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はてなキーワード: KJ法とは

2022-10-06

anond:20221006163348

でも団塊は人の話聞かないからなあ。

自分の中で結論が出ていて、議論でそれを検証しようという気持ちが薄弱。

昔、熟議実験で一番邪魔になったのが団塊世代の思い込み強い人たちだった。

KJ法で出た意見を纏めている最中に噛みついてくるのは大体それ。

2022-07-20

anond:20220720000052

なぜタロットを使うかというと、細かい説明割愛するけど、タロットって色々カードの展開方法があって、時系列とか関係性とかを整理できるから単語帳を1本ひくよりも思考を整理するためのツールとして扱いやすいんだよなぁ。だから僕は単語帳じゃなくてタロットを使ってる。自分で一からツール作るのたいへんだし。

付箋1枚でアイデア整理するよりKJ法とか使った方が整理しやすかったりするじゃん。僕にとっては、そんな感じのただの思考整理ツールの一つだよ。

2021-09-08

から文を追加しようとするとき文章おかしくなる

哲学書とかが難解になるのにもこういうことが一因していると思う。

言いたいことを一通り書けたと思ってたところに付け足したい情報や主張が浮かんできたとする。

追記として分離して書くのが手っ取り早い方法だが文章プライドがある人間はこういうことを避けがちだろう。

なんとか元の文章調和するように思い浮かんだことを組み込もうとする。

たとえば文章自然な流れをまず考えてここだと思った位置に一文として挿入してみる。

するとそれでもなんか前後とのすわりが悪い感じがして、周辺の文が挿入文にマッチするように書き換えなければならなくなる。

そうすると書き換えた文がその前後調和しなくなってというふうに、連鎖的にリライト作業が増大していく。

テクニカルライターとしての文才などはない哲学者なんかは、そこらへんかなり妥協して、既存の文のどこかに連体節としてくっつけて完了させてしまう人も多いんだろう。それが欧文の直訳みたいな感じになってることにも関わってると思う。

文章妥協を許さないということにすると、元の文を一旦KJ法なんか使って意味の集まりとしてばらす必要が出て来る。

追加しようとしている事項も、意味の完結を単位として考えると一文として挿入するのは最適解ではない場合がある。

結局元の文をばらした言うなれば意味の集まりというべきものに対して、追加したい情報もばらして散りばめるなどして、元の文章とは流れとかリズムとか意味の配置なんかが全く異なるように再構築するしかなくなる。

そこまでしてやっとつぎはぎを感じない、元からそういう形で、そういう思考の流れで発展していったような文章ができあがる。

俺はそんなアクロバティックなことはできないのでタイトルのようなことが発生した場合にはまずます駄文改悪されて増田に送り出されることになる。

(それでも俺はあくまで言いたいこと全てをとりあえず伝え切ることを優先する)

2021-07-27

anond:20210727183029

KJ法じゃね、と思ったがあれだって自分が知らないものまで剔出できるわけじゃないからな

2020-11-24

こんなスターの使い方

とあるところではてなスターを覚えておきたいコメントのしおり代わりにしていると書いたら、スターしおりになるのか?みたいなメタ※があったので、自分なりの使い方を簡単に書いておきます

スターをよくつけるのは、ざっと見では把握しきれない、複雑な対立関係が見える話題とかですかね。その中でも自分と同じ意見をうまく言語化してくれた※、そのトピックの特徴的な※やトレンドの※、その考え方はなかった的な※、気に食わないが気になる※をおおよそ5:2:2:1くらいでつけてました。あと、資料へのリンクなんかにもよくつけてます。そうやってスターをつけておいたコメント時間ができたときテーマ単位でまとめて見返します。昔はそれを元にして、簡単な「意見地図」みたいなメモを作っていました。言い方を変えると、コメントを使って一人でKJ法みたいなことをする感じです。最近時間がないので、スターをつけっぱなしでほとんど見返してないですけど。

昔は2ちゃんねるブロゴスフィアを使っていたんですが、まとめサイトが出てきてからはとても使えなくなってしまったため結局はてなに落ち着きました。twitterほどのスケールがなくて、ほどほどに居心地もいいし。

2020-08-23

知的生産技術アップデートしたい

パソコンからスマホに変わったのと、エンタメの方が重要度が高くなっており、

かなり昔に一時期流行っていた知的生産技術というのが話題にのぼらなくなった。

軽く検索したところだと、KJ法京大カードグラウンデッド・セオリーアプローチ、MAXQDAなどのQDAソフト、といったものから進んでいない。


Web記事を読み、それを真似て文章を書いていると、佐藤郁哉の「7 つのタイプの薄い記述」に陥っていることが多い。

ちなみに「7 つのタイプの薄い記述」は下のようなものだ。

読書感想文型    主観的な印象や感想を中心とする、私的エッセイに近い報告書論文

ご都合主義引用型 自分の主張にとって都合のよい証言の断片を恣意的引用した記述が中心のもの

キーワード偏重型    何らかのキーワード的な用語ないし概念を中心にした平板記述報告書論文

④要因関連図型    複数の要因間の関係を示すモデルらしきもの提示されているのだが、その確実な根拠となる資料データほとんど示されていないもの

ディテール偏重型   ディテールに関する記述豊富だが、全体を貫く明確なストーリーが欠如している報告書論文

引用過多型     「生なま」の資料に近いものを十分な解説を加えずに延々と引用したもの

自己主張型    著者の体験談主観的体験が前面に出過ぎており、肝心の研究対象の姿が見えてこない報告書論文


こういったのに陥らないような方法が編み出されているのであれば、知りたいと思った次第だ。

2019-06-02

それっぽくないローマ字命名されたもの

KJ法

ブレーンストーミングで得られた発想を整理する手法

川喜田二郎により考案された

KKD法

プロジェクトの規模や工数見積もりに「勘と経験と度胸」を使う昔ながらの手法

あとなんかある?

2018-03-24

英語に見えるけどただのローマ字略語だった時のがっかり感は異常

KKD法・・・見積もり方法一種。「勘」と「経験」と「度胸」。自分が教わった時は「妥協」もあってKKDD法だった

KJ法・・・ブレーンストーミング等で出来てたアイデアをまとめる方法一種。発案者「川喜田二郎」氏のイニシャルから

2017-08-30

美大生と広告代理店就活

※この情報オープンにされていないため、あくま個人意見として情報を受け取ってください。

■はじめに

美大生が広告代理店へのAD職の内定を勝ち取るために必要なことは情報戦である

これから来年就活解禁である3月1日(一応来年度の解禁日も3月であると聞いた)に向けて作品制作をしている学生に向けて言いたい。

私自身はAD職ではない。同じ美大卒ではあるが、しがないWebディレクターをやっている。

ただ広告代理店や有名プロダクションAD職の先輩、後輩を多数知っている、多くのポートフォリオを見てきたものとして美大生の就活に物申す。

美大生のポートフォリオ

彼らの作るポートフォリオアイデアにあふれ、非常に面白い

売れるほどの立派な作品集である

100万かけて作品をつくる先輩もいる。

留年してまでもつくる先輩もいる。

学部で失敗して院へいって内定を勝ち取った人もいる。

学部でも院でもダメ留学して内定勝ち取った人もいる。

あっさり別業界へ行く人もいる。



これだけデザインという言葉が普及している中、学んだ発想法を活かして美大生は方々で活躍している。

広告を学んだ美大生が、広告代理店以外の企業へ行く人も多くなってきた。

逆に専門学校一般大の人が代理店AD職になっても良いのではと感じている。

それでも大手広告代理店求人特定美大に集中する。それはAD職に必要手法特定美大に集中しているからに他ならない。


■AD職への就活の基本

就活情報戦である

しかし、その情報を知るもの同士の世界はごくごく狭いものを感じる。

電通へ行ったタマビの○○先輩のポートフォリオ 」であったり「博報堂へ行った芸大の○○さんのポートフォリオ」であったりが彼らの間で代々流通している。

それが社会へ出たあとも代理店AD職や有名広告制作プロダクションデザイナー同志の交流は続いていて、定期的な飲み会が開催されている。

美大生は美大生の間で群れ、社会に出てもクリエイティブクリエイティブ同士でつるむ。

(そうでない人もいる)

交流は大切であるが、身内となってしまうと危険な面もある。

(オリンピックロゴ騒動が良い例である。身内同士でコンペをやっているようにしか見えないのは半ば必然であると感じた。)

参考:http://francepresent.com/hakuhodo/


■やるべきこと

美大生の就活作品がすべてである。そのためにはポートフォリオ必要不可欠だ。

(各社審査方法は違うがポートフォリオベース作品必要)入社した先輩のポートフォリオを集め、自分なりの作品を作ってゆく必要がある。

私はこれまでに自身就活した年の直近2~3年の電通博報堂ADK東急エージェンシー内定をもらったポートフォリオを見たことがある。

年代によって求められてくるものが変わってくるため、直近入社した先輩のポートフォリオを見ないことには内定はまずありえないと感じた。

就職課に置いてあるポートフォリオは古いものも多くあまり参考にはならない。

優秀な先輩といか情報のやり取りをしておくかが内定につながると言っても過言ではない。

感性"とか"センス"ではなく"知っているか"、"知らないか"である。


その知識の一つに”広告を作ってはならない”というものがある。


■ポートフォリオ広告制作を入れてはならない。

まずポートフォリオを見る審査員広告プロである

アマチュア広告作品を見せても粗ばかりが目立ってしまマイナスポイントとなってしまう。


それ以上に、AD職になるためには”自分”という一貫性が大切である

審査員に”自分”というものを憶えてもらうためだ。

自分という広告を作るようなものである

分かりやすく言うと自分ポートフォリオテーマを付けていたのである


まず、大学課題作品という記載は一つも無かった。

確かに3年生の課題の展示で見かけたものではあるが、むしろ自分作品テーマ課題に合わせているというスタンスである

外部のコンペで入賞した作品自主制作など意識が高いスタンスがうかがえる。これらの作品も、ひとつテーマに寄り添って制作をしている。


そしてもう一つの知識、”アイデア”を出すための方法を身につけることである


■広告業界必要アイデアを生み出す秘訣とは

制作必要アイデアを生み出すのは一人で考えていると思われがちであるがそうではない。

基本的には複数人数によるブレストである

そしてそれは同じ業界を目指すライバル同士で行っている。

アイデア発想法自体既存のもので、これはAD職だけでなくどの仕事へ就いても社会へ出てから便利だ。


・KJ法

オズボーンのチェックリスト



この二点がおすすめ。詳しい説明リンクを貼っておく。https://liginc.co.jp/life/useful-info/37016

そして彼らは日夜休み時間が来ると食堂に来てはポートフォリオに入れる作品制作の打合せをしている。

これは面白い、あれをこうすると面白くなるのではないか

毎夜毎夜、いつものメンバーが集まってブレストをしている光景食堂へ行くと垣間見える。

この協力体制こそ、アイデアを生み出すための秘訣であると言える。(そして身内化してしまう原因でもある。)


■まとめ

就職をするのは個人で行うものである

しか就活集団で行うものでもある。

一人ひとりが数少ないパイを巡って争うよりも、協力体制をつくれば醜い争いをしなくて良い。しかもより高みを目指せる。

しかし変化と多様性必要である。このまま特定美大のみが代理店AD職になることはクリエイティブ業界全体の不振や成長の遅れにもつながる。

広告代理店へ行ったから偉い、有名なプロダクションへ入ったから偉い。美大ADにならないと偉くない。という価値観が広がってゆく。

毎年行われている各校のオープンキャンパスはそういった先輩たちの栄光が嫌というほど聞ける。

結局入社しても過労で死んでしまう人もいるし、逃げ出してしまう人もいる。世間さらし者にされてしまう人もいる。

私にとってこの数年の広告クリエイティブ業界不振は堪えた。

同じ美大卒が、同年代が苦しんだのだ。

(自分がそこに居ないせいかホッとしている自分もいる)

そして根本の原因は上記の閉じた知識に表れるのではないかと感じた次第である

私は美大生の作品が好きだ。もっといろんな人に可能性が広がれば良いと思う。 

2013-03-30

好きを貫くのは馬鹿、新鮮さを貫け

公私ともにアイデアマンと認めるこの俺が創造力を発揮する秘訣はというと何と言ってもある1つの心構えにあると思う。

だいたい創造性開発といえば好きを貫けってことと、インプットアウトプットを増やせってこと、それからKJ法に始まる発想法を身につけろと、そういうことしか言わない。これでは本当の創造力はつかない。

スーパーIT高校生"Tehu"と考える 創造力のつくり方』も何か新しいことが書かれているかなと思ったけど特に書かれてなかった。ってか創造力について記述ほとんど無いだろこの本。

その心構えとは、これ「新鮮さを貫け」である

だいたい気付かないといけないよ。好きを貫くことによる視野の拡大ってのは実はその裏で視野固定化も孕んでいることに。

俺は世の中で素晴らしいとされているあらゆることが好きになれなかった。好きを貫けとか糞くらえと思っていた。だからこそ「新しさに目を向ける」ことに気付けたのだろう。

新しさに目を向ける、という発想こそが創造力開発の妙薬なのだ

暮らしのなかで積極的に新しさを見つけようとする。そのためには予想を立てることが不可欠である。予想を立てて現実と照合する結果、違いに気づき驚きが生まれる。

君は新しさに驚く日々を過ごしていますか?新しさは心の栄養ですよ。予想を立てないから違いに気付けずありきたりの日常に見えてしまう。

それから好きを貫いたり1つの目的目標のために身を粉にしたりすると一気に新しさが見えなくなってしまう。もっと柔軟にならないといけない。

音楽を聴く時もみんな「イイ曲」を探そうとするんだよ。それが駄目。イイ曲ってのは自分既存のモノサシでイイ曲ってこと。それでは視野が広がらない。

そうじゃなく「新しい曲」を探そう。本当に「イイ曲」なんて1000曲に一曲で、そのためにせっせとCD買いまくるのはご苦労なこったとしか言いようがない。馬鹿である。一種のギャンブル中毒スロット馬鹿と同じ。

そうじゃなく「新しい曲」を探そう。「新しい曲」であれば50曲に一曲はそういう曲が見つかる。新しさが無いかなと注意深く聴いていれば5曲に一曲はそういう曲が見つかる。

そうやってどんどん新しい感覚を心に取り込んで味わっている人と、固定したモノサシで「イイ曲」ばかり追い求めているとでは、心の豊かさに雲泥の差が生まれるのは言うまでもねえことだ。

facebookにも「イイネ!ボタンがあるがあれは「新しい」の意味で用いるべきなんだ。「良い」の意味で使うと心が狭くなる。評論家気取りで良い悪いを判定しているとまたたく間に心が死んでしまう。

少しでも新しい部分がないか耳を澄ませて生活しないと。パクリって言葉を多用する人間も危ない。あいつらは新しいものまでパクリ認定してる。

あれもパクリこれもパクリ連呼してる人間がさあ自分が作り手側に回ったとき何も出来なくなる。自分の首を絞めちゃってる。だから新しさに鈍感なヤローは何も作れないんだ。

これまで話を聞いてこう思った人もいるだろう。新しさだって1つのモノサシに過ぎないからそれに拘るのは視野を狭くするんじゃない?現代アートも新しさに拘って珍妙な方向へと迷走してるように見えると。

それはある意味正しいように見えるが現実には新しさを追及していけば1つの新しさだけでなく色んな新しさを求めるようになるから狭い視野に陥ることはない。

現代アートと言ってもいろいろあるが理屈に拘って迷走してる人もいるのは事実である。だがそれは新しさに拘っているからではない。新しさに拘ることで珍妙アートが出来るとすれば

それは新しさがマジョリティに理解されないからであって、それは視野が狭いのとは別問題である。発想法みたいに機械的に理屈でひねり出した新しさではなく、

ちゃんと本人の感性が新しいと感じたのであれば、それは同じ感性の持ち主には感動として伝わるはずである珍妙に見えても一部の人には価値あるアートなのである

好きを貫くデメリットをもう1つ書いておこう。それは好きには限度があるということ。例えば作曲家が「イイ曲」ばかり作ろうとしていたら必ず壁にぶつかる。

作曲センス技術が成長してどんどん「イイ曲」が出来ているうちは良いが必ずどこかで壁にぶちあたる。芸術家の苦悩と言えば聞こえは良いがはっきり言って自業自得馬鹿である

「イイ曲」ではなく「新しい音を追い求める」というスタンスでいけば一気に視野が広がる。「イイもの」以外は全部捨ててしまうのではなく、その中にも面白い音がたくさんあることに気付く。

「新しさ」を追い求めると興味が特定分野に限定されない効用もある。例えば、ポップスばかり作曲しててジャズに全く興味のない人が新しさを求めはじめるとどうなるか。

最初ポップスの中から色んな新しさを見つけようとする。だけどよくよく聴いてみるとジャズ要素の入ったポップスに新しさが見いだせるかもしれない。あるいはポップスの中に新しさが見いだせなくなって

他のジャンルも聴こうとしてジャズにたどりつくかもしれない。そうして自分の興味分野がどんどん広がっていくのが新鮮さを貫くメソッドの大きな効用である

そしてジャズの新しさを一通り取り込んだ心でまたポップスを色々聞き直してみると面白いことにこれまでとは違った聞こえ方がしてさまざまな新しい新しさを発見できるようになる。

そうやってどんどん新しさが見つかって心が広がって楽しみが尽きることがない。新しいもの探しをしない作曲家は駄目なんだよ。「イイ曲」ばかり作ろうとしてる作曲家感性が窒息死してしまう。

2009-10-08

下手な文章だと思わせない3つの法則

http://anond.hatelabo.jp/20091006192224

上の記事によれば、下手と思わせない文章を書くには「繰り返しを避ける」ことだけを気にかければ十分であるらしい。しかし、私はこれでは不十分だと思う。なぜなら、「繰り返しを避ける」ということの意味が明らかにされていないからだ。たとえこ法則を知ったとしても、実践することは困難である。具体的で実践的であることに注意すると、下手と思わせない文章を書くには、少なくとも以下の3点に留意する必要があるだろう。

  • "内容の繰り返し"を避ける(構成の段階)
  • 1文を"可能な限り"短く記述する(記述の段階)
  • 接続詞で文と文の関係を明らかにする(推敲の段階)

以下、それぞれについて詳説する。

"内容の繰り返し"を避ける(構成の段階)

下手と思われてしまう文章は、たいてい書きたい内容が整理されていない。同じ内容を、表現や話題を変えて何度も繰り返し書く。そのため、書かれた文章全体の内容の密度が低くなり、結果として読者に退屈な印象を与えてしまう。読者の眼を常に文章に惹きつけるためには、内容の繰り返しを避けて、文章全体の「意味の密度」を高める必要がある。

具体的な方法としては、MECE分析やKJ法などの論理的思考のフレームワーク活用することが挙げられる。これらを活用することで伝えたいことを排他的命題群として整理することができ、内容の繰り返しが起こりえなくなる。ただし、もしあなたがブログなどのちょっとした文章を書きたい程度であれば、文章を書く手を一旦止めて自分は何を伝えたいのか」「伝えたいことは幾つあるのか」と問うだけでも十分効果的である。

1文を"可能な限り"短く記述する(記述の段階)

書きたい内容が十分整理できたら、次はそれを文章にしていく。この段階で注意してもらいたいのは、読点を多用して無意味に1文を長くしないことだ。1文を長くすると、それだけ文に込められた意味が多くなる。人の認識能力には限りがあるので、あまりにも長いとその文が伝えたいことを忘れてしまうだろう。1文にはできるだけ1つの主張のみを割り当てて、意味を明確にすることが重要である。具体的には読点を多用しないことが最も効果的だ(注1)。

また、文を短くすることで、自ずとその文の種類が明らかになる。具体的には「断定」か「類推」か「願望」か「事実記述」かのどれかが明瞭になる。それゆえ、文末の表現も広がりが生まれ、元記事で指摘されていた問題も解消される。この法則もまた、記述の段階における「繰り返しの回避」の戦略なのである。

接続詞で文と文の関係を明らかにする(推敲の段階)

ひと通り文章が書けてきたら、文と文の関係を見直していくことが重要である。文章を読むということは橋を渡るようなもので、文の間につながりが無ければたちまち先に進めなくなる。下手と思わせない文章は、文と文のつながりが明瞭で読者に疑問を起こさせないものだ。

文と文の関係を見直す具体的な方法としては、すべての文に接続詞を挿入してみることが挙げられる。なぜなら、接続詞は文章間の論理関係を明示するため、文のつながりが不適切であればそれがすぐに明らかになるからだ。

挿入して不自然であることが分かれば、間に文章を加えるなり、文の順序を入れ替えるなりして調整していく。もしあなたがどの接続詞を使えば良いか分からないのであれば、それは文と文の繋がりを考えずに書いてしまったということだ。いちから書き直す必要があるだろう。このように、接続詞の挿入は書き手に具体的な修正案を考えさせる一種の指標となるのである

ただし、この手法はあくまでチェックのための方法であり、実際にすべての文に接続詞を挿入する必要は無い。むしろ論理の転換といった重要な箇所以外では、接続詞はできるだけ省略したほうが文章が滑らかになる。接続詞の詳しい扱い方については、野矢茂樹氏の名著『論理トレーニング』『論理トレーニング101題』を参照されたい。

まとめ

以上、私が考える「下手と思わせない文章術」について述べてきた。上の3点は一見するとまとまりが無いように思われるかもしれないが、実は文章を書く上で重要意識が貫かれている。

それは、「文章を書くことと内容を考えることは、常に一体である」ということである。

私たちが考えることは、ある程度ことばに影響を受けている。言葉なくして、人は自分の思考をまとめることはできない。したがって、文章が下手であるということは、考えていることが整理されていない証拠なのである。文章と内容のつながりを考えず、ただ表面的な修辞に拘っても文章の下手さはいささかも改善されない。文章を書く人には、常にこの点を意識していただきたい。

最後に、この文章はブログの記事にしては長く端的ではないので、下手な文章に該当してしまうかもしれない。もしあなたが、私の文章に問題があると感じるならば是非言及していただきたい。そこからまた有益な「文章術」が生まれてくるかもしれないのだから。

脚注

注1 : 「1文を短くせよ」と主張すると、たいてい提出される反論に「小説日記などのような情緒的な文章では、1文が長くて面白い文章もあるではないか」というものがある。しかし、その種の文章にも、実はこの法則は当てはまるのだ。小説における文章は、主に人の「認識と思考の流れ」そのものを記述するためにある。人の認識や思考はとめどなく続くものであるから、日常の文章よりもどうしても1文が長くなってしまう。小説の1文が長くなるのは、そうなる必然性がある。逆に人の思考や認識の転換を反映せずに、いつまでもだらだらと1文を続ければ、たとえ小説だとしても下手な印象を与えてしまうだろう。いかなる文章においても、文の長さの必然性を問い、可能な限り短くすることは重要である。

2007-01-10

まとめサイトはいらない

タイトル変更しました)

何かを始めようとするときにまずはいろいろ調べまくってその対象の全体像(経緯、歴史、現状、バリエーション、評判など)をつかんでそれを自分なりにまとめて理解するということから入ろうとする癖がある。今風に言うと「まずまとめサイトを作る、そうしないと何も始められない」というまとめサイト脳なのか。なんかよくない。そういうメタ的な位置に立つことで優位に立とうとする頭でっかちさとかがくだらない。この癖は多分受験勉強で培われたものなんだろうなー。大体の場合、まとめを作っている間に飽きてしまったり、「全然楽しくないな、俺なんでこんなことやってんだろ」とか思っちゃったりするんだよな。とりあえずブクマするとかも同じ。読み切れないくらいブクマして何も使わないの。

自分で処理しきれないほどの情報なんて意味がないんだよね。ついつい「KJ法」とか「マインドマップ」とか「手帳を変えると仕事が3倍できる!」みたいな、新しい情報整理術を見ると惹かれてしまうのも同じだと思う。これは結局、自分で実感を持って扱える以上の量の情報を扱おうとするから情報整理ツールなんてものが必要になるんだけど、本当はそんなツールがなくても把握できる量の、実感の湧く範囲の物事からしか強度のある仕事は生まれない。ある仕事をするために情報をまとめようとして、その情報をまとめる方法を調べるために情報整理術の本を読んで、どの情報整理術が良いか調べるためにインターネットの評判を比較する、なんてことをやってるうちに最初に何をしたかったとか忘れて俺は何やってるんだろうとか思うわけですよ。馬鹿ですね。

情報の限定が大事だと思う。だから情報の少ない田舎に行きたい。1ヶ月に一回町に降りて行ってインターネット図書館書店に行ければ情報はそれで十分だ。精神と時の部屋に入りたい。つーかこの記事にしたって本当はこんな記事を書くつもりじゃなくて調べものをしてたんだけど、その調べる対象をまとめるやり方がよくわかんないとか思いはじめて、でもそういうまとめサイトを作ろうという思考自体がよくないよね、とか考えだして書きはじめたもので、結局はこれ自体が「メタ情報処理術論」なんだよね。なんで俺はこんなの書いてるんだろう。死のう。

 
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