はてなキーワード: 津田とは
【表現の自由を守る】橋下徹「津田氏や実行委員の先祖の肖像を焼きまくる作品を展示すべき。さらに先祖を間抜けと罵る作品も」
https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1565771375/
604 名無しさん@恐縮です sage 2019/08/15(木) 03:53:47.17 ID:9RFrbUwx0
昭和天皇は戦争責任者だから顔写真を焼いても良いという意見があるが
犯罪者の顔写真なら芸術の名のもとに好きに使っていいと思ってるの?
ムン大統領に対しては静観
ホワイト国除外に対しては静観
例えば今トップのこれ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www3.nhk.or.jp/news/html/20190815/k10012036061000.html
あるまとめ
https://togetter.com/li/1389648
その反応
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1389648
削除された言及
あいトリの問題については、本当に難しい。そもそももはや、こんな民度が低すぎる日本国内(あえて言っています)で「国際芸術祭」なんて開催できないということを証明してしまったようにも思う。
一言で言えば、格好悪い
政治的主張を込めた作品やイベント作っておいて、それへの世間の反応について、「芸術」という殻に逃げ込むなら、創作なんぞ辞めちまえ
向いてないよ
もちろん、今回展示された作品を「作った人」は逃げてない
でも展示したアホが逃げてる
表現の不自由が焦点で、それが含む主張の是非は問題にしていない、と
お前らが一番創作者に失礼だよ
な・ん・で・だ
芸術行為を行うこと自体に対して、あるいは芸術作品を鑑賞することにおいて、自信を無くしたり、シニカルになったりしないでほしい
じゃねぇよ
ズルは承知で先回りしていっておくと、この件については、私は正直ぜんぜん一貫していない(展覧会観てないせいもあるかもだけど、私自身、直接の関係者ではないけれども、やっぱり心理的に不安定なのだ)ので、一貫性は求めないでね。発言したことに責任は取らないということでは勿論ないけど。
どうもMidasファンです。
もう少し左翼に好意的に言っておくとこの件(「消すぐらいならやるな」と憤慨してるひとがいるように)「政治は政治でちゃんとやれよ(天皇制を打倒したいなら『表現の自由w』とか言ってないで現実で打倒しろ」につきる。めざすべきはあくまでも現実世界での天皇制廃止ないしは社会改革であって展覧会で「これがボクたちの考えた芸術です」は単に『表現w』の世界へ逃げこんでるだけ(「現実では何も変えれない」敗北宣言にこれも等しい。
このへんの不純さ、不誠実さが(右翼のみならず)いわゆるノンポリのひとたちの嫌悪感を誘ってるのは疑いないので。結局「歴史上の人物だから問題ないですよね」がいまだに大失言だと気づいてないのはそういうとこ。「これは表現の自由だ」が『政治』になりうるためには当然ながらそんな2代まえなんかの肖像いくら燃やしてもアクチュアリティのかけらもないわけで(「歴史上」は「ノーカン」でしかないので)いまの天皇を燃やすべき。ところが令和の陛下が犯した悪行といえば柏原芳恵にラブレター書いたのと嫁の生理があがってオトコみたいなツラになったくらいしかないのであってその責任を問おうにもポイントがみつからない(お人柄もいいらしいし。
「2代まえのひとだから(歴史上の人物なので」と『表現の自由』だけを切り分けようとするほど政治的には効力を失ってしまうというジレンマがある。「いいかな?」とか言ってる場合ではないのである。かんたんにいうと今回の件が決定的にダメなのは(ちまたで言われてるような)「芸術の政治化(本来はニュートラルであるべき美術の世界に稚拙なプロパガンダ芸術をもちこんだ」からではなく逆「政治を美術化した」から。
政治の美術化とはいうまでもなくファシズムの最も簡潔な定義なので。政治を美術館での鑑賞の対象にするとは現実世界の矛盾を一見みんなで共有してるようでその実は単に審美的な判断をくだすだけ。くり返しいっとくが政治をギャラリーでの鑑賞の対象にして「考えさせられました…」とか言ってるのは現実改革をあきらめたしるしでしかないのである。政治を展覧会のネタにしてはならないとはそういうこと。
たぶんガイジンさんには今回の「表現の自由」いったいなにを争ってるのか全く理解できてないと思う。ちなみに「表現の自由がー」必死に言ってる連中もこれが極めて日本的な『どこに由来してる』か自覚してない。
(まさかと思うかもしれないが)この『表現の自由』はいわゆる『朝日的な』もの(サヨクん)ではなくルーツは雑誌『ぴあ』にある。町山が「はあ…昔の『ぴあ』はよかった…」言ってたのを軽くみてはならない。日本の68年以降の文化史ではそれまで『朝日ジャーナル』を小脇にかかえて歩くのが学生さんヤングのひとたち『かっこいい(政治意識がある』と言われてた。雑誌『ぴあ』はまさに『朝日ジャーナル』の次にあたる。朝日ジャーナルにかわってこんどは『ぴあ』をかかえて歩くのがかっこいいヤングの条件(ちなみに朝日ジャーナルのまえは『平凡パンチ』とか)になった。『ぴあ』がかっこよかったのはいわゆる『情報誌』だったから。
ロードショーから場末のポルノ歌舞伎展覧会にいたるまで情報を『差別』せずフラットに扱った最初の例が雑誌『ぴあ』。フラットに扱うとは『価値判断をしない』。ただしこの『価値判断をしない』がくせものであって…「町山さいきんクソサヨクになっちゃってどうしたの…(脳に毒がまわったのかな」ふしぎに思ってるひとも多いが情報のコンテクストにおける『価値判断しない』は結局は「愚弄する(冷笑する。もちあげない」なので津田やあずまくんにしてみれば「まさかこんな反発くらうとわ…」なのもまあわかる。あの「歴史上だから、まいっかと思って」もホントだったら慰安婦像つくったひとにむしろ「ふざけんな!」言われてるべき態度。
慰安婦像つくったひとは(わたしにいわせればデタラメもいいとこだが)マジで「日本人よ…はんせいしろ」思って(たぶん)あれつくってるので。津田やあずまくんがやってた「表現の自由」実はそこまでの政治性はない。
雑誌『ぴあ』が今週おこってるいろんなイベントをおもしろおかしく無差別にとりあげれたその点において表現が自由だった(ロマンポルノのとなりにハイソな演劇が並んでてよかったね自由な社会で)くらいのニュアンス。もちろんそうしたフラットなあつかいができるのも世の中がへいわで経済繁栄しててみんながそれなりに理解力があって寛容だったから。なのだが(実際に「ポルノと一緒にされちゃたまらん」感じてたひともいるはず。
高尚な演劇とかでポルノと並列に扱われたら明らかに「侮辱だ」思うのもまた自然なことなので。『全てをフラットに扱う(価値判断しない』だけでも『表現の自由』そんなに長続きしないしそもそもありえない。もちろんそうしたフラットなあつかいができるのも世の中がへいわで経済繁栄しててみんながそれなりに理解力があって寛容だったから。なのだが(実際に「ポルノと一緒にされちゃたまらん」感じてたひともいるはず。高尚な演劇とかでポルノと並列に扱われたら明らかに「侮辱だ」思うのもまた自然なことなので。『全てをフラットに扱う(価値判断しない』だけでも『表現の自由』そんなに長続きしないしそもそもありえない。
みんな(とくに憲法がくしゃとか)大いに勘違いしてるけどこれ要するにそういうことなので(どうしてこんなかんたんなことがわからんのだという感じ。なぜそうなるかというとつまるとこ『インダストリー』のもんだい。たとえばこんかいあずまくんいきなり前言ひるがえしたりして「なんなのこのひとは…(このていどのこと最初からわかれよ」思うひともたぶんたくさんいるはずだが別に彼らに一貫したものなどありはしないので、こないだまで河村disってたはずのあずまくんいきなり「津田がわるい」になるの丸山ぎいん「みなさんNHK受信料はらうのは国民のぎむ」からの「NHKぶっこわす!」入りと全くおなじ。
インダストリーの問題とはすなわち文化産業の問題であり雑誌『ぴあ』の「表現の自由」が成立してたのはみんなが中産階級だと思ってたから。永六輔とか旧NHKこうした平等な社会の構築に焦点あわせてたしこの環境の産物。こうした文化産業の仕組み(従事してるひとたちも含めまだ巨大なインフラが半ば廃墟と化しながら残ってる)いまどきこれでやってけるはずない(もう残念ながら時代おくれ)と誰もが思ってるのは確かなので。
若干専門的な話でしめとくと(もうネットにたくさんいる情報産業のひとにとっては常識だろうが)おどかすようですまないがこれからは「情報をフラットに」ではなく「差別と排除」の時代なので(あれこれいってもムダ。差別と排除とはゲートキーパーが誰をはじくか決めてその(誰でもゲットできるはずの)情報へのアクセス権がそのひとの社会的な地位をしめすアレ(要は「ブロックだ!」「不可視にする!」みなさん楽しそうにやってるやつ。
表現の自由なんかよりそっちのほうがよっぽどだいもんだいじゃないの?wという感じだが世の中よくできたものでホントに重要なことは展覧会のテーマになんかなったりはしないのである(みんなのメシの種になってるから。
このエントリでいう「現代アート=既存の権力」について、コメントしている人たちが考える「権力=○○」が違いすぎて話かみ合ってない。
>「これはアート! わからないお前は勉強が足りない!」とか言っている人たちがいる。
素直に読めば、これは「アートをやっている人たち」を指すであろう。確かにこれはある。古参のオタクがニワカの新参をマウントするやつ。
ただ、その後の「権力」「カルト」というところを見ると、この増田は現代アートそのものに懐疑的である。
コメントは当然ながら、あいちトリエンナーレを意識した書き込みが多いが、このエントリ自体もそれに触発されたものと考えるのが自然だ。
そう考えると、この増田はあいちトリエンナーレをどのような視点で見て、このエントリを書いたのだろうか。
もし、作品撤去の件を肯定的に見ている場合、「あんなものを芸術というなんて、頭おかしい」という意味でこのエントリを書いたのだろう。
だからアートを「カルト」というし、「津田は現代アートという権威を借りてヘイト展示をやったんだ」という論理が成立する。
一方で、作品撤去を弾圧と考える人々もいる。そうした人々にとって権力者とは政府・政治家・公権力(あいトリに政治家が発言した件)であり、
「アートで社会にメッセージを送っただけなのに表現の自由を奪われた」となる。
また、タイトルの「醜い優越感」というキャッチーなキーワードも気になる。
増田はアートになんてこれっぽちも関わりなく生きてきた人間なのか、自分には理解できないものに対するひがみのようなものも感じる。
「これはアートだ、と言えば何やってもいいのか」というやっかみの気持ちもあるのだろう。
「自称現代アートに詳しい人たち」は常に「アートなんて分からない人たち」を置いてきぼりにしてきた。
特に、全国各地にある公立の美術館だって、一般市民にアートを教育普及するための施設であったはずなのに、「自称アートに詳しい人たち」に私物化されてきただけであった。
だから、ネトウヨにとっては「税金を使ってこんな展示をしてくれやがって」という気持ちになることはよくわかる。
しかし、今回の津田芸術監督はそうした「自称アートに詳しい人たち」側の人ではないのである。
むしろ、「自称アートに詳しい人たち」からは「素人のお前なんかにできない」と散々コケにされている側なのである。
だから、津田さんにとっては「権威=美術業界」(=アートではない)からもけなされ、ネトウヨや公権力からも弾圧され、泣きっ面に蜂である。
今回のあいちトリエンナーレは自分は既存の日本における美術業界の権威に風穴を開けてくれることを期待していた。
だが、日本社会に立ち込めるネガティブな圧力を改めて浮き彫りにしてくれることとなった。
今回の件について、美術業界の批評家や美術史家、美術学芸員といった人たちから、まともな「批評」がなされるのだろうか。
これからも日本の美術業界は「自称アートに詳しい人たち」の自己満足展覧会と「クールジャパン」的な何かをやるだけの、一部の人たちの既得権益として温存されるのだろう。