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海外有名ゲーム雑誌ポリゴン記者ハシモトカズマさんのゴーストオブツシマ評
「安倍政権下で右傾化する日本は日本会議、桜井誠、靖国、歴史修正主義、教科書問題など数多くの問題を抱えている」
「右傾化する日本人政治家の軍国主義と侍の概念は深く結びつき切り離せないものとなっている」
「安倍はファイナルファンタジーのアーティストに自身を侍として描かせた」
「大日本帝国が利用した武士道は安倍を筆頭とする歴史修正主義者達に受け継がれている」
「名誉・伝統・勇気と言った武士道精神は実際には日本の軍国主義が生み出したモノ」
「背景を知らない西洋は侍を美化すべきでない」
「ゴーストオブツシマは日本のナショナリズムを増長させるために作られたとは思わないが・・・」
https://twitter.com/Polygon/status/1286300088315318273
「『あつまれ どうぶつの森』は日本の植民地支配を正当化するゲーム。日本政府が少数民族に何をしたのか知るべき」
https://blog.usejournal.com/animal-crossing-new-horizons-and-japanese-colonialism-6008d2e30574
千人が死ぬなら千五百人産めばいいの多死多産が国是の国で
たくさん生んでから殺して調整したほうが効率がいいって発想で千年以上過ごしてきた国じゃん
西洋の命が無条件に大事って倫理観を日本人が伝統的に受け付けてるとは到底思えない
千人が死ぬなら千百人産めばいいの多死多産が国是の国で
たくさん生んでから殺して調整したほうが効率がいいて発想で千年以上過ごしてきた国じゃん
西洋の命が無条件に大事って倫理観を日本人が伝統的に受け付けてるとは到底思えない
まぁそれはよいとして、
伝統的に使われている文字区切りなどが意味を無さないとかだけではなく
作品によっちゃいきなりトップにセンシティブな腐女子イラスト(マンガ)が出てくる
出てこない場合も何ステップかで腐女子イラスト(マンガ)に辿りつく
例:このイラストいいなぁ → 作者Twitter → 腐女子イラスト(マンガ)
それが良い悪いでは無く、むしろプラットフォームの規約に沿っているなら問題ないのでは?って思ってるが
総人口1万人とかになったら身軽になってなんとかなるのかもしれんが、逆に言えばそのくらい社会が崩壊するまでこのまま減り続けるような気がしてならない
そもそもさあ、伝統的な婚姻のシステムを破壊したわけじゃないですか 「政略結婚とかお見合いとかそういうのはクソだ、やめよう、自由意志で恋愛するようにしよう!」と
で、いまはその新しく打ち立てられたロマンチックラブイデオロギーを破壊しようとしてる 「みんなが恋愛を望んでると思うな、あんなん趣味だ、そもそも異性愛を前提にするべきではない、結婚なんてしなくていい」
これも間違ってる気はしない 自由が一番
でも絶対少子化には繋がるよなこの傾向 そりゃそうだ 恋愛・結婚あたりで助走をつけることなしに子供だけ欲しいって人はそんなに多くないし 愛の力(?)で突っ走って、あとは取り返しのつかない状況に流されてなんとか子育てをする それでなんとかやってきてたのに、みんな冷静になっちゃったわけだ
なんつうかもうシンギュラリティに賭けるしかない気すらする 移民だって本質の解決にはほど遠いし、もう人類が労働から解放されることで余裕ができて…みたいなシナリオに期待するしかない
まあ機械がなんでもやってくれるし人間以上に賢いって状況でわざわざ現実の人間なんかと生殖したがる人間がどれほどいるか?っていうのは疑問だが…
滅ぶのも手なのかもなあ 俺べつに人類が滅んでも困らねえしな 少子化で滅ぶってなんかカッコいいよな 知的かつ利己的で、生物としての本能に打ち勝った種って感じがしてさ 人間らしい幕切れだよ
増田は種の話はしてないぞ、文化の話(特定の人の伝統の話)をしている
それでも増田が「おれは種の話をしているんだ」っていうなら、
アメリカじゃ「進化論を事実として教えることを支持しない」という教育委員もいるくらいだ
小学校か中学校だったか忘れたが、何故かソーラン節をやらされていた。
当時は言われるがままにやってたけど、今考えたら変な思い出でしかない。
それなりの時間をかけて、あえて縁もゆかりも無いものを取り組ませるのよく分からないなあ。
ローカルなものを教えてあげた方が地域の伝統を学ぶ意味で良かったんじゃないのかな。
日本各地の伝統として、よさこいや阿波踊りなどとともに幅広く教わるならまだしも、比較的マイナーなソーラン節のみに集中してひたすら練習をさせられた。
生徒がソーラン節の文化性に共感するわけでもなく、ただただ大きな掛け声とともに踊る練習をし、発表をする。
授業だったのかすら覚えていないけれども。
一体あれはだったのか。
医師会や理研にさせず、自分の利権でやろうと言い出す児玉龍彦はやはり教祖様。https://t.co/gYf7w4xUYk— yossi-travel (@yossi_travel) July 16, 2020
リベラルやポリコレは基本的に強者が理想をふりかざしてマウンティングする思想。
弱ってるときに無理してやさしくなろうとするとよけいつらくなる。
伝統的な価値観に嫌な思いをしたこともあるだろうが、その時は別の場所に行って伝統的なポジショニングを目指したほうが小市民的にははるかに楽に生きられる。
「俺が責任を取る」って良くいうけれど、実際責任ってどうやって取るの?
https://manager-life.net/oyakudachi/thought_mindset/post_5455/
完全にポイントがずれている。
責任を「取る」なのか「果たす」なのか、みたいな言葉の問題にすり替えることで、本来考えるべき論点がよけいに見えづらくなっている。
「責任を持つ」という概念を簡単に定義すれば、「ある人Xは事業Pに対して責任を持つ」とは、「XはPの遂行に関して意思決定権を持つ代わりに、Pの結果についての責めの対象になる」ということだろう。
例えば、Pの遂行においてネガティブな結果が生じ、その結果によって不利益を被った人がいたとしよう。
その人がその不利益に対する原因を責め、何らかの償いを求めるときに、その責めの対象になるのが責任者であるXである。
責めや償いの要求に対してどう対処するかはケースによって異なるだろうが、よくある対処の形式は罰則の適用である。
減給や辞任や辞職(あるいは島流し、切腹、斬首、etc.)は、そういう罰の伝統的な型のひとつというだけのことだ。
その意味で、「責任をとれ」が「辞職せよ」を意味することがあるのは不自然でもなんでもない。
もちろん、普通その償いは、責任者が罰を受けるだけで終わるものではない。
説明、補償、今後の事業の改善のための施策など、やるべきことはいろいろあるだろう。
そしておそらく元記事は、そうした罰以外の「責任の取り方」に注目したいのだろう。
だが、「責任を取ることには罰を受ける以外の面がある」ということから、「責任を取ることは罰を受けることではない」などという帰結は出てこない。
要するに、
政治家など著名人が「責任を取るべきだ」と批判されるとき、しばしば「責任を取って辞任するべきだ」と同じことを意味している場合があります。このような責任の取り方は、果たして適切なのでしょうか。
この問いは本来「辞任は、ネガティブな結果を引き起こしたことに対する適切な罰なのか」と言い換えるべきものであって、「本来の意味での責任を取るとは、遂行義務を果たすということなのではないか」みたいな話にはなりようがない。