その見知らぬ女は家の前に倒れていた。救急車を呼ぼうと慌てる僕を遮って女は言った。
「お願いします…誰も呼ばないで…少し…休ませて…」
躊躇したが、こんなやせ細った悲しい目をした女が物騒な事を起こす訳がないと考え、僕は女を部屋へ入れた。
とたんに女は安堵したのかすやすやと寝息をたて始めた。僕のベッドで。
少しやつれてはいるものの、怪我も熱もないようだ。何か事情があるのだろう。一晩くらいはゆっくり休ませてやろう。
翌日、僕は生まれて初めてお粥を作った。彼女は一口それを口にした。
さらに翌日は二口、その翌日はお茶碗一杯分を平らげて僕を喜ばせてくれた。
しばらくすると、やせていた頬がふっくらと赤み帯び、微笑むと「えくぼ」が出ることもわかった。
僕たちは互いに微笑み、求めあい、愛しあった。
しかし彼女は頑なに自分の事を語ろうとはしなかった。名前だけでも教えて欲しいという僕の願いすら叶えられない。
好きな名前で呼んでもいいと言うが犬じゃあるまいし、適当な名前は呼べず、新しく名前を付けてあげたとして、もしそれが彼女の本名ならば彼女は消えてしまうというジレンマで僕は気が狂いそうな不安のまま彼女を強く抱きしめた。
名前さえ、知られたくなければ知らないでいよう。それで彼女が笑うなら。
本当は僕がじゃんけんに勝ったって彼女の行きたい海へ連れてってあげる。
わざと山へ行くふりをして海へ抜けるあの美しい山道を行くんだ。
いきなり海岸線が現れるあの道は彼女を感動させてくれるだろうか。
そして、夕暮れの海辺で彼女は僕のプロポーズを受けてくれるだろうか。
そんな心配をしながらするじゃんけんは上の空。
しかしそれが彼女との永遠の別れになるとは、この時想像だにしていなかった。
彼女は次の瞬間消えて行った。