はてなキーワード: 帰省中とは
10数年悩まされていた胃炎が治ったので誰かの参考になるかと思い筆を置く。
タイトル通りだが。
俺は大学卒業後にIT関連業種に就職した。IT関連だけあって半端なくストレスが溜まるところだった。食べることで発散していたのだが、案の定、俺は激太りしてしまった。2年で20キロは太っただろう。周りでも就職してから急激に太るか、ガリガリに痩せるかした人が多かったので、こういう経験をしている人はいるのではと思う。
ある日に飲み会の写真を友達にもらい、フグのように膨れた自分の顔にショックを受け、それをきっかけにダイエットを始めた。ダイエットの方法は人それぞれ、人生いろいろダイエット法もいろいろ、ここでは詳細は省略する。たまたま俺は上手く痩せ、太る前の体型に戻った。
ここまでは単なるダイエット自慢だ。所がジョージ、面白いことにダイエットの前後で劇的に変わったことがあった。
前者は変わってないだろくそが。いやそれはいいとして後者の胃炎は小学校低学年のころから悩まされていたので本当に助かった。
これが治ったのだから俺は神の奇跡を感じずにはいられない。本音を言えば神の奇跡でもなく俺が神だっただけだが。勿体ぶらずに治った方法を教えろ、だと?いや教えてくださいだと?教えてくださいお願いしますだろ!まあそんなことはどうでもいい。
さて、本当ところダイエット中に俺は自分の性格に合わせた食事の量を減らすための工夫をしていた。これはちょっとした腹八分目のためのほんのささいな工夫の積み重ね。せっかくここまで読んでくれた増田読者のためにも具体例を挙げてよう。
具体例とは言え製品名は避けた。勧めたい製品があるが、味覚や食感、予算は人それぞれだ、どれかが合わないだけで辞めてしまうのを危惧したので避けた。宣伝と思われ胡散臭くなるのも嫌だしな。要望があればまた別の機会に書く。
とにかく食の量を減らして胃炎はなくなったし、腹が減って飯は上手いしいいことずくめだったよ。
追記
これだけで痩せたわけではないし、これはあくまで食事量を減らした方法だけであるので注意してくれ。後は仕事のストレスが解消できればいいのだが。山岡さんは何だったのか。
以前に
という2本立ての嘘のような本当の話(ただしフェイク含む)を書いた増田ですが、この年末年始でえらいことになっておりました。増田妹の元旦那にプロポーズされたよ!(笑)
最初に、前回の続きを。
増田にたかろうとした両親と妹に逆にたかり返したところ(なんか変な日本語だなぁ)、それっきり電話の1本メールの1通も来やしません(笑)
それはよかったんだけれども、そのとばっちりが行ったのが妹元旦那。
増田妹がひきとった子供の養育費を増額しろ、もしくは一時金を積み増せという連絡が、クリスマス飛び石連休に電話回線をふさいで大変だったらしい。
「弁護士さんも連休にしてて休みだし、困りました」と笑っていました。
これ以上電話すると……と弁護士から伝えてもらい、電話は収まったんだけど、次は年末に実家へ帰省中の妹元旦那めがけて押しかけていく始末。最終的には、警察でお説教をしてもらったとか。
ちなみに、慰謝料と養育費の差額は受け取ってないそうです。来たら貯金して将来子供のために使うと言ってました。
この妹元旦那が足りない頭をひねって搾り出した結論が、プロポーズ。
増田妹が「だって増田に借りられなかったんだもん」と言ったのを、
増田は収入があるのに貸さない→増田は対抗できている→増田と結婚したら妹元旦那に代わって対抗してくれるんじゃね?
と三段展開してそういう行動になったらしい。ついでに、無職なのでしばらく養って欲しいんだと。
バカすぎるwwwww 鼻で笑っちゃった。
もちろん断ったよ。あんな増田妹とよく結婚したなぁと思ったけれど、やっぱりそれなりの人だった。
帰省したとき、親父が長年使っていた docomo mova の携帯が壊れたっていうんで、Galaxy S に乗り換えてたんだわ。
親父が仕事で使うんでパソコンのWordやExcelのファイルをGalaxyで見たいからやり方を教えろっていうんで、「口頭で言ってもわからんし、忘れるだろうなぁ」と思って、作業手順をデジカメで撮って、それで、12ページにわたる資料(「できる〇〇」みたいなパソコン教本みたいな感じ)を作って、読めば馬鹿にでもできる状態にしたんだが、それでも、わからんから、教えろという。ここで、うちの親父は営業やってて、日頃、WordやExcelやメールを使ってるぐらいのスキルはあることを申し添えておく。で、とりあえず、どうやったのか再現してみろ、と言って、やらしてわかったことは次のようなところ。
まず、資料をちゃんと読んでない。
そして、思い込みで操作を進めて行き詰まる。
PCに負荷がかかって遅くなっているところに、さらにクリックでPCを過負荷にさせる。
まともに相手するのは嫌だったので、母親(PCスキルは親父と同程度)に資料を渡して、「そのとおりにやって教えてあげて」と言ったら、解決した。
今回の件で思ったのは、いくらわかりやすい資料をつくっても、根本的な解決にはなってないんだなぁ、と。おそらく、親父はGalaxyの他のちょっとこった使い方をしようとすれば、すぐ詰んでしまうだろう。
俺はもともとiPod touchを使っていて、この帰省ではじめて Galaxy Sに触った。そして、よくできてて、俺も欲しいと思った。iPod touch と比べて(本当はiPhoneと比較すべきだが持っていないので)、タッチの感度はわずかに悪いと感じるが、気にならないレベル。アプリはほとんど遜色ないし、ハードのボタンが3つあるのは、使いやすいし、操作が速い。iTunesみたいな糞重たいソフトをPCに入れなくても使える。PCからGalaxyへのファイル転送も簡単だし、MicroSDも使える。iPodでは、基本的にOSとしてファイル管理ができないので、あるアプリで保存したファイルが別のアプリでは使えないなんてことはざらだが、GalaxyではOSとしてちゃんとファイル管理ができる。GalaxyはiPhoneのパクリなんだろうが、不満点が改良されていてよくでいていると思った。
でも、うちの親父みたいな人間には、そんなことはどうでもいいんだろーなー。自由度が高いことよりも、やれることを制限して、トラブルが少ない方が顧客満足は高いんだろう。Appleもそこんところをわかっているから、そういうものを市場にだしてくるんだと思う。ただし、だからといって、うちの親父が iPhone 使えるとは思えなし、仕事に使える欲しい機能がない。操作が感性に頼るところが大きすぎて、ひらめかなかったら、何も出来なくなってしまうだろう。
A disk read error occurred
Press Ctrl+Alt+Del to restart
帰省中1ヶ月ほど放置し、久しぶりに電源を押すとエラーが出るようになったらしい。
変なソフトのインストールやBIOSのアップデート等はしていないとのこと。
当初はF8キーを押して[詳細ブートオプション]を開ければ、すぐに直せると思っていたけど、
ブートから進まないのだからF8キーを押しても同じエラーが出るだけ。
一応、F2キーでBIOS設定画面を開き、[Load Setup Defaults]を試すも症状変わらず。
また、VISTAにはXPの[回復コンソール]がなく、[システム回復オプション]という復旧手段が用意されている。
しかし、このマシンはプリインストール版なので、ディスクからの起動できない。
この場合はF8キーを押して[詳細ブートオプション]を開いて、そこから起動できるようだ。
その後、試行錯誤を繰り返した結果、再セットアップするしかないという結論に至った。
バックアップするにもWindowsが起動しないので、こんな時はいつもLinuxOS Knoppixに頼っている。
公式サイト(http://www.rcis.aist.go.jp/project/knoppix/)ではDVD版とCD版がiso形式で配布されており、DVDなりCDなりに焼けばOSをディスク起動できる優れもの。
さらにCD版をUSBにインストールしたUSB版も作成できるので、非常用に1つ作っておくと便利。
こちらのサイト(USB-Knoppixではじめよう http://yumenohako.jp/cgi-bin/knoppix/wiki.cgi)を参考に簡単に解説。
- 用意するもの
- 作成手順
- 前述したKNOPPIXの公式サイトからCD版のISO形式ファイルをダウンロード(現在はバージョン6.0.1)。
- 「DAEMON Tools」等の仮想ディスク作成ソフトでisoファイルをマウント。
- マウントしたディスクを開き、[KNOPPIX]フォルダを丸ごとUSB直下にコピー。
- さらに「\boot\isolinux」フォルダを開き、中のファイルを全てUSB直下にコピー。
- USB直下にコピーした[isolinux.cfg]というファイルの名前を[syslinux.cfg]に変更。
- こちらのサイト(http://www.kernel.org/pub/linux/utils/boot/syslinux/)から[syslinux.zip]をダウンロード(現在はsyslinux-4.02.zipが最新)。
- zipファイルを解凍して開き、「\win32\syslinux.exe」ファイルをCドライブ直下に移動。
- コマンドプロンプトを開き、[cd c:\]([]内のみ)と入力してEnterキーを押す。
- 次に[dir syslinux.exe]と入力してEnterキーを押す。
- さらに[syslinux.exe -ma USBドライブ名:](例:USBがEドライブなら[syslinux -ma E:]、間違ったドライブを指定すると指定先が壊れるので注意)と入力してEnterキーを押す。
- 完成!
- 使用方法
このマシンは前述の通りプリインストール版なのでインストールディスク(再セットアップディスク)が付属していない。
では、どうやって再セットアップするかというと、
しかし、今回はF11キーを押してもエラーが表示されるのみ。それにわざわざリカバリディスクを作成しているはずもなく手詰まり。
リカバリディスクはこちら(http://nx-media.ssnet.co.jp/)から購入できるけど価格は1万円。自作するしかない。
そもそも本来はリカバリディスクを作成できるのだから、HDD内のどこかにリカバリディスク用のデータが入っているはず。
そこで再びKNOPPIXを起動してみると、[NEC-RESTORE]という名前のリカバリ領域が隠しパーティションとして用意されていた。
こちらのサイト(LaVieレストア顛末記 http://deme.jp/wing/vol019/demeshin/NEC.htm)が大変参考になった。感謝。
- 用意するもの
- 作成手順
- 対象PCに接続されているUSBやLANケーブルなどはマウスとKNOPPIX以外全て外す。
- KNOPPIXで起動し、前述バックアップと同じ方法で[NEC-RESTORE]ドライブを開き、[RESTORE]フォルダを丸ごと外付けHDDにコピー(約10.3GB)。他のは不要。
- 「\RESTORE\TOOLS\IMG\winpe.iso」ファイルをISOイメージでCDに書き込む(Disk1)。
- 「\RESTORE\TOOLS」フォルダを丸ごとCDに書き込む(Disk2)。
- 「\RESTORE\BKVSTIMG.GHO」ファイルをCDに書き込む(Disk3)。
- 「\RESTORE\BKVST0**.GHS」ファイルが001から018まで18個あるので、まずは「BKVST001.GHS」から「BKVST007.GHS」まで約3.75GBをDVDに書き込む(Disk4)。
- 「BKVST008.GHS」から「BKVST014.GHS」まで約3.75GBをDVDに書き込む(Disk5)。
- 「BKVST015.GHS」から「BKVST018.GHS」まで約1.93GBをDVDに書き込む(Disk6)。
- 完成!
- 使用方法
- 対象PCの電源をつけ、Disk1を挿入。そして、電源ボタンを長押しして強制終了。
- 再度、電源をつけ、すぐにF2キーを連打してBIOS設定画面を開き、[Boot]タブから[1st Boot Device]を[CD-ROM]に変更して設定を保存。
- しばらくすると[Window Vista 再セットアップ]が起動するので、[再セットアップ]を選択(他のものを選択しても途中でエラーが出た)。
- その後[Cドライブのみの再セットアップ]など3項目が表示されたので、自分は[ハードディスクを購入時の状態に戻して再セットアップ]を選択。
- あとは「ディスク2を入れてください」等の指示に従って、Diskを入れ替えていけば、そのうちWindowsのセットアップ画面になる。
以上の作業によりHDDが故障していない限りはリカバリディスクを作成して再セットアップ可能。
ただし、当初のエラーの原因がHDDにある可能性もあるので、HDDを交換してからリカバリディスクを使用した方がいいかもしれない。
今後はCrystalDiskInfoなどのソフトを使用してHDD監視をするつもり。
再セットアップが進むと、シマンテック社の「Norton Ghost」というバックアップツールが起動し、1%2%3%...と作業が進行する。
最初にやった時は、50%ほど作業が完了したところでこんなエラーが出現。
Cannot open GHOSTERR.TXT - insert diskette (434)
File Name ? (546)
Output error file to the following location
[OK] [Cancel]
おそらくGHOSTERR.TXTというファイルの出力先が見つからないのだろうとあたりを付けて、
フォーマット済みCD-RWを挿入後、A:をCDドライブのF:に書き換えてOKを押すと
Application Error 19235
Ghost has detected corruption in the image file.
Please perform an integrity check on the image.
if this program persists, please contact Symantec support center
このイメージファイルとは、前述リカバリディスク作成手順6以降の[拡張子GHSのファイル]。GHSはGHOSTの略か?
そこで、Disk4,5,6をNERO9体験版+太陽誘電製のTHE日本製のDVD-Rを使用し、
念のためディスク1枚あたり4GBを超えないようにし、4倍速で焼き直してみたところ、今度は正常に再セットアップが完了。
最初はWindowsに標準装備されている[ディスクへの書き込み]+台湾製の安物DVD-Rを使用したのだが、
これを教訓に次からは絶対にライティングソフトと国産ディスクを使うことにしよう。
CrystalDiskInfoを使用してHDDの状態を調べたところ、案の定「注意」レベルだった。
注意項目 | 生の値 |
---|---|
代替処理保留中のセクタ数 | B(11) |
回復不可能セクタ数 | 25(37) |
※[生の値]の数値はデフォルトが16進数表記。括弧内は10進数に変換した数値。
やっぱり当初のエラーはHDDの故障とまではいかなくとも寿命が近いということだったのか。
使用時間は17000時間。HDDの交換を検討した方が良いけど、一体型の交換は難しいような。
まずはWestern Digital製HDDだからData Lifeguard Diagnosticsでゼロフィルをやってみる予定。
エラーチェックで完全に逝くかもしれないけど、バックアップもしてるし、リカバリディスクもあるし。
あと、VistaのバーションはSP1だと思っていたけど、まだ更新していなかった模様。
そこで更新プログラムをインストールしてみると途中で止まってしまい、修復スタートアップする羽目に。
Vista SP1の導入に失敗し、修復スタートアップを行ったものの、12時間経っても終わらず。
そこでいっそのことHDDのデータを完全に消去して、再セットアップすることにした(7時間ほどかかる)。
方法としては先日のとおり、Western Digital製HDDの診断ツール「Data Lifeguard Diagnostics」を使用する。
このツールはFDD版とCD版しかないので、いつものようにUSB版の作成を試みる。以下作り方と使用方法。
- 用意するもの
- 作成手順
- こちら(http://files.extremeoverclocking.com/file.php?f=196)から[Windows 98 System Files]をダウンロード後、解凍しておく。
- こちら(http://files.extremeoverclocking.com/file.php?f=197)から[HP USB Disk Storage Format Tool-v2.1.8]をダウンロード後、インストール。
- [HP USB Disk Storage Format Tool]を起動し、[Device]で用意したUSBを選択。[Create a DOS startup disk]にチェックを付け、[using DOS system files located at:]のところで、先ほど解凍したフォルダ(ファイル名はwin98boot)を指定する。
- こちら(http://support.wdc.com/product/download.asp?groupid=608&sid=30&lang=jp)から[Data Lifeguard Diagnostic for DOS (CD)]のiso形式をダウンロード。
- USB内に[DLGDIAG]という名前のフォルダを作成。
- ダウンロードしたisoファイルを仮想ディスク作成ソフトでマウント。
- マウント起動したディスク内の[DLGDIAG5.EXE][DLGDIAG.txt][DLGLICE.TXT]をUSB内の[DLGDIAG]フォルダにコピー。
- 完成!
- 使用方法
- PCにUSBを挿して、起動直後にF2を連打。BIOS設定画面から[boot]→[Hard Disk Boot Priority]を選択し、USB-HDDを一番上にして設定保存。
- DOSが起動するので、[cd dlgdiag]と入力してEnter。その後、[dlgdiag5]と入力してEnter。
- [Data Lifeguard Diagnostic]が起動するので、ライセンス画面でESCキーを押す。そして承諾。
- メイン画面が開いたら、[Extended Test]を選択して、まずはHDDのチェック(結果は余裕のFail)。所要時間は容量500GBで1時間40分。
- 続いて[Write Zeros To Drive]を選択して、HDD内の全データを削除(0で埋める)。これは2時間。
- もう一度[Extended Test]を実行(1時間40分)。この時点でNO ERRORS FOUND(エラーなし)。
- BIOS設定画面を開き、デフォルト設定をロードして、あとは前述どおりに再セットアップ(1時間30分)。
再セットアップ後、CrystalDiskInfoを実行すると見事に「正常」レベルに回復。
前回注意項目だった「代替処理保留中のセクタ」と「回復不可能セクタ数」の生の値は0に変化。
なぜか使用時間が14000時間に減少していたものの、とりあえずはHDDの故障の心配はしなくていいかな。
ちなみにSP1の導入は成功。今後はCrystalDiskInfoを常駐させ、監視を続けることにする。
あれから10か月後、悪夢のブルースクリーンが降臨したので、またクリーンインストールを行った。
CrystalDiskInfoを使用してHDDの状態を調べたところ、「注意」レベルに逆戻り。
注意項目 | 生の値 |
---|---|
代替処理保留中のセクタ数 | 2D9(729) |
回復不可能セクタ数 | 70(112) |
※[生の値]の数値はデフォルトが16進数表記。括弧内は10進数に変換した数値。
以前のエラー時よりさらに状況が悪化しており、HDDの寿命がかなり迫っている模様。
いつ突然死を迎えてもおかしくないので、重要なデータをバックアップのうえHDDの交換を予定。
ブログがないので、増田にログ残し。ツッコミや質問はid:frsattiまで。
車持ってる奴は出席予定の近場の奴を拾うことになったのが面倒臭い。
今、ウチから近い元同級生の家に迎えに来てるんだが、なんか家の前にゴミ袋が並んでる。
切り刻んだポスターとか写真集とか割られたCDとかが入っててドン引いた。
家にはいるらしいんだが出てこない。
特に変な放送でもなかったと思うけど、あの後なんかあったのか?
「すぐに準備終わると思うからちょっと待ってくださいね」とかお袋さんらしい人に言われた手前、置いて行くこともできねーよ。
あいつがお袋さんに怒鳴ってる声が外にまで響いてんだけど、マジ通報してぇ。
誰だよこいつに同窓会の連絡まわしたの。
当時から挙動不審でキモいせいでいつも一人だった奴に連絡の手紙出してどうすんだよ。
こいつもこいつで、なんで出席で返信してんだよ。
そんな奴いたよねー、キモかったよねー、程度の話題になるくらいで十分だろ。
数年前に死んでました、とかでいいだろ。
関数ポインタで、例示された5つを実現するのはバッドノウハウじゃないの?
「関数ポインタを使ってプログラミングしましょう」というプログラミングスタイルは、正統派ではないと思う、んだけれども。
帰省中で手元にはK&Rしかないけど、関数ポインタを使って何かを成そうってのは載ってないよ。関数ポインタがあること、それを使うとどんなことが出来そうかは判るけれども。
なんちゃら抽象が一般的かどうかと、C言語はなんちゃら抽象を使えるかどうかと、C言語はなんちゃら抽象を使うことが前提となる言語である、というのはそれぞれ違う命題だと思うけれども。なんちゃら抽象をC言語で実現しようとすると関数ポインタで素直に表現できるということと、それがバッドノウハウかどうかも独立の命題だと思うよ。(美しい設計、どういう設計の言語仕様が良いかというのは、さらにまた別の問題では)
結婚(と離婚)にはたくさんのエネルギーを要するという話をよく耳にします。私の場合もまさにそうでした。今になって書けるような気がするのと、今になっても納得できない部分もあるのでまことに自分勝手ながらこちらに書いて見ようと思いました。それと、幸いまだ離婚を経験せずに済んでいます。
私は嫁と結婚する4年前から交際をしていました。しかし、相手の母親(嫁家は何年も前に離婚していたので)にお会いしたのは結婚する1年前くらいからでした。まずは私一人でご挨拶に伺いました。お爺様、お婆様、お母様と嫁で出迎えてもらいました。本当はお兄様もいるのですが、今は自立、結婚されて実家にはいませんでした。私は皆さんに嫁と真剣に交際をしていること、それと近い将来には結婚したいと考えていることを報告しました。
嫁家ではお爺様が全てを決めるような家で、お爺様の仰ることは絶対のようでした。義母は若かれし頃に某音大を卒業後、嫁のお父様とお見合い結婚、二人の子供に恵まれましたが、性格の不一致(しか理由って無いと思う)で嫁が中学生の頃に離婚しました。その後は実家に戻り、申し訳ないのですが自立してる私から見ると「随分と歳をとったパラサイト」に見えました。実際、働かず(今では孫の顔見たさにパート勤めらしい)、家事せず、みたいな人。
簡単な事情はこれくらいにして、無事に最初のご挨拶を終え、いきなり次は私の両親を連れてくるよう言われました。ここで事前に説明しておかなくてはならないのですが、私の家系はいわゆる被爆者の家系で私は3世になります。それと父は視覚障害者です。被爆が関係あるかはわかりません。私は最初のご挨拶の時にそれらを隠さず嫁家の皆様に説明しました。なんとなく、特に義母はそういうのにうるさそうに見えたのと、後でわかるくらいなら今言ったほうがいいだろうと思いました。それと義理の兄の娘さんがどうやら視覚/知的障害を持っていまして、義母は特に気の毒に感じているように見えました。あと、初めての挨拶で年収を聞いてくるのは非常識だと言う人もいるとは思いますが、これから結婚するのであれば、収入を聞くのは当たり前だと思いますし、勿論聞かれましたし、給与明細及び源泉徴収表を見せたりはしませんが、大まかに当時の私の年収をお話しました。
そういうことでしたので私は帰宅するや否や両親(山口県)に電話して、来てもらうことにしました。一応、それなりに軽くフォーマルな服装でいいよ。初めてのご挨拶だし、まだ結婚のお許しをいただいたわけじゃないから。と説明しました。そして当日、無事に挨拶も済み、私は再度、嫁と結婚したい意志を義母に伝えました。しかし、義母は口を濁し、お爺様もいるせいか何も返事をしてくれませんでした。私は(当時)新大阪まで両親を送っていきました。「まぁ、これからだね」と父に言われて両親は山口へ帰りました。両親を見送った後、帰宅してすぐに嫁家にお礼の電話をかけました、するとまたさっきと義母の様子が違い、いきなり「今日は結納金くらい持ってくるのかと思ったわ」とか「あんな目暗(メクラって視覚障害者の差別用語)の家になんか嫁に出せるか」とか「人の家に挨拶に来るのにあのラフな格好はなに?非常識な」とか(3番目は私に責任があると思います)耳を疑うような言葉を聞きました。普通なら心でそう思っていても口に出しては言わないと思うような言葉の数々を言われて、正直かなりショックを受けました。私はすぐに両親に電話をして「あのタイミングで結納金って渡すもんなん?」って聞いてみたけど「普通じゃない」と言われてさらに困惑。
そんな感じで義母は反対でした。しかし、全ての決定権を持つお爺様はなぜか私との結婚をむしろ「やるなら早くしろ」と。披露宴の費用も負担するとまで言ってました。今も当時もなんとなく甘えるのは気持ちが悪いですが…しかし、当時の経済的な状況を考慮して、無い袖を振るうわけにもいかず、足らない部分を負担していただくことになりました。義母とは会話が成立せず困りました。電話、直接お話しに行ってもお爺様がいるときは無言、いないときは無茶苦茶。前述した通り、お兄様のお子様が障害をもっているということで「絶対に子供は作るな」とか。「DNA検査を受けろ」だとか。(というかDNAを検査して異常を検出するような検査は当時も今もまだできないのではないかと思うのですが、義母曰くお兄様とお姉さまも受けられたとか。多分ウソだと思いますけど…)徐々に追い詰められてしまい、とうとう精神科に通うほどになってしまいました。鬱病で寝込んでいるときに私の家のドアを名前を叫びながら叩くだけならず蹴ったり。当時のご近所さんたちは借金取りと思ったと思います。
そんな状況でもなんとか根気強く義母と話し合い、子供は絶対に作らないということを守ってくれるなら結婚を許すというところまで行きました。私は嫁といられるだけでいいのでその時はそれでもいいと思いました。披露宴も近くなり、平日は仕事、週末はホテルで打ち合わせという日々を過ごしていました。お爺様が定期検査のために入院されたと聞かされました。つまり、お爺様が家に不在ということで、義母が早速電話をかけてきました。そしてこういいました「披露宴は中止してほしい」と。理由を聞くと「娘があんたみたいなダメな男と結婚するのに、どうしてわざわざ世間に披露しなくてはならないのか?恥ずかしいじゃないか。」と。そんなこんなでお爺様は大激怒でしたが披露宴をキャンセルしました。結構なキャンセル料も私が負担しました。嫁にはひたすら謝りました。楽しそうにドレスを選んだり、食事を選んだり、あの嬉しそうな笑顔を思い出すと涙が止まりませんでした。後日、記念撮影だけしました。嫁は「私はこれで充分だよ」と言ってくれました。間もなく私たちは入籍しました。
私は鬱病がひどくなり、とうとう生活に支障がでるようになりました。悩んだ末、当時の会社を退職し、両親のいる山口へ引越しました。しばらく療養し、今の会社に入り、まだ鬱病ではありますが、まともに生活できるようになりました。ちょうどこの頃、嫁から「そろそろ子供が欲しい」と言われました。私は仕事の都合上長期間家を空けることがあり、慣れない土地で嫁は一人でさびしいのだろうと思ったのですが(また、寂しいからと言って子供を作ることも間違っているとは思いますし)、嫁に「でも、お母さんがなんと言うか」と言いましたが「それでも欲しい」と。しかし、そう都合よく神様は授けてくださるワケもなく、月日が流れていきました。そしてある日、嫁が実家にひとりで帰省中に近所の病院で「おめでたですよ」と念願の子供を授かることができました。黙っておくわけにもいかないので義母に電話して嫁が妊娠したことを伝えました。すると「あんた種無しかと思ってたわ。あははっは」と。ただし「おめでとう」とは言ってくれませんでした。
嫁は2007年12月10日20:35に3,598gのかなり元気な男の子を産んでくれました。立ち会った私は涙が止まりませんでした。当時はがんばってくれた嫁に感動しましたが、まだ子供が自分の子供だという認識と責任感みたいなのはあまり感じませんでした。義母も出産前日から来ており、初めて世に出てきた和が子を見てこう言いました「指は1,2,3...あるな。うん。」と、しかし、しばらくしてから「おめでとう!」と言ってくれました。
息子の誕生から間もなく1年が経とうとしています。嫁家には2度ほど連れて行きました。お爺様&お婆様は「本当に愛らしい」と大喜び。ご両名が元気とまでは言いませんが、ご存命中に子供を見せることが出来て本当によかったと思っています。
しかし、義母があの時言った言葉の数々(今でも口が悪い)を、私は許せていません。そして一生許すつもりもありません。しかし、どんなに人のいいあるいは悪い両親(片親)であろうとも、言葉が良かろうが悪かろうが、人の家から嫁を貰うということはいつの時代もこういうものであり、皆乗り越えなくてはならないものだと思います。加えて現在の私も義母のことを除けばとても幸せに暮らしています。全てがうまくいく人生も珍しいと思いますし、面白みが無いと思うのと同じだと思います。私が向こうの親に結婚を反対されて、それでも結婚したときにまず思ったのは、嫁も含めて私も幸せになって証明するしか無いと思いました。今でも尖った言葉を義母より沢山頂戴しておりますけど・・・
以上、長い話にお付き合いいただきありがとうございました。また、最後にもし貴方に一生をかけて守りたい人ができて、結婚したいと思ったとき、あるいは今大切な人がいて、その人によく「いつか結婚しような」と言うことがあったり、その「結婚」とはどういうことなのかを考えたくなったときに、あまり参考にはならないとは思うのですが、何かの参考になれば幸いです。加えて皆さんも幸せになることを心よりお祈り申し上げます。
こういうの読むと結婚する気失せるわ
確かにしないほうが無難な場合もあると思います。結果論には激しく同意します。義母が許せなくて大嫌いだけど、なんとかやっていけるてるよということで・・・
あえて書きませんでしたが義母は精神を長らく病んでいたのだ(そして今も)と思い、昔から病院へ行くことを勧めてきましたが、なにより本人がそれを嫌います。まぁ、強制できないことですし、よくあるパターンだと思いますが・・・私が精神科に通っていると言ったときには「やっぱりアンタは基地外やってんね」って言われましたw
まだしてないなら、お祖父さんが亡くなった時点で、同居って言い出すから絶対拒否だよ。 負けるな。 奥さんとお子さんをお姑さんから守れるのは...
ありがとうございます。幸い今は同居しておりません。が、その可能性はひしひしと感じております。お兄様はお子様でいっぱいいっぱいな様子で、恐らくあちらで同居はできないだろうと思います。が、私だけならず嫁も自分の母親ながら同居に耐えられないことはわかりきっていますので、同居は拒否します。今のところ、義母はお爺様が買ってくれたマンションで暮らすと言っています。今は本当にそうなってくれることを祈るだけです。玄関にウ○コですか・・・また大変そうですね・・・
人の家から嫁を貰うということはいつの時代もこういうものであり、皆乗り越えなくてはならないものだと思います。 まったくそうは思わないけど。 そもそも「結婚」という形式にこ...
そうですね。「皆乗り越えなくては」は必ずしも当てはまることではないかもしれませんね。子供もできるまではあまり欲しいとは思っていなかったのも事実です。産まれてから可愛く思えるのにしばらくかかってしまったのは私だけでしょうか。なんというかなかなか実感がわかないというか・・・しかし、経済的援助は勘弁してほしいですね。気持ちが悪いですから・・・
割と良家のようだから、財産目当てでは? 義母が離婚後働かず実家に子連れパラサイトでも許されたり、旦那が鬱病抱えているのに嫁が呑気に子供欲しいとか言える辺りも 親の財力あっ...
確かに嫁家は良家だと思います。少なからず私の家と比べたら・・・仰られた通り真剣に縁を切ることも考えたことがありましたが、嫁にとっては親に違いないワケで、そこを無理やり切ることも無いかなと思いました。できることならウチの子供にも会いに来て欲しくは無いです。
それと財産に関してですが、まったく興味ありません。出来ることなら(有価証券やら不動産が多そうなイメージなので)とっとと現金化して、私と関係無いところに生前贈与でもしといて欲しいくらいです。それも私が心配することではないのであまり気にしていませんけど・・・
あれは確か去年の1月1日だ。
世間的にこの年頃の姉弟にしては異常な仲の良さと囁かれていた。
というのは後々母親から聞いたことだ。
俺はオタクで尚且つ女性恐怖症のフシがあったが、姉はそんな中でも特に 特 別 だった。
エロゲなんかもガンガンやるようなオタクだったからというのも一因だろうが、
そんなことはあまり気にしていなかった。
元より俺にとって姉は幼い頃から姉であり、時にそれ以上の“家族”でもあったからだ。
「ねぇ、×××しない?」なんてことを言い出した。
前日から俺は友人数人とK-1を見に行き、
ようやく帰宅し、ヘトヘトだった為ぶっきらぼうに
「はぁ?何言ってんだよ?」と返答するが、
「ダメ?」とちょい狙い気味の上目遣い攻撃だ。
小悪魔とまではいかないが、姉とは1つしか違わない。
二人で歩くと傍から見れば完全に“兄妹”だ。
それを心得ているのか高校生あたりから
俺はあの上目遣いにすっかり弱くなっていた。
結局のところ俺はロリコンなのか?
とその時はショックを受けたものである。
「わーったよ!」と半ばヤケ気味に呟くと俺は準備を始める。
急いでシャワーを浴び、さっそく例のモノを出す。
最近すっかりご無沙汰だったので、随分×××が溜まっているようだ。
「すごいね。固くて、すごくおっきいよ・・・」と大声で喋る姉。
多少のうるさくしても構わないだろうし、
いざその巨体を目の前に曝け出すと俺も意外と乗り気になってきた。
一通り姉がし終わると、今度は俺の番だ。
「円を描くようにすると良いらしいよ」姉の言うとおり俺は従った。
相変わらずどうでもいいことには研究熱心で困る。
最初はやさしく・・・と思ったのだが、
「もう少し強めでもいいよ」と言われ俺はまだ序盤だというのに
一通り準備が終わると姉はもう湿らせているようだった。
まさしくここからが 本 番 だ。
「結構疲れるな」と俺は内心思っていたが、
姉に「だらしない男」と思われるのが嫌で我慢していた。
そんな矢先「もっとっ、ペース、あげてもっ、いいよ。」とのお言葉。
「お前は振る側じゃないからな・・・」と半ば言いかけたが
もう俺にそんな余裕はない。
腰が痛くて死にそうだ。
とそんな間抜けなことを考えながら俺はあっさりと限界を迎えた。
バタリと倒れこんだ直後、姉がそれを手にとり口に運ぶ。
「うん、おいしい。」と口の中いっぱいにしながらも
糸みたいに伸びた白いそれを
俺の口にも運ぼうと近寄る姉のそんな仕草はやはり可愛かった。
「あ??ん」という甘い囁きと共に俺の口にもモノが入る。
ちょっとゼイハァしているところに、
このドロドロ感は喉にひっかかる。
それはそうだろう。
少し前までは全国の年寄りが喉に詰まらせて死んだ・・・
という話もあったくらいだ。
きっとつきたてともなるとまた一段と弾力があるのだろう。
まったく、正月早々餅つきだなんて、
いや、本来は正しいのか?と
そんなことを考えていたら姉が
「ごめんね。疲れてるのに・・・」と少しだけ
悲しげな顔で謝りだした。
「え?・・・ああ、いや別に。」と突然だったので
そんな曖昧な返事しか出来なかったが、
何言ってんだよ。姉ちゃん。そんな顔すんなよ。
だって姉ちゃんは、俺が本当に大好きな姉ちゃんなんだからな。
・・・と今年嫁にいってしまった姉ちゃんとの
思い出話なんか書いちまったよ。
釣りにしようと思ったんだけどうまく書けたか?
下手糞だったらゴメン。
帰省中。家にあった「ドラえもん」をなんとなく読んでたのですが。
のび太たちが,地底世界で生きのびていた恐竜の末裔,地底人と会う話。
ロー(地底人の女性)とのび太たちが,地底の湖のほとりで話している。
地底世界には「日光ゴケ」がはえていて昼夜はあるけど,空もないし季節もない。
しずか
「地上ではもう秋で 赤や黄色の枯葉が風にまってるころだけど。」
ロー
「木の葉が赤や黄色になるの?」
「えっ,地底には紅葉がないの。
そりゃぜひみせてあげたいな 夕日にそまった紅葉の山の美しさを。」
「そうそう そこに雨上がりの虹でもかかればもう最高!!」
ロー
「雨? 虹?」
「なんだ雨もしらないの? 雨はね 雲の水滴が……,」
「だめだよ,まず雲からせつめいしなくちゃ。
雲ってのはね,地上の青い空にポッカリと……。」
「夜になると月がでて,星が空一面にピカピカキラキラ。」
ロー
「まるで夢の世界みたい…, いってみたいわ。」
(p.121-122)
ああ,ほんとうにそうだ。
思えばなんてメルヘンチックな世界にわれわれは生きているんだろう。
でもこんなこと,それこそ夢にも思ってなかった。
こういうふうにものを見られる人って,そういないよな。
さすが藤子・F・不二雄,というところだろうか。
「いらっしゃい ぼくがガイドしてあげる。
近くロールスロイスを買う予定だから…。」
今日はさすがに少々堪えた。
少し自分を落ち着かせるために、書いてみたいと思う。あとで多分消す。
今朝早くに父が退院したがっていると母から呼び出し。
もう明日ホスピスとの面談なので少しほっとしていたのだけれど、ここ数日の強力な鎮痛剤の副作用か精神に混乱が見られるということ。
急いで実家に駆けつけると、ベットに横たわる父は又少し痩せたように見えた。3ヵ月前まで65キロあった体重が45キロになっていたのだけど、今朝はなんと言うか、もう確実な死期を感じさせる、たぶん死相というやつを浮かべていた。
そして、笑いながら虚空に手を差し伸べて何かを一生懸命話していた。
父は私に気がつくと起き上がり、以外にしっかり「やぁ、いらっしゃい」と話し始めた。
目の焦点が少しあっていない。私を認識はできている。
USBメモリプレイヤーにCDの音楽を取り込んでほしいと頼まれ作業。
「なつかしき歌こころの歌??叙情愛唱歌全集??」全10枚を聴きながら話をするが、何か良くわからない機械の修理法やら最寄り駅から実家までの来方を一生懸命説明してくれた。ダークダックスの惜別の歌とか鮫島有美子の埴生の宿とか聴きながら、どういう拷問だこれ、と。頭の中ではっぱ隊のYATTA!を爆音で鳴らして対抗し、微笑みをキープした俺を最大限に褒めたい。
由紀さおりの夕焼け小焼けあたりはIKUZO脳内まっすあっぷの必要があったが。
それにしても鮫島有美子はいい。
最近息子は「とっと、じぃじ」を話せるようになったので、少し話してもらおうと思ったのだがあいにく昼寝中。
嫁と話して少し落ち着く。
いったん家に帰ろうかと思っていたが母も疲れているし、不安だろうから今日は泊ることにする。
晩飯に一緒に寿司を食べるが、すぐもどしてしまう。
固形物はたぶん、もう無理な感じだ。
http://anond.hatelabo.jp/20070205222022
癌が見つかって4年、これを書いた時にはすでに予想されていたイベントではある。
少しづつ準備はしてきたので諸々の手配はすんではいる。心の準備もしてきたつもりだけれど、これはやはりしんどいね。覚悟なんてあろうがなかろうが、まぁやれることをやるしかない。
そういや祖父がなくなったときの父はどんなだったろうと思ったが、そのころちょうど海外にいて立ち会えなかったのだった。
明日はホスピスで先生と今後の相談をすることになる。しっかり母を支えなくては。
それにしても昨晩眠れなかったのでこれとか見てて今日は救われたよ。
裸になれる、さらけ出せる人間って強い。