はてなキーワード: 三角関数とは
数年前に結婚した妻を観察した結果をどこかに殴り書きしたく、結論のない文章を投下してみる。
良い国立大学の文系出身なので勉強はできたはずなのだけど、勉強自体にコンプレックスがあった様子。
まぁお互い30歳を超えているので、いい年の大人が高校の勉強どうだったのかなんて話すのはアレな気はするが、
思春期の記憶は強く人格形成に影響するらしく、数学っぽい話をすると拒否反応みたいなのが起きてしまう。
自分は理工学部の出身なので結構楽しく数学の話をする時があるが、そういうのを見て自分との差を感じて一人で辛くなってしまうらしい。
思い切って教科書取り扱いのある販売店に行き、数学の教科書を買ってみた。
ちなみに高校の教科書はすべての書店にあるわけではないが、教科書取り扱いの販売店なら一般の人にも売ってくれる。アマゾンでも買える。
買ったのは数研出版の高等学校シリーズで、教科書によって難易度の差があるのは知っていたが、何でもいいかなと思って目についた標準っぽいのを買った。
妻の数学理解度を確認してみると、数学1の二次方程式の解き方・不等式の解き方についてはかなり鮮明に覚えていた。
躓きポイントは数学2からの三角関数・指数・対数のあたりっぽい。
観察の結果、定義を定義として受け入れるときに、なぜそうなっているのか?というのを真っ先に考えてしまい、
あまり無味乾燥と感じる状態では理解を拒否反応を示してしまう、というのがあった。
例えば指数関数で、 (a^x)^y = a^{xy} なんだよ、というのを理解するのにどうして?というのが真っ先に思い浮かんでしまう。
初学者はまず定義を受け入れて、いろいろな練習や思考を重ねていくうちにどうしてその定義になっているのか、という順序で考えたほうがいいと思うのだが、
この順序でなかなか物事を考えられない。
定義がどうしてそうなっているのか、はある程度それ自体に親しまないとわからなかったりする。
こういう時は具体的な例を列挙して、これがただしそうだよね?という話をしてあげる。
こういうときは、実験を観察を繰り替えす自然科学のようなアプローチがいいと思っている。数学はもちろん論理的に厳密な学問なので定義の積み重ねの上だけでも議論できると思うのだが、高校の基礎レベルの理解だと体で納得できないといけないこともあると思う。
たとえば(a^x)^y = a^{xy} の正しさの確認なら、
(a^2) ^ 3 は a^2 * a^2 * a^2 = a * a * a * a * a * a = a^6 みたいに具体的な数をあてはめて、合っているねというのを見ていく。
なんとなくこの定義でいいんだ、というのがつかめてきたらそれを定着させるべくたくさん練習問題を解いてもらう。
大切なことは、一度挫折している人なので、事あるごとにほめること。
たすき掛け早い!理解が速い!いいね、合ってる、などとにかくポジティブにほめる。
逆にどれだけ学生時代に自信を失わせるようなことがあったんだと想像してしまう。
女子学生は昔から勉強してない自慢したり、集まってヤバイヤバイと言い合って安心する、みたいなことがあったと思う。
出来なければテストで悪い点を取り、親から・先生から怒られて、自信を無くすとどんどん数学自体に向き合えなくなっていってしまう。
数学に向き合えないと、勿論数学ができなくなっていき、授業も何言っているのかわからなくなり、ついていけている子から日を追うごとに差をつけられてしまう。
計算ミスが多いから、本質的な問題の理解に時間を割くことができず、学びもうまくいかない。
最初に数学が得意になるかどうかの分かれ目は、少しワーキングメモリーが大きいとか、少し注意深いとか、少し計算が速いとか、そういう差なのかもしれない。
とりあえず数2の範囲については章末問題が全て解けるようになった。
こころなしか、最初のころは私に「トラウマに向きあえ~~」と言われてイヤイヤやっていた感じがあったけども、自分ができるようになる過程を楽しんでいる感じがある。
別に彼女の仕事には今更高校数学を振り返っても役に立つわけではないが、週末には数学をやるのが定着してきた。
そのうちどこかの大学の入試問題を一緒に解いてみようか。自信にもなるだろう。
何歳になっても学ぶことは良い。
何に必要なのですか
沢山の可能性というのか、能力が未知の子供達の脳の発達に必要なんじゃ?
これからどの道に進むのか分からない子供達の行く末に必要になるかもしれない、
若しくは、今はまだ開花していないが、何らかの学問を進める事でその道(例えば数学や物理)で
開花するかもしれない子供達の為に、高等教育に到達する前の準備として、
んー、言葉にしようとすると長たらしくなってめんどくさい。
多くの人達は、三角比とか三角関数とか、微積分なんて卒業したら使わないよ。
(俺は仕事で少々使ったけど、学問の範囲から言ったらそれは微々たるものだと思う。)
だからと言って学ばなくて良いものかといったら、そうではないと思うよ。
色んな人が可能性を持ってい居て、誰が数学に関心が有るとか、数学の方面で伸びるとか、誰にも分からないだろうし。
それに、脳みその発達の為にも色々な事を勉強する事で脳に刺激を与えることになって、発達が促進されるとか言われてなかったっけ。
同じ事ばかりやってても脳の発達は促進されないような事を言われてたと思う。
筋力トレーニングも同じようなもので、毎回同じようなトレーニングばかりしていると、
筋肉に対する刺激が少なくて、発達しにくくなるから違うメニューを取り入れるとか。
家の子は将来音楽家になりますから数学は不要です、という親がいたとしたら、その通りにさせてみたい。
俺にとっては受験勉強がそんな感じだったなー。
だって古文(一生使わないであろう平安時代の日本語)とか数学(因数分解とか三角関数とか)
とかを何百時間もやらないといけないんだよ?いくら頑張れば良い大学に入れるからって、正気の沙汰じゃない。
もし欧米の子供たちが良い大学に入るために8世紀の古英語を狂ったように勉強してたらどう考えても時間の使い方がおかしい。
そんなこと言うと、努力する練習になるから~とか、将来ロジカルシンキングできるようになるから~って言われるんだけど、
受験勉強を避けてきた俺自身が今努力とロジカルシンキングを求められるプログラマーだったりする。
具体的に役に立つ内容だったらいくらでも頑張れるねん、と。
某トレーターの言じゃないけど分かってることとできることは違うわけだよね。
自分で問題を設定してそれを解くというときにはその分野の問題をどれだけ解いたかがやはり生きてくる。
問題を解くのでなく、解かれた問題の解説を読むというのであれば、たとえばああだからこうというふうに書いてあったとして、それは論理学の表現を使えばp⇒qという風になるだろうが、解説中にpとqは既に提示されているわけだから、あとはpとqを絡める公式なり法則なりを思い出しさえすれば確かにp⇒qは真だと納得できるわけだ。
pとqと二つも手がかりがあって(比ゆ的にだが)両側から思い出すべき公式なり法則なりが束縛を受けるわけだから比較的思い出しやすいというわけだ。
しかし問題演習の問題はざっくりいえば「p⇒x,xを求めよ」という類型なわけで、pはともかくqにあたるものは未知数なのだから、その少ない手がかりのなかでxを導き出すためにどの公式なり法則なりを適用すれば解けるのかということを考えなくてはいけない。
問題演習をしなくても最悪参考書を熟読すれば同じ分野の科学的な解説は理解できるようになるかもしれないが、自分で設定した問題を解くということについては問題演習を通じて、問題に応じて使える法則等を都度見つけ出すという練習をしないと出来るようにならない道理なのだ。
なんだか大学以降になると一気に「問題集」と呼べるようなものが少なくなる感じがする。
それは高校までに何度もいろんな教科で問題演習をしてるのだから、いい加減手取り足取り鍛えなくても自分で公式とかを見つけ出すことができるようになってるだろうという考えによるのだろうか?
ならいやいやそれはないでしょと言いたい。
高校でも単元が変わるたびにベクトルでも2II程度の初歩的な微分でも三角関数とかが入った定積分でも都度問題を解いてやっとできるようになったんじゃないか。それは高3の最後まで変わらなかった。
ようするに人間ちょっとでも扱う分野が異なればすぐ応用できなくなっちゃうものなので、また公式などを見出す力というのはいくら多様な分野にまたがって訓練を積んだところで次の新しい分野に活かせるような普遍的な力として身に付くものではないから、言い換えれば「貯金」が利くようなものじゃないから、大学に入ってからも当然新しい理論を学ぶたびにその理論を使いこなすために問題演習が不可欠なのだ。
これは反ワクチンの話にも通じる。
反コロナの中には専門家の言ってる難しいことは分からないから、たとえ根拠不明の噂話でもその人が発言力があって理解できる内容なのでその言説を受け入れて支持しているみたいな人もいる。
これもワクチンの効用なり副作用なりの原論文にあたって理解する力があるのならこうはならなかったはずなのだ。
さきほど解説は最悪問題演習しなくても理解できるといったがやはりこう高度な専門的な話を理解するのにはその分野の問題を自分でも解けるような力が背景知識みたいなものとして必要になってくるんだと思う。
cosineのcoは数学では「双対」という概念のことなんだよね。「余」とも言う。
だからsin(正弦)に対してco-sine(余正弦 = 余弦)となる。別に三角関数に限った話ではなく、ベクトル(vector)対して余ベクトル(covector)という概念なんかもある。
どっちがどっちの双対とみなすかは対称でどっちでもいい。なおtangentに対してcotangentもある。
tangentは極めて重要で、接線やそれを一般化した概念を表している。接線(接空間)というのは局所的な平面(平坦なユークリッド空間)のことであって、テイラー展開の1次項・線形化に対応すると思ってもいい。線形化というのは人類が何か物事を調べるときの常套手段であって、人類はそれくらいしか武器を持っていないとも言える。
sin、cosが便利な性質だから三角関数の代表になるのはわかるんだが、tanが必要?
というより
tanは何故sin、cosに次いで代表っぽくなっているのか?三角関数は他にsec、csc、cotがあるのに
という疑問の方が芯を食っているのではないだろうか
三角関数絶対必要マンの理系だけど、古典というか古文というのは言わば「言語史」だから、絶対必要だよ。
国語数学理科社会がなぜ必要かと言うと、それは単に「生活を豊かにしているから」とか「お金を稼ぐためのキャリアとして必要だから」というだけじゃなく、「私たちが生活しているこの社会が、一体どんな土台の元に成り立っているのか」の一端を知るということだからね。
狂人が「明日は槍が降る」と言うことと、天気予報士が「明日は雨が降る」と言うのは、明日の天気を自力で計算できない市井の民にとって、論理的には同等なんだよね。それでもなぜ私たちは狂人よりも天気予報士の言うことを信じられるかと言うと、それは地の教養が身についているから。「科学的に、槍が降るよりも雨が降る方が、概ねあり得そう」と判断できるには、それなりの教養が必要。かつて杞の国の人々が天が落ちるのではないかと憂いた「杞憂」のような集団ヒステリーは、現代社会では比較的起こりにくい。(たまに起こるけどね。)それを抑えているのが民の教養。
失礼クリエイターによる「マナー」の捏造を人々が批判できるのも同じ話。教養がなければ、言われたことを言われた通りに信じるしかない。
「言語は生き物である」という考え方も最近はかなり浸透して、誤用警察も随分大人しくなってきたよね。自然言語の変容という現象を理解する上で、「言語史」あるいは「古文」の知識は間違いなく必要になる。