、秀吉死後に実権を握った徳川家康の調停により、最終的に降伏した。
1637年島原の乱島原天草苛政に耐えかねた領民が、旧領主に仕えていた浪人たちを中心として一揆を起こした。一揆勢は籠城して戦ったが、幕府軍鎮圧された。
1651年慶安の変軍学者由比正雪が、教え子の浪人たちと共に、幕府転覆計画をしていたが、事前に幕府側に露見して失敗した。由比正雪自決した。
1652年承応の変軍学者の別木庄左衛門が、仲間の浪人たちと共に、幕府転覆計画をしていたが、事前に幕府側に露見して失敗した。別木庄左衛門は磔にされた。
1837年大塩平八郎の乱腐敗した大坂町奉行所や、飢饉でも米を買い占める豪商失望した元・町与力大塩平八郎らが決起し、豪商などを襲撃した。半日鎮圧された。
1837年生田万の乱国学者生田万が、大塩平八郎の乱に感化され、仲間とともに越後桑名藩陣屋を襲撃したが、長岡藩によって鎮圧された。
1860年桜田門外の変攘夷派の水戸脱藩浪士たちが、安政の大獄引き起こし水戸藩を圧迫していた開国派の大老井伊直弼を襲撃し、暗殺した。
1862年坂下門外の変攘夷派の水戸脱藩浪士たちが、公武合体推し進めていた開国派の老中安藤信正を襲撃し、負傷させた。
1863年朔平門外の変破約攘夷派の公家代表格であった姉小路公知暗殺され、薩摩藩田中新兵衛逮捕されたが、新兵衛が自害したため真相不明
1863年天誅組の変尊攘派公家による倒幕計画に基づき、尊攘派の「天誅組」が大和国挙兵したが、幕府鎮圧された。同時に京では政変があり尊攘派公家が失脚した。
1863年生野の変長州支援を受けた尊攘派浪士らが、天誅組と同様に但馬国挙兵をしたが、幕府鎮圧された。
1864年天狗党の乱水戸藩内の尊攘過激派天狗党」が急進的な攘夷を求めて筑波山挙兵したが、幕府鎮圧された。この内乱により水戸藩の影響力は低下した。
1864年禁門の変前年の政変により京から追放されていた長州藩が、復権を目指して京で挙兵会津藩薩摩藩らと戦ったが敗れた。これにより長州征伐が決まった。
1874年喰違の変征韓論で失脚した不平士族たちが、征韓反対派の右大臣岩倉具視を恨みに思い襲撃、負傷させた。下手人らはすぐに逮捕され処刑された。
1874年佐賀の乱征韓論で失脚した江藤新平らが中心となって不平士族佐賀県挙兵したが、政府軍により鎮圧された。
1876年神風連の乱熊本県の不平士族が結成した「敬神党」が廃刀令への反発から挙兵したが、政府熊本鎮台軍により鎮圧された。
1876年秋月の乱神風連の乱呼応して、福岡県で不平士族挙兵したが、政府小倉鎮台軍により鎮圧された。
1876年萩の乱神風連の乱呼応して、山口県で不平士族挙兵したが、政府広島鎮台軍により鎮圧された。
1877年福岡の変西南戦争呼応して、福岡県で不平士族挙兵したが、福岡城に残っていた政府軍などに鎮圧された。
1878年紀尾井坂の変石川県の不平士族たちが、内務卿・大久保利通を襲撃、暗殺した。下手人らは自首し、処刑された。

Wikipediaで立項されているものだけまとめた。「〜の変」「〜の乱」という別称があっても、その呼称で立項されていなければ除外している)

明確な定義は決まっていないという前提で、だいたい以下のような基準だと思う。

〜の変:大きな戦闘を伴わない政変。謀反・暗殺粛清・失脚など。権力上下関係ない。成功たか失敗したか関係ない。

〜の乱:大きな戦闘を伴う内乱。反乱・暴動後継者争いなど。国家同士の戦争を指すことはほぼ無い。成功たか失敗したか関係ない。

こういった呼称は「絶対にいずれかに統一しなければならない」というものではないので、「これって乱というより変じゃね?」と思うような事件は、だいたい「変」「乱」どちらで呼んでも通じたりする。たとえば蘇我氏物部氏の戦いである「丁未の乱」は他に「丁未の変」や「丁未の役」とも呼ばれる。将軍足利義教暗殺された事件は、その暗殺の部分だけを見れば「嘉吉の変」と呼ばれ、その後の赤松討伐戦も含めれば「嘉吉の乱」と呼ばれる。

あとついでに。

〜の役:大規模な軍役。必然的辺境への遠征対外戦争が多い(がそれに限らない)。例として前九年の役後三年の役富山の役・文禄の役慶長の役など。

〜の陣:長期間の在陣。遠征戦線の膠着・包囲戦など。例として鈎の陣・志賀の陣・天正の陣・大坂の陣など。

という感じだと思う。「役」と「陣」はなんとなく互換性があり、「小田原の役・小田原の陣」「朝鮮の役・朝鮮の陣」「大坂の役・大坂の陣」などはどちらも用いられる。

2021-07-08

圧倒的な戦力差にも関わらず勝利善戦した戦い 2

前回のリストhttps://anond.hatelabo.jp/20210707223409字数制限に達したようなので、書ききれなかった分はここに付け足します。前回はたくさんのブックマークコメントありがとうございました。https://anond.hatelabo.jp/20210715114737も参照ください

古代

・第二次合肥の戦い

 214年 三国時代 曹操軍★7000vs孫権10

 孫権は自ら軍を率いて曹操軍の籠城する合肥城を攻める。しかし、張陵の奮戦に苦しめられた挙げ句、疫病の発生により撤退余儀なくされた。更に張陵に追討ちをかけられ、命からがら逃亡した。

中世

・沙苑の戦い

 537年 南北朝時代 ★西魏1万vs東魏20

 西魏軍は葦原に身を隠し、東魏軍の列が乱れたところを一斉攻撃する戦法で勝利した。東魏軍は6000名が捕らえられ、7万人が捕虜となった。

パリ包囲戦

 885~886年 ★西フランク王国200vsヴァイキング3万~4万

 西フランク王国首都パリヴァイキング大軍が包囲。フランク人達は1年にもわたる激しい抵抗を繰り広げ、やがてカール3世率いる援軍が到着したため、ヴァイキング撤退した

多々良浜の戦い

 1336年 南北朝建武の乱 ★足利1000vs菊池軍1万

 博多へ侵攻する菊池軍と足利尊氏が遭遇。菊池軍に離反者が相次ぎ、敗北した。

ベオグラード包囲戦

 1440年 ★ハンガリー軍3500vsオスマン軍3万~5万

 オスマン帝国はハンガリー王位を巡る内戦に乗じてセルビアへ侵攻、ベオグラードを包囲した。ハンガリー軍は5ヶ月に渡って抵抗し、これを退けた。

・クルヤ包囲戦

 1450年 オスマンアルバニア戦争 ★アルバニア8000vsオスマン10

 スカンデリベグ率いるアルバニア軍がオスマン帝国に包囲された。アルバニア軍は敵軍の補給を断ち、士気の低下と病気流行に苦しめられたトルコ軍撤退した。

近世

ベオグラード包囲戦

 1456年 ★ハンガリー軍4000vsオスマン軍3万~40万

 コンスタンティノープルを陥落させたトルコ軍は勢いに乗じて、ハンガリーへ侵攻するが、ベオグラード英雄フニャディ・ヤノーシュの活躍の前に敗れ去る。

・ヘミングステットの戦い

 1500年 ★ディットマルシェーン500~1000vsデンマーク軍1万2000

 ディットマルシェーンの農民達がカルマ同盟に対して反乱を起こす。農民達はバリケードを築き、土地を氾濫させたため、デンマーク軍は数的優位を活かせなかった上、大勢溺死したため、撤退した。

・ロドス包囲戦

 1522年 聖ヨハネ騎士団6700vs★オスマン帝国8万~12

 ロドス島支配する聖ヨハネ騎士団オスマン帝国が包囲。半年にも及ぶ激戦の末に騎士団降伏シチリア島へ移った。トルコ軍にも2000~5万の死傷者が出た

・クーセグ包囲戦

 1532年 ハンガリー軍700~800vsオスマン12万~20

 ウィーン遠征へ向かうトルコ軍ハンガリーの小さな町クーセグを包囲。貧弱な装備ながらも守備隊は25日間抵抗し続け、ハプスブルクの援軍を恐れたスレイマン1世撤退した。ハンガリー軍最後まで降伏しなかったという説と降伏を受け入れたが少数のトルコ人しか砦に入れなかったという説がある。

カステルヌーヴォ包囲戦

 1539年 スペイン軍3500vs★オスマン軍5万

 現モンテネグロの町カステルヌーヴォをバルバロス率いるトルコ軍が完全包囲。スペイン軍降伏勧告無視し、1ヶ月にも及ぶ激戦の末に100名を除いて全滅したが、トルコ軍8000から2万人が戦死した。

・アンドリエンの戦い

 1550年 アラウコ戦争 ★スペイン・ピウンチ連合軍500vsマプーチェ族2万人

 マプーチェ族はスペイン軍に夜襲を仕掛けるが、スペイン軍は警戒を怠らなかったため、返り討ちにされ、3000人が戦死した。

・エゲル包囲戦

 1552年 ★ハンガリー軍2000vsオスマン軍3万5000~4万

 イシドヴァーン・ドヴォ率いるハンガリー軍トルコ軍に包囲されるも、厚い防壁、イシドヴァーンのリーダーシップトルコ軍の内部対立に助けられ、防衛成功した。

マラッカ包囲戦

 1568年 ★ポルトガル軍数百vsアチェ軍1万5000

 アチェ王国ポルトガルからマラッカを奪還しようと大軍派遣し包囲するが、3000人以上の犠牲者を出して敗北した。

・ファマグスタの戦い

 1570年~1571年 オスマンヴェネツィア戦争 ヴェネツィア8500vs★オスマン10万~12

 キプロスクリスチャン最後の砦ファマグスタが1年近く激しい抵抗を繰り広げた後に降伏した。ヴェネツィア軍は7600人が戦死し、トルコ軍は1万~2万人が死傷した。当初トルコ軍は砦内のクリスチャン安全保証するもその約束反故にし、ヴェネツィア人たちを虐殺し、指揮官ブラガディンは耳と鼻を削がれた上、皮剥の刑に処された。

・英賀合戦 

 1577年 戦国時代中国攻め ★小寺軍500vs毛利軍5000

 織田寄りの小寺氏を討伐するため、毛利大軍派遣する。しかし、小寺軍は敵が上陸した直後を奇襲した。更に農民達に旗を挙げさせ、それを敵の援軍と勘違いした毛利は兵を引いた。

・クヴォダンスコの戦い

 1577年~1578年 クロアチア軍300vs★オスマン軍5000~1万 

 クロアチア都市クヴォダンスコをトルコ軍が包囲した。防衛軍は3ヶ月に渡って籠城し、3度の大規模な攻撃を退けた。守備隊が全員餓死若しくは凍死した後にトルコ軍は砦を占拠し、敵兵の遺体を手厚く葬った

・石城合戦7月) 

 1578年 ★伊東軍600vs島津軍7000

 伊東軍が建設した石城を島津軍が包囲する。しかし、石城は三方を急流、背後を険しい崖に覆われた天然の要塞であったため、島津は一度撤退した。伊東軍の死者10人に対し、島津軍は500人が死亡し、大将島津忠長も重傷を負った。2ヶ月後島津軍は1万人の大軍派遣して城を堕とした。

・ナジカニジャ包囲戦

 1601年 ★オスマン軍9000vsハプスブルク6万5000~10

 現ハンガリー都市ナジカニジャをハプスブルク大軍が包囲。オスマン軍は潤沢な物資があるように見せかけながら防衛戦を繰り広げ、73日目に奇襲攻撃を仕掛けた。これを敵の援軍と勘違いしたハプスブルクは軍を撤退させた。

・パバンカインドの戦い

 1660年 マラータ軍600vs★ビジャープル軍1万

 マラータ王国の台頭を警戒したビジャープル王国は討伐のために軍を派遣する。マラター軍はビジャープル軍の追撃から国王シヴァジーを逃がすため、狭い砦で命がけの戦いに挑んだ。この戦いで両軍とも兵力の半分を失ったが、シヴァジーは逃亡に成功した。

・ハドウの戦い

 1694年 ポーランドオスマン戦争 ★ポーランド軍400vsクリミア・ハン軍4万

 ポーランドポジーリャに侵入したタタール軍とポーランド軍が激突した。ポーランド軍は木製の柵で守りを固め、弾薬が尽きれば、モンゴル軍の矢を打ち返すなど奮戦し、撃退した。ポーランド軍の損害は100名足らずに対して、タタール軍は1万人以上であった。

アナントプルの戦い

 1700年 ★シク教1000vsムガル軍1万

 シク教の台頭を恐れたムガル帝国は討伐軍を派遣する。しかし、グル・ゴービンド率いるシク教徒たちに敗れる。

・ナフプリオ包囲戦

 1715年 ヴェネツィア軍4500vs★オスマン軍7万人

 現ギリシアの町ナフプリオをヴェネツィアトルコから奪還することに成功し、更にパラミディ要塞建設し、防衛強化に努めた。しかし、トルコ大軍に包囲され、1週間ほどで陥落し、住民達は虐殺されるか囚人として連行された。しかし、この戦いでトルコ軍8000人以上が戦死した。

・ガングワナの戦い

 1741年 マールワール軍1000vs★アンベールムガルバラプールなど連合軍1万~4万

 マルワール王国はアンベール王国戦争に敗れ賠償金土地要求されるが、国民が怒ったため、報復戦争を開始する。マールワール軍の騎兵ははアンベール軍を強襲し、蹴散らすものの、ムガル軍の砲撃によって敗北した。マールワール軍は全員が戦死するか負傷したが、連合軍12000人が負傷した。

近代

レイバー橋の戦い

 1855年 第二次フランス・トラルザ戦争 ★フランス軍14vsトラルザ軍1000人

 セネガルセントルイスを繋ぐレイバー橋をトラルザ軍が襲撃するも、14名の守備隊に撃退された。フランス軍は3名が負傷しただけであったが、トラルザ軍は127名が死傷した。

・第二次長州征伐

 1866年 ★長州軍3500vs江戸幕府10万5000

 江戸幕府将軍徳川家茂自ら軍を率いて長州討伐に出征する。しかし、西洋化が進められた長州の装備に苦しめられた挙げ句、家茂が病死したため、撤退した。

カブール英国居住地の包囲

 1879年 第二次アフガン戦争 イギリス軍75vs★アフガン2000

 カブール英国居住地に居たピエールカヴァナリ郷をアフガン人が襲撃した。護衛達は奮戦し、600人死傷させたが、2名を除いて戦死した。

・マイワンドの戦い

 1880年 第二次アフガン戦争 イギリス軍2500vs★アフガン軍2万5000

 アフガン人とイギリス軍が激突、数で勝るアフガン人が勝利を収めた。しかし、イギリス軍の死者1000人に対し、アフガン軍の死傷者は1万人以上と勝者の払った犠牲も大きかった。

・シャンガニ・パトロール

 1893年 第一次マタベレ戦争  イギリス南アフリカ会社37vs★マタベレ軍3000

 イギリス南アフリカ会社は現ジンバブエのマタベレ王ロベングラの逮捕のために軍を派遣するが、待ち伏せに遭い3名を除いて全滅した。しかし、マタベレも400~500名が戦死した。

サンファンデルモンテの戦い

 1896年 フィリピン革命 ★スペイン軍100vsカティナン800~1000

 マニラの東サンフアンフィリピン独立を求める秘密結社ティナン武装蜂起を起こすが、スペイン軍に敗れ撤退した。この戦いがフィリピン独立戦争の始まりとなった。

カカロン・デ・シリの戦い

 1897年 フィリピン革命 ★スペイン軍600vsフィリピン6000

 ブラカンフィリピン人がカカロン共和国設立宣言し、砦を築いた。スペイン軍は討伐軍を派遣し、砦を攻略した。反乱軍の残党達はスペインに対してゲリラ抵抗を続けることとなる。

・サラガリの戦い

 1897年 ティ作戦 イギリス領インド帝国軍21vs★パシトゥーン人1万人

 ティ地方アフガン人がイギリスに対して反乱を起こし、サラガリ駐在していたイギリス軍を襲った。イギリス軍は全滅したものの、アフガン人も450名が死傷した。

サンタ・クルス包囲戦 

 1898年 フィリピン革命 スペイン軍700vs★フィリピン軍1万

 ラグナスペイン軍最後拠点サンタ・クルスホセリサールの兄パシアノ・リサールが包囲した。スペイン軍は2ヶ月に及ぶ抵抗フィリピン軍に大損害を与えたが、降伏した。

・ベーラー包囲戦

 1898~1899年 フィリピン革命 スペイン軍50vs★フィリピン軍800

 教会に立て籠もったスペイン軍フィリピン人達が1年にわたって包囲する。スペイン軍フィリピン軍が700名の兵力を失う程激しく抵抗し続けたが、スペイン本国が敗れたことを知り投降した

現代

・ウェンギエルスカグルカの戦い

 1939年 第二次世界大戦ポーランド侵攻 ポーランド1200vs★ドイツ軍1万7000

 ドイツ軍ポーランド軍の防衛するウェンギエルスカグルカ村を通過する際にポーランド軍と2日間交戦する。ドイツ軍勝利したものの、多大な犠牲を強いられ、ポーランド軍の戦死者は7~20名、7名が処刑された。

・ヴェステルプラッッテの戦い

 1939年 第二次世界大戦ポーランド侵攻 ポーランド205vs★ドイツ軍2600

 ドイツ軍自由都市ダンツィヒのヴェステルプラッテ半島攻撃ポーランド軍は1週間に及ぶ激戦の末に降伏ポーランド軍の死傷者67名に対し、ドイツ軍の死傷者は300~400名であった。

ウィズナの戦い

 1939年 第二次世界大戦ポーランド侵攻 ポーランド軍350~700vs★ドイツ軍4万2000

 ドイツ軍ウィズナ村を通過した際にポーランド軍の激しい抵抗に苦しめられた。3日間の死闘ポーランド軍は壊滅したが、ドイツ軍も1400名の死傷者を出した。

ミルの戦い

 1940年 第二次世界大戦 オランダ侵攻 オランダ2000vs★ドイツ軍3万

 ドイツ軍ミル村を通過する際にオランダ軍の激しい抵抗に遭った。ドイツ軍勝利したが、500人以上が死傷し、オランダ軍は80人が死傷した。

・ソーミュールの戦い

 1940年 第二次世界大戦 フランス侵攻 フランス軍2500vs★ドイツ軍4万

 フランス軍の訓練生達がドイツ軍攻略に2日間抵抗した。フランス軍の死傷者250に対し、ドイツ軍の死傷者は400名で戦車も7両破壊された。訓練生達の勇気ドイツ軍指揮官クルト・フェルトですら賞賛した。この戦いはペタン元帥停戦呼びかけの後に行われたため、最初レジスタンスであるとされる。

・ニリムの戦い 

 1948年 パレスチナ戦争 ★イスラエル軍39~45(内12女性)vsエジプト軍500~800

 イスラエルキブツ共同体)ニリムエジプト軍が包囲した。エジプト軍装甲車航空機などの支援を受けて攻撃したが、イスラエル軍の防御を突破できず撤退した。

・3234高地の戦い

 1988年 ソ連アフガン侵攻 ★ソ連軍39vsムジャヒディーン、パキスタン軍450~650

 3234高地配備されたソ連空挺隊がムジャヒディーンの襲撃を受けた。ソ連軍は34名の死傷者を出しながらも200名以上を殺害し、撃退した。

・ヴコヴァルの戦い

 1991年 クロアチア紛争ユーゴスラヴィア紛争 クロアチア軍1800vs★ユーゴスラヴィア・SAO36000

 クロアチア東部都市コヴァルをユーゴスラヴィア軍が87日間にわたって包囲した。クロアチア軍は大半が死傷し、多くの民間人虐殺追放されたが、ユーゴスラヴィア軍も3600人が死傷し、戦車武装車両1100両以上と航空機3機が破壊された。

2021-06-28

なんで慶喜天皇にへこへこしてるんじゃ

先祖公家諸法度出して天皇にも平然と指図するような身分だったのに

いったい何がどうなって徳川天皇に下手に出てるんじゃ

どうして一度は本心でない長州征伐を断れなかっんだ

2019-05-02

anond:20190501125643

それに、大阪冬の陣/夏の陣も江戸時代だし、島原の乱とか大塩平八郎の乱とか一向一揆とかあったし、他にも百姓一揆の類はたっぷり

さらには、長州征伐戊辰戦争などの幕末期の一連の戦争もあった。

それでも、江戸時代に先立つ戦国時代と比べれば遥かに平和だったということは出来るということでしょうね。

そもそも平和などという概念相対的ものに過ぎないわけですから

 
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