アメリカ移住して子供産む人って、最初からそれを覚悟してるものだと思ってたけど…
増田のようにいずれ帰国するつもりの人は、皆子供に日本語教材沢山与えて日本語のテレビ見せて
日本人の子供が集まる所にも頻繁に行かせて、日本語能力や日本人アイデンティティを育てようと必死だよ
そういう事やってる同類は周りにいなかったの?
つかまだ8歳なのに日本語は「少し話せる」レベルって、もう帰国予定がなく
子供は将来アメリカ国籍選択して日系アメリカ人として生きていく事が前提の育て方では…
そういう人はそういう人で、アジア系が多くてリベラルな風潮で差別されにくい地域を選んで住んでたりするし
もっと年食ったら普通の公立小は勿論私立の帰国子女クラスでも無理、インターとか入れないとならない子になるよ
その金あるの?
フェミニズムを女権の拡大ととらえるからイラっとするのであって
お前のようなもんとでも我慢して養ってもらう他に選択肢がない人生だけはいやだ
せめて自分一人で生きていかせてくれ、という叫びだと思うと、同病相哀れめないだろうか。
正直医学部入学はスタートライン手前の話、その後6年間医学を学んで卒業試験を受かって、国試も合格してようやく研修医を始めることができる、ここもスタートの手前。
2年間臨床研修医やって保険医の資格をもらってさらに後期研修。やりたい専門分野を選んで専門医の試験に受かってようやく医者のスタートライン。
最低でも10年くらいかかるけど6年間失敗してるならストレートで行けるとは考えられないよね。
きつい話だけどそのあたりもかんがえて来年受けるかきめたほうがいい
このまま別の大学行ったとして4年、新卒じゃないからどうせ派遣で働くだろうがまともな職歴得るのに5年、その後年齢がいっているからまともな会社に入れるかどうかはギャンブル。フリーランスで成功するかもギャンブル。どっちみち社会復帰するのに10年かかる上に医学部以外でもギャンブルになる上にリターンが低い。30手前まで医学部目指した奴は医学部受験を続けたほうがいい。30超えてまともな職歴ない奴は女にも相手にされないんだから。40超えてても医者ならそこそこの女捕まえて結婚して人並みの幸せはおくれるだろう?
普段は、「誰が言うかよりも、何を言うかが大切だ」って言ってるくせに、茂木健一郎が何か言ったら脱税ってレッテル貼りするコメントがスター集めるし、清水亮さんが何か言ったら月がどうこうってコメントがスター集める。
お前ら、結局のところ批判したいだけかよ。
自分は本当に吹き出す程面白かった時、役立つ情報だった時、自分がコメントしようと思ったのと同じ内容が数段洗練された表現でコメントされていた時、くらいしかスターを付けない。
気軽にバンバンスターを付けてるっぽい人はどういう気持ちでやっているのだろうか。
別にお金がかかるわけでなし、ポチポチするだけだけど、あまり積極的に付けたくはないなぁ。(自分のブログのブコメ全部にスター付けてる人の気持ちは分かるけど。うざいけど)
歩きスマホ、あんだけやめろって言われていて何でやるんだろ。依存症すぎる。
駅の階段でのろのろ歩かれると避けてぶつかった人同士の口論や怪我のもとになったり
手すりが使えなかったりするからやめてほしい。
下り階段でスマホ見てる人の前に歩いてる人さえいなければ蹴っ飛ばすのになあと思うことが多い。
あと歩かず止まってるけど道のど真ん中っていうのもやめて
旅行が嫌いといいつつ観光旅行しか述べてないからな。他の益田どもの反応も当然だろう。
観光旅行でなくともいいだろ。趣味のイベントに顔出すでも転地療養でもリゾートに入り浸りでもええんやぞ。
…移動が苦痛とは欠いてなかったよな?
今年のアカデミー賞短編映画部門の映画「合唱」だけど、日本語タイトルに異議あり。ぶっちゃけて言ってしまうと、ぶち壊しである。
原題は「Mindenki」(Everybody)、英題は「Sing」。無論原題の方がいいんだけど、英題でもまあ問題はない。しかし日本語タイトルは問題外だと言える。
なぜなら、映画のラストシーンのキーワードは「みんな」、そして「歌いなさい」だから。これらのキーワードがタイトルに設定されていたとするなら、観衆は「ある結末」を期待しつつ、作中のアクシデントの経過を見守ることだろう。
その結末は、ある意味予定調和的で、美しく、誰もが傷つかない、「いい物語だった」というカタルシスを与えてくれるものだっただろう。主人公たちが実力に見合わないような成果を得ても、それはフィクションのお話だから気にする方が野暮というものである(ただし正月に見た「天使にラブソングを2」に感じた違和感はコレだったが)。
しかし、この映画において、子供たちは聴衆の期待を大きく裏切る行動を成し遂げる事となる。これは大変重要なポイントである。なぜなら、この映画の価値、そしてアカデミー賞を受賞した理由の一つは、「期待を裏切ること」にあるからだ(少なくとも私はそう思う)。
こうした観点から考えると、日本語タイトルの「合唱」は、映画の内容をストレートに表現しているのにも関わらず、結末へのある種の「期待」を強く喚起することができない。結果として、日本の観衆はこの映画を、本来意図された(であろう)形で楽しむことができないだろう。残念だ。
なお、手放したところで平等にしてはくれない模様
レディースデーをなくしたところで賃金格差は変わらず、女性専用車両をなくしたところで痴漢はいなくならないし誰もそれを解決しようとしない。損するばかり
それどころか、それらをなくしたところで「あれもこれも男性差別だ!なくせ!」と強いられてきりがないだろう。今の男性差別論者は極少数だが「萌えアニメは男が出ないから男性差別」というのまで出てきた
「男女平等にしてほしければ女の特権を手放せ男性差別なくせ」と言われてそうしたところで、相手は男の特権を手放さないし平等になどしない。一方的に搾取されるばかりだ。
「女は都合のいい時だけ男女平等を求める」
若い女性は内省して「割り勘がいい」という人が増えてきたと思う
そういう男はどうなんだ?家事育児を女の仕事とみなし彼女に手料理を作ってもらうのも当たり前で男を立てろだのいうくせに割り勘や共働きなど都合のいい時だけ男女平等を求める奴、ゴロゴロいるんだけど
家族に対して「あなたがた」と呼んだら怒られた。自分は末っ子なので、一応丁寧語を使ったつもりだったんだが。。
相手が単数で目上のとき、「あなた」と呼ぶとなんか失礼になるっぽいので、名前を知っている場合は「○○さん」、名前を知らない場合は「そちら(さま)」とかでいいのかもしれない。
だけど相手が複数でなおかつ、ある程度親しい間柄のときに困るんだよな。
あまり親しくない人々であれば「みなさん」でいいんだろうが、友達や家族に対して「みなさん」はおかしいし。
全員が目下なら、「君たち」「お前ら」とかでOKだけど、一部に目上の人が混じっていると、そうもいかない。
どないせいっちゅーねん。
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ad2217さん「旧来の価値観からすると、家族は「あなた方」ではなく「私たち」だからだろう。意見の違い? そんなものあるはずがない。」
ああなるほど、家族は一体であるのだから、「個」として扱うなっていうことなんですかね。
気持ち悪いですね。
ベトヴェンの「第九」は日本人にやたらと人気があり欧米かぶれの一種の信仰みたいになっています。
何に歓喜しているかって、ようやく解放されたこと。つまりは中世封建社会からの解放という意味です。そういうと大概の人は思い違いをして、単に一般庶民が農奴の身分から解放されたことであるかのように思うでしょうね。
誰が何から解放されたのか? それは、賢い人が、既成社会体制に利用されるという「権力の犬」の身分から解放されたということ。
中世では、社会体制を疑う能力のあるような人は、普通に暮らしていてはならなかったわけです。社会体制を変える素養のある人が居てはならなかった。普通に定住して大手を振って暮らすことは許されなかった。
例えば、クラシック音楽というのは、教会音楽です。カトリック教会の布教教化に用いられる技術で、つまり社会統治体制を保つための技術です。ですから、その技術のタネを知っている音楽家というのは、世間に普通に暮らしていては困るわけですよ。
例えば建築家もそうです。教会のカテドラルの建て方を知っているような技術者が、その辺に居てネタバラシをしたら困るわけです。
こういう技術者達は、旅芸人の一座みたいに各地を転々とし、当地の権力者に利用されることで食っていたんです。これを「フリーメイソン」といいます。
それが、社会体制が変わり誰もが政治に携わる社会になって、社会体制を疑うことがタブーではなく、むしろ疑い批判することが必要な時代になりました。技術は特定の身分の人しかもってはならないものではなく、ネタバラシをすることもタブーではなくなりました。
賢い人は、世を忍んで一生を終えた時代から、普通に暮らしていい時代になり、ようやく日を浴びて大手を振って歩ける時代になったわけです。
中世は、知恵のある人は権力構造に組み込まれなければ生きていることを許されなかった。迫害の世の中でした。ヘイトされまくり。権力者は、都合の悪い人間を干して、地元の庶民をそそのかして嫌悪させていました。未だに、ユダヤ人が嫌悪されているのも、フリーメイソンが理解されないのも、もとはそういう経緯です。
賢い人がうっかり権力に都合の悪いことをしてしまうと、世の中から消されます。生きていることすら許されず、人間として扱われなくなりました。例えばマルティン・ルターもそうやって社会から消されて、カトリック教会の支配を嫌うとある領主にかくまってもらって何とか生き延びました。
ユダヤ人であれ、ピューリタンであれ、既成の社会体制に都合の悪い人々はヘイトされ、その中からアメリカ大陸に渡って生き延びようとした人も出てきたわけです。USAというのはもともとそういう国です。
それに比べて、日本人は、革命を知りません。デモクラシーやリベラリズムを知りません。
それどころかそもそも未だに、賢い人間は社会体制に組み込まねばならず、「踏み絵」に応じないような人は叩き潰されます。利用価値のある人間でなければならないわけです。
例えば起業家であれ、既存の社会体制に逆らってはならず、革命を起こしてはならないわけです。
芸能人なんか、社会体制に利用されることで食っていく職業です。うっかり真実を語ってしまってはならないわけです。山本太郎にしても、どこぞの資本家に拾ってもらって生き延びて、「民主主義」の時代だからうまく国会議員にはなりましたが、だからって結局はおそらく日本社会を変えられずに終わるんじゃないかという気がします。
会社の従業員にせよ、会社の存続と体制維持のためには、おかしなこともさせられますね。放送局も権力にシッポを振り、人気を利用し流行を捏造して売上を出し、生き延びるのに必死です。近年の安倍体制のもとでは、放送局も、そこの従業員も、平気でおかしなことをし、せねばなりません。そうして「美人女子アナ」でさえも平気でえげつないことを言ったりしますよね。
さて例えば、亀渕というニッポン放送の社長にまでなった元アナウンサーがいますが、村上世彰と戦わされたときの社長です。株主総会でも社長として矢面に立ち、フジサンケイの日枝体制を維持するためにメチャクチャな総会運営をしてまで逃げ切っていました。そのときの彼の姿を私は忘れられません。かわいそうでしたね。会社の従業員(正社員管理職)生え抜きによる支配体制を保つために、修羅にでもならなくちゃいけない。社長を退任してただの一介の批評家みたいな立場になってからは嬉々として活き活きしているようにみえます。
そして、社会の革命分子であったところの村上世彰にせよ堀江貴文にせよ、叩き潰されましたね。堀江貴文に関しては、ムショを出てからは、中途半端にしか目立たないところに居て、社会体制に逆らわずむしろ組み込まれるような感じで活動するようになってしまいましたね。
日本社会というのは未だにそういうところです。
愚かな人は自分の才能の無さを憂うのでしょう。けれど、実際に才能をもって賢く生まれたらもう、正しく生きていくことは不可能です。
悲惨な国です。そして、社会体制に組み込まれる人々と、ホイホイ釣られる愚民で構成される日本人というものは、実に卑しいですね。