はてなキーワード: 善悪とは
新聞記者が障害者が助けられても感謝を言う必要が無い理由を、店員が客に担々麺を掛けた例で説明、「意味不明」との反応が集まる
いわく“社会は健常者用にできていて障害者は不当に割りを食ってるんだから、健常者が障害者に手助けするのは被害回復でありそこに感謝はいらない”
これが意味不明だと言われてるのだそうだが何も難しくはないだろう。むしろその逆で幼児の頭で考えたような単純な理屈だ。もちろんクソの役にも立たない。
こんにちアメリカの大分断を生んでいるのはひとえにMAGAトランピストのキチガイぶりによる、わけではない。争いには相手がいる。一方の「リベラル」勢力が依拠するのがこの原罪思考である。インディアンを駆逐して国土を簒奪した移民の子孫が、ニューカマーを「不法移民」と断じる権利はないという価値観。
エンジニア的な、問題解決型の思考と行動様式である。うるわしき伝統を崇めるより自分の手で不断に社会を改善していく。選挙以外にも多様な機会・手段を捉えて。ただし安易な暴力的手段に流れず。
それでなにか理想の社会を実現しようというのではない。そこまでやってやっと平常運転が保ち得るという諦観がベースにある。
そこにおいて障害者を助けるというのは贖罪なんかではない、単なるチームプレーの一環である。お互い助け合う集団のほうがトータルで強いに決まってるからそうするのだ。
罪深き我々と哀れな犠牲者という(実はめちゃくちゃ上から目線の)関係でなく、対等なマイトシップの発露以外の何ものでもない。
もちろん被支援者は「ありがとう」を発することに、より正確にはいちいち他人の手を借りなければならないことにストレスを感じている。
でもそのことが問題になるのは例えば災害被災者のようなケースだ。
機能回復の見込みがない身体障害者は、そういうことについてはある意味覚悟ができている。乙武洋匡の図太さとかあっけらかんとした態度を見よ。
バリアフリーにまつわる事案は、基本的に銭勘定と技術マターだ。「ありがとうと言え」とか「ありがとうというのも辛いんだ」とか、そんな枝葉末節の感情的要素ばかりに着目する意味がない。
なんでも善悪や感情の話にしてしまう、悪しき心理化のパターン。
そもそも我々みんなが現代文明の技術によって生かされている。助けてあげる側・もらう側などという別は存在しない。
「誰かが騒いで闘わないと何も変わらない」とかいうたわごともバカの口に膾炙しているが、化成肥料の製造技術は弱者のために闘って勝ち取ったものではない。軽い車椅子だってそうだ。単にニーズに応えて優れたものを作ろうとして作っただけ。
車椅子で不便したというインシデントがあったらじゃあ具体的にどうすればカイゼンできるのかなと考えるべきであって、誰かを吊るすことしか思いつかない能無し正義マンはお呼びじゃない。
ヨブ記を読みました。
福音派は「サタン」を悪魔とするようですが、ヨブ記のサタンはおそらく神の遣いであり、悪魔ではありません。
人に善悪とはなんたるかを示すのに、「悪魔」という概念が必要なのか甚だ疑問です。
道徳的に非のない暮らしをするヨブに、サタンが試練を下し、「なんでこんな目に」と苦悩します。
さて、ヨブの前に現れた神ですが、グッドオーメン2で見ていたのと似ていました。
神がなにやらよくわからない不思議なことをいうので、ヨブは少し困っているように見えます。
天地創造について人間は知りうることがないので、無知に対して悔改め、神を畏れよというわけです。
私はヨブと議論をした友人たちが、本当に嫌な奴らだなぁと思ってしまいました。
ヨブに訪れた試練はサタンによるものですが、それを知る由もありません。
そのときに、ヨブの行為を疑って、ヨブをいじめているのは本当に見るに耐えないものがあります。
つまり、なにか苦しい思いをしている人に対し、信心深い人が「なにか罪を犯したのではないか」と疑うわけです。
その人は試練を受けているかもしれないのです。
ところで、自然災害が人の命を奪ったときに、それを「試練」と言うことができるのか、とふと疑問に思いました。
ヨブに起きた試練はあくまでも「命を奪わない」ことを前提とした試練です。
無実の人の命を無差別に奪ったのであれば、それはおそらく罰でも試練でもないでしょう。
日本人であるから、ノアの法を守れば神に認められるらしいです。
私は善悪や知恵には、単なる好き嫌いや相対主義を超えるものがあると考えています。
しかし何が「絶対」であるのかは全くわからないので、歴史的テキストとして聖書を学んでいるのです。
それを学んだことによって布教をするつもりもなければ、○○教徒であると言うつもりもないし、特定の民族に気に入られようと考える気もありません。
まだ学び始めて浅いのですが、これまで読んだのは、創世記、モーセ五書、箴言、コヘレトの言葉です。
実用的側面から、箴言・コヘレトの言葉・そしてヨブ記を読みたいと思ったのです。
なぜ実用的と思うかといえば、歴史的に残された「知恵」が現代に通じるのであれば、普遍的善悪について何かがわかるかもしれないからです。
私は「聖書の教えを守って神に認められよう」と考えているわけでは必ずしもありません。
それを「知恵」と呼ぶのであれば、善悪を判断したり、円滑に生きるために役に立つと言える何かがあると思うわけです。
いくつかの道徳や宗教が陥りがちな「相対主義」についていつも疑問に思います。
相対主義が極端な形になると、「倫理は人それぞれ」などと言い始める可能性があります。
すると、殺人を肯定するような価値観も「人それぞれだ」といって許されるということになりかねません。
善悪について気にしなければならない理由、と言われてもすぐにはピンときませんが、少なくとも悪人にはなりたくないでしょう。
私は自分の遺伝的性格から、倫理的判断が苦手であり、それによって様々なトラブルを経験してきました。
そうすると、何が正しくて何が間違っているのか。それを知りたくて懇願しています。
世の中には、まるで蛇のように曲がったことを言う人たちがいます。
俺自身は反出生主義がそこまでヤバい思想だと思ってない。苦しみを絶対悪としてそれを避けようとするなら、最初っから生まれなきゃいいじゃんって理屈になるのは筋が通ってる。俺自身も、最大の苦痛である死がいずれ必ず訪れると知った七歳のときの絶望感を覚えている。あの時はどうして俺は生まれてしまったんだと叫びたかった。
なぜ生きている/生きてしまっている/生かされてるのかって驚きこそが、哲学の始まりだ。
それに野良犬なんかの管理で「不幸な犬を増やさないために」って去勢するのと理屈とどう違う? あるい出生前診断や重い障害を持つ人々を重荷とみなす世間のまなざしなど、生命が完全に平等で尊いという考えに疑いをさしはさむ発想は結構身近だ。実は言語化されてないだけで、今まで多かれ少なかれ反出生主義的な発想はあったはずだし、自分は出生主義者だと思ってても、反出生主義的な考えをまったくしたことがないってことはないだろう。ちょっとくらい「なんで生まれたんだろ」「生まれさえしなければ」と考えたことくらいあるんじゃない?
ときどき反出生主義主義者がやべーやつ扱いされるのは、興味ない人を無理やり説得しようとするやつがいるからなんじゃないかって推測してる。
で、当の俺自身は生まれる事の善悪を判断する能力を、そもそも人間は持っていないと思っているんだけど、反出生主義者に聞いてみたいことは結構ある。だからまとめてみた。
するとSNSは伝統的価値観を破壊するようなことがたくさんあることがわかる
以下に例としてリストを示してみよう。聖書の引用と、SNSが破壊しようとしている事柄の対応だ
実際には愚か者(インフルエンサー等)が名誉を受ける仕組みになっている。
実際には愚か者が教訓を語って、それに対するいいねがたくさんつく仕組みが作られている。
怠け者は仕事にも行かず、「外にライオンがいる」と言い、ごろごろ寝がえりを打つばかりです。ちょうど蝶番でドアが回転するように。おまけに自分の手で皿に乗った食べ物を口に運ぶのも面倒がります。その上、知識のある人が束になってかかってきても自分の方が賢いと思っています。
友人をだましておきながら「ちょっとからかっただけさ」と言うのは手当たり次第、火のついた矢や人を殺すことが出来る矢を射るようなものです。
SNSでは友人に対してすら宣伝行為やスパムを送る連中が後を絶たない。
これ以外にも探せばたくさん見つかる
私はふと、このようなことを思いました。「自分は他者のために何かをできているだろうか」
コスパ・タイパという言葉がありますが、私は「どうやって楽に、効果的に人のためになれるか」ということを考えてしまうのです。
そしてたどり着いたのは「仕事で自分にできる範囲で利益を得て、そこから一定の量を慈善団体に寄付すれば良い」という考えです。
自分から慈善団体を作るよりも、既存のプロフェッショナルにお金を投じた方が効果的というわけです。
「こういう善をしているから、多少の悪は許される」「私がしている善に比べれば、この程度の悪は大したことがない」といった具合に、善悪を貯金感覚で見てしまうのではないかという不安があります。
こうなると、生活をする上で身近な善行をする心が荒んでしまうのではないかと思うわけです。
他者を尊敬する、弱者を助ける、身近な善を行う。こういう精神性が、「コスパ」「タイパ」という考えに蝕まれているのではないでしょうか。
あるいは期待を超えない無能者を見下す傲慢な為政者なども存在するでしょう。行動の「効果」を重視する人は、期待を超えるように言うからです。
EA (effective altruism)については、このようにして功利主義的側面が含まれる可能性があります。
Youtubeで外国人が「日本で財布を落としたらどうなるか」を検証していた。
想像通り、検証対象となった市民50人全員が落とし主の外国人に財布を返したのである。
これを見て「日本人は素晴らしいなぁ」と思ったわけだが、少し気になることがあった。
例えば「単に賃上げするだけでは名目値しか上がらず、実質賃金はむしろ低下するかもしれない」といった問題に対し「物価に追いつく賃上げを」などと無意味なことをやっているのは、「労働者に高い賃金を払うのが善だ」という単純な発想に基づいているからでは?
あるいはウクライナロシア問題で、「ウクライナに武器を供与して反転攻勢を!」などと言うのは、ロシアが悪でウクライナが善だから、善に勝って欲しいという単純な発想に基づいているからでは?
経済や政治、法律の問題は、残念ながら「共感」に基づくほど間違った判断を下しやすいと言われることがある。
誰かが殺人犯と言われた時、論理的に証拠を提出するべき時に「私は家族が殺されたのが憎い!だから被疑者は死ぬべきだ!」と言って、被疑者の冤罪の可能性を考慮に入れずに報道され、その結果、報道への共感によって取り返しのつかない冤罪に容易に繋がったとしたら?袴田事件だってそうだろう。
経済はもっと複雑だ。経済には事実判断と価値判断の区別が必要だが、ミクロ経済学が取り扱っているのは概ね事実判断と言われる。無差別曲線やゲーム理論は事実判断である。
それに対し価値判断とは「なにをすべきであるか」という問題のことだ。日本が国として何をすべきか、という話をしているときに、特定の集団だけを贔屓にするわけにはいかない。
例えばパレート最適性について考慮し、誰かが損をする場合は補償を与える方法を考えなければならない。
それを「私たちの税金を一体何に使っているんだ!」という感情論で補償原理を無に帰することは、典型的日本人がまさに陥りがちなことだろう。
補償は税金の正しい使い方であるから、自分の利益にならないという理由だけでは正しいことは言えない。
ひろゆき氏が「政治家にはサイコパスが必要なんですよ」と言っていたが、それは「共感能力ではなく、論理によって判断することのできる人間が必要である」という意味だと私は思う。
まあ、こいつもこいつで、補償のことを話さずに「ハンコ業界を滅ぼして効率化を!」などと言いそうな雰囲気だから感情論であることに違いはないが、論理には前提知識がある程度必要であるということでもある。
基礎知識のある人であれば、貨幣供給量が増えれば貨幣価値が低下すると考えるだろう。しかし知識のない感情派は、「お金が多いほどいい」「通貨発行権を駆使すればいい」と言い始め、貨幣価値が低下しないという前提のもとで国家経済を悪化させようとする。
経済の名目値ではなく、実質値を向上させるにはどうするか。その議論のためには確かな情報や知識が必要であるはずだが、短絡的な善悪を持ち出すことによって「物価高に追いつく賃上げを」などと、スタグフレーションがなんであるかも知らずに言い始めるわけである。
確かに、小学生でもわかるような善悪の問題において正しい行動をするのは日本人の良い点だと言える。外国では「見られていなければ悪事を行ってもいい」と言わんばかりの連中が巣食っているからだ。
しかし経済、政治、法律。そういった「高度な知識を伴わなければ善悪の判断を間違えるだろう」というシナリオで、日本人は落第点を取る可能性が高い。
経済であればミクロ経済学やマクロ経済学の教科書知識ぐらいは必要であるが、日本人は哲学にも疎く、相対主義が蔓延るので、「経済論はたくさんあるし、どれもが正しいことを言っているに違いない」と言う相対主義的な認識を持っている可能性が高い。
結局、短絡的な善悪観でミツバチの巣をつついたような行動しかしないのが、他の国の人にもバレているだろう。
たしかにそれはそれで社会秩序の維持にはなっているから、良いことかもしれない。
しかし経済や政治などにおいては別だ。正しい知識に基づいた善というのは、正しい内容を選んで勉強をする努力が必要なのである。どの論も平等だと相対主義的に考えている連中が、パヨク理論に陶酔し、発狂しているのを見たか。
最近、SNS断ちをしています。TwitterやFacebook、Bluesky、Mastodonなどを使わないようにしているのです。
それだけではなく、スマホにはブラウザさえ入れていません。これは、オフラインのアクティビティをもっと充実させた方が良いと思ったからです。
そしてSNSには舌の罪が付きまといます。もちろん匿名ダイアリーもそうですが、特に短文投稿型のマイクロブログは軽率な発言が増えてしまうのです。
箴言には舌の罪についていくつかの教訓があります。以下はその一部です・
1. 偽りを言う舌:主が憎むものとして「偽りを言う舌」が挙げられる。
2. 悪口を言う舌:「そしりを口に出す者は愚かな者である」と述べられている。
3. 制御できない舌:「言葉が多ければ、とがを免れない、自分のくちびるを制する者は知恵がある」と述べられる。
4. 乱暴な言葉:「優しい舌は命の木である、乱暴な言葉は魂を傷つける」と述べられる。
また、愚か者も何も言わなければ賢いと思われるとか、愚か者は理解よりも意見を発することを好むとも書かれています。
箴言の「愚か者」について学ぶたびに、完全に愚かさを排除した人は「精神的なスーパーマン」だとさえ思います。
ソロモン王自体が「しくじり先生」で、一時期忌み嫌われる偶像崇拝をしたらしいです。
よく日本人はアニメの中で神の存在を「白髭の生えた老人」を描きますが、そうやって神を特定の形として表すことが偶像化であり、罪なのです。
さて、SNSを使う際に舌の罪を犯さないためにはどうするべきでしょうか。
まず真実を言うべきです。情報や誤解を招く可能性のある情報を共有しないようにします。情報を共有する前に、その情報が正確であることを確認すべきです。
そして攻撃的または侮辱的な言葉遣いは避け、尊重と理解を示す言葉を選ぶべきです。他人のプライバシーを尊重し、許可なく個人的な情報を共有しないようにすることも重要です。
建設的なフィードバックを提供し、他人をサポートし、肯定的な会話を促進するべきです。フィードバックを得たら、自分の投稿が他人にどのような影響を与えるかを定期的に反省し、必要に応じて修正するべきでしょう。
といっても無理に発言する必要はありません。最も良いのは、発言をしないことなのです。
私も匿名ダイアリーで発言しなくてもいいように、紙の日記帳を買いました。それなのにこうやって発言してしまっているのは、まったくネット中毒というのは厄介だと思いますが、休日にしたいと思うアクティビティがまだ見つかっていないのです。
両親は私に「結婚しろ」と言いますが、本当に結婚をするべきでしょうか。統合失調症の私の遺伝子を残して、子供が苦労するだけではないでしょうか。
最近は英会話教室に行くのもやめてしまいました。節約のためです。
趣味のためにお金が必要であるという発想が嫌なのです。お金を使わずにできる趣味が、今の私には必要です。
そしてその趣味は、善悪という点から見て善の側である必要があります。オンラインで発信するというのは、どちらかと言えば悪の側だと思うわけです。
「中流階級以下には恩恵がないから、株価上昇は無意味」みたいな風潮が出てきて、それが更に先鋭化し、
「中流階級以下に恩恵のない株価上昇は悪」みたいな流れになってきてる。
好景気・不景気も「全ての人間に等しく恩恵がなければ悪い好景気」みないな空気がある。
実際のところ、ちゃんと勉強して能動的に動けば、中流階級でも株価上昇の恩恵にあやかれるし、
好景気と人手不足が重なって、新卒なら本来の能力以上の会社に行けたり、
中途でも好条件で転職できるケースも増えていると聞く。
それでも、どうしても株価や好景気の恩恵にあやかれない弱者が出てくるのは、資本主義ならどうしようもないことなんだけど、
それをもたらしている資産家や、投資家、大企業の経営陣や政治家を倒すべき社会悪とするみたいなのはどう考えても行き過ぎだろう。
ただそれを表立って言うと、「弱者切り捨ての自民政治を脳死で礼賛するネトウヨ」ってレッテルを貼られて黙らされる。
それはそれで弱者保護を是とするリベラルが力を持って、反リベラル的な思想を積極的に取り締まり、愚かな衆愚を啓蒙してくれていると好意的に捉えられないこともない。もともと日本共産党の支持者である私としては保守よりはリベラル的な思想が広まる方が好ましい。
しかし、土地も家族も失った被災者のそれも子供に対して「あなたの身体は被曝し続ける」と言う人や、党内のパワハラに対して異を唱えた女性議員に「統括」を求めるような人達を代弁者と持ち上げるのにも抵抗がある。
株価が暴落したり、景気が悪くなればまっ先に被害を受けるのは弱者なので、高株価と好景気を維持しつつ、いかに弱者に再分配するかの政策議論こそリベラルがすべきなのに、現在の日本のリベラルは、高株価・好景気自体とそれをもたらす企業や資産家すら、打破すべ敵と見なしている節がある。これでは残念ながら、リベラルが日本を破壊しようと目論んでいると言うネトウヨの陰謀論にお墨付きを与えるだけだろう。
ある意味善悪が分かりやすいお金の話でもこの様で、これが双方にそれぞれ言い分がある社会問題(典型的には男女問題等)となると、もはやリベラルが率先して対立と分断を煽るヘイトスピーカーの最先鋒となっている。とても平和を訴える人達とは思えない。
私はこれからも日本共産党に投票し続けるが、自民党の行き過ぎた増長や違反行為を追求し、牽制する存在が必要だと思うからだけで、政権を取って欲しいとは思わない。もはや日本のリベラルは決して政治的主導権を握らせてはいけない反社会的集団にまで落ちぶれた。
ほかミーム化したアニメの一場面や漫画の一コマ切り取り前後文脈無視いろいろ
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劇中の意図や流れを無視して、ネットにそのまんまの意味で悪趣味・冷笑・差別主義的に出回る
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反発されたり叩かれたり混乱を招いたりする
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一部の良識的マニアが、「いや、そう言う意図の描写ではないんですよ」と解説したりする
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でも多数のオタクとかファンってそれをそのまんま受け止めちゃってるし、なんならもうそう言うミームになってる時点で意味なくね?というか一部の作品はそのまんまストレートにそういう思想っぽくね?
ついこの間も攻殻の目を瞑れだのの台詞を平気で人にぶつけてる奴と、それを「いやあのセリフはそういう意図ちゃうよ」と嗜めてる人を見たが
なんというかもう作品の読解以前にやはり作品そのものと読者の関係自体に問題があるんじゃないかと思いつつある
悪いオタクが漫画やアニメを利用してるんじゃなくて、積み重なった漫画やアニメがオタクの知性を奪ってるというか
つーかもう「オタクの考えるカッコイイ(この一言一コマ引用しただけで社会を切った気になれる)描写」の傾向みたいなのが固まりすぎてるよね
「この作品はフィクションです」だけじゃなくて「漫画やアニメだけで社会正義や人間の善悪を語ろうとしたりSNSのクソリプに使用するのは不健康です」って各マンガの冒頭にはっきり書くべきでは