はてなキーワード: 正鵠とは
>推しって言っとけば、自分が無能無産の消費者じゃない立場にでもなれると勘違いしているからだ。
しかし記事タイトルにあるような、それは日本のゆとり教育がもたらした、という態度はおそらく違って。
というのも、世界的な社会哲学の中でその現象には名前がついているからだ。
「消費社会」という。
ボードリヤールが言いだし、後続の学者も概念を使っていろいろ分析している。
何を消費しているかが自己表現となり、何を消費しているかで社会階級が決定するような社会のことだ。
ロックを生きるならば尾崎を聞かねばならないし、ジョックになるならゲーム漫画ばかり消費してはならない。
ハリウッドセレブになるにはドレスを買わねばならないし、家を消費できないものはホームレスとして社会不適合者扱いされる。
それを覆す、ということはなかなか難しい。
覆す必要が本当にあるのかを確定するのもだ。
先ほど、面白いツイートが私のTLに流れてきたので私見を述べる。
『新聞、月5,000円も払って昨日のニュースが紙で届くってやばいな』(原文ママ)
このツイート自体は確か面白いな、と一笑に付したが、そのツイートには大量の同意・賛辞のリプライがぶら下がっていた。
"5,000円で油を取る紙を買っている"
"ぼったくりだ"
やはりこういう意見は少なくないな、と気づかされる一方で一つの疑問が浮かんだ。
"この新聞批判をしている方々の何割が自分の金で新聞を購読している、ないし購読したことがあるのだろうか?"
夜討ち朝駆けという言葉は古い価値観かもしれない。しかし、身を粉にして社会の情報そのものを自らの五感で直接インプットし、それを文字でアウトプットする。そんな自分の仕事にやりがいを感じ、自身のジャーナリズム精神にも誇りを持っているつもりだ。
それでは「新聞こそが公正で正確な情報を素早く伝えるツールとして最も優れている!」と言いたいのか、と聞かれると答えはNOである。
インターネットメディアの急速な発展と共に情報が世界を巡るスピードは目に見えて早くなった。
地球の裏側で起きていることがリアルタイムで手元の端末で確認できる。
何十年も前の『正確・早い・多い』という新聞優位性を持っていた情報の三種の神器は既に別媒体(主にインターネット)に負けているのだ。
実際に私も
こんな記事を書きたいからこういう方からこんな話を聞きたい、と結論ありきの取材を行い結論ありきの記事を書いたこともある。
上司からこういう紙面を作れ、と命令を出され自分が紙面に載せたい情報を翌日に回したこともある。
新聞記事には、偏向とまではいかないまでも記者自身や会社自体の色眼鏡を通したバイアスがかかっているのだ。
しかし、「新聞こそが公正で正確な情報を素早く伝えるツールとして最も優れている!」わけではないにしろ「読む価値があるか」と言われれば声を大にしてYESと叫ぼう。阿呆でなければ。
なぜならば、新聞紙の必要性を語る上で最も大切なのは、その色眼鏡の良し悪しだからである。
新聞は、政治の右派左派、経済の支持不支持、社会記事の着目点。会社によって特色があり、多くの記事は記者の名前が載っている。それぞれの記事が会社としての社会的責任と個人としての社会的責任を抱えた上でなんらかのバイアスをかけられて掲載されている。
自分で直接見聞きしたものを除いて、新聞・ニュース・SNS・人伝の情報に至るまで。
全てがその経路の中であるいは削られ、あるいは付与され、或いは歪められるのだ。ここに例外はない。
(手前味噌ではあるが)優秀な能力を持った記者が他にはない一次ソースから仕入れた情報を提供する。
色眼鏡を通しての内容であることを理解さえしていれば極上の情報であることに違いはないだろう。
さて、私が言いたいのは「新聞を取れ」ということでは断じてない。
なぜならば、そもそもその色眼鏡に対して価値を置いていない人間(以下、阿呆)には新聞というのは豚に真珠もいいところだからだ。
阿呆はいいように削られ付与され歪められた情報を信じ哀れにも踊らされる。新聞を読んだとしても、新聞に踊らされるだけだ。
TwitterでもFacebookでもYahooニュースでもまとめサイトでもYouTubeでもテレビでも新聞でもなんでもいい。
あなたが情報を入手しているツールはどれほどまでに信頼できるものなのだろうか?
そもそも新聞の特長を情報の正確さ・スピードだと考えている人間にはどれほどの情報リテラシーがあるのだろうか?
私が投げかけたいのは、そういうことなのだ。
さて、こういうのは自分は大丈夫だ、と思っている人間の方がよっぽど危険だ、というのはよくある話で。
「なるほど、確かにその方面で働いている人は正鵠を射た発言をするなあ」
そもそも、この記事の冒頭に引用させていただいているツイートのリプライ欄には、新聞が不要だとする内容と同じくらい、新聞の必要性について肯定的な意見を述べているツイートがあるのだ。
いったい、この記事を読んだ内の何割が
と疑問に思い確認し、
とそれを検証しただろうか?
改めて、私が言いたい情報リテラシーとは、そういうことなのだ。
阿呆は鏡の向こうにいる。
ちなみに、そもそも私は新聞記者だ、というのも真っ赤な嘘である。
以上。
お気持ちです。
ニュートピで出てきて、普段政治的な批判ものに触れないようしてるが、「そんだけすごいなら読んでみようかな」と思ったから。
じゃあ、誰ならいいの?
その答えは無かった。
結局、だれがやったって、大きな力を得てそれを誠実に利用し続けることなんて出来ないんだろうな、という諦めがある。
支持してるわけでもない。
興味がないだけ。
期待しても何も変わらない。
1人の力では何も変えられない。
だったら、深く関わらないで、自分の人生をなんとか生き抜くほうが楽だ。
私は楽だから、「どちらでもない」を選ぶ。
当たり前だけど。
ここでいう「ユークリッド幾何学」とは、座標空間、ベクトル、三角関数、微分積分などの解析的手法を用いないいわゆる総合幾何学のことです(*1)。2020年8月現在の高校数学のカリキュラムでいえば、「数学A」の「図形の性質」に該当する分野です。
ユークリッド幾何学が不要だと思う理由は単純明快で、何の役にも立たないからです。大学に入って、「補助線を引いて、相似な三角形を作って~」とか「コンパスと定規による作図」みたいなパズルゲームをやることは絶対にありません(*2)。これは常識で考えても分かると思います。たとえば工学の研究で、ある物体の弧長や面積などを測定しなければならないとして、ユークリッド幾何学の補助線パズルが適用できる多角形や円などしか測れないのでは話になりません。一方、座標空間、ベクトル、三角関数、微分積分などの手法は一般的な現象を記述する上で必ず必要になります。
もちろん、たとえば三角比を定義するには、「三角形の内角の和は180度である」とか「2角が等しい三角形は相似である」といった初等幾何学の性質が必要になります。そのようなものを全て廃止せよと言っているわけではありません。しかし、高校1年生で習う余弦定理:
を証明してしまえば、原理的にはユークリッド幾何学の問題は解けます。それ以降は、ユークリッド幾何学的な手法や問題設定にこだわる必要はないと思いますし、実際それで問題ありません。
現状、少なくない時間がユークリッド幾何学に費やされています。数学の1単元を占めているだけではなく、その他の単元にもユークリッド幾何学の発想に影響された例や問題が多く登場します。たとえば、複素平面において4点の共円条件や垂直二等分線を求めさせる問題など。そして最も労費されているのは生徒の自習時間です。以前よりマシになったとはいえ、大学入試等には技巧的な図形問題が出題されるため、受験生はその対策に多大な時間を費やしています。
高校数学では以下のような事項が重要だと思います。ユークリッド幾何学を学ばせている時間があったら、このような分野を優先的に修められるようにすべきです。
これらの分野は数学の手法としても非常に強力ですし、大学以降で数学を学ぶ際、現実的な問題を数学や物理の問題として正確に記述する際に必ず必要になります。仮にユークリッド幾何学が何らかの場面で応用されるとしても、微分積分などと同レベルに重要だと真剣に主張する人っていらっしゃるでしょうか?
ユークリッド幾何学を初等教育で教えるべきだとする根拠には、大雑把に言って以下の4つがあると思います。
まず①は明らかにおかしいです。ユークリッド幾何学に限らず、数学のあらゆる命題は証明されるべきものだからです。高校の教科書を読めば、相加平均・相乗平均の不等式、点と平面の距離の公式、三角関数の加法定理、微分のライプニッツ則や部分積分の公式など、どれも証明されています。そもそも、数学の問題はすべて証明問題です。たとえば、関数の極値問題は、単に微分が0になる点を計算するだけではなく、そこが実際に極値であるかそうでないかを定義や既知の性質に基づいて示す必要があります。したがって、ユークリッド幾何学だけが特に証明の考え方を学ぶのに有効だという理由はありません。
②もおかしいです。図形問題を扱うのはユークリッド幾何学だけではないからです。ベクトルや微分積分でも図形問題を扱います。たとえば、三角形の5心の存在や、チェバの定理、メネラウスの定理などはベクトルを用いても容易に示すことができます。また言うまでもなく、曲線の接線は微分で求めることができ、面積や体積は積分で求めることができます。また、ユークリッド幾何学の手法は問題ごとに巧い補助線などを発見しなければいけないのに対し、解析的な手法は一般に方針が立てやすく汎用的です。したがって、図形問題を扱うのにユークリッド幾何学の手法にこだわる理由はありません。
③は単なる個人の思い込みであり、科学的な根拠はありません。そもそも、数学教育の目的は「地頭」などを鍛えることではなく、「大学や実社会において必要な数学の素養を身につけること」のはずです。また、これも上ふたつと同様に「ユークリッド幾何学以外の数学では、『数学的直観』などは鍛えられないのか」という疑問に答えられておらず、ユークリッド幾何学を特別視する理由になっていません。
④もおかしいです。そもそも「歴史的に重要である」ことと「初等教育で教えるべき」という主張には何の関係もありません。歴史的に重要ならば教えるというなら、古代バビロニア、インド、中国などの数学は特に扱わないのはなぜでしょうか。もっと言えば、文字式や+-×÷などの算術記号が使われ始めたのでさえ、数学史的に見ればごく最近のことですが、昔はそれらを使わなかったからといって、今でもそれらを使わずに数学を記述するべき理由があるでしょうか。
数学で重要なのはその内容であるはずです。ユークリッド幾何学を擁護する論者は、「(表面的に)計算問題に見えるか、証明問題に見えるか」のようなところに価値を置いて、一方が数学教育的に有意疑だと見なしているようですが、そんな分類に意味は無いと思います。
大昔は代数の計算や方程式の解法(に対応するもの)は作図問題に帰着していたようですが、現代でそれと同様の手法を取るべき理由は全くありません。記述する内容が同じであれば、多項式や初等解析のような洗練された方法・重要な結果を導きやすい方法を用いればよいに決まっています(数学史家は別として)。同様に、ユークリッド幾何学も、解析的な手法で解ければそれでよく、技巧的な補助線パズルなどに興じたり、公理的な方法にこだわる必要はありません。
たとえば、放物線は直線と点からの距離が等しい点の軌跡として定義することもできますが、初等教育で重要なのは明らかに2次関数のグラフとして現れるものです。放物線を離心率や円錐の断面などを用いて導入したところで、結局やるのは二次関数の増減問題なのですから、最初から2次関数のグラフとして導入するのは理にかなっています。数学教育の題材は「計算問題か証明問題か」などではなく、このような観点で取捨選択すべきです。
三角比などを学んだあともユークリッド幾何学を教えたり、解析的な手法では煩雑になるがユークリッド幾何学の範疇ではエレガントに解けるような問題を出して受験生を脅したりするのは、意味が無いと思います。それは、「掛ける数」と「掛けられる数」を区別したり、中学で連立方程式を学ぶのに小学生に鶴亀算を教えるのと同様に、無駄なことをしていると思います。
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(*1)
現代数学では、n次元ベクトル空間R^n = Re_1⊕...⊕Re_nに
(e_i, e_j) = δ_i,j (クロネッカーのデルタ)
で内積が定義される空間上の幾何学はすべてユークリッド幾何学に分類されます。したがって、上にあげた座標空間、ベクトル、微分積分、一次変換なども敢えて分類すればユークリッド幾何学です。しかし、ここではその意味でのユークリッド幾何学が不要と言っているのではありません。飽くまでも、技巧的な補助線問題や、公理的な方法にこだわることが不要だと言っています。
(*2)
数学科の専門課程で学ぶガロア理論では、コンパスと定規による作図可能性が論じられますが、これは「作図問題にガロア理論が応用できる」というだけであり、「ガロア理論を学ぶのに作図の知識が必要」というわけではありません。
そういう言葉を投げかけて悦に入っている限り、お前のようなヤツは一生文章で人を楽しませる側には立てない
ユーモアってのは「なりきる」所から生まれ、ときに自分のキャラをも脚色して見せるのが「書く力」ってもんだ
臭いだと? 臭い方が読んでておもしろいだろ? 感じた印象をそうやって針小棒大にすることで、ようやく他人様が「面白がれる」レベルまで話が膨らむんだよ
わかんないだろうな、お前のような人に冷や水をぶっかけて「自分はまともです」みたいな顔してる人間の、人の顔色伺った文章か、人を嘲るかの面白みのない文章が当たり前になっちゃってるやつには
https://anond.hatelabo.jp/20200118002721
たくさんのコメント、少数ながら同意など、本当にありがとうございます。
いくつか質問が寄せられているようだし、これだけ賑わせてしまったからには説明責任はあると思うのでいくつか答えさせていただきたいと思います。
元記事を読んで不快になった方や、謎は謎のままがいいという方はUターンを推奨します。
まさにこれです。この記事にリンクを貼ると万が一バズってしまったときに謎のアクセス集中が起き、総本山(ニトリ)に激震が走らないかという危惧があったのだが、その結果がこれだよ!
そうこれを恐れているのよ。でも今のところネットニュースになったりみたいな騒ぎにはならなかったようで胸を撫で下ろした。
なんかもう1万回再生行ってるが俺が初めて見た3日前はせいぜい2000回だったような気がするけどそれとこれの因果関係は気にしないことにした。
記事への反応の中の指摘にもあるように、おそらくこのYouTubeの動画は時期が来れば消えるだろう。
そうなったあと、CMの内容を知らない人が一体どんなCMだったのか永遠の謎をさまよう事態になり、たとえ真実に辿り着いても、それを知った瞬間の失望を考えるととても哀れになる。
いやどう見てもお姉さんでしょうこれは…間違いない。
いや間違いがあると俺が困る。いろんな形の愛があっても構わないとは思っているが、こんな俺でも開きたくない扉はある。たとえもし間違いだとしてもその事実は俺が墓に入るまで俺の耳には入れないでくれ。
正鵠を射た指摘だ。マネキンを使うのではなく、血の通った生身の人間を人形のように捉えているところが良い。
ソファに着地した瞬間にわずかに体が揺れて人間らしさが現れるところが、頑張って人形してるなと思えてポイントが高い。
なんというか、ほんと、ありがとう…でも無理しないでねホントに。
俺の性癖を振り返ると、現実ではありえない非現実的なシチュエーションに置かれている女性という通底するひとつのテーマがあって、そのシチュエーションが謎であればあるほどツボを刺激されるようだ。
モノによります。たとえばこれなんかすごく良い。
Twitterで時間停止AVというものが流れてきたんだけど、なんか違った。それは、「時間を停止しますよ」と企画として断っているから、なるほどそういう話なのねと脳が納得して完了して冷めてしまう。
それに対しこのニッセンのCMは、何の説明もなく香里奈が停止していたり、香里奈が増殖してワチャワチャしている。この荒々しい世界観が素晴らしい。
同一人物が増殖するというのはフェチとして有名なのでわざわざ触れないが、増殖は特殊なシチュエーションとして非常にポイントが高い。
たぶん例のニトリのCMよりはわかりやすいと思う。ニトリとかニッセンとか家具屋フェチってわけではないよ。これで答えになったのかな。
ラピュタかあ。いいよね。普通に好きですよ。期待に応えられず大変申し訳ないが、特に下半身が反応したりはしない。
こうした質問があるのは当然だと思う。あんなCMでムラムラしたとか言ってたら、女性がふわりと下りてくるのに興奮する特殊性癖と思われても仕方あるまい。
たしかに空から女の子がってシチュエーションは唐突だ。しかし、ペンダントの石が光り輝いたことで空を飛べたというのは絵として十分な説明になっており、話として納得できるので、特に俺のフィルターに異常は起きない。
ちなみにラピュタで一番好きなのはシータをムスカのところから救出するシーンです。無駄な一般の感性アピール。
確かに変形というのもやはり非現実的なシチュエーションとしてポイントが高い。
https://www.nicovideo.jp/watch/sm28454420
このCMで女性がぞうきんをかけているとスーッと掃除機がけに移行していくさまが、妙に機械的な動きをさせられていて実に良い。
これも十分いいのだが、これと別に、細身の普通の女性が掃除機をかけているとぞうきんがけに移行した瞬間モーフィングで力士に変身するというバージョンがあって、その動画が残っていないのが返す返すも悔やまれる。力士のぞうきんがけのようなパワフルさをもった掃除機というコンセプトは理解できるが、女性が自身の体を力士に変身させられるというあまりありがたくはない役回りをさせられているところに強く心を突き動かされたものだった。
さっきから質問の答えになっていない気がしてならず大変申し訳ない。
さっきから例に挙がるものが全部CMだと言われそうだけど、CMはアピールの塊だからそれだけ注目を集めることしてくるからCMは危険よ。
このベッド欲しいな。掛け布団を片しておく空間を用意しないと駄目だけど。
お世話になってしまっといてアレなんだけど、家のスペース的にこのソファベッドは買えないかなぁ。同じ寝る&座るなら俺はコタツ派です。最後にしつこく一般の感性アピール。
sonzincさん
あなたは何も悪くないよ!いつかは貼られると思ってたから気にしてないよ!てか第三者が貼るならともかく俺本人が貼ると必死でキメェなと思ってたからむしろありがたいよ!
自分は、人を嫌いません。というと、周りからよく疑いの目を向けられます。いい子ぶっているのではないか、実際は人を嫌っているのに、自分で自分を否定しているのではないか、嫌いと言う言葉の定義を知らないのではないか。
自分からしては、なんで周りの人は人を嫌うのだろう、と逆に疑問を感じます。人を嫌っても、何もいいことなんてありません。人を嫌ったところで、自分の人生はバラ色に変わるわけではありません。嫌いな人が苦しんでいることに喜びを感じる方も多いかもしれませんが、そのことが自分の役に立つわけではありません。その人がなにかみんなのためになにか貢献して、失敗している場合、むしろ自分への影響はマイナスです。
人を嫌うことにメリットを感じないように思うのは自分だけでしょうか?むしろ、嫌いな人が回りにいる、ということで自分の心が灰色になるのではないのでしょうか?人を嫌っていないのでよくわかりませんが。自分は高校生ですが、嫌いな人と高校生活ずっといっしょに過ごすというのは、少し地獄じみている気がします。
毎日嫌いなものが食卓に並んでいたら、誰だって嫌ですよね?嫌いな食べ物を捨てるよりは、その食べ物を好きになったほうがいいのではないでしょうか。
また、嫌いな人のことをみんなで話すといったことをしている集団もいますが、その行為に意味あるのでしょうか?みんなで話すのは楽しいことですが、嫌いな人のことをみんなで話しても、より憎しみが増幅されて終わりなのではないでしょうか。
そもそも、人を嫌いになるほどのエネルギーを皆さんは持て余しているのでしょうか?周りの人を嫌って、そんなことに時間を費やしている暇があったら、勉強するなりしたほうが良いと思うのです。
人を嫌うことで得るものは、ストレスぐらいではないでしょうか。
人を嫌わない、それは難しいことかもしれません。人生経験の少ない高校生からみても、社会は広く、いろいろな人がいます。日常的に人を殴ってくる人、常に独り言を喋っている人、周りの人を巻き込んで現実逃避する人、例を上げればきりがありません。自分でもそういった人のことを苦手に思うことはよくあります。ですが、それが人を嫌いになる理由になるかと言われたら、ならないと思います。
自分は彼らによって迷惑を被ったのは事実ですが、自分も同じく他人に迷惑をかけていますし、迷惑をかけられたから恨んでいるようでは、迷惑で得たストレスを増幅していくただのドMになってしまうと思うのです。
それにむしろ、自分が彼らから良い経験を頂いたのも事実です。明らかに通常は得ることのできない経験をさせていただきました。その得た経験は、直接なにかの役に立つわけではありませんが、きっといつか人生を振り返ったときに、思い出として残るでしょう。
せっかくの80年ぐらいの短い人生(もしかしたらもっと短いかもしれない)なのですから、できるだけ珍しい経験をして死にたいと思うのは、ふつうのことではないでしょうか?折角の短い経験で得たものなのですから、悪い思い出よりは良い思い出のほうがいいでしょう。
でも、その人を嫌わないということに、違和感を覚える自分もいるのです。
人を嫌わないということに、その裏に隠れた事実を覆い隠していしまっているのではないかと。その人が本来やっていたよろしくないことすらも、すべて肯定してしまっているのではないかと。何もかも肯定して世界から目を背けて生きているのではないかと。
これは自分に対しても言えることです。自分は、人を嫌わないということで、何か自分に対して言い訳をしているのではないかと。
昨日も、ある人から言われました。「無理して嫌わないようにしているみたいで、キモい。」その場ではごまかしましたが、確かにその言葉は正鵠を得ていました。
自分は人を嫌わないということを言い訳に、歪んだ人間関係を構築してしまっているのです。常に人を馬鹿にして(もちろん自分では冗談のつもりです)、常に人を貶めて、それだけでしか自分と相手との会話を構築できない、歪んだ人間関係を。最悪です。基本的に何かあれば人を馬鹿にして、会話に困ったら人を馬鹿にして、ただのコミュ症を汚い言葉で覆い隠しただけの、最低の自分がそこにはいました。
周りの人が普通の会話(なんでしょうね?)をしているのを見て、どこか羨望を感じているのも事実です。人を嫌わないのを言い訳に、何も改善のための努力をしていないのに。
人を嫌っていないから、人の悪口をいくら言ってもOK。少し前まで自分はそんなふうに考えて行動していました。自分は自分に甘えすぎていたのです。
同時に人を嫌わないために、少し苦労しているのも事実です。自分のことを常にからかってくる人が、自分のことを常に見下している人が、失敗しているとき、苦しんでいるときに、良くないと思いつつ、やめないといけないと思いつつ、心の奥に、かすかな喜びを感じている自分がいました。
その気持ちは自分から生じたものであるが故に、嘘ではないことは確かです。しかし、それを認めることによって、自分の信念である、人を嫌わないが壊れてしまうのではないかと恐れ、その気持ちを否定してきました。
でも、同時に、そこまで自分に嘘をついていきたいのか、と思う自分もいました。自分に嘘をついて、自分に嘘をついた自分を自分と認めてもよいのか、と。嘘にまみれた自分は、もはや自分とは言えません。その2つの考えに挟まれて、どうしてもどうすればいいのかと悩んでしまいます。
また、自分は人を嫌わないということで自己満足に陥ってまっているのです。
人を嫌っていない自分ってすごい。人を嫌っていない自分って優しい。人を嫌わない、その自分の信念みたいなものを笠に着て、裏側で自己満足している。最低です。これなら人を嫌ったほうがマシかもしれない。そう思うことも多々あります。 そして、人を嫌わないことの裏側で、自分は人を無意識にでも道具として扱ってしまっているのです。人を嫌わない、そのためだけに人と腹を割って話していない気もしますし、人を嫌いになりそうな場面に出くわしたら、そっと目を閉じている。もはやなんのために人を嫌わないのかわかりません。本末転倒です。
そもそも、そんなことをしてまで人を嫌いにならない必要はないのではないかと、最近思うようになりました。あまりにも、人を嫌いにならないことによる違和感が大きくなりすぎて。でも、未だに人を嫌いにならないことをやめていません。
自分は、嫌われるのが怖いのです。陰でコソコソと悪口を言われるが。自分が知らないところで、自分が嫌われるのが。自分を知らない人が、自分と合わずに自分を悪い人だと思うのが。自分は、人からの評価に過剰すぎるのです。自意識過剰。自分は、自意識過剰の極みのようなものでした。
それゆえに、自分が嫌われるのが怖いから、人を嫌わないのです。「自分が嫌なことを人にしてはいけません。」自分は、小学校で教わったことを、未だに信じ続けているのです。自分が嫌われるのが怖くて。周りの人が嫌われるのが怖くて。自分は浅はかにもこんなことを始めたのでした。
ですが、今はその目的はあまり原型をとどめていません。今の自分はどちらかといえば自己満足の意味合いのほうが強いのです。
きっと、この世界に理想は存在しないのでしょう。優しい世界は存在しないのでしょう。だから自分は、優しい世界を作りたかった。
でも、自分は優しくはなかった。利己主義と自意識に満ち溢れたただの高校生だった。
この優しくない世界で、自分はどう生きるべきなのでしょう。答えがないが故に、自分は答えを探して、今日も自分は答えのない日常を彷徨っています。
「経頭蓋磁気刺激法」ってトレパネーションかと思ったが、Wikipediaにも項目あるくらいではあんだな。
ざっと目を通したけど、そっちにも「コペルニクス的転回」といわしめるもんはなさそうだな。
そもそも「コペルニクス的転回」なんて「天地がひっくりかえるほどの大転換んんんん~~~~!!!!!」
正直これ、引用箇所は学術的でない「断定を避けた」極めて曖昧な文章だし、
元増田の問いについても、文章題として低質でしょ。何を問いたいのか意図がつかめん。
「日本語読めてる?」に対して歴史的に発生した事象を調べさせる目的だとしたら、元増田自体わかってねえし。
かといって「その事象」というのがどれを具体的に指しているのか区別されていない。
三角関数ネタがまた流行っている。このネタについて前に書いた文章なのだが,Haikuが消えるそうなので増田に転記しておく。
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100文字だと言いたいことが伝わらないような気がするのでHaikuで。
今回の県知事の発言に対して「いやいや三角関数も役に立つよ」とか「確かに役に立たないけど進学には必要だよね」とか「〇〇も役に立つから教えるべきだよね」という意見は,全て正鵠を射ていない。
そもそも,「学校では役に立つことを教えよう」という考え自体が教育をゆがめることになる誤った考えなのだ。
一つ目の理由は,ジョブズの有名なスタンフォード大卒業式のスピーチ「点と点をつなげる」を読むとわかる。リード大学で学んだ「カリグラフの講義」という,おおよそ役に立つとは思えない授業で学んだことが,人生で大きな判断をするきっかけとなり,やがてそれが世界を変えることにもなった,という話だ。
人生において,学ぶことが役に立つか立たないかを,事前に判断することはできない。予想はえてして大きく外れるものだ。またある人の人生の役に立った知識が,ほかの人の人生に役に立つとは限りらない。あらかじめ役に立つと予想したものだけを学ぶことは,人生の可能性を大きく狭めることになる。
二つ目の理由は,基礎的な教科を学ぶ目的が頭をよくすることだからだ。
人は腕立て伏せが人生で必要だからやるのではない。腕立て伏せをすると,腕の筋肉が強くなる。強い体が欲しいからやるのだ。
数学のような「普通科のカリキュラム」は,受験のため進学のために学ぶものではない。それは論理的思考を身につける訓練をするために学ぶものだ。思考対象をモデル化し,抽象的な論理にそって展開し,結果を得るという作業は,極めて高い思考能力が要求される。それを繰り返すことにより人間の頭脳は鍛えられる。
複雑な運動をすると体と運動神経が鍛えられるように,複雑な思考をすると頭脳が鍛えられるのだ。
三つ目の理由は,効用を目的とすると教育の崩壊をうむからだ。これは私の考えではなく,内田樹が著書で述べていることだ。
たとえば,簿記の知識は人生に必要だ。だが,それを得る手段の選択肢としては「自分で簿記を学ぶ」と「簿記の専門家の知識を金を払って利用する」の二つがありうる。効率を考えると,後者を選択するほうが合理的だ。さらに効率を追求すると「簿記の専門家の知識をただで利用する」方法を模索するようにさえなる。
学問の効用を教育の目的としてしまうと,いかに少ない労力でその効用を得るか,という方向に人間の思考はむくものだ。たとえば大学の卒業の目的が「就職でのアドバンテージ」になると,いかに手を抜いて最小限の労力で卒業の資格を得るか,に学生は腐心することになってしまう。そして,これは実際に多くの大学で起こってしまっている。
教育の場では,能力の向上そのものを目的とするべきだ。そうでないと教育機関はその役割を果たすことができなくなる。学校では,むしろ「そんなこと学んで何になる」というような浮き世離れした学問をやった方がいいくらいだ。役に立つ実学は,社会に出てからも学べるのだから。
論点も明確、批判するべき問題点も明確なのに、どうしてあの番組はなくならないのだろうか。無くすにはどうしたらいいのか。
なんでそこまで考えなくちゃなならないの? と諸賢は思うだろうが、そこまで考えなければならないのだ。
ただ「ダメです」ではダメなのだ。だから十年連続ネットで叩かれようが番組は平然と続くし、日曜の日中のTBSのあのノリは続いて行く。
先に言っておくけどすぐには無理だぞ。すぐになくならないモノだと時代が証明している。
団塊世代なのかは知らんしここでは措くけど、あれを愉しんでいる人がいる限りは。
で、何が言いたいかと言うと、まわりに考えが古いやつがいたらちょっとずつ直すように話したりし向けたりコミュニケーションちゃんとしてますか?
なんでそこまでやらなきゃならないの? と思うかもしれませんが、ネットで「こうした方がいい」と思うのであれば現実でも行動するべきだ。
しかも、喧嘩腰じゃなくコミュニティの持続可能性を持ってね。俺もこれかいてるからには、地味に行動しているし、素人だけどそれ系の論文や雑誌読んで理論を学んでいる。
なんで自分が! と思うかもしれないが、気軽に正鵠を得るブコメするって言うことは、本当はそういうことにつながるんだぞ。ちゃんとしてるならいいけどな。