はてなキーワード: 梅干しとは
そのまましばらく放っておき、麺がほぐれたらお湯を捨てる(全量捨てるのにはざるを使わないといけなくて面倒なので傾けて捨てられる分だけ捨てる)
うどん麺の上に鰹節とか昆布茶みたいな出汁になるものをかけ、しょうゆをまわしかける(塩味があれば調味料はなんでもいいので、梅干しとかキムチとかでもいい)
具は冷凍しておいた小葱とか天かすとか生卵とか乾燥わかめとか入れて、また椀にお湯を適量注ぐ
ケトルとか電気ポッドみたいなお湯を沸かすものがあれば、洗い物が椀と箸だけで済む
ずうっと朝飯を食べない生活を続けていたけれども、体調を崩したのをきっかけに朝飯を食べるようにした。
お湯を注ぐだけで用意できる簡単な味噌汁というお題と合わせて、元増田のようにご飯のお供について考えることが多くなったこの頃。
たとえすごく美味しいものでも続けると飽きが来なくもない感じなのでローテーションしてる。
それに品名が同じでも美味しいやつがあったりイマイチのものがあったりするので、なかなか一周しない。
以下、自分の飯で搭乗率が多いやつを整理を兼ねて。
こんな感じだろうか。
おろし生姜と醤油だけでも美味しいし、業務スーパーの具だくさんラー油や青唐辛子の佃煮なんかも美味しい。
# 長くなってすまない
飛び散る女性の頭、自らも死のうとした元従軍看護師戦後72年…激戦地で生き、戦後は助産師で赤子抱く
もう歩けない。何度も死を覚悟した。ジャングルの川の中で力尽き、このまま流されて死ぬんだと思った。「同級生2人のお骨は私が内地の両親に届けなくちゃいけない。絶対に死んじゃいけないと自分に約束した。けれども、かなわずに死のうとしたの」
元従軍看護師の木村美喜さん(89)=桶川市=は激戦地のフィリピン・ルソン島で約1年、敵の爆撃機や砲弾が四六時中頭の上を飛び交う中、傷病兵や患者の救護に従事しながら生き抜いた。食べるもの、飲むもの、薬もない。無数の死体が転がる山の中を逃げ回り、行軍した。仲間や兵士たちは次々に命を落とした。
生まれも育ちも桶川。日本赤十字社埼玉県支部の看護師だった1944年7月、召集を受けてマニラ郊外の陸軍病院に派遣された。当時16歳。埼玉班26人で最年少だった。歯科外来に勤務し、当初は不自由のない生活をしていた。
9月、マニラ初空襲。次第に戦火が拡大し、12月に病院は解散。絶え間ない空襲の下、部隊はマニラから北に約250キロのバギオに移動した。
悲劇が襲ったのは、45年1月23日。正午前に大編隊の爆撃機が襲来し、病棟は瞬く間に火の海になった。がれきの中で「助けて」とさけぶ声。焼け落ちた梁(はり)が目の前で女性に直撃し、頭が飛び散った。外に逃げた人々は次々と機銃掃射で撃たれて犠牲になった。
埼玉班も9人が戦死。「今夜は夢でいいからお父さん、お母さんに会いたいね」。前日に梅干しをしゃぶりながら古里の話をした同期2人は骨だけの状態と、顔や手足、内臓がない状態で見つかった。
4月、バギオから撤退。山の中で終わりなき逃避行を続けた。昼間は空から見つかるため移動できず、夜は砲弾が飛んでくる。草のしとねに横たわり、古里の歌を口ずさむと、歌声はいつしか涙声に変わっていった。「みんな『白いご飯をおなかいっぱい食べたい』『死にたくない』と言いながら死んでいったの」
埼玉班の仲間も一人、また一人と病気や栄養失調で亡くなった。「今度死ぬのは自分の番だ」。どんなときも肌身離さず持っていた親やきょうだいの手紙や写真、日の丸の寄せ書きを河原で焼いた。死んでから人に見られたくなかった。
終戦を知らされたのは8月17日。途端にマラリアで40度の高熱が出た。捕虜収容所に行くまでの山を下りられず、同僚3人と部隊から取り残された。もう半歩も動けない。道の両側は腐臭を放つ死体の山。うじが団子になって、ハエが真っ黒にたかっていた。ゲリラの先住民の足跡を見つけるたびに背筋が凍った。
ジャングルの川の中で先輩に泣きながら懇願した。「お世話になりました。私はここに座っていたら流されてしまう。待たないで先に行ってください」。そのたびに言い聞かされた。「一足歩けば一足日本に近づく。一足歩けば一足お母さんに近づく。日本に帰りたかったら、お母さんに会いたかったら歩きなさい」。その言葉に背中を押され、何とか収容所にたどり着いた。
約4カ月の捕虜生活の末、12月に復員。日赤病院に同期2人の遺骨と遺髪を届けた。桶川駅で母の胸に抱かれてわんわん泣いた。17歳だった。
戦後は助産師として働いた。「もし日本に帰れたら、たくさんの兵隊さんの亡きがらを葬ってきた分、この手で新しい命を取り上げよう」。収容所で毎晩、誓った夢をかなえた。抱いた赤ちゃんは数え切れない。3分間に4人取り上げたこともある。自らも子ども3人、孫5人に恵まれた。
今は子や孫のため、社会のために一日でも長く生きていたいと願う。戦争を経験した人が減り、自分の代わりがいないと思うから。多くの講演を引き受け、本も出版した。戦争を知らない若い人たちみんなに、一度でいいからこれまでの話を伝えたい。「戦争は人の殺し合い。もう二度としては駄目。命は本当に大切。一つっきりしかないんだから。かけがえがないんですよ。」
2022-08-10
■隠れヴィーガンだけどバレてるかもしれない
昨日会社の人とランチ行ったら、「増田さん、淡白なものばかりたべますね」って言われた。
人前で食事するときは、踏み絵だと思って、仕方なく動物を食べる(できるだけ少量)ようにしてるんたけど、今回のランチが山かけうどんと梅干しおにぎりだったから、怪しまれたか。
出汁に鰹入ってるから、ヴィーガンではないと思ってくれたらいいんだけど。
ヴィーガンってバレたら変な人って思われて迫害されるからなあ。怖い。
「増田さん、肉食べないんだって」「えーじゃあ何食べてるんですか?」「魚肉ソーセージはいいんですか?」
もしこんなこと言われたら
「魚肉ソーセージは魚だからダメに決まってるだろ!たわけ!!」
って大声で叫んでしまいそうで怖い。
どうかバレてませんように。
昨日会社の人とランチ行ったら、「増田さん、淡白なものばかりたべますね」って言われた。
人前で食事するときは、踏み絵だと思って、仕方なく動物を食べる(できるだけ少量)ようにしてるんたけど、今回のランチが山かけうどんと梅干しおにぎりだったから、怪しまれたか。
出汁に鰹入ってるから、ヴィーガンではないと思ってくれたらいいんだけど。
ヴィーガンってバレたら変な人って思われて迫害されるからなあ。怖い。
「増田さん、肉食べないんだって」「えーじゃあ何食べてるんですか?」「魚肉ソーセージはいいんですか?」
もしこんなこと言われたら
「魚肉ソーセージは魚だからダメに決まってるだろ!たわけ!!」
って大声で叫んでしまいそうで怖い。
どうかバレてませんように。
時期を失ってしまったが、来年以降も続くことだし、書いておこうと思う。
某大手スーパーの惣菜売場勤め。今年も土用丑の日はうな重などを売る。たくさん予約をとり、たくさん製造し、たくさん値引きをし、そこそこ廃棄した。
夏の土用の丑の日に「う」のつくものを食べると無病息災なんていうのは単なる迷信に過ぎないし、分かった上でそれに乗るとしてもわざわざ絶滅が危惧されるものを喰う必要はない。うどん、梅干し、ういろうと「う」のつくものはいくらでもある。夏バテ防止の栄養がというのも、さまざま代替はあるわけだ。
土用丑の日にうなぎを食べるというのがいつ始まったのか知らないが(源内関係ないんだってね。すっかり騙されていた)、コンビニやスーパーなんかでガンガン宣伝して大量に売るようになったのはここ10年20年みたいな話を聞く。この自由主義経済社会においてもともと存在しなかった需要を掘り起こしたのは偉いことだけれども、結果として絶滅するまで喰い尽くしてしまうおそれがでてきたのは残念なことだ。しかし、いったん掘り当ててしまった金脈をみすみす捨て去るのは難しい。
とはいえ、それでもこれは客が自主的に買ってるものだ。店側の宣伝に煽られ乗せられなので必ずしも自主的とはいえないという見方もできるけど、自分で選んで購入しているというのは事実。一方で、押し売りとでも言うべき半強制の販売・購入が店内で行われている。これは主体性のかなり低いものだ。
スーパーやコンビニでは、土用うなぎに限らずクリスマスのチキンやケーキ、節分の恵方巻など、季節もので大々的に売り出す商品は予約販売をしている。予約期間になると担当部門の若手が店内をまわり従業員から予約をとって回る。もちろん強制ではない。断ろうと思えば断れるわけだけど、断れねえよ、こんなん。みんな買ってるしお互い様だし。というわけでクリスマスにはケーキを食べるし、母の日に花を贈り、父の日は肉を買うことになってる。青果のは果物をギフトに使い、鮮魚からは別にうなぎを予約した。こういうの惣菜が1番多いからね。土用丑のうな重、クリスマスチキン、おせち、恵方巻。買ってもらうには方々にいい顔しなくっちゃならない。もちろん自分でも予約する。目標は去年の数字超え。
製造業でも自社商品を購入したりするっていうし、なんだかんだ新人の店内コミュニケーションになったりするし、こういうの必ずしも悪いだけの制度ではないとは思う。正直やめて欲しいけど、仕方ないのかなとあきらめの気持ち。
ただ、うなぎはやめようよ。絶滅しそうなんだし。土用丑の日はうなぎを食べようという宣伝で強引に需要を掘り起こしてるのでもかなり問題だと思うが、事実上強制的に購入させ、たいして喰いたくもないのに無理に消費させているという、さらに無茶苦茶なことが行われているというのはさすがに酷い。せめてこの押し売りだけはなんとかならんかなあと思う。ほかの商品はともかく、せめてうなぎだけは。