はてなキーワード: 法則とは
サッカーのルールに従いたくないものはサッカーじゃない競技をすればいい。
『差別する者を差別するのは、「反差別」の方針(ルール?モラル?)に反するのか否か』。
「自然の法則(重力など)」と違い「人工の規則(ルール)」は、その規則を成立させている
基準(支柱)に対しては、当然不可侵だろう。抵触(違反)する者は、はじかれて当然。
サッカーの試合中に、『ゴールキーパー以外の人間が、ボールを手で扱うのを禁止しているのは
人権侵害だ!』とは誰も抗議しない。その「規則(ルール)」に依って成立しているゲームだから。
道徳(モラル)の面での「差別反対」なのか、規則(ルール)の面での「差別禁止」なのか。
サッカーの試合においては、試合中に痛さで倒れてる選手(Bチーム)がいる時に、攻撃中の
Aチームがボールをピッチ外に蹴り出して一旦中断させる、スローインで再開後にBチームは
この手の話ははてなで定期的に出てくるんで、今まで見られた反応とその展開、個人的な意見をまとめる
悪手。
遺伝子疾患を持っている人間は子供を作ってはいけないという思想と近似している
また、そもそも子供を作る予定がないカップルの場合結婚してもいいの?という問題に対応していない
不妊のカップルや同性カップルは近親間でも結婚可?そうでないならその理由は?
悪手。
結婚制度の良し悪しを個人の肌感覚で判断するのは、LGBTの結婚を否定する思想と地続き
個人的感覚ではなく、数字を調査して「多くの人から支持されていない」という理由で否定するのは
一部肯定できる。これは後述する
成人には十全たる判断力があるので、当事者同士のみの決定で結婚できてよいはず
成人後にも親子の場合には権力差があるからNGという論建てをするなら、他に権力差がある関係
(例えば教師と教え子、上司と部下、芸能人とそのマネージャー)の結婚も規制すべきだが、これはあるべき社会とは思えない
例えば相続では兄弟と配偶者で割当が異なり、これを強化するために結婚したいという動機が考えられる
その他、世帯関係にない離婚した親子や叔父・姪の婚姻については否定できない
結婚とは世帯を形成する行為だが、今の結婚制度は世帯の形成の様態を当事者以外が口出ししている状態であり
自由主義とは相容れない。
ただし理論と実践は異なる。かつてヒッピー文化で結婚にとらわれない自由な家族形成を試みたことがあるが、
その理由はわからないが、自由恋愛・自由SEXは嫉妬などの問題があり普通の精神の人間には受け入れられなかったのだろう
というわけで、、
特に家族や結婚などは、過去の因習に深く根ざす問題なので、変えるにしても急激に変えるわけにはいかないのだ
近年世界的に同性婚が許されるようになったのは、LGBTの声が主に欧米中心に大きくなったことと、
これを許可しても社会システムを揺るがさないことが徐々に明らかになったから
近親婚・複婚が今後許されるには、まず声を大きくして先進的な社会で実験をし、問題がないことがわかってから
レヴィストロース読めばわかるけど、どの関係までを近親婚と呼ぶかは文化によって違いがあり、
最も緩い日本のような社会では従兄弟婚は平行イトコも交差イトコもOK、
最も厳しい韓国のような社会では本貫と呼ばれる祖先が同じ人間であればどんなに親等が離れててもNG
これらの法則に普遍性など何もなく、もっぱら過去の因習で決まっている
だからといって非合理的だから捨ててしまおう、などということはできないので
これらの問題は「我々の社会をどうデザインするべきか」という戦略を前提に話をしなくてはいけない
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今回はここにぶら下げとこう
ありえない。
他人に対して、
と1人で納得することはできるけど。
どんな状況でも、今すぐ幸せになれるよ。
首を吊る瞬間でも、
自分なりの満足を感じながら
椅子を蹴り飛ばすことができるはず。
意識が途切れるのを待つよりは
よっぽどいい。
「敗者だな」
「怖かっただろうな」
「かわいそう...」
と、さまざまな感想を持つだろう。
それらは間違いなく存在する。
しかし、
ということはない。
私も、何度となく不安に陥っているが、
みんなたいそう美しくて、身だしなみもそれなり以上だったけれど。
本当にお掃除しているんだろうかと疑いたくなるような。
或る時、他部署のベテラン女性がわざわざ私に名指しで会いにいらした。
お顔は知ってるし、どこの部署かも存じ上げているけれど
あなたの後だとすごく楽なの、他の人の後だと恐ろしく汚くて。
あるとき、綺麗な事がある法則に気付いてから、あなただと判ったの。
だからね!私は給茶器のお掃除、あなたの後にしてほしいって頼んだのよ。
逆に他の人って酷いものだわ。びっくりするねぇ。
それが言いたいだけだったのよ。話したかったの。じゃぁね。
その方はそれだけ言って去っていった。
嬉しかったけれども、つまり、私のお掃除が90点としたら、その方のも90点くらいなんだろう。
でもこれまではバラバラだったので良かったけど、私の直後がその方なら、それ以降はひどいのが続くというわけだ。
私は、給茶器でお茶をのむのは、自分がお掃除した直後だけにしていた。
男性諸氏はそういうの知らないよなぁ。
でも見ている人は見ているんだなって話し。
もちろんお掃除当番が回ってくる人の中でしかわからないんだけれど。
要領がいい人はうまく休憩できるんだろうなとは思うけど。
弄り芸は、本当に難しい。
殺されたHagex氏は、弄りが上手じゃなかった。弄られた人の多くが迷惑がっていたように見えた。
弄られた相手にメリットが無ければ、カルマを貯めることになる。
Hagex氏は、カルマを限界まで貯めてしまい、清算する羽目になったと見るのが正しいと思う。
全ての創作は、他人(特に過去の人)の影響を受け、真似して書かれてる。私が好きな著者に、森博嗣という作家がいる。この人は独創的だと言わているが、この著者でさえ過去の著作物の影響を受けており、一部は真似をしている。だからこの法則に例外はないと私は考える。
最近森博嗣の2次創作をしている方と、ウェブ上で意見交換をする機会(私が議論を一方的にふっかけたのですが…。すいません。)があった。
そこで考えたことは2次創作をする人と、創作をする人(ここではイメージを具体的にするために森博嗣を思い浮かべて下さい)の違いについて考えてみたい。
まず2次創作をする人は、作家に近づきたいと考える人であると私は考える。これは森博嗣が新書「小説の書き方(題名は正確でないかもしれません)」で書いた方法と真逆の道である。森博嗣の考える小説の書き方の1つは、他人の創作を読まない、真似ない、流行りの小説とは別の手法で書くというものである。
森博嗣の熱心なファンが、森博嗣の真似をして、森博嗣の意見(小説の書き方という本に対してのみだが)と逆の道を進まれているのが、印象に残った。
同人誌という本を私はほとんど目にしたことがなく、読んだこともないため、同人誌を書く人の約束や文化について、あまり気にせず意見を述べたので、少し反省。