はてなキーワード: 植物人間とは
あ〜死にたい。
ブラック企業に勤めているだとか
恋人とうまくいってないとか
そういう事柄で病んでいるのではなく
あとは身辺整理をしたりしている。
仕事は辞めた。
理由は単純、働きたくない
週5で8時間最低働かないと生きていけないの
たぶんここの時点で色々思い浮かんだ人がいると思うのでそれに対して自分の思うことを書いておこうと思う。
まず普通の人はだって生活していけないから、とかいうけども私は感覚がズレているのか、「働いてまで生きたくない」としか思えない。
なんでみんなまずそこまでして生きようと思うの?そこが理解できない。
親が悲しむだとか命を大切にとかよく聞く言葉はこの問いの答えにならないと思うし、また綺麗事なんか言ってんなぁ、どうでもいいなぁとしか思えない。
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・親が悲しむ
そりゃ欲しいと思って子供つくって産んだんだろうし育ててきたんだろうけど、(なんなら望まれない子だっているわけで)生まれて人生約80年勤労納税罰ゲームをさせるってやばくない?
自分には存在しないけど"我が子"を本当に大切に想うならうみ出さないことが一番の愛だと思ってしまう。楽しいこともあるだろうけどやっぱり悲しいこと辛いことのほうがどう考えたって多い世の中じゃないか。
「生まれてこなかったら楽しいことも何もなくなるんだよ」と言われてもうん。無くていいですとしか思いませんねぇ。トータルしてめんどくさいことの方が多いんだから無の方が良い。そういう人もいるんですよ。
で、そのワードでGoogle検索をすると、同じことを思う人は沢山いるわけで、Yahoo!知恵袋とかを見るとそれに対して様々な解答が書かれている。
だいたいまあ親のエゴであることはみんな認めていて、でもその分大事にしてきただとか、上記の謎の命を大事にしろ論だとか、色々書かれているけど「結局産んでしまったんだから許してくれ」と逃避しているようにしか見えない。こっちは産まれたいとか一言も言ってない。本当に迷惑。
生きたい人は生きればいいし、死にたい人は死ねばいいだろう。人にお互い押しつけず自己選択させて欲しい。生まれる権利があるなら死ぬ権利だってあるだろうよ。積極的安楽死を越えて超積極的安楽死も早く可能になって欲しい。
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・命を大切に
いやまあわかりますよ?命は尊い、五体満足で生まれてくるのだって奇跡ですよ。でも生まれてからは自分のもの。自分の体も自分のもの。自分のペンを捨てるのは自由なのに自分の体や生命のこととなると急に親から貰っ命なのに親不孝者だとか「親」というワードが出てくる。整形とかもそう。親が悲しむとか体に傷つけて酷い子だとか。
育てて、そのために仕事とか色々頑張って。
うん。わかったわかった。でもそれ自分が産むという選択肢を採ったからであって勝手に生み出されたこっちが文句言われないといけないの?したくなければ産まなきゃいいだけの話ですよ。
子供を産んだ人間が自分は悪くないと理由をつけたいが故にそうやってズレた、死ぬのがダメな理由を主張するんだろうと思っている。
もう一度言う。産んで育てたのが親でも
本人の人生は本人のもの、どうやって生きて死ぬかも本人が決めていいこと。
悲しむかもしれない。けど見返りを求めて育児はするものでないだろうし無償の愛を捧げられない人間はやっぱり子供をつくるべきではないよ。
感謝は勝手にされるものであって、してもらうものではないだろうし。
親のために親より遅く死ななきゃいけないなら
存在せず無の状態の方が気楽でいいと思うんだよなぁ。親だってまともな親もいればクズだっていて子は選べないんだから。いつだって綺麗事言うのは恵まれた人だ。
はい次。
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・ブログやら投資やら会社に行かなくてもゆるく稼げる方法があるんだから働くのが嫌で死ぬなんてバカだ!とか書いてるブログ系の人。
これが一番論外。
会社で働くより少ない労力で多く稼げる。
うん、わかった、魅力的だよ。
けど結局勤労をしているわけです。
この人たちはそれらに費やす労力を労力とみなさず楽しく無意識に頑張れた人か、労力だけど会社で働くよりマシだ、けど死にたいとはおもって思っていない人だ。
こっちは1mmも勤労に関わることをしたくないんだよ。さようなら。
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私は常に寝ていたい。体質もあってあまり長く起きていられない。ロングスリーパーどころの話ではない。長く寝たとて、起きていられないのだ。体力もない。病気もよくかかる。生まれつきだ。
健康保険証は友達。保険料払うより回収した額の方が多い。万歳!
その時点で普通の人より
その運動を軽くするための体力がないんですよ。
治せるなら治してるって。何年この身体で生きてると思ってるの?
ニワトリと卵的な話になるが、
体が弱いからなのかそもそもただ単にそうなのかは知らないが、精神も弱い。過食をしたり拒食になったり色んなものに依存したり精神系の薬飲んだりそこらへんは一通り経験した。それでも学校は不登校にならず通い、ストレートでそこそこ名の知れた大学まで卒業し、就職までした。世間の理想のレールにはのってきた。
なんなら気合いはなんだかんだあった方なんじゃなかろうか。
自慢の子どもとして生きてきた。死ぬほど上記の自傷行為?系やらなんやらしながらでもこなしてきた。今度は結婚と孫かな?知るか。私は体が弱いし上記のように反出生主義だし無理です。
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・では何が幸せなのか?
ずっと寝て意識がない状態がとにかく幸せで仕方がない。買い物をするよりも誰かと遊ぶよりもなによりも。うとうとしている時も心地よいけど
無で記憶がなかったと起きた後に気づくのが一番嬉しく、それと同時に目覚めてしまったという事実で鬱になる。起きたくない。なので次の瞬間からまた寝る。寝れる体質なので。のび太と眠りにつくまで選手権でいい勝負ができそうである。
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何回も無という言葉が出てきたが
何もないというのは、意識と感覚、自我が何もないの意味である。
たまにトンチンカンな人がじゃあ
ホームレスにでもなったらいい!とか
とか言うけど普通に衛生上嫌だわ。
もうそういうわけのわからん対処法にならんような案を出すのはやめてほしい。
ずっと眠っていられるなら別に生きていてもいい。ただ植物人間ってコストかかるし迷惑もかかるので、それならサクッと死んだほうがコスパ良くない?
どうせ死ぬとき自殺だろうと他殺だろうと事故病気だろうと誰かに迷惑をかけて、悲しませるのは変わらない。時期の違いだけだ。
若くて綺麗な間に死にたい。
若かったらまだ若いのに、綺麗なのにって夏目雅子とかダイアナ妃のように惜しまれることはあっても、歳とったら悲しくはあっても結局まあ長く生きたもんだなぁ、と淡々と思われるくらいだろう。
年齢で死の価値すら変わるように感じる。
死んだ価値がある方が死んだ甲斐があるなとふと思ったまでである。それこそ死ぬのだって労力をかけるのだから。
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それはそうと、
身辺整理、地味にめんどくさい。
部屋の片付け、多い服を捨て、今の時代なんか
インスタも最後に消す予定だ。
なぜ残しているかというと、もしも何かあった際、DMで最悪連絡が取れるからである。
ちなみに余談だがこの増田を書くためにわざわざはてなアカウントを作成した。まあこれは残したまま死んだとて問題はないだろう。
クレカ、水道光熱費も解約しよう、と思ったのだが、調べてみると死後、片付けや清掃をする際に電気がつかなかったりすると不便だと書いてあったので、なるほど、、、と感動し、仕方なく残しておくことにした。
できる限り自分でなくしておくほうが良いものは無くし、消していく。それらの行為を重ねるたび、確実に世間から自分が消えていっている実感が湧き、嬉しく思うのである。
とりあえずこれらのことをなんとなく最後に記録しておきたくなった。文才はないけど書く分には幾分か楽しかった。
それでは健やかなる夜を、おやすみなさい。
突然の脳内出血で祖母が死にそう。私が産んだ子供とまだ会ってないことが残念だし寂しいけれど、「おばあちゃんは長生きしたし、もう十分がんばって生きたよね。だから無理に延命措置して植物人間にするのはよくない」という気持ちがある。
「もう十分生きた」という気持ちはわたしだけじゃなく他の親戚も同じ。ひ孫もたくさん産まれて、今妊娠中の親戚もいて、どんどん新しい命が産まれるので世代交代していってる感がある。
いやいや、まだ死んでない。おばあちゃん
祖父はすでに亡くなっているから、祖母が死んだら母方の親戚とは疎遠になるんだろう。
今までは祖母の誕生日とかで親戚が集まってたけど祖母が亡くなれば会う必要がなくなる。繋がりがなくなり縁の糸がほそくなる。だって、私の伯父伯母も孫が産まれておじいちゃんおばあちゃんになっているし、そっち方面優先だから伯父伯母やいとこと会う機会も減る。
こうやって、人の流れは変わっていくんだな。
妹達が結婚するも私は一人で働いてる、という絵は学生の頃から漠然とイメージがあった
決して望んでいたわけではないが、その通りになってしまった
イメージを持ったから今があるのか、最初からこうなることに予想がついてたのか
今となっては分からない
35を過ぎ、38,39と過ぎてとうとう40になり、42を過ぎ、ついには44になってしまい
もはやいろいろ諦めていた
よく分からないがそういう運命だったんだろう、それもいいのかもしれないと悟りの境地に入りかけていた
それが突然、結婚することになった
マンガだったらなんだこのオチご都合主義にも程があると憤慨するところだし
いまだにこれは事故にあって植物人間になった自分がみている夢か、死ぬ間際の走馬灯で見ている幸せな人生の幻覚なんじゃないかと思ってしまう
逆に言えば、植松の理論は「障碍者は人間ではありません」という主張なわけだ。
まず第一に、心情がある。障碍者の息子が生まれたときに、母親に「これは人間ではないっすね~」とかアホか。そんなことにしたくない。
第二に、無知のヴェールで有名なロールズ的な判断、功利主義の理屈がある。もしも植松は自分が障碍者になったときに、自分が人間ではなくなったと認めるのか。そうではないだろう。だいたい、それはリスクだ。リスクは少なくすべき。
第三に、政治倫理思想面の困難も発生する。障碍者といったって軽度と重度がいるわけで、極論、メガネが必要な人は視力障碍者だよ。そのすべてをの非人間扱いするわけでない以上、線をどこかで引くわけだが、それはどうするのか? 植松は喋れるかどうかみたいな雑な判断で線を引いたけど、それが正解とは限らないよね。植物人間のときにも赤ん坊の中絶関連でも散々もめてる。答えなんかでるわけない。一律で人間扱いするのがベストだと思う。
いま盛んに報道されてる、植松批判の話も、だいたいは「障碍者が『人間』じゃなくなるのがヤバい」と言ってると思うよ。障碍者当人の言葉だったりするから、心情面に話がよりがちで、元増田みたいな考えの人にはお気持ちにしか見えないかもしれないが。
そんな日が来ることは絶対にないと理解しているのに、信じることを辞められない。
信じることを辞められるかも知れないけど、そうしたらその一ヶ月後ぐらいには首を吊っている気がしてならない。
子供の頃からずっと願っていて、いつか叶うと思いたいけど絶対無理だろう思いそれでも願い続けていた。
人生は終わることのないレースで、休憩時間はあってもそれは未来に向けてエネルギーを養う速度を競うもう一つのレース会場であることに気づかなければよかった。
長い長い休みは、自分で計画を立てて未来を築き上げることが出来るかどうかを試す最も人生に差がつく期間なのだと知るのは死ぬ瞬間がよかった。
せめて自分に人並みのことなら簡単にこなせる能力があって、それなのに何でもソツなくこなせるだけの凡人として振る舞えたのなら、もっと力を抜いて生きられただろう。
実際の自分は極めて無能かつ能力や精神のバランスも歪で、人並みの事が出来ない時もある代わりに時として凄いことをやってのけるポテンシャルを秘めているかのように振る舞わなければ社会に居場所を持てなかった。
とても疲れる。
生きることそのものがとても疲れる。
ただ生きるだけのことになぜここまでコストをかける必要があるのかと悩むこともあるが、結局人類がまだまだ貧しいだけなんだという事に気づいて諦める。
富裕層に対して流れている金が全て平準化された所で、それは60億の下流階級を生み出すだけで終わる程度の富しか人類はまだ蓄えられていない事実を受け入れるしかないのだ。
何とか生きるために何とか自分の脳力を鍛えて、社会に適応できているかのような振りをしてその日その日を生きながらも、いざ倒れてもしばらくは死なない程度の金を何とか貰ってはいるが、正直そろそろ限界だ。
倒れ込みたい。
倒れ込んだあとで、起き上がらなければいけないと急かされることなくずっとずっと倒れていたい。
多分、ほんの数日だけでも「もう二度と頑張る必要はない」と思いながら過ごせたのなら、それだけでもう十年ぐらいは頑張れるのだろう。
だがその日は永遠に来ない。
たとえ植物人間になったところで、何も聞こえていないフリをしながら顔見知りが自分に対して吐きかける愚痴を聞き流すことに消耗していくはずだ。
終わらない眠りの中でも、もしも起きたら会社に遅刻する寸前だったり、家が火事で死にかけていたりするのではという焦りを日になんども思いついては憔悴することだろう。
疲れた。
本当に疲れた。
疲れることに疲れた。
疲れることに対して疲れることがなくなれば疲れなくなるのかも知れない。