日本もいずれかは滅ぶんだな…(;・∀・)
完全に否定的な内容でもなかったはずなんだが、
「そんなフィクションみたいな話はなかった!現実は残酷なんだ!」
と言いたがる人に利用された感じ。
地域による対立説か、でも本物のラッパーなら、こういう時それこそ相手をDisるラップでもするんじゃないの?
有名な人が最初に手を付けた、のではなく、無名の自分たちが地味に道を切り開いてきたというストーリーにしたいから、いとうたちは邪魔者なのか、と思っていた。
なんて事が可能なら、そもそも地方経済を気にする必要はないだろう。
地方から都市部や東京に移住させて、無人地帯は放置すれば問題は解決だ。
奇跡の一本松じゃあるまいし、死にゆくものを生かそうとする努力がどれだけ空しいか。
一人ワンオーダーって考えがなかったわ。
別に、だれか頼めば店にいてもいいじゃんって考え。
店にいるんだからだれか何か頼まないといけない。
って常識だ。
一人ワンオーダーなんて常識はなかった。
ってか、そもそもその常識はだれがきめたんだ?
バブル世代に大量入社したぼくらに会社を動かす役割が回ってきた。
しかし、こまったことにうまくいっていない。なぜだろう。
・実力よりも運がいいだけで好成績が上がったので、実力勝負の仕事ができない
・他社と競争する必要がなかったので、同業他社のことは知らない
・実力以上の待遇を得ているので、下の世代の待遇が一向に上がらない
・他の世代より緩い採用基準で入ったので、義務教育の内容を理解していない人が混じっている
・社会人になってから勉強していないので、知識や技術の教育の方法を知らない
・給与の原資が足りなくて資金がないので、設備投資にお金が回らない
・法には抵触してないので、実力以上の待遇を下げられないし、解雇できない
多分、後輩の世代が給料分以上に働いていないのが、悪いと思う。
これまで、順風満帆、破竹の勢いで人生を駆け上がってきたが、ぼくらの実力でこんなことになるはずがない。
ちゃんとぼくらが若かったときのように稼いでほしいと思う。
会社だと社風というか、ある程度性質が近い人が集まってるから、増田の勤める会社にそういう人が少ないだけって可能性もあるぜ
自分は某政令指定都市内で、新興住宅街(家賃・物価安め)→古くからある文教地区(家賃・物価高め)と引っ越してきたけど、どちらの街でもフリーペーパーの新生児コーナーはクラクラするような名前ばっかりだ
ただこれも、「このご時世に、全戸に配布されるフリーペーパーに、自分の子供の顔写真とフルネームを自主的に載たがせる人」っていう選抜された集団だから、キラキラ率が高くなるのかもしれん
されていて、笑ってしまった。
[とんかつQ&A「今だから抑えておきたいジャパニーズHIPHOPの歴史【入門編】」](http://blog.goope.jp/?eid=402)
アメリカで盛り上がるHIPHOP音楽の熱量に触れ、日本でHIPHOPをしようと動いた最初期のアーティストには、MAZZ&PMX、BUDDHA BRAND、Krush Posseなどが挙げられるんよ。
ラップ/HIPHOPの最・最初期のチャレンジャーとして名前すら上げてもらえないのは、何か理由があるんだろう。それが知りたいもんだ。
「いとうとか近田は単にファッションとしてとらえていただけ、そこに流れる精神を理解していたわけではない」という評価にしたいのだとしても、名前くらいあがっていてもいいんじゃないの?
日本には日本のラップがある、って言いたいようだが、本場でもがいてきたから本物、みたいな選別基準があるとしたら、自分が批判している為末と同じポジションになってしまう。
先週くらいの『ニッポン戦後サブカルチャー史』でいとうせいこうのラップを見て風間俊介が、「今とまったく同じですね」みたいなことを言ってたけど、
この人たちが最初に手をつけてたんで、
「ふーん」「そうなんだ」で済んでしまうことが、なんか許せない。
ただ、無視される人には無視される理由っていうものがあるんだよな、きっと。
好きでも嫌いでもない、むしろ嫌いな、藤原ヒロシやいとうせいこうのことで、こんなにムキになる自分もどうにかしているが。
【追記】
スネークマンショーについてはすでにトラックバックで指摘受けてます。この系統では小林克也の「うわさのカム・トゥ・ハワイ 」なんかもありましたね。
あと、近田春夫氏の"Hoo! Ei! Ho!"は、今日のダンス規制法解禁が議論されている折、もう一度見直されても良いものかと。それこそリスペクトすべきでは?
http://ja.wikipedia.org/wiki/Hoo!_Ei!_Ho! (Wikipedia)
【追記2】
いろいろヒントをもらったけど
「その一曲がアートフォームとしてHIPHOPであっても、自身が自身を B-BOY だと思ってるかどうかで分けてるのかなと。いとうせいこうは偉大だけど、多才過ぎて「色々やってるなかの一つ」感は否めなく。」
ただ、飽きたので辞めたと言っている近田春夫もそうだけど、当時はガチでやってた事実が現在に伝わっていないような気がするのは気の毒。
でも、彼らも藤原ヒロシも(さらに桑原茂一やヤン富田も入れとく?)も、多才過ぎて、ご本人たちは特に過去のことなんかこだわっていないんだろうな。
【おまけ】
10年も前に同じようなやりとり(?)があったことを今知った。
http://mimizun.com/log/2ch/hiphop/1073978976/
「ストリートにいた方が代表」とか「金持っている人に対するトゲ」とか、
「藤原ヒロシさんのことは悪く思ってないよ。 あの人だけは俺らの視線にまで降りてきてくれる人だったし。いいとこのボンボンだけどな。」とか、刺激的で面白い。
自分が子供時代に好きだった恐竜史的な話もかなり書き変わっていて、「そんな恐竜いませんでした」とか新たに注目されている新顔とか色々いるらしい。ただ、それもいつ覆るか判らないんだけど。
久しぶりにした。3時間。
さすがに2時間過ぎたあたりから足と腰がちょこちょこ痛くなってきたけど。
普通の本屋だとビニールかかってるのとか電子書籍だとまだ出てないのとかいつかネットで見かけたけど忘れてたのとかいろいろ見かけて読めて楽しかった。
たまにやると悪くない。
しょっちゅう趣味レベルになっちゃうといろいろ負担が大きいし読むものもなくなるからアレだけど。
昨日読めてよかったのはさよならフットボールの2巻(四月は君の嘘もこれくらいのボリュームのほうがよかったんじゃないかと思う)。
フットボールネーションの作者の過去作もあったけど、絵に癖がありすぎるのとお話とキャラが微妙ですぐ読むのをやめてしまった。
★子供の社会科教科書を見ると、堂々と「吉野ヶ里遺跡」と「三内丸山遺跡」が載っていて、
激しく「ジェネレーションギャップ」を感じてしまった。
というのも、われわれ世代(40歳代)にとっては、吉野ヶ里や三内丸山は「ニュースの事象」であり、
吉野ヶ里の「発見」が1989、三内丸山の「発見」が1992。
当時自分は大学生ないし社会人で、これら遺跡は「ニュースで知った」ものであり、「教科書で知った」ものではない。
たぶん、今の40代より上の世代は、教科書でこの2つは習っていないはず。
なので、今の40代とか50代では、吉野ヶ里や三内丸山は「そもそも知らない」という人の方が多数派なんじゃないか?
これら世代で吉野ヶ里等を知っているのは、地元民または観光業界人または歴史マニア。
という訳で、
「遺跡が見つかるキッカケは、公共工事や商工業開発が多い」という「生きた授業」を子供相手に展開してやった。
★我々の世代は、せいぜい「登呂遺跡」を覚えておけば、事足りたと思う。
一方、今の子供の世代は、登呂遺跡以外にも吉野ヶ里とか三内丸山とか、覚えることが増えて大変だなあと同情してしまう。
吉野ヶ里とか、工業団地開発を計画しなかったら、遺跡は見つからなかった=教科書の記載も減ったわけでして。
・・・と書こうと思ったら、「登呂遺跡は、教科書によっては、記載を外しているケースもある」らしい。
子供の記憶容量は有限だから、教科書記載事項を巡る「競争」は激しく、スクラップ&ビルドも激しいらしい
・・・となると、おじいちゃんおばあちゃんが、孫を連れて静岡に行って、「これが有名な登呂遺跡だよ」と案内しても、
孫が「何それ?習ってないよ」という世代間すれ違いの悲劇が発生してしまう危険性がある。
※というか、実際静岡の人のブログを見ると「子供の教科書に載ってなくて会話すれ違い」報告有
★「一番歴史学習が大変だった」世代は、「1999頃に歴史を学習していた世代」じゃないか、という気がする。
あの頃は三内丸山も教科書に掲載されたうえ、旧石器時代の記載も「充実」していた。
→その後、毎日新聞のスクープで、旧石器時代の殆どが教科書から削除された
吉野ヶ里や三内丸山クラスの遺跡発掘のニュースが、この20年間聞こえてこない、
そのこと自体が「失われた20年」を象徴している。(公共工事激減と比例)
・・・或いはアベノミクスで、再び吉野ヶ里クラスのが見つかるか?
★登呂遺跡の件、もう少し調べてみたら、実は「登呂遺跡の教科書記載」そのものに「政治的な意義」があったらしい。
登呂遺跡発見の「政治的意義」とは、「日本書紀記載の年代以前に、東日本に稲作が伝わったこと」の立証。つまり「日本書紀の否定」
まあ、実際の学問レベルでは、日本書紀を否定する研究もされていたのかもしれないが、それが義務教育教科書に掲載されることがなかった。
義務教育には日本書紀や古事記が掲載され、子供は歴代天皇の暗記を強要された
つまり、「日本書紀・古事記・歴代天皇暗証の「偽歴史」を教育する」、そういうナンセンスな歴史教育は終了した、
そういう「歴史教育民主化・自由化」「もはや戦前ではない」のシンボルとして登呂遺跡が存在した。天皇の人間宣言と同趣旨
となると、直近の「登呂遺跡の教科書引退」の政治的意義は、歴史教育において「もはや戦後ではない」とアピールする効果。
登呂遺跡の「政治的役割」は、歴史的意義を終えた、ということなのかもしれない。
※GHQが必要以上に登呂遺跡の「意義」を強調するよう、教育介入したような気もする
★縄文時代、旧石器時代の存在は、日本書紀や古事記と真っ向対立。
多分、戦前の教育では縄文や旧石器時代は存在しないことになってた
だから、最大70万年前の旧石器時代の遺跡を発掘した「ゴッドハンド藤村某」などは、世が世なれば不敬罪になってたんじゃないかと心配する。
そもそも日本書紀や古事記の世界では、神がイザナギ・イザナミを作って、それから世界が出来た。
→多分、戦前は「恐竜の存在」は義務教育では認められなかったのではないか?
そう考えると、恐竜をモチーフとした「映画ゴジラ」は、イザナミ・イザナギの世界観を否定する恐竜をモチーフにした、ということで、極めて戦後的な気がする。
最近多いと言われてるが
会社の社内報に掲載されている新生児お祝いとか見てると奇抜な名前はあんまいない
…てか全くいないと言っていいくらい
ごく少数を槍玉に挙げてるだけなんじゃね?
苺愛と書いて”べりーあ”!? 2014年上半期キラキラネームランキング発表 | ニコニコニュース
http://news.nicovideo.jp/watch/nw1248452?ver=video_q
火星 じゅぴたー
さすがにこれはどうかと思うけどw
何度も言ってることだけど、キラキラネームを嫌悪する風潮がセカンドレイプを生み出してることにいち早く気づくべき。言葉狩りはバカの三大特徴の1つだが、名前狩りも言葉狩りの1つだかんな。
セカンドライフが良い例だ。セカンドライフはなぜ一時期しか話題にならなかったのか?一方セカンドライフに類似したマイクラは何故こんなにも人気があり愛されてるのか?
そしてセカンドライフ社がマイクラのパクリゲーを作っても売れなかったのはなぜか?すべての答えは「セカンドレイプだから」で説明できる。
話を戻そう。DQNネームには悪魔ちゃんのような子に対する愛の感じられないものは確かにあるさ。記事にある黄熊(ぷう)も愛がないと解釈する余地がある。たとえ愛があっても名前とは一人歩きするもの。誤解の余地あるネーミングは悪だとプログラミングの先生は言っていた。
でもさなんで苺愛(べりーあ)や七音(どれみ)まで非難する人がいるの?またキラキラネームをバカDQNと結びつけたがる奴が多いのもなんなん?w
世の中を動かすのはいつだって頭がよくて金があって世界を俯瞰的に見れる一部の特権階級の人間、というのは過去の話さ。今は多数派の衆愚の力が強すぎる。だからどげんかせんといかんのですよ。
21世紀は美術の世紀なんて言ってたアーティストがいたけど、アートや作品の類いのものでは世の中では動かない。運が良くても一時的に消費されるだけ。
話を戻そう。いわれの無いキラキラネームに対するイメージダウンによってネーミングの自由が失われている。アタマのカタイ世の中だなと思いますよ。
なるほどキラキラネーム批判も自由だが、「他者の自由を侵害する自由」もあるが、それが数の暴力と結びついた場合は話が違ってくるのです。
われわれは寛容の心をもってキラキラネームを受け入れねばならないステージに来ているんですよ。今の人類が直面している時代とはそういう時代なんです。