はてなキーワード: 普遍性とは
怒りであれ悲しみであれ喜びであれ、そもそも普遍性のない「感情」に「基準」など存在しない。
どんな事柄においても、それをどう捉えるかの基準は個人個人で全く異なるからだ。
カダフィの死が世界一律で悲しまれたり喜ばれたりしている訳ではないように、全ての感情には人間の数だけの背景と判断がある。
だから裁判においても「何人殺したら懲役何年」という決まりなどはない。個人個人の背景や状況で個別判断されるのだ。
故にここでの元増田の「自分の感情は基準に沿ったものか」という問いは、あらゆる意味で虚しい。
ここで元増田が得られるのはせいぜい数値的、人数的な統計だけで、それが元増田の正しさの証左になることはない。
基準のないものに多数決を取ったところで何の証明にもならないからだ。
ここのログを誰かに見せ、俺の感情は正しいと主張したところで、その人に「こいつ下品だな」と思われたらその評価は覆せない。
元増田が件の店に悪感情を抱けば狼藉を働くことも自由だと思っているのなら、誰かが元増田の行動に悪感情を抱いて蔑み否定する自由もまた認めなくてはならないからだ。
元増田は、「俺が裏切られた怒りはちゃぶ台返しに匹敵する」と思っているのだろう。「俺の怒りは、店員がこの食べ物をモップで片付けて綺麗にする手間とその時給、この食べ物の収穫から調理までの全コスト破棄、この惨状を見た相手と周囲の客の不快な気分、そしてそれを起こした自分に与えられる周囲のあらゆるマイナス評価、それら全ての合算よりもなお尊い」という主張だ。
これに対して、「フェア」に徹するならば誰もがこう答えるしかない。
「お前が公正だと思うんならそうなんだろう。お前の中ではな」
第1章 有限オートマトン D.Perrin:橋口攻三郎 1. 序論 2. 有限オートマトンと認識可能集合 3. 有理表現 4. Kleeneの定理 5. 星の高さ 6. 星自由集合 7. 特殊なオートマトン 8. 数の認識可能集合 第2章 文脈自由言語 J.Berstel and L.Boasson:富田 悦次 1. 序論 2. 言語 2.1 記法と例 2.2 Hotz 群 2.3 曖昧性と超越性 3. 反復 3.1 反復補題 3.2 交換補題 3.3 退化 4. 非生成元の探求 4.1 準備 4.2 生成元 4.3 非生成元と代入 4.4 非生成元と決定性 4.5 主錐の共通部分 5. 文脈自由群 5.1 文脈自由群 5.2 Cayleyグラフ 5.3 終端 第3章 形式言語とべき級数 A.Salomaa:河原 康雄 1. 序論 2. 準備 3. 書換え系と文法 4. Post正準系 5. Markov系 6. 並列書換え系 7. 射と言語 8. 有理べき級数 9. 代数的べき級数 10. べき級数の応用 第4章 無限の対象上のオートマトン W.Thomas:山崎 秀記 序論 Ⅰ部 無限語上のオートマトン 記法 1. Buchiオートマトン 2. 合同関係と補集合演算 3. 列計算 4. 決定性とMcNaughtonの定理 5. 受理条件とBorelクラス 6. スター自由ω言語と時制論理 7. 文脈自由ω言語 Ⅱ部 無限木上のオートマトン 記法 8. 木オートマトン 9. 空問題と正則木 10. 補集合演算とゲームの決定性 11. 木の単項理論と決定問題 12. Rabin認識可能な集合の分類 12.1 制限された単項2階論理 12.2 Rabin木オートマトンにおける制限 12.3 不動点計算 第5章 グラフ書換え:代数的・論理的アプローチ B.Courcelle:會澤 邦夫 1. 序論 2. 論理言語とグラフの性質 2.1 単純有向グラフの類S 2.2 グラフの類D(A) 2.3 グラフの性質 2.4 1階のグラフの性質 2.5 単項2階のグラフの性質 2.6 2階のグラフの性質 2.7 定理 3. グラフ演算とグラフの表現 3.1 源点付きグラフ 3.2 源点付き超グラフ 3.3 超グラフ上の演算 3.4 超グラフの幅 3.5 導来演算 3.6 超辺置換 3.7 圏における書換え規則 3.8 超グラフ書換え規則 4. 超グラフの文脈自由集合 4.1 超辺置換文法 4.2 HR文法に伴う正規木文法 4.3 超グラフの等式集合 4.4 超グラフの文脈自由集合の性質 5. 超グラフの文脈自由集合の論理的性質 5.1 述語の帰納的集合 5.2 論理構造としての超グラフ 5.3 有限超グラフの可認識集合 6. 禁止小グラフで定義される有限グラフの集合 6.1 小グラフ包含 6.2 木幅と木分解 6.3 比較図 7. 計算量の問題 8. 無限超グラフ 8.1 無限超グラフ表現 8.2 無限超グラフの単項性質 8.3 超グラフにおける等式系 8.4 関手の初期不動点 8.5 超グラフにおける等式系の初期解 8.6 等式的超グラフの単項性質 第6章 書換え系 N.Dershowitz and J.-P.Jouannaud:稲垣 康善,直井 徹 1. 序論 2. 構文論 2.1 項 2.2 等式 2.3 書換え規則 2.4 決定手続き 2.5 書換え系の拡張 3. 意味論 3.1 代数 3.2 始代数 3.3 計算可能代数 4. Church-Rosser性 4.1 合流性 4.2 調和性 5. 停止性 5.1 簡約順序 5.2 単純化順序 5.3 経路順序 5.4 書換え系の組合せ 6. 充足可能性 6.1 構文論的単一化 6.2 意味論的単一化 6.3 ナローイング 7. 危険対 7.1 項書換え 7.2 直交書換え系 7.3 類書換え 7.4 順序付き書換え 7.5 既約な書換え系 8. 完備化 8.1 抽象完備化 8.2 公平性 8.3 完備化の拡張 8.4 順序付き書換え 8.5 機能的定理証明 8.6 1階述語論理の定理証明 9. 書換え概念の拡張 9.1 順序ソート書換え 9.2 条件付き書換え 9.3 優先度付き書換え 9.4 グラフ書換え 第7章 関数型プログラミングとラムダ計算 H.P.Barendregt:横内 寛文 1. 関数型計算モデル 2. ラムダ計算 2.1 変換 2.2 計算可能関数の表現 3. 意味論 3.1 操作的意味論:簡約と戦略 3.2 表示的意味論:ラムダモデル 4. 言語の拡張 4.1 デルタ規則 4.2 型 5. 組合せ子論理と実装手法 5.1 組合せ子論理 5.2 実装の問題 第8章 プログラミング言語における型理論 J.C.Mitchell:林 晋 1. 序論 1.1 概論 1.2 純粋および応用ラムダ計算 2. 関数の型をもつ型付きラムダ計算 2.1 型 2.2 項 2.3 証明系 2.4 意味論と健全性 2.5 再帰的関数論的モデル 2.6 領域理論的モデル 2.7 カルテシアン閉圏 2.8 Kripkeラムダモデル 3. 論理的関係 3.1 はじめに 3.2 作用的構造上の論理的関係 3.3 論理的部分関数と論理的同値関係 3.4 証明論的応用 3.5 表現独立性 3.6 論理的関係の変種 4. 多相型入門 4.1 引数としての型 4.2 可述的な多相的計算系 4.3 非可述的な多相型 4.4 データ抽象と存在型 4.5 型推論入門 4.6 型変数をもつλ→の型推論 4.7 多相的宣言の型推論 4.8 他の型概念 第9章 帰納的な関数型プログラム図式 B.Courcelle:深澤 良彰 1. 序論 2. 準備としての例 3. 基本的な定義 3.1 多ソート代数 3.2 帰納的な関数型プログラム図式 3.3 同値な図式 4. 離散的解釈における操作的意味論 4.1 部分関数と平板な半順序 4.2 離散的解釈 4.3 書換えによる評価 4.4 意味写像 4.5 計算規則 5. 連続的解釈における操作的意味論 5.1 連続代数としての解釈 5.2 有限の極大要素と停止した計算 6. 解釈のクラス 6.1 汎用の解釈 6.2 代表解釈 6.3 解釈の方程式的クラス 6.4 解釈の代数的クラス 7. 最小不動点意味論 7.1 最小で唯一の解を得る不動点理論 7.2 Scottの帰納原理 7.3 Kleeneの列と打切り帰納法 8. プログラム図式の変換 8.1 プログラム図式における同値性の推論 8.2 畳込み,展開,書換え 8.3 制限された畳込み展開 9. 研究の歴史,他の形式のプログラム図式,文献ガイド 9.1 流れ図 9.2 固定された条件をもつ一様な帰納的関数型プログラム図式 9.3 多様な帰納的関数型プログラム図式 9.4 代数的理論 9.5 プログラムの生成と検証に対する応用 第10章 論理プログラミング K.R.Apt:筧 捷彦 1. 序論 1.1 背景 1.2 論文の構成 2. 構文と証明論 2.1 1階言語 2.2 論理プログラム 2.3 代入 2.4 単一化子 2.5 計算過程―SLD溶融 2.6 例 2.7 SLD導出の特性 2.8 反駁手続き―SLD木 3. 意味論 3.1 1階論理の意味論 3.2 SLD溶融の安全性 3.3 Herbrand模型 3.4 直接帰結演算子 3.5 演算子とその不動点 3.6 最小Herbrand模型 3.7 SLD溶融の完全性 3.8 正解代入 3.9 SLD溶融の強安全性 3.10 手続き的解釈と宣言的解釈 4. 計算力 4.1 計算力と定義力 4.2 ULの枚挙可能性 4.3 帰納的関数 4.4 帰納的関数の計算力 4.5 TFの閉包順序数 5. 否定情報 5.1 非単調推論 5.2 閉世界仮説 5.3 失敗即否定規則 5.4 有限的失敗の特徴付け 5.5 プログラムの完備化 5.6 完備化の模型 5.7 失敗即否定規則の安全性 5.8 失敗即否定規則の完全性 5.9 等号公理と恒等 5.10 まとめ 6. 一般目標 6.1 SLDNF-溶融 6.2 SLDNF-導出の安全性 6.3 はまり 6.4 SLDNF-溶融の限定的な完全性 6.5 許容性 7. 層状プログラム 7.1 準備 7.2 層別 7.3 非単調演算子とその不動点 7.4 層状プログラムの意味論 7.5 完全模型意味論 8. 関連事項 8.1 一般プログラム 8.2 他の方法 8.3 演繹的データベース 8.4 PROLOG 8.5 論理プログラミングと関数プログラミングの統合 8.6 人工知能への応用 第11章 表示的意味論 P.D.Mosses:山田 眞市 1. 序論 2. 構文論 2.1 具象構文論 2.2 抽象構文 2.3 文脈依存構文 3. 意味論 3.1 表示的意味論 3.2 意味関数 3.3 記法の慣例 4. 領域 4.1 領域の構造 4.2 領域の記法 4.3 記法上の約束事 5. 意味の記述法 5.1 リテラル 5.2 式 5.3 定数宣言 5.4 関数の抽象 5.5 変数宣言 5.6 文 5.7 手続き抽象 5.8 プログラム 5.9 非決定性 5.10 並行性 6. 文献ノート 6.1 発展 6.2 解説 6.3 変形 第12章 意味領域 C.A.Gunter and D.S.Scott:山田 眞市 1. 序論 2. 関数の帰納的定義 2.1 cpoと不動点定理 2.2 不動点定理の応用 2.3 一様性 3. エフェクティブに表現した領域 3.1 正規部分posetと射影 3.2 エフェクティブに表現した領域 4. 作用素と関数 4.1 積 4.2 Churchのラムダ記法 4.3 破砕積 4.4 和と引上げ 4.5 同形と閉包性 5. べき領域 5.1 直観的説明 5.2 形式的定義 5.3 普遍性と閉包性 6. 双有限領域 6.1 Poltkin順序 6.2 閉包性 7. 領域の帰納的定義 7.1 閉包を使う領域方程式の解法 7.2 無型ラムダ記法のモデル 7.3 射影を使う領域方程式の解法 7.4 双有限領域上の作用素の表現 第13章 代数的仕様 M.Wirsing:稲垣 康善,坂部 俊樹 1. 序論 2. 抽象データ型 2.1 シグニチャと項 2.2 代数と計算構造 2.3 抽象データ型 2.4 抽象データ型の計算可能性 3. 代数的仕様 3.1 論理式と理論 3.2 代数的仕様とその意味論 3.3 他の意味論的理解 4. 単純仕様 4.1 束と存在定理 4.2 単純仕様の表現能力 5. 隠蔽関数と構成子をもつ仕様 5.1 構文と意味論 5.2 束と存在定理 5.3 隠蔽記号と構成子をもつ仕様の表現能力 5.4 階層的仕様 6. 構造化仕様 6.1 構造化仕様の意味論 6.2 隠蔽関数のない構造化仕様 6.3 構成演算 6.4 拡張 6.5 観測的抽象化 6.6 構造化仕様の代数 7. パラメータ化仕様 7.1 型付きラムダ計算によるアプローチ 7.2 プッシュアウトアプローチ 8. 実現 8.1 詳細化による実現 8.2 他の実現概念 8.3 パラメータ化された構成子実現と抽象化子実現 8.4 実行可能仕様 9. 仕様記述言語 9.1 CLEAR 9.2 OBJ2 9.3 ASL 9.4 Larch 9.5 その他の仕様記述言語 第14章 プログラムの論理 D.Kozen and J.Tiuryn:西村 泰一,近藤 通朗 1. 序論 1.1 状態,入出力関係,軌跡 1.2 外的論理,内的論理 1.3 歴史ノート 2. 命題動的論理 2.1 基本的定義 2.2 PDLに対する演繹体系 2.3 基本的性質 2.4 有限モデル特性 2.5 演繹的完全性 2.6 PDLの充足可能性問題の計算量 2.7 PDLの変形種 3. 1階の動的論理 3.1 構文論 3.2 意味論 3.3 計算量 3.4 演繹体系 3.5 表現力 3.6 操作的vs.公理的意味論 3.7 他のプログラミング言語 4. 他のアプローチ 4.1 超準動的論理 4.2 アルゴリズム的論理 4.3 有効的定義の論理 4.4 時制論理 第15章 プログラム証明のための手法と論理 P.Cousot:細野 千春,富田 康治 1. 序論 1.1 Hoareの萌芽的な論文の解説 1.2 C.A.R.HoareによるHoare論理のその後の研究 1.3 プログラムに関する推論を行うための手法に関するC.A.R.Hoareによるその後の研究 1.4 Hoare論理の概観 1.5 要約 1.6 この概観を読むためのヒント 2. 論理的,集合論的,順序論的記法 3. プログラミング言語の構文論と意味論 3.1 構文論 3.2 操作的意味論 3.3 関係的意味論 4. 命令の部分正当性 5. Floyd-Naurの部分正当性証明手法とその同値な変形 5.1 Floyd-Naurの手法による部分正当性の証明の例 5.2 段階的なFloyd-Naurの部分正当性証明手法 5.3 合成的なFloyd-Naurの部分正当性証明手法 5.4 Floyd-Naurの部分正当性の段階的な証明と合成的な証明の同値性 5.5 Floyd-Naurの部分正当性証明手法の変形 6. ライブネスの証明手法 6.1 実行トレース 6.2 全正当性 6.3 整礎関係,整列集合,順序数 6.4 Floydの整礎集合法による停止性の証明 6.5 ライブネス 6.6 Floydの全正当性の証明手法からライブネスへの一般化 6.7 Burstallの全正当性証明手法とその一般化 7. Hoare論理 7.1 意味論的な観点から見たHoare論理 7.2 構文論的な観点から見たHoare論理 7.3 Hoare論理の意味論 7.4 構文論と意味論の間の関係:Hoare論理の健全性と完全性の問題 8. Hoare論理の補足 8.1 データ構造 8.2 手続き 8.3 未定義 8.4 別名と副作用 8.5 ブロック構造の局所変数 8.6 goto文 8.7 (副作用のある)関数と式 8.8 コルーチン 8.9 並行プログラム 8.10 全正当性 8.11 プログラム検証の例 8.12 プログラムに対して1階論理を拡張した他の論理 第16章 様相論理と時間論理 E.A.Emerson:志村 立矢 1. 序論 2. 時間論理の分類 2.1 命題論理 対 1階述語論理 2.2 大域的と合成的 2.3 分岐的 対 線形 2.4 時点と時区間 2.5 離散 対 連続 2.6 過去時制 対 未来時制 3. 線形時間論理の技術的基礎 3.1 タイムライン 3.2 命題線形時間論理 3.3 1階の線形時間論理 4. 分岐的時間論理の技術的基礎 4.1 樹状構造 4.2 命題分岐的時間論理 4.3 1階の分岐的時間論理 5. 並行計算:その基礎 5.1 非決定性と公平性による並列性のモデル化 5.2 並列計算の抽象モデル 5.3 並列計算の具体的なモデル 5.4 並列計算の枠組みと時間論理の結び付き 6. 理論的見地からの時間論理 6.1 表現可能性 6.2 命題時間論理の決定手続き 6.3 演繹体系 6.4 モデル性の判定 6.5 無限の対象の上のオートマトン 7. 時間論理のプログラムの検証への応用 7.1 並行プログラムの正当性に関する性質 7.2 並行プログラムの検証:証明論的方法 7.3 時間論理による仕様からの並行プログラムの機械合成 7.4 有限状態並行システムの自動検証 8. 計算機科学における他の様相論理と時間論理 8.1 古典様相論理 8.2 命題動的論理 8.3 確率論理 8.4 不動点論理 8.5 知識 第17章 関係データベース理論の構成要素 P.C.Kanellakis:鈴木 晋 1. 序論 1.1 動機と歴史 1.2 内容についての案内 2. 関係データモデル 2.1 関係代数と関係従属性 2.2 なぜ関係代数か 2.3 なぜ関係従属性か 2.4 超グラフとデータベーススキーマの構文について 2.5 論理とデータベースの意味について 3. 従属性とデータベーススキーマ設計 3.1 従属性の分類 3.2 データベーススキーマ設計 4. 問合わせデータベース論理プログラム 4.1 問合わせの分類 4.2 データベース論理プログラム 4.3 問合わせ言語と複合オブジェクトデータモデル 5. 議論:関係データベース理論のその他の話題 5.1 不完全情報の問題 5.2 データベース更新の問題 6. 結論 第18章 分散計算:モデルと手法 L.Lamport and N.Lynch:山下 雅史 1. 分散計算とは何か 2. 分散システムのモデル 2.1 メッセージ伝達モデル 2.2 それ以外のモデル 2.3 基礎的概念 3. 分散アルゴリズムの理解 3.1 挙動の集合としてのシステム 3.2 安全性と活性 3.3 システムの記述 3.4 主張に基づく理解 3.5 アルゴリズムの導出 3.6 仕様記述 4. 典型的な分散アルゴリズム 4.1 共有変数アルゴリズム 4.2 分散合意 4.3 ネットワークアルゴリズム 4.4 データベースにおける並行性制御 第19章 並行プロセスの操作的および代数的意味論 R.Milner:稲垣 康善,結縁 祥治 1. 序論 2. 基本言語 2.1 構文および記法 2.2 操作的意味論 2.3 導出木と遷移グラフ 2.4 ソート 2.5 フローグラフ 2.6 拡張言語 2.7 その他の動作式の構成 3. プロセスの強合同関係 3.1 議論 3.2 強双模倣関係 3.3 等式による強合同関係の性質 3.4 強合同関係における置換え可能性 3.5 強等価関係上での不動点の唯一性 4. プロセスの観測合同関係 4.1 観測等価性 4.2 双模倣関係 4.3 観測合同関係 4.4 プロセス等価性上での不動点の唯一性 4.5 等式規則の完全性 4.6 プロセスの等価性に対するその他の概念 5. 双模倣等価関係の解析 5.1 等価性の階層構造 5.2 階層構造の論理的特性化 6. 合流性をもつプロセス 6.1 決定性 6.2 合流性 6.3 合流性を保存する構成子 7. 関連する重要な文献
>根拠が幻想だからといってそこに実際に心情(例えば自分自身の愛国心はこれに含まれます)が生じてしまっている以上、その心情をを特に否定する必要も無い、という話です。ただ(例えば)「自分の愛国心」のようなものに普遍性のある根拠を見いだせない以上、それを喧伝するような行動に対しては非常に腰が重くなっていることを否定できません。
なるほどなるほど。政治学をやるとそうなるのですね。あなたはこの学問からアイデンティティ形成において強く影響を受けているものとお見受けしました。
学ぶほどに客観的な事実(普遍的根拠のなさ)のなかで主観的心情の確立というのは難しくなっていくのでしょうね。
そこで落ち着くのは功利主義かー。
俺はどう行動すべきなんだー。主観的心情の問題なのでしょうね。そこが分かって少しはましになったかな?
国民国家は歴史的経緯から必然的に発生した一つの形式ではありますが、一種の虚構でもあります。
「愛国心」というものは愛郷心、民族主義、集団利害等がない交ぜになった幻想の産物です。
ただし幻想だからと言って、それに価値がないわけではありません。価値などというものは普遍的な物差しがあるわけでは無く、それを信じればそこに価値が生じる物です。
根拠が幻想だからといってそこに実際に心情(例えば自分自身の愛国心はこれに含まれます)が生じてしまっている以上、その心情をを特に否定する必要も無い、という話です。ただ(例えば)「自分の愛国心」のようなものに普遍性のある根拠を見いだせない以上、それを喧伝するような行動に対しては非常に腰が重くなっていることを否定できません。
政治学がなかなか表に出てこない(そもそも政治学部や政治学者が少ないというのもあるでしょうが)のは、この辺の政治学徒共通の腰の重さもあるのでは無いかと睨んでいますw 政治学が出せる答えは基本的に「こういう状況で、あんな目標なら、こうすればいい」というところまでです。ところが世間で議論の俎上に載るのは主に「現状をどうみるか(状況)」と「どこを目指すべきなのか?(目標)」の話なので、政治学はそこについてはたいてい回答を持ち合わせません(正確には「客観的に決定出来る物では無い」という回答を持っています)ので。
実際に受け入れてる地域があるわけですから「補助金でバランスが取れている」という考え方もあるのではないでしょうか。
個人的には、貴方の認識がそんなに間違っているとは思いませんし、今のバランスは傾きすぎだと思いますが。
自分が言いたいのは「(個人的には共感しますが)ただしその認識は普遍性があるものではないですよ」ということです。
「少数者の犠牲があっても最大多数の最大幸福を優先」は一つの論理です。「少数の犠牲やむなし」という考え方で、
僕は芸術性というのは第一原理的なモノが必ず作用している、つまり普遍性を伴っていると考えている。
それゆえに時代性、歴史性を考慮した作品評価は商業的にはありだけど、芸術的に評価するのはどうかと思っているよ。
本当に芸術であれば全時代的に、マーケットに左右されず評価されるはずだし、そうじゃない作品はいくら御託を並べたところでそれは商業だ。
どこの石原慎太郎だよ。
そりゃあ楊逸さんをただの風俗小説と切り捨てるのと同じじゃないか。
元増田だけど
僕は芸術性というのは第一原理的なモノが必ず作用している、つまり普遍性を伴っていると考えている。
それゆえに時代性、歴史性を考慮した作品評価は商業的にはありだけど、芸術的に評価するのはどうかと思っているよ。
本当に芸術であれば全時代的に、マーケットに左右されず評価されるはずだし、そうじゃない作品はいくら御託を並べたところでそれは商業だ。
研究って言っても、最近の工学部だったらメディアアートばっかり流行って娼婦みたいな自称研究者ばかりだしそういうくくりだと研究をクリエイティビティとは思えないね。
理学分野でも日本の科学者は科哲の教養が無いから、実際に何を研究しているのか理解していない。
小室さんはその辺が理解できてたけど、彼がアカデミックで異端であり続けたことはつまりもう日本のクリエイティブのあるアカデミズムは死んでるんだと思うよ。
流れというか流行と偉い人の意向に沿って、働きアリをすることがアートか?
たとえばそういう彼らがいくら新しい発見をしたところで、それは偶然買った宝くじが当たったくらいの価値しかなくて、一過性のモノでクリエイティビティとは言えないと思うよ。
おおむね正しいかと思ったけど、作品の評価ができない者が大勢ではない。
賞が打算で授与されるのは否定しないけど、節穴の意見と打算だけで芸術作品の評価が決まるわけではない。
なんだかいろいろ見えすぎてて、すかして物事を見てしまって逆に本質が見えてないな。
俺から言われても、プwって思うだけなんだろうけど。
知り合いに研究者がいて? 姉が医者で? 弟が弁護士で? 芸術家と話し合ってことがあって? それで何をわかったの?
言葉をかわしただけでもうその世界がわかった気になってるのは増田じゃないですか。
ああ、それ知ってる知ってる、で表面だけで終わらせて、何も真剣に考えてこなかったのが丸見えじゃないか。
芸術なんて金持ちの権威のためにしかなくてそもそも存在し得ないかのような言い方だぞ。
現代の作家の評価を現代にするのがおかしいって意見もナンセンス極まりない。
他者の意見がないと物事の良し悪しを評価できないって論理がひどいし、普遍性が芸術で最重要の要素ではないし、カウンターカルチャーのレベルが低いとするのもナンセンス。
最初は、そうねそうねと思って読んでたけど、やっぱり増田さんも全然わかってないわ。
クリエイティビティが作家論ととられてしまっていたのなら失礼。
言いたかったのはその作品が存在することとなった作品内にあるモチベーションで、完全に作者は死んでいて構わない。(今生きてる死んでるって意味じゃもちろんないよ)
高橋源一郎も言ってるけどね。
間違いないわ。
すかして達観してるやつがわかるわけがない。
動かしてる仕事のてっぺんにいるからわかりやすいからそう言っただけ。
わかること
1.いいなと思う人と話したり遊んだりしたい欲はあって(これは男女関係無い)
2.肉体的な性欲もあって(女にだけ)
3.独占欲もある(女にだけ)
わからないこと
・感情の支配力の強さ(「その人のことばかり考えてしまう」「会えなくて寂しい」)
・「人としての魅力」とも「肉体的な性欲」とも違う「異性としての魅力」というモノ(性格に関して「理想の男」と「理想の女」に差がない。「弱さを守ってあげたい」とかない)
・好きな人とエロいことしたい気持ち(性欲と好き嫌い関係ない。人としてどうかと思うAV嬢ともエロいことしたい)
1.2.3が全部一人に向かったら「恋愛」って呼んじゃっていいんだろうか。
なんか違うきがするんだよなー。
他人の感情のもちかたと自分のが違うなんて不思議なことじゃないし、
メディアの中で見た「恋愛」のかたちにひきずられすぎと言われればそうかもしれない。
でも、世界を見ても歴史を見ても、「恋愛」っていうのがあるていど普遍性をもってるように思えて
「他人は他人!」と割り切れない。
俺のやり方
教科書はほとんど使うな。よっぽどのときサポート用として使え。辞書みたいなもんだ。
きったーなーい字でいいから超スピードで書け。書きながら授業中感じたことがあればそれも書くんだ。「そうだったのか!」とか。
その日の終わりにそのきたなーいノートを別のノートにきれいに書きなおせ。このとき構成も工夫しれ。感想がさらに浮かべば追記しれ。分からない字が出てくるから授業を必死で思い出せ。この作業が記憶の強化につながる。
週末、きれいなノートを読み返しながら、赤で添削したり関係あるとこを棒でつないだり四角で囲んだりしれ。感想があればさらに追記しれ。
これで記憶の量と質が両立できる。授業中猛スピードで先生が言葉でしゃべることをメモっていくことで量を確保。そして人間は記憶が失われるタイミングの直前に見直すと忘れないという法則があって、そのタイミングが「その日の終わり」「数日後」の2回なのだ。そこで最初に記憶が消えるタイミングを清書にあて、次のタイミングを添削に当てる。
このルーチンワークでかなりの成績は保証できる。そこから先は工夫と才能しだい。
なぜ、感想記入が大事かというと、ノートとは、授業内容の情報としての記録では決してなく、自分が受けた授業の日記なのだ。日記として思い出すためのツールなのだ。
君が他人の3年前の日記を読んだとしても、あまりその情景は浮かんでこないだろう。しかし自分が書いた3年前の日記ならバーっと思い出すことも多いと思う。なぜなら、君が書いた日記は君の体験が書いてあるからだ。実際に体験していることが書いてあるから思い出せる。同じ情報量でも実際に体験してないことは思い出せない。だから授業という体験をノートに書き込むことによって、そのときの気分や感覚(納得いったときの感じとか、さっぱりわからなかったときの感じとか)を思い出し、それによってそのときの情報まで思い出してしまえるのがこの日記的ノートの利点なんだ。
※独学のときは(独学自体をあまりおすすめしないが)、問題集を使おう。
まず問題集をいきなりやってみる。全然できないと思う。でも一生懸命考えることは重要。で、一回終わったら答えと解説を見る。そして、その解説を授業だと思って、ノートに書く。この際、丸写しは難しいはずだ。なぜならある問題に関する解説だから、普遍性にやや劣る。そこで、君がその特化された解説を普遍的な知識(やり方)のように構成しなおし、ノートに記録していく。このとき感想記入も忘れずに。そして週末に赤で添削。
このようにして一回最後までやったら、もう一度最初からやる。ある程度できるようになってるはず。2回目やりながら足りないとこを追記してもいい。そして、満点だった項目はOKとして、できなかった項目だけ3回目やろう。このようにして万点取れた項目を減らしていけば、3回目から5回目には全制覇してると思う。それでその問題集は終わりだ。その分の力はついてる。
※勉強を家でやろうと思わない方がいいよ。喫茶店とかの、どっか身の回りに誘惑がない環境を探して、毎日そこで30分なり1時間なりやる習慣にしたほうがいい。
※このやり方のメリットは、やり方について悩まなくてよくなることなんだ。決まったことを毎日やるだけ。やることの量は多いんだけど、やり方について考えずにどんどんやれるからある意味効率的。
ライフハックの類を読むと必ずといっていいほど「インプットだけでなくアウトプットも」という主張が折り込まれている。アウトプットすればするほど、思考が研磨されてされ視野が広がり物事に対する捉え方が深まっていくのだ、という過激な主張をする人間も中にはいる。とても甘美な考え方だ。今の自分に満足していない人間ほどこの思想に転んでしまうだろう。
しかし、よく考えてみてほしい。果たして「成長」とはそんな単純なものだろうか。「アウトプットすればするほど」は素朴な「経験値主義」に基づいている。「経験値主義」とは何か。ファミコンゲーム『ドラゴンクエスト』の主人公を思い浮かべてほしい。彼は王さまの特命を受け、世の中を悪に染めようとする竜王を倒さんと旅に出る。しかし、旅立つ時点で彼は完璧な「超人」ではない。武器は何も持っておらず、レベルは1。下手をすると城の周りをうろついている最弱モンスターにすら撲殺されてしまう。それを防ぎ、竜王を討伐するために彼はいったい何をするか。モンスターをひたすら倒し、経験値を得てレベルアップを計っていくのだ。ここではどのような戦術を取るか、どうやって鍛えあげるかといった内容は問われない。ただ数をこなしてモンスターを倒すことが成長へのロードマップなのである。このように「超人」になるには「数をこなすだけでいい」という「成長」を極めて単純化した思想を「経験値主義」と呼ぶ。『新書がベスト』の「とにかく新書を読みまくれ」という小飼弾の主張もこの範疇の中に入る。
だが、現実は成長をこのように単純化できない。ただ素振りをしまくるだけではイチローは生まれないし、本を読みまくっただけでは立花隆にはなれない。アウトプットも同様だ。現代の女子高生は毎日何通も携帯メールを用いてアウトプットをしている。しかし、彼女らの国語力が上がったなんて話は出てこない。むしろ、事態は逆の方向に向かっている。彼女らの打つ文面はどんどん奇形化し、普遍性をなくし、当人らでしか読み解けない内容へと進化を続けている。アウトプットの仕方によって人はどんどん劣化していくという一つの事例である。
現在はブログの登場によって容易にアウトプットする場を手に入れることができる。経験値主義者たちもブログでのアウトプットを称揚する。勝間和代がその一人である。彼女のブログ名はずばり『私的な事柄を記録しよう』である。タイトルからして素朴な経験値主義が顔をのぞかせている。日々、インプットをしたものを咀嚼し、ブログという場所に発表することによって考え方が整理され、思考が洗練されていくというものだ。気をつけろ、これは罠だ。考えを文章に落としこむことは整理とイコールではない。「私はこう考えた」と思考を凝り固めることだ。「私はこう書いたんだからこういう考え方でこういう人間である」と視野を狭くし、新たな扉を閉ざしていく。あとからの修正ができなくなってしまう。様々な視点を取り入れ、ごちゃまぜにし、意外な繋がりを持って発展を見せる……それこそが思考の洗練である。アウトプットをしてしまうとそこで思考が停止する。
小飼弾も勝間和代もブログでアウトプットをしたから今の地位があるのではない。彼らの経歴を見ればわかるが、今の豊穣なアウトプットに繋がる下地をせっせと作る時期が存在している。果たして彼らが下地を作っていく時期に、アウトプットにも時間をかけていたら今のような地位を手に入れていただろうか。例えばブログが注目され、そこから書籍を出すような広がりを見せる人たちがいる。しかし、彼らは往々にして長い社会人経験を経たあと、今までのインプットを有機的に結合させ、それをもって視点を提示し、そのユニークさに注目が集まっているのである。アウトプットが斬新な視点を生み出すのではない。むしろ、逆だ。
経験値主義に踊らされ、愚直なまでにアウトプットをしている人間はどこか窮屈で可哀相だ。井戸を枯らしているようにしか見えない。毎日せっせと書評や映画・アニメの感想を書いている、そう、そこのあなた。まずはブログを閉じることから始めよう。あなたは経験値主義に毒されている。アウトプットすればするほど、あなたは自分の井戸を枯らし、ユニークさをなくしている。経験値主義から脱却し、真実の成長を果たそう。
やがて来る就職活動国際化時代を生き残るための知恵 http://kaigai-shushoku.blogspot.com/2010/06/blog-post_16.html
企業依存症、日本依存症の人が増えています。企業への依存とは、ある特定の企業でしか通用しないスキルばかりを修得してしまったがために、他の会社で通用しなくなってしまうことです。企業へ依存してしまうと、会社が傾き待遇が悪化しても、つまらない仕事ばかりさせられても、人間関係がもつれても、家族がいるのに転勤を強要されても、会社に行くのが心の底から嫌になっても、「不満を抱えて働き続ける」「路頭に迷う」「やりたくない他の仕事をする」「自殺」の四択を迫られてしまいます。
日本依存でも同様のことが言えます。自分自身が気をつけていても、他の人があほな政治家に投票をしてしまい、おかしな政策を打ち出されることもありえます。例えば、スロバキアのように、子供を手当てを行った結果、貧困層が手当て目当てで子供をたくさん作り、財政が逼迫したから、子供を手当てを打ち切った結果、貧困層が路頭に迷い、犯罪が増加し、富裕層が夜一人で出歩けないようなことになってしまうかもしれません(※1)
また、日本が未曾有の不況に襲われることもありえるし、公教育の質が低下して技術者が育たず、お隣の国に車でも電化製品でも負けてしまい、日本そのものの国際競争力が低下してしまい、大勢の従業員を抱えた車やエレクトロニクス産業が低迷し、関連企業や関連産業の雇用が悪化して、自分がクビをきられるかもしれないし、クビを免れても従業員が減ったしわ寄せが自分に来ることもありえます。
自分がどんなに気をつけていても、こればかりはどうしようもありません。そんな時、日本から脱出できなければ自分はもちろん、自分の家族や子供も、自分と同じ苦しみを背負うことになります。そうならないように、どんな時代でも、どんな場所でも働けるような、普遍性の高いスキルを身に付け、いつでもどこでも働けるように備えておくのが重要です。
スキルは、"soft skill(ソフトスキル)"と"hard skill(ハードスキル)"に分けることが出来ます。この二つの言葉は、まだ日本では耳慣れない人も多いかと思いますが、欧米のビジネスの場では比較的一般的な観念です。(※2)
ソフトスキルとは、人当たりのよさ、コミュニケーション能力、リーダーシップ、振る舞いなど、他社との関わり方を決定するスキルで、EQ(心の知能指数)と深く関わっています。
EQテスト http://www.unnmei.com/eq.html
ハードスキルとは、 特定業界に関する知識、数学や経済学などの学問、会計などの実践的な技能、言語、コンピュータスキルなど、IQと深く関わっているものです。教育機関で教わることも、独学で学ぶことも比較的簡単にできるのが、ハードスキルです。
日本の新卒採用では「コミュニケーション能力」などのソフトスキルが非常に重要視されますが、日本人が世界で働ける普遍的なスキルを持ちたいと思ったなら、ソフトスキルよりもハードスキルを重点的に磨くべきです。
ソフトスキルはハードスキルと比べて、文化に大きく依存します。例えば、はっきりした物言いはアメリカではソフトスキルが高いとみなされますが、日本ではむしろソフトスキルが低いとみなされる傾向があるでしょう。
ただし、ソフトスキルが飛びぬけて高い人なら、話は別です。今まで接したことがない未知の文化を持つ人に対しても、表情や仕草などから、その人の感情を読み取り、瞬時に適応することが出来る人もいます。
しかし、そんな飛びぬけたソフトスキルを習得するのは非常に困難です。表情から心理状態を読み取る方法や、心理学などを勉強し、さらに実践を重ねれば、どの国の誰に対しても、うまく接することが出来るようになるかもしれませんが、膨大な時間を費やすことになるでしょう。
また、欧米では一般的には「専門的な技能を持った即戦力」が求められている人材です。外国人なら、特にそうです。外国人を雇って、現地人より教育にコストがかかってしまうのでは、わざわざ外国人を雇う理由がありません。
以下の条件を満たすハードスキルがより普遍的であり、習得すべてきでしょう。
2. 長期的な需要が見込める
3. 供給が不足している
4. 流用可能
(例、英語、プログラミング、教育学、料理、Windows、Microsoft Office、Supply Chain managementなど経営学、etc)
国や文化に依存せず、一度習得してしまえば多少の応用するだけで、多くの国で使える技術や知識が「世界中で需要がある」スキルです。どの国の経済も好調なときや不調なときがあります。今は経済的に強い国も不調だったことがあります。日本もそうです。わざわざ景気が最悪な国で働く必要はありません。日本の景気が最悪であれば、少しでも景気が良い国で働くことが賢い選択ではないでしょうか?
それを実現するためには、世界的に需要があるスキルを身につけることです。例えば、英語はすでに国際語ですので、英語を使えれば世界中どこで働いても、研修を効率的に受けられます。そのため、企業からすればその分コストを低く抑えられるのです。
2、長期的な需要が見込める
何か一つスキルを習得したとしても、そのスキルそのものの価値が下がってしまっては下も子もありません。例えば、ある会社の営業がある製品の特徴について必死に覚えても、その製品が発売されなくなり、類似製品や後継製品なども全て生産終了したら、その製品の知識は全て無価値になり、そのスキルに対する需要は激減します。そうならないように、自分が退職するまでは需要が見込めるようなスキルを習得することが重要です。(※3)
3、供給が不足している
世界的に需要があるスキルでも、すでにそれを習得したライバルがたくさんいて、供給過多になっている状態では就職できるかどうかわかりません。しかし、供給が不足しているスキルを習得していればライバルが少ないので、比較的簡単に仕事が見つかります。
しかし、「どこで」供給が不足しているか見つけるのは困難です。例えば、日本には日本語修得者がたくさんいるため、日本語修得者の供給は足りていますが、スロバキアでは日本語修得者の供給が足りていないか、かろうじて足りている程度です。また、プログラミングやパソコン全般に関する技能に関しても、 IT産業では有り余っていても、例えば服飾産業のA社では「一人か二人いてくれたら非常に助かる」と、供給が不足している可能性もあります。ただし、企業自身も自分に何が必要かを理解できない場合があるので、常にアンテナを広く張っている必要があります。
4、流用可能
2、「長期的な需要が見込める」で記しましたが、需要があったスキルもその価値が失われる可能性があります。しかし、修得したスキルの大半を他のスキルに流用できれば大きな問題にはなりません。例えば、C言語がなくなったとします。そして、新たにD言語というのが生まれて、英語ではなくドイツ語をベースとしたプログラミング言語になったとしても、C言語から得た、「プログラミングの考え方(アルゴリズムなど)」は失われないので、始めてC言語を勉強したときよりは早くD言語を修得できるでしょう。
また、需要が合ったスキルの価値が失われなくても、スキルを流用し、新たなスキルを修得することも出来ます。例えば、英語を勉強し、文法を理解したことによって、文章を構造的に捉える能力を修得すれば、新たな言語を習得しやすくなります。
2chの住人や年配の方など、海外に長期滞在したことがない人の一部が「日本より暮らしやすい国はない」と信じているようですけど、それは間違いです。
まず、大都会に行けば基本的に何でも手に入るし、交通は便利だから、不便は感じません。日本食だって、日本で食べるより美味しい日本食を食べられる場所もあります。
また。日本より天候が穏やかな国もたくさんあります。スロバキアなどは、日本レベルの台風や地震がきたら、恐らく都市が壊滅するレベルです。それだけ、気候が穏やかなのです。また、夏も日本の夏と違い、空気が乾燥しているので、すがすがしい暑さです。クーラーはいりません。蚊も日本ほど多くはありません。蝉もうるさくありません。
治安だって、きちんと安全対策を講じていればまず問題はありません。昨日は11時過ぎに、一人で2km散歩しながら帰りました。全然余裕です。
水ももちろん飲めます。むしろ、スロバキアの水は、確実に東京の水よりは美味しいです。 一部の日本人は体質によって受け付けないそうですが、それでもたまに下痢する程度でしょう。
投資のことわざに、「全ての卵を一つのかごに盛るな」というものがあります。これは、全ての玉蛾を一つのかごに持っていたら、そのかごを落とした時点で全ての卵が台無しになってしまうから、卵を複数のかごに分散させたほうがリスクを回避できるということです。
日本依存、企業依存は、「このかごは脆そうだし、心配だなぁ」と文句を言いながら、自分の人生をひとつのかごに乗せているようなものです。普遍的なスキルを修得して海外移住をすることは、「リスクを伴った挑戦」ではなく「リスク回避のための戦略」なのです。自分と、将来の家族や子供たちのために、少し考えてみる価値はあるのではないでしょうか?
すみません。引用です。というより、ほぼ転載です。URLを忘れていました。
http://kaigai-shushoku.blogspot.com/2010/06/blog-post_16.html
「おもしろいと思ったら転載元のほうもはてぶしてください」
2008年夏にストライクウィッチーズが起こした奇跡はまだ記憶に新しい。
ヤマトからガンダムそしてエヴァへと続いたSFアニメ、エヴァ以降に生まれ席巻した萌えアニメ、その両方を奇跡的なバランスで兼ね備えた名作である。
00年代末期にして生まれた00年代の代表作である事は誰もが疑わない事であろう。そのDVD第一巻の売上は推定累計15000本の大ヒット。
だが後の「けいおん!」の50000本、「化物語」の80000本と比べると見劣りしてしまう。
この2作品は実に特殊である。化物語の特徴的な演出は普遍性があるとは言いがたいし、けいおん!に至っては本放送当時、多数の同業者が首を傾げた事実がある。
そんな言わば傷物の作品が何故これほどまでの売上を誇る事が出来たのであろうか。
結論から言ってしまうと「女性アニメオタクにも配慮した結果」である。
化物語も個性あふれる多種多様なヒロインが登場する作品であるが、原作からして女性ファンが多く、アニメも人気男性声優を起用する事で
否応なしに女性を惹きつける事に成功している。
けいおん!は劇中に女性キャラしか登場させず、ヒロイン達も非常に媚びた言動をするキャラクターであり、一見男性向けのように感じるが
その実、女性の嫌がる性的要素を徹底的に排除してあり、加えて、京都アニメーションの高い演出力によるリアルな描写に反した
いかにもアニメ的な言動をするキャラの“ちぐはぐさ”が、逆に「これはフィクションなんだ」と無意識に訴えかけ、女性に抵抗を感じさせない。
そして決定的なのがキャラクターデザイン。いわゆる「萌え絵」と言うものが浸透した現代において明らかに異質な絵柄。何と言うか、非常に“ブサイク”
まるで平安美人のようである。この絵柄は近年の京都アニメーション作品の中に蔓延し「涼宮ハルヒの憂鬱」第二期の中にも見え隠れしている。
特に「らき☆すたin武道館」におけるこなた達を見れば、いかに“けいおん顔”がブサイクであるかは誰でも容易に一目瞭然である。
だがしかしこのブサイクさが重要なのである。「家庭教師ヒットマンREBORN!」におけるヒロインへの女性からのバッシングを代表するように
女性オタクは非常に嫉妬深い。アニメキャラクターへも容赦なく負の感情をぶつけてくる。
けいおん!はあえてキャラクターの外見をブサイクにする事でそれを回避する事に成功しているのである。
そういった様々な配慮により、女性の目にも耐えうる作品になっているのである。
こう言った要素の片鱗は08年秋から始まった「とある魔術の禁書目録」に感じられ、翌年の「とある科学の超電磁砲」に引き継がれる。
09年「けいおん!」から始まり「化物語」「とある科学の超電磁砲」と女性配慮アニメが台頭する中にあっては
男性主観の象徴である百合アニメ、そのブームの延長線である「咲-saki-」が失敗し、「大正野球娘。」が不発に終わったのも時代の必然だったのである。
時代。そう、ストライクウィッチーズ誕生の奇跡によってアニメは一つの限界を向かえ、新たな時代へと進まざるを得なかったのである。
そして10年代に突入した現在、女性配慮の意思を受け継いでるアニメがある。それが「WORKING!!」「Angel Beats!」である。
WORKING!!も「けいおん顔」のようなブサイクさを踏襲し、化物語のように男性キャラクターを兼ね備えている。EDで男性キャラクターを立たせているのは
「バカとテストと召還獣」でも見られた手法だ。そして「種島ぽぷら」のような扇情的な造形をし、女性の逆鱗に触れるようなキャラクターは不自然なまでに隅に追いやっている。
こういった細かい「配慮」で非常に少ない放送局でありながらDVD売上30000本に届こうかという勢いを叩き出している最中である。
そして「Angel Beats!」だ。このアニメも近年のアニメとしては男性キャラクターが多く、直井というキャラに緒方恵美を起用するなど女性に配慮しているアニメである。
しかしこの作品の真価は非常に特殊な設定で、00年代に流行った要素を意図的に詰め込んでる感があるのは誰もが思うところだろう。
真っ先に思いつくのが涼宮ハルヒ以外何者でもないヒロインのデザインと、SOS団を思い起こさせる「死んだ世界戦線」略して「SSS」だ。
意図せずにこうまで類似した設定を作るものだろうか? あえてやっているとしか思えないのである。
では何故そんな、ともすればバッシングの的になる事をあえてやるのか?
一つ思う。
00年代の要素すべてを一途に消費させ、新たな10年代のアニメを始まらせるためではないか。
そんな「架け橋」になろうとしているAngel Beats!が、「女性配慮」という00年代末期に「けいおん!」「化物語」が起こしたばかりの新時代の要素をも
内包している事に驚きを隠せない。……これは偶然だろうか?
古き時代と新しき時代を繋いだAngel Beats!、その終了によってアニメはようやく10年代のスタートを切る事が出来るのだろうか。
7月からは待望のストライクウィッチーズ第二期が開始される。
他にも「みつどもえ」や「侵略!イカ娘」「神のみぞ知るセカイ」そして「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」のアニメ化が決定
話題作が目白押しだ。
それらの中から「10年代のストライクウィッチーズ」が現れる事を、ただひたすら祈ることしきりである。
単なる思いつきである(と、最初に逃げておく)。
よくある言説だ。「日本の街並みは汚い、欧米の街並みは美しい」という言説。
2chのネトウヨもそれは認めざるを得ないようだ。いくら「電柱の趣が……」と言ったところで、日本の街並みが雑多であることは否定できない。
さらに言えば、東アジアの街並みは日本に似ているという話は良く聞く。
平たく言えば、何か安心する雑多な街並み。
単なる印象論だが、それは、ウェブデザインにも通じるところはないだろうか。
例えば、楽天に出店している店舗のページを見ると、雑多な印象を受ける。
あざといとも言える広告のようなページだ。
印象論ということを前提に呼んでいただきたいのだが、その点、欧米のオンラインストアのページは洗練されたスマートなデザインの様な印象を受ける。もちろん、欧米でもアダルトサイトは、例のごとく、迷宮のように雑多なデザインの所が多いけれども。
それで、街並みとウェブサイトが類似している点がないかな、というのが私の思いつきだ。さらに思いつきを続けると、日本の街並みとウェブサイトが「雑多」にならざるを得ないのは、「漢字」の存在が大きいような気もする。漢字は象形文字的側面が大きいので、(アルファベットに比べて)表現としてダイレクトなのだ。例えば、日本語に「ひらがな」しかなかったのならば、日本でも欧米のようにスマートなデザインが嗜好されていた可能性もあると思う(もっとも、基本、ハングルだけの韓国の街並みは雑多なようだが)
「雑多」なページというのは、ある意味で下品なんだろうけれど、逆に安心できたり、(ドンキホーテの商品の並びように)ワクワク出来たりするデザインである。名前の通り、「雑多」だということは、様々な価値観が入り交じっているということでもあり、許容できる価値観の幅が広いということだ。多分、そこ人に安心感を見出すのだろうし、頭の悪さという意味での敷居の低さを感じるのだろうと思う。
反対に、スマートな美しいデザインのサイトで要求されるのは、「何をどう割り切るか」というセンスであり、その結果としてのシンプルとユーモアであろうと思う。グーグルやアップルはこちら側の代表例だ。こちらも主に人類の普遍性という意味で敷居が低い。
私は個人的には「万人に共通する絶対的価値観」という物はないと思っている。
ある個人として信奉する「絶対的価値観」が真実に近かったとするならば、必ず、それと反対側の価値観も真実に近いと思っている。
だから、両方の価値観を知らないと、世界全体を俯瞰することは出来ないのではないかと思う。
(もちろん、これも一つの価値観なのだが)
もし私の考えが合っているならば、日本がインターネットでグーグルに代表される米国IT業界に対抗するには、「雑多性」を追求するべきなのかも知れない。
実際、グーグルは「インターネットの情報を整理して見通しを良くしよう」としているように見えるが、最近、元気なGREEなりmixiなりモバゲーなりは、「(いろいろなサービスがごちゃ混ぜになっている、デザインが野暮ったい等の)雑多性」もそうだが、「(グーグルの検索に引っかからない)SNSという仕組みでネットの見通しを悪くし、多様な価値観を許容出来るような方向性」を目指しているように見える(大体、検索の性能が良すぎるから、自分と意見の違う人間を見つけやすいのであって、争いが起きやすいのであって、殺伐としやすいのである)。
すでにウェブ上に落ちているアイディアかも知れないし、そんなに大した話でもないのだが、何か日本におけるウェブサービスの収益化のヒントになると嬉しい。まあ、増田に書いたところでどれだけの業界人が見てくれるかは分からないけど(自分のブログに書いても誰も見ないだろうしなあw)。
なぜか私が性格悪かった話になるんだがw、やはり金のもたらす全能感みたいなものの影響はでかいかな。
食べたいものを食べ、買いたいものを買えるようになると、貧乏人のことがよくわからなくなるんだよ。極端な話だけど、特上寿司しか食べなくなって、梅寿司を食べる奴の気持ちがわからんなと思っちゃう感覚。金がなければ、がんばって稼げばいいじゃんと、その頃の私はよく言ってた。がんばっても稼げない奴がいるなんて思わなかったんだよ。馬鹿みたいだけどね。
職業柄、誰もが知っているような大きな企業の人と良く会うんだけど、彼らも同じ感じ。たぶん、ワープアが実際に存在するなんて考えたことないんじゃないかな。現実に、住宅ローンで審査落ちる奴がいるなんて思わなかったとしゃべっているのを聞いて、愕然としたこともあった。中小企業じゃ普通ですよー、銀行何社か審査に出すとか普通ですよー、そもそも自営はどうやっても無理ですよー、とか言うのは面倒なんで笑ってごまかしたけど。
その後挫折し、貧乏な今に至るわけですが、おかげさまで傲慢さはなくなりました。腰は低くなりました。持たざる人の側に立てるようになりました。そしてこっちの方がモテるようになりました。
もちろん、金のせいだけじゃないし、私個人の話。ものすごく狭くて普遍性はないんだけど、女は金と地位だけ見てるんじゃないとは強く思う。
あまり理屈にはならなくてごめん。けどまあ、そんなにまれな話じゃないんじゃないかなと思ってみたり。
今日の深夜~早朝にかけて、同人音楽界隈から一歩出れば無名に近いokadadaのUstreamでのDJに2000人以上という異例の人数が殺到するという出来事があった。詳細は以下のブログで。
http://tofubeats.blog107.fc2.com/blog-entry-235.html
トブ iPhone: 記録的な聖夜!8畳に2000人を集めたUSTREAM DJ @okadadada
http://applembp.blogspot.com/2009/12/82000ustream-dj-okadadada.html
67.DJ okadaの衝撃。歴史が変わる瞬間を目撃してるのかもしれない。 - ちょっとギークな(中略)のブログ。
http://d.hatena.ne.jp/kazzwatabe/20091224/1261683822
この出来事が起こった背景と、出来事それ自体、そしてTwitterと音楽はキャズムを超えられるのか?という問いについて。
この出来事を読んで(あるいは体験して)、多くの人は2chの「祭り」を想起したのではないか。無名あるいは匿名の個人から発した動きがインターネット(の一部)で爆発的に広がり、多くの人間がそこへ参加していく、と言った構図は確かに「祭り」と通ずるものがある。
しかし、これは「祭り」ではない。もっとすごいものだ。それなのに「祭り」として処理されそうになっている。この文章を書いたのもそれに反対するためである。
最も大きな違いはこれだ。
「祭り」はよく指摘されているように、「祭り」のネタ・内容に意味があるのではなく、参加すること自体が意味であり目的である。
「Twitterで有名人に群がる」と言えば広瀬香美のことが思い出されるが、この点においてあれもまた「祭り」の変形として捉えることが出来るだろう。2chであればニュースや企業の不祥事といったコンテンツをネタに「祭る」ことができるが、ツイッターの場合はその性質上、どうしても「コンテンツとしての人間」(http://d.hatena.ne.jp/gotto-s/20091201/1259675416)が必要になってしまう。
翻って今回の場合は、集まる中心に音楽というコンテンツ(ネタ)が据えられており、その分だけ「参加することそれ自体」への志向性が低い。これによって、よく「祭り」について言われる空虚さや無意味性といった点を克服している。この点こそが「祭り」と今回の件を分けて考えなければならないとする最も大きな理由である。
さて、今回の件から「魅力的なコンテンツさえあればそれが多くの人に届く環境が用意された」と言うことも出来るだろう。
「でもそれってインターネット始まって以来ずっと言われてきたことじゃない?」
その通り。でもよくよく思い出してみると「魅力があるが無名のコンテンツがインターネットを通じて一躍有名に」というケースは実はかなり少ない。なぜなら、これまでは「一躍有名に」できる力を持つ人間が少なく、また力があっても「一躍有名に」できるような環境が整備されていなかったからだ。
今回それが可能となったのは「今、ここ」を垂れ流しに出来るTwitterの存在があったからに他ならない。例えば有名人が「御用達の店」を紹介する際、グルメ番組はもちろんのことブログに書くにも紹介しようと思いついて紹介文を書き投稿されるまでに結構な取捨選択が行われてしまう。その点Twitterは、「○○でランチなう」「××おいしい!」という、紹介するという意識もないような一言で済ませることが出来る、「人々が情報を広めやすい」(easyだけではなくtend toの意味でも)メディアであると言える。
2chで、ある情報が「祭り」として認知されるためには、大勢の名無しがスレッドに書き込みスレッドの勢いを上げることが必要である。
対して今回の場合、爆発的に広めるきっかけとなったのはいとうせいこうのtweetである。
say yeah! USTdj→http://bit.ly/Ds7aL
seikoito(いとうせいこう)
(http://twitter.com/seikoito/status/7005117342)
「結局有名人が必要なら今までのメディアと大差ないじゃないか」という意見もあるだろう。しかし、これまでのメディア(マスメディアだけでなくBlogも含む)とは違い、Twitterにおいては、有名人がメディアを使うのではなくメディア(Twitter)が有名人を使うのだ。言い換えれば、Twitterは既存メディアが作り上げた「有名人」を取り込んでしまう。
有名人に限らないことだが、上の例で述べたように、Twitterは利用者にコンテンツを紹介するという意識を持たせないまま紹介させる。上のいとうせいこうのtweetにしたって非常に小さな情報でしかない。この性質こそが既存メディア比べたときにTwitterが決定的に違い、また強いポイントだ。
つまり、今回の件はTwitterでなければ起こりえなかったと言える。(いとうせいこうがブログだけを使っていたら深夜のUstreamを取り上げただろうか?2chのスレッドにUstreamのURLを貼って2000人が集まっただろうか?)
この点で、今回の件は既存メディアによるものと異なり、また「祭り」とも異なっている。
しかしそうはいっても、結局音楽はあまり関係無しに「祭り」として楽しんだ人もかなりの数に上るだろうし、そうでない人たちも結局終わった後はそれぞれのクラスタへ帰ることとなる。
確かにそうかもしれない。だが、今回の件はあってないような(なくてあるような)それにして確固としたクラスタの壁を突き破ることが出来たということもまた事実である。
それはゆるく広い繋がりを志向するTwitterの功績でもあるが、それだけではなく、壁を破る原動力としての音楽の価値も認めて良いはずだ。いくら有名な人間が勧めたとしても、批評についてのUstreamや高校生の独り言を垂れ流すニコ生では、こうはいかなかったように思う。それは恐らく音楽の持つ普遍性によるのだろう。
音楽が中心にあり、その周りで人々が騒ぐ。この構図を見ると、これこそ括弧無しで祭りと呼ぶのにふさわしいのではと思える。
中心に別に音楽でなくてもいい。しかし、中心に何もなくただ集まるだけの「祭り」の行き着く先は袋小路だろう。
そう考えると、Twitterがキャズムを超える日が来るとすれば、それはカリスマやコンテンツ化した人間の存在や「祭り」の場であるがゆえでなく、価値あるコンテンツと人々を媒介する場としてであろう。
Twitterのこうした媒介としての側面は、これまであまり触れられてこなかったことのように思う。しかし、有名人のTwitter参入が相次いでいることや、アルファTwitter-erの出現を見ても、今後はこういったケースがますます増えていくはずだと考えられるし、別に有名人やアルファTwitter-erでなくても媒介することは可能なはずだ。
◆日本でしか生きていけないと将来破滅するリスクがあるので、世界中どこでも生きていける戦略のご紹介
日本依存症は、国家依存症の一種であり、会社依存症とよく似ています。
会社依存症とは、ある特定の会社でしか通用しないスキルばかり蓄積して、他の会社では通用しない人材になってしまう病気です。
会社依存症にかかると、その会社の経営が悪化して、どんどん待遇が悪くなり、給料を下げられ、「このままここにいても、少しもいいことがないまま年を取っていくだけ」という状況になっても、ひたすらその会社にしがみつくしかなくなります。
また、会社の都合で延々とつまらない仕事をさせられたり、いまいち納得のいかない降格や減給をされても、なかなか拒否しにくくなります。
上司や同僚と相性が合わず、人間関係がこじれてギスギスした雰囲気になり、毎日会社へ行くのが憂鬱になっても、そこに居続けるしかありません。
なぜなら、その会社を辞めると、ほかに行くところがなくなり、路頭に迷ってしまうからです。
このため、このことがよく分かっているエンジニアなどは、その会社の独自製品や独自環境でしか通用しないスキルしかたまらないような仕事をできるだけ避けるようにします。
そして、「広く普及しており、かつ中長期的に需要があり、供給が不足ぎみで、かつ陳腐化しにくいスキル」を戦略的に蓄積します。
たとえば、以下のようなものが考えられます。
・要求分析、要求仕様定義、システムアーキテクチャ設計、RDBスキーマ設計、サーバの負荷分散設計、各種サーバのパフォーマンス解析・チューニング、デザインパターン、マルチスレッドプログラミング、システム管理、ネットワーク管理
・マネージメント、プロデューサ・デザイナ・経営者・営業・顧客との交渉スキルや連係プレースキル
・普遍性の高いコンピュータサイエンスの基礎
・Unix、RDB、正規表現、Java、Perl、TCP/IP、.NET、C#
日本にはたくさんの会社があり、それぞれが浮き沈みを繰り返しています。
いまいる会社が今後もずっと浮いたままだという保証はありません。
一つの会社に依存しきると、その会社が沈むとき自分まで一緒に沈んでしまい、酷い目に会います。
いまいる会社が沈みそうになったら早めに別の会社へ移れるように準備しておくべきではないでしょうか。
国家に対しても同じことが言えます。
政府は全ての国民を幸せにするような政策を実行するべきですが、必ずそれに成功するとは限りません。
ときに間違った政策を行い、多くの犠牲者を出すこともあります。しかも、その犠牲者を救済するための政策が実行されないこともあります。
もっと最悪なことに、間違った政策で、国全体が沈んでしまうようなことすらあります。
もちろん、そうならないように、われわれは選挙で正しい政策を実行してくれる政治家に投票すべきですが、常に正しい政策を実行してくれる政治家が自分の選挙区から立候補してくれるとは限らず、自分以外の人々が常に正しい政策を実行してくれる政治家に投票してくれるとも限らないというのが、世の中の現実です。
だから、どんなに自分が正しい政治行動を取っていても、おかしな政策が実行され、自分の将来が危うくなるリスクは常に存在します。
たとえば、金持ちばかりが得をし、平均的な労働者が搾取される最悪の格差社会になってしまうかもしれません。
あるいは逆に、今後スキルアップし、キャリアアップし、実力を身につけて高い年収をゲットしようと思っているのに、高額所得者の所得税が大増税されて、酷い搾取に苦しむようになるかも知れません。
あるいは、少子化対策で、実質的に独身税をかけられたのと同じような状態になり、結婚するつもりも子供を作るつもりもない人たちの生活の質がかなり落ちるかも知れません。
あるいは、国の医療システムが疲弊しまくって、まともな医療サービスを受けられなくなるかも知れません。あるいは、まともな治療を受けようとしたら、恐ろしく高い料金を徴収されるようになってしまうかもしれません。
あるいは、地方格差を埋めるため、都市部の住民を徹底的に搾取し、地方にじゃんじゃんばらまくような政治が行われるかもしれません。そうすると、田舎に住む人間の暮らしはよくなるかもしれませんが、今後も都市に住み続けるつもりの人間の暮らしの質が大きく低下するかも知れません。
あるいは、非正規雇用を減らし正社員を増やすという名目で、おかしな規制がかけられ、予期せぬ副作用が出て逆に多くの人が職を失うことになるかも知れません。余波で、自分まで失職するかもしれません。残された正社員の自分に酷いしわ寄せが来るかも知れません。
労働者保護や消費者保護という名目で、過剰に企業の手足を縛るような規制がかけられて、企業の活動が阻害されて経済が悪化したり、企業がどんどん日本から逃げ出すかも知れません。雇用が減り、治安が悪化し、日本が住みにくい国になるかも知れません。
要するに、投資において、全ての資産を一点がけするのが危険な投資戦略であるように、自分の生活基盤となる国家を一カ所だけに限定してしまうのも、極めて危険な賭なのです。
この国にずっと住み続けるのが一番賢い戦略でした。
しかし状況は変わりました。
いまや日本よりも豊かな国や都市がどんどん生まれつつあります。
日本などよりも、はるかに先行きの明るい国や都市がたくさんあります。
本来、この惑星には、たくさんの国家があり、それぞれ浮き沈みを繰り返しています。
いまいる国家が、今後もずっと浮いたままだという保証はありません。
一つの国家に依存しすぎると、その国家が沈んでいくとき、酷い目に会います。
いまいる国家が沈みそうになったら、早めに別の国家に移れるように、準備しておくべきではないでしょうか。*1
こういうことを言うと、「おまえに愛国心はないのか?」と言い出す人間が時々いますが、依存症と愛国心とは別の話です。
これは、結婚において、夫を愛していることと、夫に依存することが異なるのと同じことです。
経済的にも精神的にも自立していることと、夫を愛することは両立します。
夫婦仲は冷め切っていて、夫の暴力に怯えながら暮らしているにもかかわらず、夫に経済的に依存しているためにガマンし続けているような状態は、とても健全だとは言えません。
むしろ、特定の国にまったく依存していないにもかかわらず、その国を愛し、その国に貢献することこそ、純粋に打算抜きの愛国的な行為なのではないでしょうか。
そもそも、「いろんな異性とつきあってみて、そのなかから最高のパートナーを見つけ出して結婚する」というのは、少しもおかしなことではありません。
「1人の異性しか知らず、最初につきあった異性と一生添い遂げなければならない」というのはいかにも古めかしい道徳観念です。これは国家についても同じことです。たまたま日本に生まれたからと言って、日本と一生添い遂げなければならないということはありません。
むしろ、さまざまな国に住んでみて、そのなかから、自分にいちばんあった国に落ち着き、添い遂げる、という人生も十分にありなのではないでしょうか。
日本以外で暮らしたことのない人々の中には、日本だけが世界で唯一暮らしやすい場所で、日本以外には暮らしやすい場所などないと信じて疑わない人もときどきいるようですが、そんなことは決してありません。
むしろ、日本よりもはるかに、晴天の日が多く、気候が温暖で、からっとさわやかで、毎日気持ちよく暮らせる国や地域がたくさんあります。
食べ物も美味しく、人々も気持ちよく、街の各種施設も充実しており、遊び場所もたくさんある快適な都市は世界中にたくさんあります。
どんなところでも、けっこう住めば都なのです。
また、日本以外の国は治安が悪くて暮らしにくいという偏見を持っている人もいますが、どんな国でも、きちんとした安全対策を講じ、危険な地域に近寄らないようにすれば、それなりに安全に快適にくらせるものです。
それに、どうせネット環境さえあれば、世界中どこでも、twitterやtumblrやmixiで遊べるし、ブログのコメント欄でクネクネすることもできるし、2ちゃんでだらだら過ごすことも出来るし、エロ画像をダウンロードすることもできるし、はてブで脊髄反射的なコメントを付けることもできるし、はてなスターを連打しまくって顰蹙をかうこともできるのです。
「わたしは(この国に生まれたというより)この惑星に生まれたのだ」という感覚を持ちながら生きるというのは、広々とした感じがして、なかなか気持ちの良いものです。
せっかくこの美しい惑星に生まれたのに、日本という小さな小さな島国に引きこもったまま一生を終えるのは、じつにもったいないことではないかと思えてきます。
●依存症からの脱出は難しい
ギャンブル依存症、アルコール依存症、買い物依存症、恋愛依存症、セックス依存症、たいていの○○依存症は、そこから抜け出すのに苦労するように、日本依存症も、一度それにかかると、そこから抜け出すのにかなり苦労します。
また、タバコ依存症から抜け出すために、さまざまな方法があるように、日本依存症から抜け出すにも、さまざまな方法があります。
日本依存症から抜け出す一番効果的な方法は、実は、英語力をアップすることではなく、日本の外でも安定した収入源を得られるようにすることです。(もちろん、最低限の英語力は必要ですが)
これに一番効果的なのが、資産運用で暮らせるようにすることです。
利回りのよい債権や株式に自分の資産を分散投資し、運用することは、どこの国に居住していてもできます。
日本の国債や株式で資産を運用していたとしても、日本に住んでいなければ運用できないということはありません。世界中どこに住んでいても、日本の国債や株式で資産運用することは可能です。
それどころか、そもそも、日本の国債や日本の株式で資産を運用しなければならないということはありません。
むしろ、全資産を円ベースに一点がけしてしまうと、今後円安が進んだときに、自分の資産が大きく目減りしてしまうというリスクを抱え込むことになります。
資産は、全世界に分散投資しておいた方が安全だし、世界全体の経済は、多少の波はあるものの、中長期的にはつねに成長し続けているので、正しくポートフォリオを組んで、世界中に分散投資しておけば、それほどひどいことにはなりません。
だから、いったん資産運用で暮らせるだけの資産を蓄積してしまえば、日本依存症からの脱却はかなり容易になります。
ここで、「日本がキャピタルゲイン課税の大増税を行ったら、資産運用では暮らしていけなくなるのではないか?」という疑問がわく人もいるでしょうが、そうでもありません。
まず、税金の徴収には、属人主義と属地主義の二つの方式があります。
日本は属地主義なので、自分が居住している国や地域に税金を納めることになっています。
このため、日本でキャピタルゲイン課税の大増税が行われたとしても、海外で暮らしている限り、影響を被ることはありません。*2
現在、属人主義を採用しているのは、アメリカとフィリピンぐらいなもので、極めて例外的なケースです。
ですから、今後日本が属人主義に変更するリスクは、とても低いと思われます。
また、万一、日本が属人主義に切り換えたとしても、ある程度の資産を持つ人間に国籍を与えてくれる国は、けっこうあります。
日本が属人主義に切り換え、さらにきわめて重いキャピタルゲイン課税をかけてきたら、単に国籍を切り換えればいいことです。
ただ、問題は、資産運用で暮らせるようになるほどの資産を蓄積することが難しい、ということです。
そのため、当面は、収入の全てを資産運用だけで稼ぎ出すのではなく、収入の一部だけでも資産運用で稼ぎ出すような状態を目指してみてはどうでしょうか。
そうすると、日本がヤバくなったので、脱出して海外で職を得たのはいいが、最初のうちはまだ英語にも不慣れで、十分な収入を得られないというようなケースでも対応できます。
たとえば、前述のUnix、Web、RDB、Java、Perl、.NET、C#など、世界中に普及している技術の場合、そのスキルを身につけることで、日本依存から抜け出すことができます。
また、これらに関連する要求仕様定義、オブジェクト設計技術、デザインパターンを適切に使いこなしたクラス設計、プロジェクトマネージメント、スケジュール管理なども、特定の国家に依存しないスキルです。
これらのスキルを身につけたITエンジニアは、さまざまな国で職を得ることが出来ます。
実際、ボクの知り合いでも海外で働いているプログラマーがいます。
むしろ、日本よりも快適に働いているようです。
もちろん、これらの技術は、会社依存症から脱却するための技術としても有効で、きわめて安全性の高い技術だと言えます。
これらの標準的なITスキルは、このように、会社や国家を超越して有効ですが、それ以上に驚きなのは、かなりの長い時間をも超越する力を持っているということです。
たとえば、unixの基本アーキテクチャはボクが知っているだけでも十数年、ほとんど変わってません。マルチスレッドプログラミングやデザインパターンも十数年前に身につけたスキルは、かなりの部分、いまでもそのまま役に立ちます。はるか昔に覚えた、クロージャや再帰を使ったさまざまなプログラミングテクニックも、RDBのスキーマ設計のスキルも、ほとんどが、いまだに現役です。
TCP、UDP、IP、HTTP、SMTP、POPなどのプロトコル類もいまだに基本はほとんど変わりません。新しく登場した.NETやC#にしても、過去にマスターしたスキルにほんのちょっと上積みしたぐらいのわずかな薄皮でしかなく、いままで蓄積した基本スキルはそのまま通用します。Haskellのような関数型言語ですら、似たようなコンセプトのプログラミングアーキテクチャは昔からあり、十数年前にマスターした技術の延長線上でなんなくマスターできます。
このように、長期的に安定した技術やスキルを選んで身につけるようにすれば、会社、国家、時間を超えて、安定した収入源を確保できるのです。
ただ、注意しなければならないのは人材の需給バランスです。とくに、インドや旧共産圏からのプログラマの大量供給は要注意です。
一方で、ヨーロッパ、BRICs、VISTAなど、世界中で急速に経済が発達しており、ITエンジニアの需要が今後も全世界的に巨大化し続けるのは確実です。
ここでのポイントは、下級エンジニアや中級エンジニアは、需要はそれほど拡大しそうにないのに、供給は膨大になると思われるので、リスクが大きいということです。
つまり、下級エンジニアや中級エンジニアの場合、海外に行くと、日本にいたとき以上に悲惨になる可能性があります。安易に日本から出て行くべきではないでしょう。
一方で、上級エンジニアは技術分野にもよりますが、今後、世界中で爆発的に需要が拡大することが見込まれていますが、供給が不足する可能性は十分に考えられます。
従って、自分が今後上級エンジニアになる可能性があると考えている人たちは、この戦略に沿って日本依存症から脱却しておいたほうが良い可能性が高いです。
あと、もう一つ考慮すべき点は、上級エンジニアになるような人は生産性が高いため、今後、高額所得者になる可能性があるということです。
今後、この機運の盛り上がりに押されて、高額所得者を狙い打ちする形で大増税が行われ、酷い搾取の対象にされるリスクもあります。
このリスクに対する保険という意味でも、早めに日本依存症を治療し、いつでも仕事と生活の場を海外に移せるようにしておいた方が安全かもしれません。
日本人が海外で暮らしてみると、さまざまな小さなニッチビジネスのチャンスに気がつくことがあります。
たとえば、日本にはあって当たり前なのに、その国にはない商品やサービス。
それは、日本のやり方を現地方式にアレンジすれば、それなりに繁盛する商売ができるかもしれません。
あるいは逆に、その国のおもしろい商品やサービスで、アレンジすれば日本でもウケそうなもの。
もしくは、現地の安い人件費を利用して、何かを作らせ、日本に持ち込むというパターンもあるでしょう。
実際、ネパールに小さな工場をもっていて、そこで自分のデザインした服を作らせ、日本に輸入して販売しているという女性に会ったことがあります。
こういうビジネスのネタをみつけたとき、スモールビジネスを興すスキルを持っていると、そのチャンスを活かして、その国で商売をはじめることができたりします。
とくに、最近急速に豊かになったアジアの国々では、日本がかなりブランドになっています。
とくに富裕層は、日本のさまざまな質の高い品々やサービスを求め、日本の産物に信仰のようなものを抱いています。
これをうまく利用することで、いろいろなニッチビジネスを作り出すことができるかもしれません。
スモールビジネスのスキルとは、小さな会社向けのマーケティング、マネージメント、経理などのスキルです。
たとえば、どんな小さなビジネスでも、どんな商品を、どんな顧客に売るのか、そのために、商品にはどのような魅力がなければならないのか、顧客は、どういう理由でその商品にお金を払うのか、どのようにして利益が出る構造になっているのか、などのビジネスモデルを組み立てなければなりません。
そして、いざ、ビジネスプランが出来たら、場合によっては人を雇い、契約を結び、信頼関係を作り上げ、法律に則って取引しなければなりません。関係者全員が気分良く仕事できるように、win-winの構造を作り出す必要があります。
また、さまざまな法律を調べ、その法律に則ってビジネスを運営する必要があります。
さらに、会社を設立し、会計ソフトで帳簿を付け、経理と資金の管理をする必要があります。
また、予算計画を立て、融資なり出資なりで資金を調達する必要もあります。
こういう小さなビジネスを最小限の規模ではじめてみて、いざ、顧客の反応が上々だったら、しだいに規模を拡大していけばいいのです。
思ったより反応が悪ければ、早期に撤退するか、あるいは、やり方を変えて再度トライしてみたりすればいいでしょう。
そして、スモールビジネスの醍醐味は、たまたま大ヒットしたときのうまみです。
日本のサラリーマンの頂点とも言える、上場企業の社長の年収でも、たかだか4000万円にしかなりません。
これに比べ、スモールビジネスをヒットさせた場合、実質的に年収1億円を優に越えてしまうということは、それほど珍しくないのです。
実際、ぼくの知り合いにもそういう人がいます。
「たかが自営業」とばかにできるようなもんでもないのです。
自営業は、あたると凄いんです。
どのようなモデルで日本依存を脱却するのであれ、共通して必要な Permalink | 記事への反応(0) | 22:10
どんなに個人主義だ自由主義だといっても、家族関係というのは逃げられない最後の砦のような関係だと思います。
青少年向けの物語って、特にライトノベルとかそうかなあと思うんですが、両親の存在を消すか薄めるか非現実的にするかしないと、なかなか成立しないんですよね。そもそも、物語は親から離れたところで成立するものだと言っても過言ではないかもしれない。
親から離れるというのは、もちろん自立を促す要素が多分にある。けれども、それが離れるというよりも逃げるといったほうがいいような場合もあるわけで、その場合は現実逃避という評価になってしまうだろう。
いやー、『紅』という作品を見たんですが、ヒロインの女の子が、最後に家族と向き合う選択をするんですよね。話の大まかな流れとしては、「家」に縛られたお姫様を奪い去って逃避行、自由な外の世界へ、という感じなんだけど、そういう安易な方向で終わらせなかったのは作品の普遍性というか完成度という点で、成功だったのだろうと思う。
この前、『シャナ』の話で書いたことですが、シャナの3つの名前は、それぞれが彼女の属する位相の異なる価値に対応していて、シャナはミクロな日常の価値でもマクロな使命の価値でもなく、かけがえのない個人としての選択をしたのでした。
『紅』のヒロイン紫も、それと同様だったということができます。男の子との幸福だが閉じた関係でもなく、「家」のしきたりという与えられた使命にただ従うのではなく、かけがえのない個人紫としての選択をするわけです。この選択のシーンは、シャナがシャナとして戦いに赴くときのシーンと見比べると、まったく世界観の異なる作品同士でありながら、まったく同じことが起こっているのがありありと分かります。というより、セリフの内容と言い方というレベルでさえ、同じなのです。
どちらも、フレイムヘイズやあるいは「家」のしきたりというあらかじめ与えられた使命がスタートでした。そこから、ミクロな日常の幸福を経験した上で、改めて個人としての選択をするという構造になっています。物語が発動する部分というのは、この、あらかじめ与えられていた、はめ込まれてしまっていた関係をリセットするという部分に求められるでしょう。そして、ゲームのリセットと同じように、再プレイしたときには、前よりも上手に、もっと先のステージまでプレイできます。物語の効能もそれと同じで、前と同じ現実に戻ったように見えながら、実は物語によって経験したことを通して、以前とは少し違ったよりよい優しい関係を築くことができるのです。
ちょっと今大学の授業が1コマ開いてるから、授業の復習と人生の反省をかねて自分に当てはまり過ぎた自己同一性の拡散について書きます。青年期の人は軽かれ重かれ体感しざるを得ないらしいので、共感できる部分があるかも。
アイデンティティとは
(自己)同一性とは
同一性の拡散
1.親密性の失調 対人不安、コミュニケーションがうまく取れなくなる
2.時間的展望の拡散、生活の緩慢化 時間的な見通しが出来なくなり、堕落した生活を送る
3.勤勉性の拡散(職業的同一性の獲得の回避) 努力することへの価値観が失われ、それに伴い勤勉さが失われる
4.否定的同一性の獲得 社会が望む役割、同一性への憎悪、軽視から否定的になる
5.自意識過剰 他人の評価を気にし過ぎる
なんというか、全部当てはまってるんですよねー。
同一性の拡散が起こる原因としては簡単に言うと、人生に躓いたときらしいですけど、多分自分の場合は大学受験失敗した挙句に見学にも行かなかった滑り止めのFランに浪人する度胸が無かったっていうので、そのまま入学しちゃって、馴染めなくて、言うところの準ひきこもりみたいな感じなんですよね。
大学では表面的な関係がほんの少しあるだけで、家に帰ればダラダラしてて、勉強する気も全然起きなくて、自分が悪いのに環境の事に文句ばっかりで、外に出れば人の目が気になるから学校行く以外はほとんど家出なくて、バイトしようかと思っても心配が多すぎて踏ん切りがつかない。
あーぁ、どうしちゃったんだろう本当に、なんかもう自分と身の回りに対する嫌悪とか嫉妬とか憎悪とかで塗れてる、自分でどうにかする以外に手は無いんだと思うと、絶望する、別に人にとっちゃ大したこと無くても自分を客観的に見ることができない今、一歩を踏み出す勇気が無い、あぁ女々しいな、これでも名前はすごい猛々しいんだけどな、こんな皮肉はいらねえよ
いや違う。これは「全面的」こそがキモだ。動物に対するサディズムはよくないという社会的合意が日本にあるのは明らかだから、苦痛の低減が「部分的」には「罪」を減殺するという意識があるのは間違いない。ただ、その「部分的」の比重が問題だ。少なくとも日本では「気休め」程度以上に受け取られることはまずあるまい。
それは果たしてどうでしょ?「人道的な屠殺」などが偽善と反発される文脈は、肉食や捕鯨についての現行のあり方が批判された場合の反発などが主だと思うよ。逆に現行のやり方と比べて残虐と見なされる振る舞いであった場合には、容易に激しいバッシングが起こるよ、日本でもね。
つまり、日本で「気休め」以上に受け止められると単純に言うことはできない。整合的な理論として「気休め」に過ぎないって信念を持っているわけではない。
意味がわからん。あんたこそ「反証が必要」だろうが。こちらは「根拠がない」と言ってるのに、ないことを証明できるか、そんなもん。
動物の苦痛の低減が倫理的意味を持つことは、認められているものとしてこの議論は進んでいると認識している。
もちろん、この前提を疑うことは可能だし、疑う議論も実は多いし、そういった議論にも、個人的には面白いと思ってますが
今、私たちがやっているやりとりの範囲内では、この前提自体はどちらも否定していない、と理解していますし、それが一般的価値観であることも合意されている。
一方、「業の自覚」の倫理的価値についてはあなたの側しか認めていない。
つまり、「動物の苦痛の低減」には、一歩のアドヴァンテージがあるわけよね。
だから、あなたが行うべきは、以下の二つになる。
2.「業の自覚」の価値が主張。この罪悪感は、実際の動物への配慮につながるから価値があるのではなく(むしろそれは偽善として非難される)、頭の中と口先だけで完結するだけであっても、現実の動物の苦痛を低減することに匹敵するだけの価値があることの擁護。
ちなみにあなたが1を選択した場合、こっちはアニマル・ライツの人たちの代弁で議論するか、もうちょっと別の方向でゲームを続けるかちょっと悩んでいる。アニマル・ライツの議論の流用の方が頭使わなくてすむから楽だし、文脈にも合ってるけどね。
こっちが「日本はアニマル・ライツが徹底された国だった」と主張しているものとして、それに反論しているの?それこそ藁人形だよ。
ああそうか、すまなかった、では何を言いたかったか説明してくれ。
あなたが、”動物への配慮”を重視するものと考える西洋的発想のアンチテーゼ的世界として持ち出してきた東洋像への反論。アンチテーゼとして成り立たないことさえ、示せればそれで議論としては十分。
「何の倫理的問題もない」とはこの議論の中では誰も言ってないと思うのだが、この議論の外にはそういう考え方をする人もいるので、
彼らには彼らのロジックがあるのですよ、とだけ言っておきます。知ってた上で言ってるのかもしれませんが。
私がイラつくのは罪悪感を感じることや「感謝の気持ちは大切だよね」的感性それ自体じゃなくて、それで「菜食主義者」や「アニマル・ライツ」みたいな非論理的な連中を論破できると自信満々な連中なので、論理的整合性の外側での実践やおしゃべりはどうでもいいです。
ついでにいうと、「アニマル・ライツ」が肉食主義を論理的に完全に論破できるとも思ってないです。
だから、「業」論者がアニマル・ライツを超えるもっともらしい論理大系を示してくれれば、それで十分。
要するに君が理解できるか理解できないか、が基準なのか?
したがって、これにはその通り。
一般的な原理主義研究では、原理主義の特徴はその選択性にあるといわれていると思いますが(たとえば、近代的なものに対する反対物として、伝統の中から選択的にその”本質”を選び出す、とか)。
広義で大雑把な欧米の動物愛護的精神を指すのであれば、”西洋”の文化的土壌の一部であるのは論理的に自明でしょう。なぜならそれは西洋の文化の一部だからです。
そのあとに「それを指摘することに特段の意味はない」と書いたのを繰り返します。そこに意味はない。グリーンピースでも何でも日本にもいるんだから、日本の文化の一部でもある。
なんでそんなに話を拡げたがるんだかさっぱりだ。
え、私が広げたの?元増田の時点で、論理的に論破してやったぜ!な人なんだからそこが起点なんだけど。
それを否定するとなるとタリバンを否定する根拠がなくなるわけだが、そんなものを当人以外の誰が認めるというんだ?理屈のための理屈はよせ。
「普遍でないものを拒否する権利」がタリバンにあり、タリバンの存在がタリバンを批判する価値観の普遍性を否定している。よってタリバンはタリバン批判を拒否する権利がある。って話?
当人ってのは私のこと?
ま、そりゃ分かりますよ。基礎研究とかだったら、具体的にどう役立つのかなんて説明しにくいってことぐらいは。でも、しょうがないんですよ。面接官がいつも必ず自分の研究テーマに関心を持ってくれるなんてことはありえません。私だって自分からお願いしてカーボンナノチューブの作り方とかグルコミン塩の反応の変化とか聞いてるわけじゃないんです。
いいや、あなたは全然わかっていない。
基礎研究の多くは特定の応用先に絞り込めない。具体的にどう役立つのかなんて説明できるわけがない。
それに、ある化学反応を実現する研究があったとする。その応用は決して「実際的な例」とやらに一本道で向かっているわけじゃない。
その反応が普遍性があるものであれほど、その反応はある製品に応用できて、その反応が別の反応を促進して、そっちの反応はこの製品に……と数多く枝分かれしていくんだ。
あなたが主張するように「応用先を実際の例で」説明しようとすれば、「この研究は○○に役立ちます。△△にも役立ちます。そうすればそのうち凸凸もできるでしょう。応用次第で□□も××もできます。」と言うしかないが、それに意味があると思ってるの?
社会がどうとかいう問題ではなくて、その研究が役に立つかどうかを判定する能力のない人が受付口に居座っているのが致命的な問題なんじゃないの?
とりあえずあなた、自分が何の予備知識もなくて研究の価値が判断できないんだってわかってるんなら、そこで偉そうにふんぞりかえっていないで別のもっとわかりそうな人を推薦するとかして、自分はちゃんと辞退しなさいよ。
結婚って、生き抜くため、死なないため、遺伝子レベルで世代継続するためにするもんだろう。
容姿とか性格のどっちを取るかとか、2次元云々を議論している時点でおまえも無能。世代継続という本義を見逃している。
婚活してる男どもは、よく考えないと、ひょんなことで首をつらざるを得なくなる。
逃げるのは論外。再起を促すのが正解。
中川嫁は間抜けにみえるくらい木訥な応援を続けた。結果、中川は生きている。
学生、ひきこもり、無職、ニートは婚活時期としては大きなアドバンテージがある。
チャンスを逃さないこと。なんとかして外へ出て嫁候補を探すべき。
相手にされる確率は低いが、当たった女は高確率で生き抜く力となる。
下手に社会的立場のある、傷つくことが怖い奴らより、優位な相手を探せる絶好のチャンスだ。
目先しか見えない間抜け共を超克せよ。
社会でそこそこうまく行くようになってから始めて女がよってくるようになった場合は、
多大な借金があるかのような発言でふるいにかける。
最低5000万、できれば億レベルで。
そうすれば
が残る。
こいつらを伴侶とすれば、生き延びれる確率は高い。
不細工かもしれないし、DQNかもしれない、スイーツかもしれない。
でもそんなのは些末な話だ。
頑張れ。
俺も頑張る。