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はてなキーワード: 五分五分とは

2014-01-23

半年がかりの勝負に勝った

いやまあ、試験なんだけど。

半年、ずっとがんばってきた。

これ勝てなかったら普通に死んでたと思う。

  

始めた当初は五分五分くらいの確率で、そんなもんで死ぬ生きるが決まるんかと超絶ビビっていた。

一番不安だったのは、「それをやりきれる体調とメンタルなのか?」ってこと。

体調はかなり悪かった、胃潰瘍だった。だけど、薬だけ医者にもらってずっとやってた。

メンタルのほうも、死ぬ生きるの勝負だから、夜も眠れない時がかなりあった。

  

しかし、結果を開けてみれば勝ち。

勝ったことがよかったのではないと思う。

勝つ負けるは始めた当初は五分五分だった。(結局試験の結果を見たら圧倒的に勝っていたわけだけど)

そうではなく、『俺はやることをやれるんだ、生き死にがかかっていてもやれるんだ』ってのが心底よかった。

  

負けた時は普通に死んでたから、相当世を恨んでいただろうけど。勝った時は、うれしいとかなかった。

だって、これのためだけに生きてて、もう精神なんてぼろぼろ、骸骨だよ。

人間性そぎ落とされて骸骨。

そこまで、ずーっと苦しんできて、苦しんできて、ようやく勝った。

やりきれる人間で本当によかった。

そこが一番不安だった。

命かかってもやりきれない人間じゃ無いか?いやかりにやりきれる性質だとしても体調や死への恐怖でダメになるんじゃ無いか?

そこはもう人知を超えた話で。

自分ポテンシャルいかんだった。

  

しかし、終わってみれば、実際できてしまった。

やればできてしまった、。それは事前にはわかんねーんだな。

  

もう一生こんなことは無いだろうし、一生もうこんなことしなくていい立場になったから、もう関係無い話だけど。

  

あれだ、一番思ったんだけど、

「苦しいときにこそ生きてるって思う」

とか、そういうの全然無い。

ただただ、

自分が成し遂げられる人間側であって本当に良かった」

これ。

漫画みたいな快感とか無い。もうただただ、骸骨しか残ってない。骨皮みたいな人間性らしいのは全部削られてしまったわ。

2013-08-23

まさかカウンターパンチ

内々定の話を貰ってたんだけど、一向に連絡ないかハロワ相談しに行ったら、

職員から不採用の結果来てるよ」と告げられた。

紙切れ一枚で祈られるよりエグイよ。

 

連絡しづらいのは分かるけど、連絡ぐらいは欲しかった。

内々定から五分五分と心構えは出来てるから

 

来週、面接から土日で気持ち切り替えて頑張ってくる。

2013-02-21

http://anond.hatelabo.jp/20130221074712

犯人の可能性は五分五分くらい。

クロだとしても現段階では証拠不十分だろう。

という感じ。

2012-09-05

家族とは話せる引きこもり

本当の意味ニート学校にも行っていないし働いていなくて職業訓練行くならいきなりバイトの方がいいんじゃないのって思ってる)。

友達メールもしんどくて2,3通二ヶ月から十日ほど放置している。

そんな自分は父親からお小遣いを貰っている。

いらないって言っても定年間近な父は今だけだからと引っ込めない。

買い物もしないし家に居るだけだし友達結婚祝いとか出産祝いとか香典くらいなら貯金がまだある。

受け取ってしまったお札はカラーボックスの上にそのまま置いて時々風で飛んだ。

さすがにこれはいけないと思ってトーイック参考書をおもしにした。

ちょっとお金がかわいそうなくらい。ここに来ても行くところがないのに。

専門職についている兄がいて、兄もそう言えば以前引きこもりだったかもしれない。

受験に失敗して他の大学に行ってやめて浪人を数年して専門職大学に行った。

自分が思っているよりもできないということを認めるのに10年近く掛かったようだし、兄にとって相当苦しいことだったんだろうと思う。

くそ大学に行くことを決断できたなあと、どう心のなかで決着をつけたのか不思議

なにせ賢くて運動もできる子だったから。

兄は中高一貫校の私立に通っていて高校3年の時には早稲田にも受かる成績らしかった。

だけど希望する大学二校を金銭的にもう一つは別の理由で父が了承せず、それでやる気をなくして予備校の隣にあるゲーセンにハマって成績が下がっていった。

兄は親なら子の望む教育を施すべきという考えで(本当はもっと権利ばかり主張している感じ)、

それには留学私立大学も含んでいる。

でも父からすると結果的にだけど予備校入学金も大学入学金も何度も払ったとその話になると少し興奮して言い、

からお前に家もやるし小遣いだって遠慮しなくていいとなる。

希望する大学に行けないとわかってからだったか、現役受験に失敗してからか兄は部屋から滅多に出てこなくなった。

と言ってもその当時は特におかしいと感じていなかった。

思春期特有のなにかで男の子自分にはわからないものだったから。

だけど母はあの時を振り返って異常だったという。その異常さは専門職大学に入るまで続いた。

そして母にとって悪いのは行きたい大学に行かせなかった、その他にも悪いところだらけの父だった。

母が父のことを愚痴る時、「人として」「人間として」という表現をよく使う。

実際父は変わった人間だ。今風にネット風に悪く言うとキチガイの域に入ると思う。

ただ父の全てが悪いわけではない。

小さい時から父の愚痴を聞かされていてその時はわからなくて父はなんてひどいんだと思っていたけど

両方の性質も客観的に見ることが出来る今は五分五分だと思う。

もしくは合わない部分があるのだと思う。

毎朝の両親の口喧嘩である朝とうとう堪え切れずに泣いてそのまま登校した小学生の時、

小学生あるいはそれ以前から大学生になるまでほとんど毎日父の怒鳴り声が目覚ましだった。

働くようになってから何度か両親の喧嘩が苦しくて自室で泣いたこともある。

それでも、「お父さんと結婚していなければ違う人生があった」も

小学生の時に「高校生になったら離婚していい?」中学生になったら「大学に行ったら離婚していい?」も

私の父親の人格を否定するようなことも子ではなく友達か親にでもして欲しかった。

人として欠陥のある父の遺伝子自分の半分を作っているということを何度も思わされて何度も悲しくなった。

あれほど批判するそれが自分の半分なんだという気持ちは高校だったか大学から母親愚痴を聞く度強くなった。

この交配は失敗だと思う。

とても生きづらさを感じているし、働くこともままならない。

そう言えばこの遺伝子は残すべきではないって中学生の時には思っていたな。


ただなににもならない日々を今過ごしている。

若ければまだ貰い手もあったのかもしれないけど、もう大台に乗ってしまって猛烈な終わった感に苛まれている。

結婚子育て方面がダメと決まって充実感とか蓄積・成長している感じとか、

とにかく意味がある日々をやっぱり仕事から得ることになるんだろうなと少し期待する気持ちも生まれている。

でも実際はこうなるきっかけになった恐怖から逃れられずに買い物にも散歩にも出ず、求人サイトをたまに見ては眠れなくなったり寝込んだりしている。


年をとって父はもうほとんど落ち着いた。

私はストレスがかかると自分でもキチガイだと感じる。

そしてそんな自分に耐えられない。

私の性質は母親寄りと言うよりは父親寄りだと母も認めている。

この家のキチガイは私になった。

2012-07-08

いじめられる側責任があるというのなら裁判所はいらない

だって、全ての犯罪はお互いに五分五分責任があるってことになるから

2011-10-31

からスティーブ・ジョブスへの弔辞

A Sister’s Eulogy for Steve Jobs

モナ・シンプソン (Mona Simpson)

2011年10月30日

私は母子家庭一人っ子として育てられました。

しかったので、そして父はシリアから移民だと教えられていたので、

父については、オマル・シャリフのような人ではないか想像していました。

裕福な人であればいいなと、いつか私たちの(いまだに家具も揃っていない)家に迎えに来てくれればいいなと思っていました。

のちに面会したとき、私は、父は理想燃える革命家で、アラブ新世界を導く人だったのだと、

から転送先を残さずに住所を変えてしまったのだと思い込もうとしました。

私はフェミニストでありながら、自分が愛せる、自分を愛してくれる人を長いあいだ探していました。

二十数年間、父がその人なのだろうと思っていました。

25歳になってその人に出会いました。

それが兄でした。

私は当時、ニューヨーク処女作を書こうとしていました。

他の作家志望者3人と一緒に、クローゼット並の大きさの事務所で小さな雑誌仕事をしていました。

ある日、弁護士が私に電話をかけてきました。

その弁護士は、上司健康保険をねだるような、カリフォルニア中流階級の娘である私に、

「裕福で、著名で、あなたのお兄さんである人物の代理人だ」と名乗りました。

同僚編集者たちは騒然となりました。

時は1985年、そこは新興文芸雑誌の事務所、

それでも私は大好きなディケンズ小説の筋書きに放り込まれたようでした。

弁護士は兄の名を伝えるのを拒み、同僚たちは賭けを始めました。

一番人気の候補は、ジョン・トラボルタ

私が密かに期待していたのはヘンリー・ジェイムズ後継者

何の苦もなく優れた作品を生み出す、自分より才能のある作家でした。

初めて会ったときスティーブは私と同じ年格好で、ジーンズを履いていました。

オマル・シャリフよりもハンサムな、アラブユダヤの顔立ちでした。

私たちは長い散歩しました。

偶然にも二人ともそうするのが好きでした。

何を話したのかはあまり覚えていませんが、

とにかく友達にしようと思えるような人だと感じたのは覚えています

彼はコンピュータ企業で働いていると言いました。

コンピュータのことはあまり知りませんでした。

私はまだオリヴェッティのタイプライターを使っていましたから。

コンピュータを一台、初めて買おうかと思っているとスティーブに言いました。

Cromemcoという名前でした。

スティーブは、そのときまで待ったのは良かったと言いました。

彼は、恐ろしく美しいものを作ろうとしていると言いました。

これからスティーブから学んだことをいくつかお伝えしたいと思います

つの期間、合計27年間に渡って、私は彼を知っています

期間を区切るのは年数ではなく、生き様です

彼の充実した人生

彼の病気

彼の死。

スティーブ自分の愛するもの仕事しました。

彼は頑張って働きました。

毎日働きました。

とても単純ですが、本当のことです

彼は散漫の対極のような人でした。

彼は、たとえ失敗に終わるとしても、頑張ることを恥とはしませんでした。

スティーブのように聡明な人が挑戦を恥じないのであれば、私も恥じる必要はないのかもしれません。

彼はAppleを追い出されて、つらい時期を過ごしました。

彼はシリコンバレー指導者500人が現職大統領を迎えるディナーのことを話してくれました。

スティーブはそこに招待されなかったのです

彼は傷つきましたが、 NeXT に行って働きました。毎日働きました。

スティーブにとって最高の価値は、新規性ではなく、美しさでした。

イノベーターにしては珍しく、スティーブは物事に忠実でした。

シャツが気に入れば、同じものを百枚注文しました。

パロアルトの家には、黒いコットンのタートルネックが、

おそらくこの教会にいる全員分はあると思います

彼は流行や小道具を好みませんでした。

自分と同世代の人が好きでした。

彼の美学はこういう言葉を思い起こさせます

ファッションとは、美しく見えるがのちに醜くなるもの芸術とは、最初醜く見えるがのちに美しくなるもの

スティーブはいつも、のちに美しくなるようにしようとしていました。

彼は誤解を受けるのを恐れませんでした。

パーティに招かれなかった彼は、三台目か四台目の同じ黒いスポーツカーNeXT に通い、

あるプラットフォームを、チームとともに静かに作っていました。

それは、ティム・バーナーズ・リーがのちに、

ワールドワイドウェブを動かすプログラムのために使われることになるものでした。

愛について話す時間の長さにかけては、スティーブ女の子並でした。

愛は彼にとってこの上ない美徳であり、最高の神でした。

はいつも、一緒に働く人々の恋愛生活を気にしていました。

女性が気に入るかもしれない男性を見つけると、

独身なのか? うちの妹とディナーはどうだい?」と声をかけました。

彼がローリン出会った日にかけてきた電話を、今でも思い出します。

「こんなに美しくて、頭がよくて、こんな犬を飼っている人なんだけど、結婚するつもりだよ」

リードが生まれて以来、彼は止まることなく家族愛情を注ぎ続けました。

彼はどの子にとっても実の父親でした。

リサの彼氏と、エリン旅行と、スカートの長さと、イヴの愛馬についてやきもきしていました。

リード卒業パーティに出席した人はみな、リードスティーブゆっくりとしたダンスを忘れられないでしょう。

ローリンに対する変わることのない愛が彼を生き延びさせました。

はいつでも、どこでも発露するものだと彼は信じていました。

スティーブ皮肉や冷笑や悲観とは無縁でした。

私は今も、そのことを学ぼうとしています

スティーブは若くして成功した人でした。

彼はそのことで孤独を感じていました。

私が知るかぎり、彼の選択のほとんどは自分のまわりに巡らされた壁を壊すためのものでした。

ロスアルトから来た中流の男が、ニュージャージーから来た中流の女に恋をする。

二人にとって、リサとリードエリンイヴ普通の子供として育てることは重要でした。

彼らの家には押し付けがましい美術品などはありませんでした。

スティーブとローリンが一緒になったことが分かってから何年間ものあいだ、

夕食は芝生で食べていましたし、食事が野菜一種類だけだったこともありました。

一種類の野菜をたくさん。

一種類だけです

ブロッコリー

旬の野菜

簡単な調理。

とれたてのハーブなど、適切なものを適切なだけ。

若き億万長者でありながら、スティーブはいつも私を迎えに空港まで来てくれました。

ジーンズを履いて待っていてくれました。

家族会社電話をしたときには、秘書のリネッタが

「お父さんは会議ですが、お呼びしたほうがいいですか?」と答えてくれました。

リードが毎年ハロウィン魔女のかっこうをしたがったときには、

スティーブ、ローリンエリンイヴ魔女になりました。

彼らはキッチン改装に取りかかったことがあります

何年もかかりました。

そのあいガレージでホットプレートを使って料理しました。

同じころ建設されていた Pixarビルはその半分の時間で完成しました。

パロアルトの家の中はどこもそんなかんじでした。

バスルームは古いままでした。

ただし、これが重要なところなのですが、その家は最初の時点ですばらしい家でした。

スティーブは目利きでしたから。

彼が成功を満喫しなかったというわけではありません。

何桁分か控えめではありましたが、十分満喫していていました。

パロアルト自転車屋に行って店内を眺めて、

その店で最高の自転車が買えるんだと自覚するのが大好きだと話していました。

そして実際、買いました。

スティーブ謙虚でした。

スティーブは学びつづけるのが好きでした。

彼はある日、育ち方が違っていれば自分数学者になっていたかもしれない、と言いました。

彼は大学について尊敬を込めて語り、スタンフォードキャンパスを歩くのが好きでした。

最後の数年間、彼はマーク・ロスコ絵画の本を研究していました。

それまで知らなかった美術家を知ってから

未来Appleキャンパスの壁に何があれば皆を刺激できるだろうと考えていました。

スティーブは物好きなところがありました。

イギリス中国のバラの栽培の歴史を知り、デビッドオースティンにお気に入りのバラがあるCEOが他にいるでしょうか?

はいくつものポケットにいっぱいのサプライズを持っていました。

たとえ二十年間人並み外れて近しく寄り添ったあとであっても、

きっとローリンにはこれから発見するものがあるだろうと思います

彼が愛した歌、彼が切り抜いたポエム

彼とは一日おきくらいに話をしていたのですが、

ニューヨークタイムズを開いて会社特許の特集をみたとき

こんなによくできた階段のスケッチがあったのかと驚きうれしくなりました。

四人の子と、妻と、私たちみなに囲まれて、スティーブ楽しい人生を送りました。

彼は幸福大事しました。

そしてスティーブ病気になり、私たちは彼の人生が狭い場所に圧縮されていくのを見ました。

それまで彼は、パリ散歩するのが好きでした。

彼は京都で手打ちそばを見つけました。

スキーでなめらかに滑降しました。

ドタドタとクロスカントリーしました。

もうできませんでした。

最後には、日々の喜び、たとえばおいしい桃ですら、彼を楽しませることはできませんでした。

ですが、私が驚くと同時に彼の病気から学んだことは、

多くのものが失われてもなお、多くのものが残っているということでした。

兄が椅子を使って、ふたたび歩けるようになるための練習をしていたことを思い出します。

彼は肝臓移植をしたあと、一日一度、椅子の背に手を乗せ、支えにするには細すぎる足を使って立ち上がりました。

メンフィス病院廊下で、椅子を押してナースステーションまで行って、

そこで座って一休みして、

引き返してまた歩きました。

彼は毎日歩みを数え、毎日より遠くまで進みました。

ローリンはひざまづいて彼の目を覗きました。

あなたならできる」と彼女が言うと、

彼は目を見開いて、唇を引き締めました。

彼は挑戦しました。

いつもいつも挑戦しました。

その試みの中心には愛がありました。

彼はとても直情的な人でした。

その恐ろしい時節、私は、スティーブ自分のために痛みをこらえていたのではないことを知りました。

目標をさだめていたのです

息子リードの高校卒業エリン京都旅行

家族を連れて世界を回り、退職したときにローリンと乗るために造っていた船の進水式。

病気になっても、彼の好み、彼の決意、彼の判断力はそのままでした。

看護婦67人を試し、優しい心があり全幅の信頼をおけると分かった三人をそばにおきました。

トレイシー、アルチュロ、エラムです

スティーブが慢性の肺炎を悪化させたとき医師はすべてを、氷をも禁じました。

私たちは標準的なICUユニットにいました。

スティーブは普段割り込んだり自分名前ものを言わせたりすることを嫌っていましたが、

このときだけは、少し特別な扱いをしてほしいと言いました。

「これが特別治療だよ」と私は伝えました。

彼は私のほうを向いて、「もう少し特別にしてほしい」と言いました。

挿管されて喋ることができなかったとき、彼はメモ帳を頼みました。

そしてiPad病院のベッドに備え付けるための装置のスケッチを描きました。

新しい液晶X線装置設計しました。

特別さが足りないと言ってユニットをもう一度描き直しました。

妻が部屋に入って来るたび、笑みが戻るのが分かりました。

一生のお願いから、頼む、と彼はメモ帳に書きました。

こちらを見上げて、お願いだから、と。

彼が言いたかったのは、医師の禁を破って氷を持ってきてほしいということでした。

私たちは自分が何年生きられるか知りません。

スティーブ健康だったころには、その最後の数年にも、

彼はプロジェクトを立ち上げ、それを完了させるようAppleにいる同僚に約束させました。

オランダ造船業者は、豪華なステンレス製の竜骨を組み、板を張るのを待っていました。

三人の娘はまだ結婚していませんし、二人はまだ女の子です

私の結婚式でそうしてくれたように、彼女たちと並んで花道に立ちたかったことでしょう。

私たちはみな、最後には、途中で死にます

物語の途中で。

たくさんの物語の途中で。

ガン宣告のあと何年も生きた人についてこう言うのは正しくないかもしれませんが、

スティーブの死は私たちにとって突然でした。

二人の兄弟の死から私が学んだのは、決め手はその人のあり方だということでした。

どんな生き方をしたかが、どんな死に方をするかを決めるのです

火曜日の朝、彼はパロアルトに早く来てほしいと電話をかけてきました。

声には熱と愛情がこもっていました。

同時に、それは動き出した乗り物に荷物が引っかかってしまたかのようでした。

申し訳なさそうに、本当に申し訳なさそうに、

私たちをおいて旅に出つつあるときのようでした。

彼がさよならを言おうとしたとき私は引き止めました。

「待って。行きます空港タクシーで行くから。きっと着くから

「間に合わないかもしれないから、今のうちに言っておきたいんだ」

着いたとき、彼はローリン冗談を言い合っていました。

毎日一緒に暮らしてきた夫婦のように。

視線をそらすことができないかのように、子供たちの目を覗き込んでいました。

昼2時まで、彼の妻は彼を支えてAppleの人と話させることができました。

そのあと、彼はもう起きていられないということがはっきりしました。

呼吸が変わりました。

つらそうに、やっとの思いで息をしていました。

彼がまた歩みを数え、より遠くへ進もうとしているのが分かりました。

これが私が学んだことです

彼はこのときにも努力していたのです

死がスティーブに訪れたのではありません。

彼が死を成し遂げたのです

彼はさよならを言い、すまないと言いました。

約束したように一緒に年をとることができなくて、本当にすまない、と。

そして、もっと良い場所へ行くんだと言いました。

フィッシャー医師はその夜を越せるかどうかは五分五分だと言いました。

彼はその夜を越しました。

ローリンはベッドの横に寄り添って、息が長く途切れるたびに彼を引き寄せました。

彼女と私が互いに目を交わすと、彼は深く吐き、息が戻りました。

やらなければならないことでした。

はいまだに、厳しいハンサムな顔立ちをしていました。

絶対主義ロマンチストの顔立ちをしていました。

その呼吸は困難な旅路、急峻な山道を思わせました。

山を登っているようでした。

その意志、その使命感、その強さと同時に、

そこにはスティーブ不思議を求める心、

美術家として理想を信じ、のちの美しさを信じる心がありました。

その数時間前に出た言葉が、スティーブ最期言葉になりました。

それは三度繰り返す単音節言葉でした。

船出の前、

彼は妹のパティを見て、

子供たちをゆっくり見て、

人生の伴侶ローリンを見て、

そして皆の肩の向こうを見ました。

スティーブ最期言葉は次の通りです

OH WOW. OH WOW. OH WOW.

2011-08-30

http://anond.hatelabo.jp/20110830164304

実際には男女五分五分採用なんてごく一部の企業で、基本的に企業規模が大きくなるほど男性の比率が上がるし、正規雇用男性の方がずっと多い。更に言えば管理職ポジションは9割が男性。(ということが文中引用されている論文に書いてある)

女性より劣ってる男性に対するアファーマティブアクションwwでそうなってるんだとしても、不当に男性が優遇されすぎてる差別状態じゃん。

それをせめて5割に持ってこようとしたら男性待遇が原状と比べて相対的に低下して女性待遇が相対的に上昇するのは当たり前でしょ。

2011-06-29

菅総理戦略

第2次補正予算案、公債特例法案、再生可能エネルギー買い取り法案の3法案の成立。

2次補正は通るが、他の二つは微妙である

おそらく公債特例法案の段階で、詰んでくる。

なんとか9月20日前後まで粘ることだ。被災地でも選挙が出来る状態になる。

そこで、「脱原発解散」である菅総理が勝てる可能性は高い。

原発を全てなくすと言えば、ほとんどの国民は賛成する。選挙に勝てるのだ。

五分五分だというのは、新聞テレビだけだろう。

個人的には、自民党の中で脱原発に賛成な

河野太郎議員グループをなんとかして取り込むべきと思う。

民主党に入れとはいかなくても、ポストについてもらい協力を願うべきだ。

今回は自民議員1人だけだったが。

脱原発解散、期待している。

省庁間の権益を崩し、国民の安全を守る、これはとても重要なことである

菅総理はよく粘っていると思う、すばらしい。

ぜひ原発をなくし、再生可能エネルギー買い取り法案までがんばって欲しい。

民主党選挙に勝とうと思うなら「脱原発解散」しかない。

2011-01-04

http://anond.hatelabo.jp/20110104005005

自分の話で恐縮だけど。

共働きだったときは二人とも総合職で、収入ほとんど互角だったので

家事の分担は五分五分ってことでウチはやってたし、これで問題なかった。

だって、男独りで生きてても家事はやらなきゃならないし結婚したからって労働量が二倍になるわけじゃない。

から結婚してからの生活はむしろお互いにとって楽だったなぁ。

その後、子どもが出来て「稼ぎも家事も折半」っていう体制が維持できなくなり、

俺は転職して収入ダブルスコアくらいまで上げて、その代わりヨメは仕事を辞めて家事育児に専念した

現在、俺はスーツをたたむところまで何一つやらないけど、これはこれで分業として上手く回ってる。

俺は基本的に11時前には帰れないような職場休みは多くて週1って感じだけど、

自宅ではなんにもしなくて済むのでなんとかなってる。ヨメはヨメで家事育児に追われて忙しそうだから

上手いこと両者の負担がバランスしてるんだろーなぁ、と思いつつ。

結局、誰しも生きる環境が違うのだから家事育児、そして仕事っていうのは

どう分担するか、お互いになるべく無理のかからない、フェアな形をどう構築していくかってはなしだと思うんだよね。

それくらい、仕事や家庭のあり方ってのはみんな違うから

そういうわけで、「これが正しい」みたいなことを決め付けず、状況に合わせてしっかりパートナーと話をしながら

しっかり考えていくべきだと思うよ。そうじゃないと環境の変化に対応出来なくなる。

人間、長いこと生きてれば環境の激変ってのは絶対あるんだから

2010-08-07

http://anond.hatelabo.jp/20100807144726

五分五分でしょう。

たしかにリスクは高いかもしれませんが、リスクを冒さない人生というのもまたつまらんものです。

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