はてなキーワード: ベッキーとは
2年前のベッキーの不倫の時は、ベッキーを擁護する声はほとんど聞かれなかったはずなのになあ。
やはりTM NETWORK時代のファンが多いということかな。そういう自分も、ファンの一人なんだけど。
小室哲哉が不倫報道で引退するってなって「不倫なんて本人たちの問題」とか言い出す人が多くなってきて草生える。
はてなでは元からこういう言説よく見かけてたけど、ヤフコメとかツイッターだと不倫が発覚したら叩く人が大多数だったのに。今になって文春こそがゲス!社会悪!って言う人ほどベッキーとか宮迫とかを積極的に叩いてたんだろうなーと思いながら見ている。
そもそも「文春こそがゲス」って、そりゃ文春側だって自分が卑しい仕事であることを自覚してるだろ。文春からしたら何あたり前のこと言ってんだよってかんじじゃないのかな?
小室哲哉は積もり積もったものがあって文春の報道でダムが決壊したようなものだろうけれど、今まで芸能人の不倫ごときでワーワー言ってたヤツも同罪な^ ^文春だけが悪いと思ってんじゃねーぞ^ ^
みんなもっと自分が正しいのではなく自分自身が如何に下世話で卑しい人間かっていうのを自覚しながら生きてほしいわ。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180117-00005887-bunshun-ent
不倫報道の是非とか不倫が良いことか悪いことかなんて問題はこの際どうでもいい。今回の小室哲哉の不倫報道にはただただ不愉快な気分にさせられた。
ベッキーの不倫報道は笑えた。テレビで見せる健全なキャラクターとのギャップや「センテンススプリング!」という迷言、ゲスの極み乙女というバンド名、どう料理しても笑いになる要素ばかりだった。万人の下卑た好奇心を十二分に満たしてくれる、きわめて週刊誌的なゴシップだった。
ひるがえって今回の小室哲哉の不倫報道はどうか。元から特に健全なイメージがあるわけでもない小室哲哉、障害を抱える妻と6年にわたる介護、妻の実母への突撃取材。どの要素もまったく笑えない。ベッキーのときのように下品な娯楽として消費しようとしたのに、自分の親のセックスを目撃してしまったかのような、他人の恥部を見ているはずなのに自分の恥部を見せつけられているような、そんな気分にさせられる。きわめて後味の悪いゴシップだった。
週刊文春が正義のためにゴシップ報道をしているわけではないのは誰もが知っている。彼らがゴシップを報道するのは金儲けのためだ。そして、なぜ人々が週刊文春のゴシップに金を払うのかといえば、それはどんなに下品なものであってもゴシップ記事を読むのが楽しいからだ。この基本的な原則にそって考えると、今回の小室哲哉の不倫報道が週刊文春にとっても最悪なのは、読んでもまったく楽しくないという点に尽きる。先日の三森すずこの交際報道についても言えるのだが、最近の週刊文春によるゴシップ報道は単純に読者を楽しませる力が弱いという点で質が低い。いい気になって「文春砲」などと自称しているようだが、そのうちネット上でもはちまや刃と同じような扱いになっていくのだろう。
主張しておくのは以下。
(1):本放送は日本国内のTVの電波で流された放送であり、放送局は日本国内をターゲットとしてその放送の責任が発生する。
(2):肌を黒く塗ることに関して差別的な意図がある文化は日本では醸成されていない。
(3):黒人に対して悪な意図を持ってエディー・マーフィーに扮してはいない。
海外在住の外国人に差別だと言われる件については(1)により関係ないで通せば良いし、その責任を持つべきではない。
キャプチャとかYoutubeのアップロードとかほんとに知らんでよい。
放送を見た日本にいる外国人に対しては(2)(3)のことから日本では差別ではないので理解してくれと説明する。
国際的云々に関して、それって何?
自分は
・互いの文化やルール、表現を尊重し多様化を認めて許容すること
・上を踏まえた上で、衝突する場合はお互い一番傷がつかない落とし所を探ること
・上を踏まえた上で、自国の文化に沿って相手国の文化やルール、表現を自国の理屈で一方的に削ることを強要しないこと
・上を踏まえた上で、自国は外国の文化やルール、表現にあえて置換したり、並列化することで何らかの効率を著しく上げること
と思っている。
要は個性を認めた上で効率的にお付き合いできるようにしましょうである。
なので他国へ渡ったとき、その国の文化やルール、表現での拒否反応は当たり前であるし、理解を深めて許容すべきと思うし
自国は外国の文化やルール、表現に単純に倣うことは違うと思っている。
日本以外黒塗りが差別に当たるとしても、日本で差別では無い文化なら他国はまずそれを尊重すべき。
異国の文化やルール、表現のあり方を許容することも国際的というなら必要な感覚だと思う。
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その代わりにもっと大きな視点での外国人という括りに対して差別はあると思っている。
が、公的な表現媒体上でほぼ見ることがなく、ネット上の落書き的な場所や
リアルでの仕事や何らかのサービスを受けるときの対応に寄っていると認識している。
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ボクシングや相撲等格闘技、大好きな映画、漫画、小説すべてアウトになるよね。誰も得しない。
パワハラにも当たらない(と思う)。
ベッキー自体あんなことがありながらも本気NGな案件を強要されるほど芸能界の中で立場は弱くないし
現地点ベッキー本人は問題ないとしているのでこれを受け入れるしか無い。
千鳥のオールナイトニッポンを聴いた。
2017年を振り返るという企画。
今年も不倫が多かった。でもそもそも不倫はベッキーがやらかしたのがはじまりだと。
ベッキーが学生のころ痴漢をバンバン捕まえて駅員に突き出していたエピソードを思い出す。
なるほど彼女のしでかしたいわゆるゲス不倫は自らを犠牲にして世の中をクリーンにしたのだなと。
ベッキー以前ならば許されたケースも2017年は多かったはずだ。
そもそもベッキーの事件にしても有耶無耶にすることは可能だったし本人もまわりもそのつもりでいた。
だから最初はしおらしくみせようとおとなしくしてたしそのための記者会見は絶対にいやだという本人の意志も尊重した。
だけどそれが全部裏目にまわって長い長い間お茶を挽く羽目に陥ったわけだ。
そして様々な因果がめぐり、クリーンな芸能界にしてしまった。金玉をパンパンにするタレントが急増した。
この先彼女は色恋沙汰のたびにすごく慎重になるしむしろもう一生独身でいるんじゃないかと決意してるのかとすら思わせる。
そしてそうなるとタレント=セックスできない=結婚できないってことをより強く求められるのではないか。
小島瑠璃子などはそう決意してそうな気がする。というか逆に芸能界がよりクリーンになるきっかけは彼女の色恋沙汰で下手を打ったときだろう。
論点ずれるけど、ベッキーのタイキックを放映することで不倫問題への禊とし、視聴者の好感度を上げようという浅ましさみたいなのを感じて見ていて鬱陶しかった。
テレビ局がガキ使を利用してベッキーの復帰へのゴリ押しをしようとしているように見えた。
http://shiba710.hateblo.jp/entry/2018/01/09/073000
曰く「ダウンタウンは笑えない」「これからの笑いはレインボー」
よし、じゃあ俺が二度とレインボーで笑えないようにしてやるよ。これ見ろよ。
https://www.youtube.com/watch?v=re9yLZy6ftY
はいアウトー完全にアウトー。「性同一性障害の小学生を笑いものにするネタ」ですね!こんなことやってたらイジメにつながるよね!学校で「おっぱいが大好きですって言え!」ってイジられるよね!あとクリス松村に失礼。
でこのコンビ、「レインボー」っていうコンビ名といい、女装する方のネタ中の仕草があまりに板についてるとこといい、ひょっとしたらLGBT当事者?とか匂わせてる癖にこんなに配慮に足りないネタやるわけ。あー笑えない。もう全然笑えない。
みたいなこと書かれてどうよ?怖くなるだろ?レインボーを褒めたエントリこのままにしといたら不安だろ?「追記」とか書きたくなるだろ?要するにお前は怖いんだよ。ネットの他人からポリコレ棒で殴られるのが怖いんだよ。「弱者をイジる笑いを肯定する奴」ってレッテル貼られて、有象無象のポリコレネット戦士達に事あるごとに突き回されるのが怖いんだよ。だからもう、「ダウンタウンじゃ笑えない」って宣言しなきゃいけない気持ちになってんだよ。
去年の年末以来、ネットで山ほど「弱者を笑い者にするのは許せない!」って連中が湧いてるよね。でもあいつら根本的に勘違いしてんだよ。日本の「お笑い」って文化は、社会規範とか格付けとかモラルとか「正しさ」とか「行儀良さ」とか、そういうものから逸脱した個人や行為を見て、それに対して「笑い」っていうポジティブな反応をすることで、そこにいくばくかのシンパシーやらリスペクトやら、ものすごく広い意味では「愛」を見出すことなんだよ。
ダウンタウン松本が、若手芸人のどうしようもないネタにハマったとき、彼は顔をくしゃくしゃにして「こいつアホや」って言うんだよね。実際に世間にいたら/世間でやったら嘲笑されるか無視されるような「逸脱」に対して、彼は小学生みたいな(多分こどもの頃から変わってない)笑い方で答えるわけ。そんで罰金払ったりケツを叩かれたりする。全然見下していない。あれが「お笑い」の本質なんだよ、多分。
俺らだってこどものころは、貧乏な家の発達障害っぽいバカな友だちがケッタイな真似をすることに腹抱えて笑ってたのよ。でも大人になるにつれ、世界中のあらゆる人間関係を「上か」「下か」に分けて捉えるようになっていく。と同時に、「上」の人間が「下」の人間を笑うことが「嘲笑」にしか見えなくなってしまう。弱者やマイノリティは「下」、そして強者やマジョリティの笑いは全て「自分が上である」ことを前提とした嘲り、見下しにしか感じられなくなってしまう。見下すのはポリコレ的にアウトで、後ろ指を指されるし、これまで他人に散々後ろ指を指してきた自分の立場が脅かされる。だから笑えない。
だから、この世の全てが「上か下か」で、ポリコレ的に「上」である自分の立場を手放せない連中は、女であるベッキーがタイキックされたら大騒ぎするし、ウーマン村本が「権力に噛み付いて」見せたら大絶賛するわけよ。そういう連中はもう、「お笑い」ってものが理解できない体になってしまってる。じゃあいいじゃんもう。見なけりゃいいじゃん、で黙ってりゃいいじゃん。自分のポリコレ的優位性をアピールするためにお笑いをダシにするの止めろよ、見苦しいんだよ。