哲学書とかが難解になるのにもこういうことが一因していると思う。
言いたいことを一通り書けたと思ってたところに付け足したい情報や主張が浮かんできたとする。
追記として分離して書くのが手っ取り早い方法だが文章にプライドがある人間はこういうことを避けがちだろう。
なんとか元の文章に調和するように思い浮かんだことを組み込もうとする。
たとえば文章の自然な流れをまず考えてここだと思った位置に一文として挿入してみる。
するとそれでもなんか前後とのすわりが悪い感じがして、周辺の文が挿入文にマッチするように書き換えなければならなくなる。
そうすると書き換えた文がその前後と調和しなくなってというふうに、連鎖的にリライト作業が増大していく。
テクニカルライターとしての文才などはない哲学者なんかは、そこらへんかなり妥協して、既存の文のどこかに連体節としてくっつけて完了させてしまう人も多いんだろう。それが欧文の直訳みたいな感じになってることにも関わってると思う。
文章に妥協を許さないということにすると、元の文を一旦KJ法なんか使って意味の集まりとしてばらす必要が出て来る。
追加しようとしている事項も、意味の完結を単位として考えると一文として挿入するのは最適解ではない場合がある。
結局元の文をばらした言うなれば意味の集まりというべきものに対して、追加したい情報もばらして散りばめるなどして、元の文章とは流れとかリズムとか意味の配置なんかが全く異なるように再構築するしかなくなる。
そこまでしてやっとつぎはぎを感じない、元からそういう形で、そういう思考の流れで発展していったような文章ができあがる。
俺はそんなアクロバティックなことはできないのでタイトルのようなことが発生した場合にはまずます駄文に改悪されて増田に送り出されることになる。
(それでも俺はあくまで言いたいこと全てをとりあえず伝え切ることを優先する)
そもそも「書籍」という形式が悪いという面があると思う 本当に主張したいことはペラ紙1枚でまとまるのに、書籍というフォーマットで発表しようと思うと成立しないので 無駄に歴史...