はてなキーワード: 「yes」とは
なにか言ったとして、相手が全く予想外の反応をしたとする。
いろいろあると思う。
こういう時に「何でこの人は私の言っていることを理解してくれないのだろう」と思う人は結構多いと思う。
はっきり言うとこの疑問はそもそもおかしい。だが、全くこの疑問がおかしいことに気が付かない人がいる。
この疑問を持つためには「私の口から発せられた言葉は100%自分の意図を反映しており、1パターン以外の解釈は不可能になるように組み立てられている」必要がある。だが、この疑問を持つ人は全く逆の言葉を使う。
私の思っていることと真逆の内容を口から出しており、いかようにでも解釈できる文章を作っている
のだ。
例えば、今すぐぶん殴りたいくらいムカついているのに「ヤダモー面白いんだからー!!!」っていう反応をしたりする。ここで表情との不一致があれば相手も気付くだろうが、これを満面の笑み、ジェスチャーでやっているのだから、相手は「あぁ、これでこの人には問題ないのだな」という理解をする。当たり前だろう。
ものすごく深刻な話を冗談めかして言ったりもするのがこういう人の特徴だ。
要は「私の言うことは私の思いとは真逆に理解していい」と全身で示しながら「私の言うことを私の思い通りに理解してほしい」と思っているのだ。
相手からしたらまるで罠にはめられたような感じすらするだろう。
で、こういう感じの人は、幼少期に虐待を受けている場合がある。
ここで言う虐待というのは、殴られたり罵られたり、ということではない。
「相手が怖すぎて自分の思いを捻じ曲げて発信すること」以外の選択肢がなかった人のことだ。
例えば、親の出した食事が匂いだけで吐きそうなくらいまずかったとしても、正直に「美味しくない、食べたくない」と言ったら自分に何が怒るのか想像もできないくらい緊張した家庭にいるなら、その子供は「うん!美味しい!おかわり!」とまで言うのだ。それが親が機嫌よくなるのなら。
自分の意見を述べるだけで豹変する親はいる。YesとNo、どちらを使っても怒らない親の下で育った多数の人には気づかないだろう。たとえ病気になってでもYesと言うことが正しいという親はいる。
だが、このことをまっすぐそのまま述べる親はいない。当たり前だ、もしそんなことをバカ正直に言えば自分の立場が悪くなる。子供に学校で「僕のお母さん、嫌だって言うと殴るんだ」と言わせてはいけない。「僕はお母さんが大好きだから、言うことを聞きます」という模範解答を出させなくてはならない。これだけで、ひどい虐待親が子供の躾が行き届いた立派な親になれる。
では、どう言うか。
とか
「あなたが言うことを聞いてくれないのが私は悲しくて仕方がない」
とかだ。
客観的に見れば「Yes」以外の選択肢を一切子供から奪い取る言葉なのだが、子供が「言うことを聞かない自分が悪かったのだな」と捻じ曲げてくれる魔法の言葉だ。
ただ、こんな親でも100回に1回位は「そんな事言わせてゴメンね、本当は嫌だったよね」と理解してくれたりする。もしくは「子供は自分の意見をきちんと言うべきよ」と何故か他の人には言ったりする。
こういう矛盾の中で生きている子供にとって最大の恐怖は「自分の思いを率直に言うこと」だ。
自分の思いを捻じ曲げていることが基準になるので、相手もそう言っていると解釈することが自然になる。
話は戻って、「何であの人は私の言うことをきちんと理解してくれないのか」という疑問に映る。
自分は自分の言うことを捻じ曲げて話している。そして相手にはこの捻じ曲げを捻じ曲げ直してもとに戻すことを期待している。
「もうこれが好きでしょうがない」と言ったなら「あぁ、本当は嫌なのに無理して好きだと言っているのだな」と理解してほしい。ネジ曲がった言葉を捻じ曲げ直せばそうなる、と素朴に考えている。
だが、人によってはネジ曲がったまま受け取る、更に捻じ曲げて受け取る、自分が思ったほど捻じ曲げ直してくれない、など様々だ。
フェミニストにせよそうでないにせよ、言葉の使い方がずるい人というのは結構いる。
何か問いかけられた時に「Yes」と言わないと相手に攻撃のすきを与えるものの言い方
すっごく重要な事の中に割りとそうでもないがこれを受け入れると後々やばいのだが、そこに対する指摘をしようとすると「要点を掴んでない、まずは言ったことに答えろ」というチャンスを手に入れられる物言い
それってどういうことですかと聞き返すとお前はバカだからわからないんだなと言われてしまう物言い
多くのクソフェミと言われる人たちは、自分たちがこういう言葉の使い方ばかりしていることに気づいていない。全くの正論で論破の仕様もない完璧な論理をぶつけられて相手が勝手に自滅してブチ切れているとしか思っていない。
問いかけの内容が本当かどうかは割りとどうでも良い。そこを深堀する気もない。
人は些細なことで悩み、エネルギーを消費する。その選択が何かを大きく変えることなどないのに、無駄に悩む。この意思決定に、最近疲れてしまった。全ての意思決定に疲れてしまった。もしこれを全部とは行かずとも一部を誰かに委ねられたら、と近頃考えるようになった。
人のアドバイスはいつだって参考になる。俺の自由意志(と思い込んでいる神経の発火現象)とは無関係なものほど、参考になる。この誰かとは、誰か。友人か、家族だろうか。思い当たる人は居る。だけど、彼らは機械ではないし、忙しい。今日の晩飯はカップラーメンとソース焼きそば、どっちがいいかなんて、いちいち聞くのはなんだか悪いし、互いに面倒だ。
常にその判断を手伝ってくれる誰かとは、誰だろう。そもそもそんな人は居ないだろう。そう思ったとき、机の6面サイコロに目が止まった。最近TRPGをして、サイコロをよく振ったからかもしれない。俺の意思とは無関係にジャッジしてくれる誰かとは、このサイコロなのではないかと思い始めてきた。
それで気がつくと、サイコロとの対話が可能か、サイコロを眺めながら考えていた。
以下の文章は、その思考のパンくずをちりとりでかき集めた、そんなものである。
何かを人同様に接して、会話をする。これを考えたとき、イマジナリーフレンドが思い浮かんだ。しかし、イマジナリーフレンドには実体が伴わないらしい。なら、違うか。さらに、イマジナリーフレンドは自分の意思で発言し、自由に動き回るらしい。これも違う。サイコロはそもそも人語を話さないし、自分の意思で転がりもしない。理想はこちらが問いかけたら、1から6の数字で返答する。それだけだ。やっぱり、サイコロはイマジナリーフレンドではない。脳内にサイコロの人格を作ることは、容易ではないし、それは現実のサイコロとは一致しない。そもそもサイコロの目はただの乱数である。それは分かってて、そこに人格らしきものを装飾して会話のようなものをしたいだけなのだ。
ただの乱数を装飾して、会話にする。これには乱数で出てきた数字に意味をもたせることから始めるべきだろう。
人が人語を話せないとき、どうやって意思表明をするかを考える。それは手を使ったジェスチャーかもしれないし、頷きや首振りといった動作かもしれない。これらは、離散的な「YES」「NO」などの表明に使うことが出来ている。これは…そのまま、サイコロの意思表示(と捉えること)にも使える気がする。サイコロの目は1から6。数が多いほど「YES」または「肯定」という表明と捉えたら、サイコロと会話した気分になれるかもしれない。
例えば…
「1」(NO)
「4」(迷うけどラーメン)
「そうなんだ・・・」
これはなんだか、会話してるように見える。
…サイコロの目は乱数なのは知っている。でも会話らしく見える。それが大事なのだ。完全に個人の意見だが、ただの乱数値に選択を委ねるより、人の形をした何かにそれを委ねるほうが、受け入れやすい気がする。だから、会話っぽいロールプレイが必要だと考えている次第だ。
ここまで書いて、この対話の欠点が見つかる。それは、サイコロの人格が支離滅裂になるということだ。同じ質問に対し、全く違う顔をする。当然だ。だって乱数なのだから。これを解消するには、同じ質問をしないようにするか、支離滅裂な人格として愛するか、のどちらかだろう。どちらもハードルは高い。
・・・やっぱり、サイコロと人同様に会話するのは、難しいのかもしれない。
しかし、それでもサイコロの「全てを決めてくれる」力には魅力を感じる。選択を委ねられる存在は、喉から手が出るほど欲しくなる。人の形をしたサイコロが欲しい。信頼できそうな人の形をして、説得力のある顔をして、答え(ただの乱数)をくれる、そんなサイコロが欲しい。欲しい!欲しい!…
この試みはどうかしている。だが同時に、これを考えていると心が穏やかになった。サイコロの「彼」と心を通わせることができた暁には、どんな意思決定にも前向きになれることだろう。それがどんな結果を招こうとも、「彼」との信頼は崩れないし、むしろ強固になるだろう。そこに悩みはなく、あるのは迅速な意思決定だけなのだから。
①
母「カレーおかわり食べられる?」
俺「大丈夫」
①′
俺「カレーおかわり食べられる?」
母「大丈夫」
え????
母さんはおかわり食べるけど、俺は元々少食だからおかわり食えないとか
そういうことを察しろって話?
母も「No」に見えるが。
AとBの立場による
①のパターンならA=店主、B=客ならNoになるけど
①
母「カレーおかわり食べられる?」
俺「大丈夫」
①′
俺「カレーおかわり食べられる?」
母「大丈夫」
---
補足
①についてYesじゃないかという声があったけれど,元ツイートは「ナンおかわりたべれえる?」となっており,ネパールの方が発したものなので「たべる?」「たべられる?」が混ざったようなものであることを記しておきます。余計ややこしくなりますね。
---
某カレー屋さんのtwitterで日本人が使う「大丈夫」が難しいということが書かれていた
具体的に言うと
①
A「カレーおかわり食べられる?」
B「大丈夫」
②
B「大丈夫」
③
A「大きいナン食べられる?」
B「大丈夫」
④
A「うちのナン大きいけどおかわり食べられる?」
B「大丈夫」
見た感じ、可能不可能を問われたときの「大丈夫」は可能(Yes)を意味するのに対し、必要不必要を問われたときの「大丈夫」は不必要(No)を意味しているのだろうか
反例とか、この考え方の方が正しいんじゃ?というのがあったら教えてください
イッヌ🐕「Yes」「No」枕じゃないんかワン❓
YouTubeでは動画をアップロードする時は年齢制限とは別に、「この動画は子供向けですか?」という質問があり、それに対してYes/No回答するのが必須となっている。
https://support.google.com/youtube/answer/9528076
要するに
・子どもを主な対象としているコンテンツは「子ども向け」とし、上記設問には「Yes」と回答しろ
・子どもを主な対象とはしていないものの子どもも対象の一部であるコンテンツは「すべての視聴者向け」とし、上記設問には「Yes」と回答しろ
・特に子どもに視聴してもらうことを想定して制作したわけでないコンテンツ、または 13 歳以上の視聴者を想定して制作したコンテンツは「一般視聴者向け」とし、上記設問には「No」と回答しろ
(深夜アニメとか水曜日のダウンタウンとか?)
※子供の年齢は国によってちがうよ!住んでる国に準じて考えてな!
というルール。
子ども向け=YESとして設定した場合、パーソナライズド広告、コメント、チャンネル画像・ロゴの透かし、寄付ボタン、チャットなどの機能が制限される。
また、「頻繁に子ども向けコンテンツを視聴している場合」と「YouTubKidsからアクセスした場合」は、子ども向けとして設定された動画が優先的におすすめ動画として表示される。
よって、子ども(子供向けコンテンツを頻繁に視聴しているユーザー)が「子ども向けコンテンツでない(Noと回答した)コンテンツ」にアクセスするには、主に積極的に検索することになる。不用意に(自ら「見る」という選択をしていないにもかかわらず)「子ども向けでないコンテンツ」に触れる機会が減る。というわけ。
バランス感覚的に優れてるなあと思うのは明らかに子ども向けなコンテンツではないけど子どもも観ることを想定している動画は「子ども向け」に「YES」と回答させるところ。グレーがないんだよね。
子どもに見せてはばかられない動画なのか?きちんと製作者に判断させるプロセスは必要だよね。
こういった基準は現実の公共施設でもかなり参考になるんじゃないかなあ。というか、現実の公共施設でもこれくらいのゾーン設定はすべきと思う。老若男女訪れる場所では。
ネットの表示非表示と現実における物理的な見える見えないはまあまた違うし大変だろうけど。
逆説的に言うと「子どもの目に入る可能性がある場所に掲示する」場合はYouTubeで言うと「子ども向けコンテンツ」に「Yes」と答えることができる内容である必要があると思うね。
もしくは、「子ども向けでない」コンテンツはきちんと「子供向けではないと自認」した上で、悪目立ちしないように小さく出力・掲示する、とか、高所・隔離スペースに掲示する、とかくらいの配慮はできるんでない?
※YouTubeならびにGoogleは現在のところ子供だけでYouTubeを視聴する場合の13歳未満の利用を推奨していない。
YouTube Kids、YouTube とお子様の Google アカウント
https://support.google.com/youtubekids/answer/7124142?hl=ja
注: YouTube は 13 歳未満のお子様向けには提供されていません。13 歳未満のお子様が YouTube の動画を視聴する場合は YouTube Kids を使用する必要があります。
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https://support.google.com/youtube/answer/9383587?hl=ja
保護者の皆様には、お子様だけで YouTube を利用することを認める場合は、YouTube Kids の使用をおすすめします。
--------
※youTubeKidsではあきらかに不適切な動画はフィルタリングされてアクセス自体不可能。
※YouTubeにおいてもフィルタリングON・OFFは可能。
※YouTubeKidsでは検索機能のON・OFFができる。
※日本版では提供されていないが、米国版では「未就学児向け」「小学校 1~2 年生向け」「小学校 3~6 年生向け」と細かい設定も可能になっているらしい。
※まあそれでも完全に無法地帯で無くなったという印象はないけどね、YouTube。
https://togetter.com/li/1404632
利権団体の思い通りに動いてる人がだんだん増えてきてしまっている…
Jesuっていうのは「賞金を渡すにはプロライセンスが必要」という嘘をつき、これからお金になるであろうe-sportsの利権をゲットしようとしてる団体です。
設立当初からの流れとしては「法的な部分の質問・指摘を無視する」という事を続け、根拠の無いままライセンス制度を作り
批判的意見が一番激しかった頃に一度、ガス抜きの為に生放送で座談会を開いたが
「話を逸らす」「嫌な質問には不機嫌に対応する」「肝心なところを答えない」と批判が多く沸きました
https://www.twitch.tv/videos/230583009
で、ずっと指摘され続けてきた「プロライセンス制度、無くても賞金渡せるよね?」という点に最近になって消費者庁から「YES」との回答。
今回のパズドラ大会はその直後という事もあり「お前ら不要な制度作って、さらには邪魔するのか?」という批判が起きています。
ちなみに同様の例は二度目となり、前回は「ライセンスを拒否しているトッププロが、貰えるはずの賞金を90万減額され、10万しか貰えなかった」という事件です。
さらに今回、そのプロが500万の賞金を10万に減額される事例が発生して、絶賛炎上中。
「法律を回避し賞金の為にライセンス制度を作って高額賞金を出す大会を開催していきたい」
「法律的には問題無いが、そこに噛ませろ。賞金を渡す権限をコントロールさせろ」
という方向にシフトしていってるって事です
映画「We are little zombies」を8/31にウェブでの無料公開で見た。今も劇場で上映されているにも関わらず、という点は素直にすごいな、と思う。海外で賞を取ったとも聞く。Filmarksを見れば、割と高評価を付けている人が多い……ように見受けられる。だけどあれ、そんなに良かったか?
両親を亡くした4人の少年少女(ヒカリ、イクコ、タケムラ、イシ)が火葬場で出会い、バンドを結成し、社会現象となる。しかし、主人公(ヒカリ)の両親が亡くなる原因となったバス運転手がネットで特定され、運転手は自殺。バンドは解散し、主人公は親戚に引き取られることに。イクコ、タケムラ、イシらはヒカリを連れ出し、ヒカリの両親が事故で行けなかった草原へと目指す。道中で事故に合い、4人の乗った車が水没する。頭の中で走馬灯が駆け巡るヒカリ。突然「Continue?」という文字が浮かぶも、一度は拒否。しかし仲間たちの声もあり「Yes」を選ぶ。するとヒカリの出生シーンが浮かび、気づいたころにはヒカリは事故現場にいた。その後草原へ4人で向かい、平凡な人生がいいねとかなんとか言う。念仏が聞こえ、鯨幕の白からズームアウトして終わり。
大筋だけ抜き出すとそれなりに理解は出来る。というかこういう、理解のない大人や嫌な現実に反抗し、自由を勝ち取るというストーリーは青春モノの定石なので、悪くなりようがないのだ。それから、映像が斬新というのも分からなくはない。短いカットの連続に鮮やかな色彩、独特なショット。
自分が何を思ってどう動いたか、バンドがどうなっただとか、最初から最後まで説明のセリフだらけ!映画は、カメラを通じて作り手が見せたいものだけを見せられるメディアだ。だからこそ、言葉で全部喋っちゃ興ざめなんだよ。表情や仕草、寄って撮るか引いて撮るか、背景に美術、何を画面に入れて何を排除するか、言葉だけに頼らず表現しなきゃ「映画」の意味がないんじゃないの。主人公が一人称でナレーションをたっぷり入れることが効果的に作用する場合もあるだろうが、主人公たちは感情が無く、両親の葬式なのに泣けない(だから「ゾンビ」)という設定のはず。それなのに(一応「ゾンビ」だから棒読みで!)べらべらしゃべるものだから、「俺、中学生だけど正直感情が無くて全てが滑稽に思える」のコピペを思い出す仕上がりである。
「さあゲームの始まりです」は流石になかったが、感電して骨が見える、ネットの特定シーンでは画面上に書き込みと思しき文字がずらずら表示される、などの古臭い表現がそこかしこに見られる。走馬灯も「Continue?」も差し込まれる出生シーンも……4人が逃げ込んだ先はラブホテル、了解です!ちなみに、主人公がゲームボーイを持っている理由は一応明かされてはいるが、イクコ役の中島セナに(iPhoneでもデジカメでもなく)フィルムカメラを持たせているところから見るに、ちょっとレトロな感じよくない?ぐらいじゃないかと疑ってしまう。街中で若者がスケートボードをやっている場面も、有り体に言やPOPEYE感を演出するだけ。こういうのを削除したら90分ぐらいのソリッドなものに仕上がると思うのですが。本筋には関係ないものの、正直かなり冷める。
ここがかなり嫌だった。主人公ヒカリはおそらく東京生まれ、東京在住(東京タワーらしきものが見えることから分かる)の中流家庭であるのに対し、がめつく、金をむしり取る親戚は関西弁である。これをステレオタイプと言わずしてなんと呼ぼうか。他にも、葬式の場で主人公に「感情が無いの?」と泣くよう迫る親戚の女性は福島在住だし、主人公の両親が巻き込まれた事故の原因であるバス運転手は広島?出身であるという描写がある。それだけではない。タケムラの父親は、工場を経営しており、貧困で、母子に対し暴力をふるう。そして母親を巻き込んで自殺する。イシの両親は中華料理屋を営んでおり、イシは太っている。そして実家は火災で全焼する。イクコの両親は、イクコに心酔するピアノ教師によって殺害される。そういう設定だと言われればそれまでだ。気にならない人もいるだろう。だが、私はなんだかなあという気がするのだ。ついでに言うと、主人公ヒカリの父親は広告会社に勤めており、社内では人気者だそうだ。監督は電通の長久允氏であることを鑑みるに、強い電通力(ぢから)を感じる。
主人公たちにバンドを組むよう勧めたホームレスたちの音楽が、見た目通りのヒッピー感溢れるものだったことには思わず笑ってしまったが、それは好みの問題だろうから置いておく。問題は主人公たちのバンドだ。エクスペリメンタルビットポップをやるのは、それも好みの問題だろうから(あと一応「ゾンビ」的設定を生かしたのだろうし)置いておく。それの凄さを語る方法が酷い。CHAIや菊地成孔を出して、彼らがいかに凄いかを喋らせるのだ。鑑賞中、思わず叫びそうになった。嘘だろ?!観客はそれぞれ好みが違うから、楽曲の凄さを表現するのはとても難しいということは分かるが、実在するアーティストに言葉で説明させるのは一番ダメでしょう。先ほども述べたが、それなら「映画」でやる意味がないのではと感じる。
「エモいって古い」にはエクスキューズを付けるいやらしさを感じる。さらに、一種の夢オチとも取れる結末で〆ているところもあまり好きではない。別に、全て主人公ヒカリの内面の旅であっても悪くはないが、それにしてはこの(法要中の)短い間によくそこまで考えたな!となり、オモシロさが増す。また、自己弁護ではないが、「絶望ダッサ」にはどうも乗り切れない。「僕は感情がないから悲しみなんて感じないんだ平気なんだ(自己防衛)→いや本当は絶望して悲しんでいるんだ(自覚)→でもそんなのダサいから乗り越えていくんだ(そして未来へ……)」なのかな、と好意的に解釈するとしても、それは「ダサい」という言葉で乗り越えていくべきものなのか、疑問である。抑うつ状態はダサい/ダサくない、という問題じゃないと思うのだが……。
疲れた。映像が斬新と述べたが、中島哲也に似ているんじゃないかとも思う。他にも色々言いたいことはあったが、もう止める。だいたい夢オチの可能性がある時点で、全ての指摘は負けなのだ。楽しんでいる人をけなしたいわけではない。良かったという人はそのまま、堂々としていればいいと思う。ただ、私には合わなかった。
twitterとかfacebookで書きたくなかったのでこっちで書く。
台湾・香港の人は「大陸」「大陸人」と呼ぶのでその方が自分の中では書きやすい。
https://www.facebook.com/hk.nextmedia/?epa=SEARCH_BOX
https://twitter.com/search?q=%E9%A6%99%E6%B8%AF&src=recent_search_click
https://s.weibo.com/weibo/%25E9%25A6%2599%25E6%25B8%25AF
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・なんでデモ起きたの?
ざっとは
https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-48618554
https://toyokeizai.net/articles/-/297263
この辺読むとわかりやすい
遠因が多く....
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・そもそも警察がヤクザ(黒社会)に協力してもらっているように大半の香港人が感じている
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・実際に中国の公安とかも香港に来て取り締まりを行っていることも事実
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・警察事態のやり方も、地下鉄ホームに催涙弾打ち込んだりとか至近距離でゴム弾撃ったりとか、並のデモの鎮圧方法では無い
・そもそも逃亡犯条例だけ切り取ったら普通なのになんで怒るんだ?
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・多くの大陸人から見たら「いや普通のことだろ、俺らの法律と同じで扱うわけで」と見える
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・香港台湾から見ると「今まで普通に暮らしてた人が政治犯としてしょっぴかれる可能性がある法律」に見える
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・実際しょっぴかれた人が数年前に出ており、香港人は皆覚えている https://twitter.com/hashtag/%E9%8A%85%E9%91%BC%E6%B9%BE%E6%9B%B8%E5%BA%97
↑
・そうでなくとも文化大革命とかで大陸から逃げてきた人が親・親族に居る香港人は多数。中国の政治に対して良くない印象しか持てない
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・そんなことは香港台湾にある程度詳しい人ならわかっており、中国中央政府が把握できていなかったというわけにはならない
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・法的には「YES」だが、イギリスからの返還後50年は「一国二制度」を保つということになっている
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・大陸の人はメディアの影響もあり「香港は中国の一部」と思っている人が多い(そうじゃないと思っている人はごく少数。ウイグル族とかは知らん。)
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・香港の人は「国としては中国なことは認めるがアイデンティティとして香港人」となっている
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・50年かけて(つまりあと30年ぐらいかけて)なんとか「色々と」進めていく、という玉虫色の政策が現在の状況
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・香港は未来永劫中国の領土、とか大陸人が言い出すからさらに話がややこしくなる... じゃぁどうして過去は香港島はイギリスの領土だったのか説明してみろよとか思う
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・さすがにそれは無い。悪人しか居ない国なんか無い。北朝鮮だろうが戦前の日本だろうが「国が悪」という意見には私は賛同しない。
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・ウイグル人の弾圧とか、一部の宗教への弾圧が善とはとてもいい難い。しかしアメリカや日本で同じことが本当になされていないかお前ら言い切れるのか?少なくともアメリカはイラクに言いがかり付けて戦争して侵略しとったぞ?アブグレイブ刑務所とかあったやろ?
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・悪名高きアヘン戦争でイギリスが奪い取った所から。しかも100年借りるという名目で半島側を「借りた」
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・香港島側とかは「借りた」場所ではなかったことになっており、返却の義務はなかったが当時の中国政府が強烈に変換を求めてイギリスが受け入れた
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↑
・返還後50年は一国二制度、という玉虫色の解決策はまぁ間違ってなかった気はする
・んで台湾は?
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・なぜなら台湾のほうが「反大陸」の文化が根強い。国連での台湾いじめとか露骨に中国はやってたし
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・にもかかわらず「香港式の一国二制度での統一」が現実的じゃないのか、という話も出ていた
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・この状況で「やっぱこうなのか」と思わせる取り締まりぶりがメディアで報道されてしまっている
・なんでそこまで中国は強行するの?
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・一言で言うなら「文化の違い」。日本だって学生運動とか安田講堂とか革マル派とかを取り締まってたのはそんな昔じゃない
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・大陸の一般人からすると「いやだって反体制派が取り締まられるのは当たり前やろ。日本だってそうだろ?」ぐらいの感じに見える
↑
あああああああ
もう終りが見えねぇ
いくら書いても書き足りないがtwitterとかでこういうこと書きたくないんだよ。
書いたら香港人からも大陸人からも「お前は何もわかってない。どっちの味方だ」みたいな話しされるのも嫌なんだ。
ただ一言俺が言いたいのは「アホの行政長官をとっとと理由捏造して更迭してでも事態の早急な解決を図らなかった中国中央政府の失策だ」と思う
体調不良だろうがスキャンダルだろうがなんかで更迭して、適当に話をウヤムヤに一度戻すとかなんかできたと思うんだよ。
第二の天安門みたいな話は勘弁してくれ!
強硬策を取ったら、台湾との中国の統一とかが遠ざかるんだから、中国中央政府にとってもマイナスやんけ!
PUBGやFORTNITEといったバトルロイヤルゲームで、最後に優勝したときに外国人ゲーム実況者が「Let's go baby」と叫びます。
道中の戦闘に勝利したときに叫ぶならわかります。その後も次の戦闘がありますし、この調子でどんどん次に行こう、といったニュアンスだろうと思います。
しかし優勝時に「Let's go」とはどういうことでしょうか。そこで試合は終了です。どこにgoするのでしょう。
「やったぜ」なら「I did it」とか「Yes」だと思います。
「Let'go baby」は明らかに「やったぜ」のニュアンスで発せられていますが、だとするとなぜ「Let'go baby」が「やったぜ」になるのでしょうか。
yahoo知恵袋にも同様の質問がいくつかありますが、回答者がニュアンスを汲み取れずに的外れな回答ばかりになっています。
バトルロイヤルゲームで、優勝したとき(試合が終了したとき)に叫ぶ「Let'go baby」とはどういう意味合いでしょうか?
今日、以下のようなブコメを見て大いに共感すると同時に、私にも思い当たるところがあったので書いてみる。ちなみに読んでわかるとおりidバレしてるが、ブログに書くよりこっちのが読んでもらえそうなのでこっちに書く。あとあまり大層なことは書いていない。事実を淡々と述べているだけの部分が大半を占めており、最後にちょっぴり「低能先生」という呼び名についての私見を書いている。
irodori_kotori 氏のブコメ(http://b.hatena.ne.jp/entry/366754123/comment/irodori_kotori)
deztecjp氏の指摘、私がイケダハヤト氏の批判記事にブコメして某先生からidコール飛んできた時に「馬鹿にする意図でないのは略称でも蔑称でもないことから汲んで下さい」って返したら納得して貰えたということがあった
上の「deztecjp氏の指摘」というのはこれ。
deztecjp 氏のブコメ(http://b.hatena.ne.jp/entry/366754123/comment/deztecjp)
「高知のトマトの人」などという表現をやめ「イケダハヤトさん」とふつうに書くことを「萎縮」と呼ぶなら、「萎縮すべき」と私は主張。批判はすればいい。だけど、なんでそういう、イジメの作法をやめられないのか。
私も(たぶん一度だけ)1年近く前にHagex氏の殺害容疑者とされている人物(何と呼べばよいだろう?ひとまずA氏としよう)からidコールをもらったことがある。もちろん本当にA氏かどうか確かめようがないが「お前のブコメは集団リンチだ」という旨を強い口調で咎められたので、たぶんA氏だったのだろうと考えている。私は自分のブコメのどこが集団リンチかわからなかったので、そのように返信した。
私のブコメ1(http://b.hatena.ne.jp/entry/344007287/comment/neriu)※2018/7/2 18:00 URLが違ってた(いわゆる「1フロア下」になってた)ので訂正
id:toyoub 記事のどこに反応するかは各自の自由です。あと集団リンチとは誰に対してですか?私はWantedlyには何も言及してません。イケハヤ氏(増田註:ここは今では「イケダ氏」に変更している)への中傷もないでしょう。ブクマ自体が集団リンチという意味なら承服しかねます
※本題とずれるがこのブコメ自体が上の irodori_kotori 氏のブコメへのブコメだったことに今気がついた。なんという偶然。
すると次のidコールが来た。「イケハヤってのは蔑称だ。彼はイケハヤなどと自称していない。集団リンチだ」といった旨の指摘だった。私はなるほどそういうことかと思い、イケハヤが蔑称かどうか確認するため、イケハヤ氏のブログで過去ログ検索し、当時イケハヤが「イケハヤ」を自称していないことを確認し自らの非を認めた。それが次のブコメ。A氏からは「わかればよい」といった旨の返事が来たように記憶している。
私のブコメ2(http://b.hatena.ne.jp/entry/344007646/comment/neriu)※2018/7/2 18:00 URLが違ってた(いわゆる「1フロア下」になってた)ので訂正
id:toyoub 氏のサイトで検索しましたが確かに自称してないですね。またこの言葉自体に氏をからかうニュアンスがありそうです。ご指摘ありがとうございます。氏を中傷する意図は全くないので「イケダ氏」に訂正しました
もっともこれはすぐ判明したことだが実はこのときイケハヤ氏は「イケハヤランド」という名称などで自らのことを「イケハヤ」と自称していたので、A氏の指摘は当たっていないし謝る必要もなかったのだが、蒸し返すほどのことでもないと思ったので、この件はこれで終わりにした(余談だが現在イケハヤ氏はサイトでもTwitterでも「イケハヤ」を自称している)。
たったこれだけの、なんてことはないやり取りなのだが当時A氏の存在を知らなかった私にとっては青天の霹靂で、なぜここまで口汚く罵られなければならないのかと内心憤慨していた。またそれはそれとして、上記の経緯を経てA氏が納得した態度を見せたことについて意外に感じたのと、そのような氏が私以外に対しても同時進行で罵っている様子が見て取れたので、氏の意図を測りかね、不思議な思いで見つめていたことを覚えている。
そんな経緯があった私にとって、冒頭で紹介した2氏のブコメは共感できるものだった。
irodori_kotori氏などはA氏と対話らしきものを成立させており、また誰かは忘れたが、他にもA氏と同様のやり取りをしたというブコメを見た記憶もある。私以外にもきっと何人かA氏と罵り合い以外のコミュニケーションをとった人がいるのだろう。これは意外な気もするし、相手もなにか考えがあって行動していたと仮定すれば当然のことという気もする。もちろんHagex氏が亡くなられた今となっては「だからどうした」という虚しさしかない。一部の人間と対話が成立していようがいまいが、最終的にA氏は対話とは正反対の、最悪な形の暴力を振るった容疑者である。だからここに書いたことはA氏の擁護でもなんでもなく「そういうことがあった」という報告以上の意味はないことは強調しておきたい。
もうひとつ、説教臭いことを書いておきたい。A氏を「低能先生」と呼称すべきではない、ということについてである。これはすでに複数の人が指摘済みのことだと思うが改めて書いておきたい。
はてな界隈で流布されている解説によると、この呼称は「A氏は頻繁に『低能』という言葉で他者を罵倒しており『低能とよく罵倒する人物』転じて『低能先生』だから問題ない(=蔑称ではない)」ということなんだそうだ。
正直に白状すると、この解説には首肯しそうになる自分がいる。そして「低能先生」という呼称を現在進行系で使っている人に対しても「まあしゃーないよな(俺は使わないが)」と考えるズルい自分もいる。
その上で、ちょうど私へのidコールが「蔑称問題」についてだったこともあり、改めて考えてみたのだが、やっぱり駄目だと思うに至った(遅い?)。数時間前の私と同じように「えーやんけ別に」と思う方は(唐突で恐縮だが、もしお暇なら)次のチェックリストにYES/NOで答えてみてほしい。
これらの問いのどれかに「YES」と答えるとしたら、その心の有り様は「いじめ」と通底してはいないだろうか。あるいはもっと端的に「いじめ」ではないだろうか。私自身上記のとおりなので「YES」と答えた人を難詰する資格はないだろう。そもそも私が間違っている可能性だって依然としてある。A氏に関すること以外で、私が過去に不適当な呼称を使うこともあったに違いない。ただ本件であらためて「他者をどう呼ぶか」に意識的にならなければと思ったし、これを読んでそういう人が増えてくれれば嬉しい。