逆に言えば、植松の理論は「障碍者は人間ではありません」という主張なわけだ。
まず第一に、心情がある。障碍者の息子が生まれたときに、母親に「これは人間ではないっすね~」とかアホか。そんなことにしたくない。
第二に、無知のヴェールで有名なロールズ的な判断、功利主義の理屈がある。もしも植松は自分が障碍者になったときに、自分が人間ではなくなったと認めるのか。そうではないだろう。だいたい、それはリスクだ。リスクは少なくすべき。
第三に、政治倫理思想面の困難も発生する。障碍者といったって軽度と重度がいるわけで、極論、メガネが必要な人は視力障碍者だよ。そのすべてをの非人間扱いするわけでない以上、線をどこかで引くわけだが、それはどうするのか? 植松は喋れるかどうかみたいな雑な判断で線を引いたけど、それが正解とは限らないよね。植物人間のときにも赤ん坊の中絶関連でも散々もめてる。答えなんかでるわけない。一律で人間扱いするのがベストだと思う。
いま盛んに報道されてる、植松批判の話も、だいたいは「障碍者が『人間』じゃなくなるのがヤバい」と言ってると思うよ。障碍者当人の言葉だったりするから、心情面に話がよりがちで、元増田みたいな考えの人にはお気持ちにしか見えないかもしれないが。
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