はてなキーワード: あいこでしょとは
2021年10月25日に先行配信が開始され今日CDが発売される、槇原敬之の復帰作『宜候(ようそろ)』。
(引用という形式ですが、考察として歌詞を書き起こしている都合上、このエントリはすぐ消します。)
こんな素敵な曲なのにネット上でも思ったより反応が薄いのが驚いている。
一方で、仕事中にもかかわらず号泣してしまうほど刺さってる人も居る。俺のことや。
歌詞提供しているのは、尾崎豊・村下孝蔵・玉置浩二・浜田省吾をプロデュースしている音楽プロデューサーの須藤晃。
https://www.youtube.com/watch?v=vjyQTWT-Oe8
歌詞が伝わりやすいよう、敢えて伴奏はピアノだけという最小限のスタイル。
まずは何も言わず配信サービスで聴いてくれ。冒頭35秒だけでいい。
話はそれからだ。
私は普段、歌詞考察・歌詞解説といった野暮なことは一切しない。
その作品に出会った際に各々が感じた時のフィーリングや気づきこそが宝物だと思っているからだ。
たとえ善意でも、ネタバレによって公式の意図と違う形で聴き手に伝わってしまうのはファンとして本意ではない。
ましてや、私個人の解釈というフィルターを通すと全く違った風景で見えてしまうだろう。
「説明しよう!」と割り込む人は、その作品に邂逅した時の感動を減らし自論を押し付けてしまうことになるかもしれない。(本稿の私のことである。)
「今のは何が面白かったの?」と解説を求めると白けてしまうだろう。
もしかしたら自分の前では二度とジョークを言ってくれないかもしれない。
ガルパンおじさんが「ガルパンはいいぞ」としか言わないのは、単に語彙力が足りないからだと思っていた。
しかし、実際に観てみるとそういった優しさからだったのだと今なら分かる。ガルパンはいいぞ。
だが、この忙しい現代社会。
また、曲の背景に想いを馳せるためには少しばかり教養も必要となる。
(YOASOBI「夜に駆ける」の原作小説「タナトスの誘惑」を読んで納得して
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「どちら様かは存じませんが
そのサングラスやめなさい
悪い輩(やから)に見えたら損よ
その目を私に見せなさい」
ばあちゃん 俺に微笑みかけて
かすれた声で叱ったよ
出会いと別れを 繰り返し
「もう慣れたわよ」と言ったけど
「やっぱり一人は つらいから
誰かの傍にいなさいね」
ばあちゃん遠くの空を見て
小さな声でつぶやいた
「夢なんて叶わぬうちが花だけど
待ってるだけでは駄目だから
行きたい場所を目指しなさい」
「橋の袂で声かけられて
赤いかんざし褒められた
あの日の私が一番綺麗
忘れられない思い出よ」
ばあちゃんはにかみ謝った
「ごめんなさいね こんな話」
「毛皮も指輪も 押し入れの中
どこに置いたか 忘れたわ
一度ハワイに 連れてってくれ
息子に頼んでみたけれど
伊勢神宮さえ 行けなくて
膝が悪くて 行けなくて」
「先頭に立たないように気を付けて
争いごとは やめなさい
いつまでたっても あいこでしょ」
「今度訪ねてくれるなら
どちら様かは存じませんが
これも何かの縁でしょう
「人生は思うようにはなりません
それでも希望を持ちなさい
神様なんていないけど
変わっていくものを嘆くより
変わらぬものを愛しなさい
笑う門には福来る
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さて、以降は2回以上聴いた人に読んでもらいたい。
答え合わせをしましょう。(抜け・漏れや解釈違いがたくさんあるはずなので、どうかコメントで補足お願いします。)
歌詞の大部分が、お節介な性分の認知症の「ばあちゃん」が孫(孫と認識されていない)に向けて語りかけるセリフである。
(叙述トリックで多用される「信頼できない語り手」の可能性も考慮せねばならない。なんせ認識が歪んでいるのだから。)
一見すると(前半はともかく)後半は思い出すままに過去を語ったり、
人生の先輩としてアドバイスを始めたり脈絡が無いように思われる。
しかし、言葉のひとつひとつに含蓄や温度感があり何故か聞き流せない。
「出会いと別れを繰り返し」:記憶を失う(別れる)→自己紹介(出会い)のループを指すのだろう。
後半で自分の孫に「どちら様かは存じませんが」とまた語りかけるので、「ばあちゃんまたボケとるわ!」とツッコんでしまう。
「やっぱり一人は つらいから 誰かの傍にいなさいね」と語りかけられても、
「ばあちゃん、いま孫がそばにおるんやで…」とさみしくなってしまう。
ところで、こういった違和感がないだろうか。
・ハワイに行けなかったら妥協点で伊勢神宮が来るのおかしくない?
・というかハワイに連れて行ってもらいたかったら息子より先に夫に頼めよ
・孫のことは何度も忘れてるのに、若い頃に口説かれたことは「忘れられない思い出よ」?
・なぜサングラスをかけるだけで「周囲から悪い輩(ヤカラ)と認定される」と思い込んでいるのか?
(グラサンといえばローランの民からすれば陛下の象徴と言っても過言ではないだろう)
こういった違和感や疑問を紐解き、一本の補助線を引けば、
ハマらないと思っていたパズルのピースが繋がり、この歌詞の全体像が視える。
それを前提にもう一度聴いてほしい。
「先頭に立たないように 気を付けて
争いごとは やめなさい」
この歌詞が異様に生々しく感じないだろうか。
まるで親しい人が先頭に立ったせいで亡くなったかのような物言いである。
→軍艦じゃんけんの掛け声「せーんそっ(戦争)」を嫌ったのではないだろうか。
「グー・チョキ・パー」は「軍艦・朝鮮・ハワイ(軍艦・沈没・ハワイの地域もあるらしい)」に置き換えられている。
小学校の時に「不謹慎だ」と先生に叱られた人もいるのではないだろうか。
実際、その後にお土産としてお寿司を細かくリクエストしている割に、「軍艦巻き」は入っていない。
「一度ハワイに 連れてってくれ
息子に頼んでみたけれど
伊勢神宮さえ 行けなくて」
→夫が居ないので息子に頼んでいる。おそらくハワイで亡くなった(と聞かされており、真偽は不明)。
そもそも、「ばあちゃん」は太平洋の地名でハワイぐらいしか知らない可能性も高い。
なぜなら当時のメディアは時の政府の統制下にあり、大本営発表を検証せず偏向報道をするプロパガンダの道具となっていたからだ。
国威発揚のため、日本軍の勝利を事実以上に喧伝し、大敗の事実を隠蔽する構造であった。
真珠湾奇襲の報道は大々的に宣伝したので、その印象が強いのではないか。
さて、ばあちゃんはハワイに夫を弔いに行きたいが、それが無理ならせめて国内で、
ということで日本全国最高位の神社である伊勢神宮にお参りしたいわけだ。
戦後世代にとっては戦没者を祀るのは靖国神社というイメージが強いが、
戦前世代にとっては伊勢信仰が普通であったようだ。現在も神社本庁の本宗は伊勢神宮。
(ちなみに作詞の須藤晃は富山県出身。槇原敬之は大阪府高槻市出身。)
「夢なんて叶わぬうちが花だけど
待ってるだけでは駄目だから
行きたい場所を目指しなさい」
→これは解釈が分かれるところか。素直に歌詞通りに受け取っても良い。
膝を悪くしてしまい二度と夫の弔いという夢が望めなくなってしまった悔恨にも解釈できる。
「橋の袂で声かけられて
赤いかんざし褒められた
あの日の私が一番綺麗
忘れられない思い出よ」
→孫(俺)のことは何度も忘れるくせに、「忘れられない思い出よ」。
その理由は、夫と過ごした時間が少なく他に思い出が無いからではないか。
・「毛皮も指輪も 押し入れの中」
GHQ連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーの印象によるものではないか。
「変わっていくものを嘆くより
変わらぬものを愛しなさい」
→生きている人より、亡くなった夫への執着を感じないだろうか。
ここの「あなた」は孫(俺)に語っているように見えるが本当にそうだろうか。
夫に似た孫の姿を通して、
過去の思い出の姿の夫に、
ここにきて思い当たる。
「その目を私に見せなさい」と言われサングラスを外し、孫の目を見る描写。
ここでばあちゃんは若き日の夫を思い出す。
それをきっかけにこの歌詞のセリフのような回想が始まったのがこの曲じゃないだろうか。
タイトルが「ばあちゃん」じゃないのは、一人称が「俺(孫)」に固定されてしまい
メインディッシュにもなれず世の中の隅っこで苦い人生を送ってきた「ばあちゃん」の象徴として「わさび」がタイトルとして選ばれたのだろう。
果たしてそうだろうか?
あ
AMAKUSA1637
暗殺者は魚を嫌う
い
う
海ニ眠ル花
うわさ (漫画)
え
エデンの花
お
おとなにナッツ
か
ガタピシ車でいこう!!
銃夢 LastOrder
き
く
KUROKO-黒衣-
こ
恋はオン・エア!
恋はゲームで!
さ
三獣士
山賊王
SAND LAND
し
シトラス学園
女クラのおきて
新・野球狂の詩
す
すくらんぶる-b
せ
そ
続・戦国自衛隊
空の昴
た
Wピンチ!!
ち
忠犬ディディー
つ
て
太陽の玻璃
と
な
ナニワトモアレ
に
の
は
バカバカしいの!
花の湯へようこそ
ぱられる
ひ
BM ネクタール
ひまじん
ふ
ふたご最前線
無頼伝 涯
ほ
ぽけっとタマちゃん
ま
み
も
や
ヤマトナデシコ七変化 (漫画)
ゆ
雪ん子!!
よ
汚れてる暇なんかない
ら
雷神〜RISING〜
り
ろ
わ
「Git何で使わないの?便利なのに。」
と言いながらエンジニア出身幹部は、社内デザイナー全員にGitの習得を勧めた。
ただでさえ覚えるソフトが多い。
「技術力アップや実作業に割く時間を増やしたい」という声が上がった。
「こちらもフォトショとかBlenderとか触ってみたし覚えようとしてるんだからおあいこでしょ」
と言う。
アンタ四角しか作れないじゃないか。そもそも業務でBlender使ってねぇぞ。
そもそもデザイナーは文系率が高いんだ。算数が苦手な人が多いんだぞ。
わかるか、高校三年間かけて数学Ⅰ+Aまでしか習ってないとかだぞ。
だいたい、Gitのコミットメッセージの書き方ひとつでエンジニア同士陰口言い合ってるじゃないか。
「fixばっかりとかw」
案の定デザイナーとしての技術力はわからないからと一律評価をしつつ
わかる。ただ、確かに管理する側は楽になるが、デザイナー新人が覚えるにはテクニカルすぎると言っている。
習得するのに数日付きっ切りで教えることになる。
しかも、実のところたいして使う機会がないから曖昧にしか覚えられないため、質問を繰り返す羽目になる。
「Sourcetreeがあるじゃないか」と言う。
GUIがあることを褒めるな。
そこは当然だろ。使いやすいところまで行け!!
とはいえ、業務上動作確認をしなくてはいけないので覚えざるを得なかった。つらかった。
向いてないと思った。
まぁ、ただの愚痴ですけど。
その見知らぬ女は家の前に倒れていた。救急車を呼ぼうと慌てる僕を遮って女は言った。
「お願いします…誰も呼ばないで…少し…休ませて…」
躊躇したが、こんなやせ細った悲しい目をした女が物騒な事を起こす訳がないと考え、僕は女を部屋へ入れた。
とたんに女は安堵したのかすやすやと寝息をたて始めた。僕のベッドで。
少しやつれてはいるものの、怪我も熱もないようだ。何か事情があるのだろう。一晩くらいはゆっくり休ませてやろう。
翌日、僕は生まれて初めてお粥を作った。彼女は一口それを口にした。
さらに翌日は二口、その翌日はお茶碗一杯分を平らげて僕を喜ばせてくれた。
しばらくすると、やせていた頬がふっくらと赤み帯び、微笑むと「えくぼ」が出ることもわかった。
僕たちは互いに微笑み、求めあい、愛しあった。
しかし彼女は頑なに自分の事を語ろうとはしなかった。名前だけでも教えて欲しいという僕の願いすら叶えられない。
好きな名前で呼んでもいいと言うが犬じゃあるまいし、適当な名前は呼べず、新しく名前を付けてあげたとして、もしそれが彼女の本名ならば彼女は消えてしまうというジレンマで僕は気が狂いそうな不安のまま彼女を強く抱きしめた。
名前さえ、知られたくなければ知らないでいよう。それで彼女が笑うなら。
本当は僕がじゃんけんに勝ったって彼女の行きたい海へ連れてってあげる。
わざと山へ行くふりをして海へ抜けるあの美しい山道を行くんだ。
いきなり海岸線が現れるあの道は彼女を感動させてくれるだろうか。
そして、夕暮れの海辺で彼女は僕のプロポーズを受けてくれるだろうか。
そんな心配をしながらするじゃんけんは上の空。
しかしそれが彼女との永遠の別れになるとは、この時想像だにしていなかった。
彼女は次の瞬間消えて行った。