「俺が責任を取る」って良くいうけれど、実際責任ってどうやって取るの?
https://manager-life.net/oyakudachi/thought_mindset/post_5455/
完全にポイントがずれている。
責任を「取る」なのか「果たす」なのか、みたいな言葉の問題にすり替えることで、本来考えるべき論点がよけいに見えづらくなっている。
「責任を持つ」という概念を簡単に定義すれば、「ある人Xは事業Pに対して責任を持つ」とは、「XはPの遂行に関して意思決定権を持つ代わりに、Pの結果についての責めの対象になる」ということだろう。
例えば、Pの遂行においてネガティブな結果が生じ、その結果によって不利益を被った人がいたとしよう。
その人がその不利益に対する原因を責め、何らかの償いを求めるときに、その責めの対象になるのが責任者であるXである。
責めや償いの要求に対してどう対処するかはケースによって異なるだろうが、よくある対処の形式は罰則の適用である。
減給や辞任や辞職(あるいは島流し、切腹、斬首、etc.)は、そういう罰の伝統的な型のひとつというだけのことだ。
その意味で、「責任をとれ」が「辞職せよ」を意味することがあるのは不自然でもなんでもない。
もちろん、普通その償いは、責任者が罰を受けるだけで終わるものではない。
説明、補償、今後の事業の改善のための施策など、やるべきことはいろいろあるだろう。
そしておそらく元記事は、そうした罰以外の「責任の取り方」に注目したいのだろう。
だが、「責任を取ることには罰を受ける以外の面がある」ということから、「責任を取ることは罰を受けることではない」などという帰結は出てこない。
要するに、
政治家など著名人が「責任を取るべきだ」と批判されるとき、しばしば「責任を取って辞任するべきだ」と同じことを意味している場合があります。このような責任の取り方は、果たして適切なのでしょうか。
この問いは本来「辞任は、ネガティブな結果を引き起こしたことに対する適切な罰なのか」と言い換えるべきものであって、「本来の意味での責任を取るとは、遂行義務を果たすということなのではないか」みたいな話にはなりようがない。
「責任を取る」って、江戸時代以前は「切腹する」ってことだったわけで。 切腹する代わりに、家を子供に継承することが許された。 現在は家制度なんかすたれてるんだから、責任をと...