はてなキーワード: 五分五分とは
いやまあ、試験なんだけど。
半年、ずっとがんばってきた。
これ勝てなかったら普通に死んでたと思う。
始めた当初は五分五分くらいの確率で、そんなもんで死ぬ生きるが決まるんかと超絶ビビっていた。
一番不安だったのは、「それをやりきれる体調とメンタルなのか?」ってこと。
体調はかなり悪かった、胃潰瘍だった。だけど、薬だけ医者にもらってずっとやってた。
メンタルのほうも、死ぬ生きるの勝負だから、夜も眠れない時がかなりあった。
がしかし、結果を開けてみれば勝ち。
勝ったことがよかったのではないと思う。
勝つ負けるは始めた当初は五分五分だった。(結局試験の結果を見たら圧倒的に勝っていたわけだけど)
そうではなく、『俺はやることをやれるんだ、生き死にがかかっていてもやれるんだ』ってのが心底よかった。
負けた時は普通に死んでたから、相当世を恨んでいただろうけど。勝った時は、うれしいとかなかった。
だって、これのためだけに生きてて、もう精神なんてぼろぼろ、骸骨だよ。
人間性そぎ落とされて骸骨。
そこまで、ずーっと苦しんできて、苦しんできて、ようやく勝った。
やりきれる人間で本当によかった。
そこが一番不安だった。
命かかってもやりきれない人間じゃ無いか?いやかりにやりきれる性質だとしても体調や死への恐怖でダメになるんじゃ無いか?
そこはもう人知を超えた話で。
やればできてしまった、。それは事前にはわかんねーんだな。
もう一生こんなことは無いだろうし、一生もうこんなことしなくていい立場になったから、もう関係無い話だけど。
あれだ、一番思ったんだけど、
「苦しいときにこそ生きてるって思う」
とか、そういうの全然無い。
ただただ、
これ。
本当の意味のニート(学校にも行っていないし働いていなくて職業訓練行くならいきなりバイトの方がいいんじゃないのって思ってる)。
友達へメールもしんどくて2,3通二ヶ月から十日ほど放置している。
いらないって言っても定年間近な父は今だけだからと引っ込めない。
買い物もしないし家に居るだけだし友達の結婚祝いとか出産祝いとか香典くらいなら貯金がまだある。
受け取ってしまったお札はカラーボックスの上にそのまま置いて時々風で飛んだ。
さすがにこれはいけないと思ってトーイックの参考書をおもしにした。
ちょっとお金がかわいそうなくらい。ここに来ても行くところがないのに。
専門職についている兄がいて、兄もそう言えば以前引きこもりだったかもしれない。
受験に失敗して他の大学に行ってやめて浪人を数年して専門職の大学に行った。
自分が思っているよりもできないということを認めるのに10年近く掛かったようだし、兄にとって相当苦しいことだったんだろうと思う。
よくその大学に行くことを決断できたなあと、どう心のなかで決着をつけたのか不思議。
兄は中高一貫校の私立に通っていて高校3年の時には早稲田にも受かる成績らしかった。
だけど希望する大学二校を金銭的にもう一つは別の理由で父が了承せず、それでやる気をなくして予備校の隣にあるゲーセンにハマって成績が下がっていった。
兄は親なら子の望む教育を施すべきという考えで(本当はもっと権利ばかり主張している感じ)、
でも父からすると結果的にだけど予備校の入学金も大学の入学金も何度も払ったとその話になると少し興奮して言い、
希望する大学に行けないとわかってからだったか、現役受験に失敗してからか兄は部屋から滅多に出てこなくなった。
思春期特有のなにかで男の子は自分にはわからないものだったから。
だけど母はあの時を振り返って異常だったという。その異常さは専門職の大学に入るまで続いた。
そして母にとって悪いのは行きたい大学に行かせなかった、その他にも悪いところだらけの父だった。
母が父のことを愚痴る時、「人として」「人間として」という表現をよく使う。
実際父は変わった人間だ。今風にネット風に悪く言うとキチガイの域に入ると思う。
ただ父の全てが悪いわけではない。
小さい時から父の愚痴を聞かされていてその時はわからなくて父はなんてひどいんだと思っていたけど
もしくは合わない部分があるのだと思う。
毎朝の両親の口喧嘩である朝とうとう堪え切れずに泣いてそのまま登校した小学生の時、
小学生あるいはそれ以前から大学生になるまでほとんど毎日父の怒鳴り声が目覚ましだった。
働くようになってから何度か両親の喧嘩が苦しくて自室で泣いたこともある。
それでも、「お父さんと結婚していなければ違う人生があった」も
小学生の時に「高校生になったら離婚していい?」中学生になったら「大学に行ったら離婚していい?」も
私の父親の人格を否定するようなことも子ではなく友達か親にでもして欲しかった。
人として欠陥のある父の遺伝子が自分の半分を作っているということを何度も思わされて何度も悲しくなった。
あれほど批判するそれが自分の半分なんだという気持ちは高校だったか大学から母親の愚痴を聞く度強くなった。
この交配は失敗だと思う。
とても生きづらさを感じているし、働くこともままならない。
そう言えばこの遺伝子は残すべきではないって中学生の時には思っていたな。
ただなににもならない日々を今過ごしている。
若ければまだ貰い手もあったのかもしれないけど、もう大台に乗ってしまって猛烈な終わった感に苛まれている。
結婚や子育て方面がダメと決まって充実感とか蓄積・成長している感じとか、
とにかく意味がある日々をやっぱり仕事から得ることになるんだろうなと少し期待する気持ちも生まれている。
でも実際はこうなるきっかけになった恐怖から逃れられずに買い物にも散歩にも出ず、求人サイトをたまに見ては眠れなくなったり寝込んだりしている。
年をとって父はもうほとんど落ち着いた。
そしてそんな自分に耐えられない。
私の性質は母親寄りと言うよりは父親寄りだと母も認めている。
この家のキチガイは私になった。
A Sister’s Eulogy for Steve Jobs
貧しかったので、そして父はシリアからの移民だと教えられていたので、
父については、オマル・シャリフのような人ではないかと想像していました。
裕福な人であればいいなと、いつか私たちの(いまだに家具も揃っていない)家に迎えに来てくれればいいなと思っていました。
のちに面会したとき、私は、父は理想に燃える革命家で、アラブの新世界を導く人だったのだと、
だから転送先を残さずに住所を変えてしまったのだと思い込もうとしました。
私はフェミニストでありながら、自分が愛せる、自分を愛してくれる人を長いあいだ探していました。
二十数年間、父がその人なのだろうと思っていました。
25歳になってその人に出会いました。
それが兄でした。
他の作家志望者3人と一緒に、クローゼット並の大きさの事務所で小さな雑誌の仕事をしていました。
その弁護士は、上司に健康保険をねだるような、カリフォルニアの中流階級の娘である私に、
「裕福で、著名で、あなたのお兄さんである人物の代理人だ」と名乗りました。
同僚編集者たちは騒然となりました。
それでも私は大好きなディケンズの小説の筋書きに放り込まれたようでした。
弁護士は兄の名を伝えるのを拒み、同僚たちは賭けを始めました。
一番人気の候補は、ジョン・トラボルタ。
私が密かに期待していたのはヘンリー・ジェイムズの後継者、
何の苦もなく優れた作品を生み出す、自分より才能のある作家でした。
初めて会ったとき、スティーブは私と同じ年格好で、ジーンズを履いていました。
オマル・シャリフよりもハンサムな、アラブかユダヤの顔立ちでした。
偶然にも二人ともそうするのが好きでした。
何を話したのかはあまり覚えていませんが、
とにかく友達にしようと思えるような人だと感じたのは覚えています。
私はまだオリヴェッティのタイプライターを使っていましたから。
コンピュータを一台、初めて買おうかと思っているとスティーブに言いました。
Cromemcoという名前でした。
彼は、恐ろしく美しいものを作ろうとしていると言いました。
これから、スティーブから学んだことをいくつかお伝えしたいと思います。
彼の充実した人生。
彼の病気。
彼の死。
彼は頑張って働きました。
毎日働きました。
彼は散漫の対極のような人でした。
彼は、たとえ失敗に終わるとしても、頑張ることを恥とはしませんでした。
スティーブのように聡明な人が挑戦を恥じないのであれば、私も恥じる必要はないのかもしれません。
彼はシリコンバレーの指導者500人が現職大統領を迎えるディナーのことを話してくれました。
彼は傷つきましたが、 NeXT に行って働きました。毎日働きました。
スティーブにとって最高の価値は、新規性ではなく、美しさでした。
彼は流行や小道具を好みませんでした。
自分と同世代の人が好きでした。
「ファッションとは、美しく見えるがのちに醜くなるもの。芸術とは、最初醜く見えるがのちに美しくなるもの」
スティーブはいつも、のちに美しくなるようにしようとしていました。
彼は誤解を受けるのを恐れませんでした。
パーティに招かれなかった彼は、三台目か四台目の同じ黒いスポーツカーで NeXT に通い、
あるプラットフォームを、チームとともに静かに作っていました。
それは、ティム・バーナーズ・リーがのちに、
ワールドワイドウェブを動かすプログラムのために使われることになるものでした。
愛について話す時間の長さにかけては、スティーブは女の子並でした。
愛は彼にとってこの上ない美徳であり、最高の神でした。
「独身なのか? うちの妹とディナーはどうだい?」と声をかけました。
彼がローリンと出会った日にかけてきた電話を、今でも思い出します。
「こんなに美しくて、頭がよくて、こんな犬を飼っている人なんだけど、結婚するつもりだよ」
リードが生まれて以来、彼は止まることなく家族に愛情を注ぎ続けました。
彼はどの子にとっても実の父親でした。
リサの彼氏と、エリンの旅行と、スカートの長さと、イヴの愛馬についてやきもきしていました。
リードの卒業パーティに出席した人はみな、リードとスティーブのゆっくりとしたダンスを忘れられないでしょう。
ローリンに対する変わることのない愛が彼を生き延びさせました。
私は今も、そのことを学ぼうとしています。
彼はそのことで孤独を感じていました。
私が知るかぎり、彼の選択のほとんどは自分のまわりに巡らされた壁を壊すためのものでした。
ロスアルトスから来た中流の男が、ニュージャージーから来た中流の女に恋をする。
二人にとって、リサとリードとエリンとイヴを普通の子供として育てることは重要でした。
スティーブとローリンが一緒になったことが分かってから何年間ものあいだ、
夕食は芝生で食べていましたし、食事が野菜一種類だけだったこともありました。
一種類の野菜をたくさん。
一種類だけです。
旬の野菜。
簡単な調理。
若き億万長者でありながら、スティーブはいつも私を迎えに空港まで来てくれました。
ジーンズを履いて待っていてくれました。
「お父さんは会議中ですが、お呼びしたほうがいいですか?」と答えてくれました。
リードが毎年ハロウィンに魔女のかっこうをしたがったときには、
何年もかかりました。
同じころ建設されていた Pixar のビルはその半分の時間で完成しました。
パロアルトの家の中はどこもそんなかんじでした。
ただし、これが重要なところなのですが、その家は最初の時点ですばらしい家でした。
彼が成功を満喫しなかったというわけではありません。
何桁分か控えめではありましたが、十分満喫していていました。
その店で最高の自転車が買えるんだと自覚するのが大好きだと話していました。
そして実際、買いました。
スティーブは学びつづけるのが好きでした。
彼はある日、育ち方が違っていれば自分は数学者になっていたかもしれない、と言いました。
彼は大学について尊敬を込めて語り、スタンフォードのキャンパスを歩くのが好きでした。
最後の数年間、彼はマーク・ロスコの絵画の本を研究していました。
未来のAppleのキャンパスの壁に何があれば皆を刺激できるだろうと考えていました。
スティーブは物好きなところがありました。
イギリスと中国のバラの栽培の歴史を知り、デビッド・オースティンにお気に入りのバラがあるCEOが他にいるでしょうか?
彼はいくつものポケットにいっぱいのサプライズを持っていました。
たとえ二十年間人並み外れて近しく寄り添ったあとであっても、
きっとローリンにはこれから発見するものがあるだろうと思います。
彼が愛した歌、彼が切り抜いたポエム。
彼とは一日おきくらいに話をしていたのですが、
ニューヨークタイムズを開いて会社の特許の特集をみたとき、
こんなによくできた階段のスケッチがあったのかと驚きうれしくなりました。
四人の子と、妻と、私たちみなに囲まれて、スティーブは楽しい人生を送りました。
そしてスティーブが病気になり、私たちは彼の人生が狭い場所に圧縮されていくのを見ました。
彼は京都で手打ちそばを見つけました。
もうできませんでした。
最後には、日々の喜び、たとえばおいしい桃ですら、彼を楽しませることはできませんでした。
多くのものが失われてもなお、多くのものが残っているということでした。
兄が椅子を使って、ふたたび歩けるようになるための練習をしていたことを思い出します。
彼は肝臓移植をしたあと、一日一度、椅子の背に手を乗せ、支えにするには細すぎる足を使って立ち上がりました。
メンフィス病院の廊下で、椅子を押してナースステーションまで行って、
そこで座って一休みして、
引き返してまた歩きました。
ローリンはひざまづいて彼の目を覗きました。
彼は目を見開いて、唇を引き締めました。
彼は挑戦しました。
いつもいつも挑戦しました。
その試みの中心には愛がありました。
彼はとても直情的な人でした。
その恐ろしい時節、私は、スティーブが自分のために痛みをこらえていたのではないことを知りました。
家族を連れて世界を回り、退職したときにローリンと乗るために造っていた船の進水式。
病気になっても、彼の好み、彼の決意、彼の判断力はそのままでした。
看護婦67人を試し、優しい心があり全幅の信頼をおけると分かった三人をそばにおきました。
スティーブが慢性の肺炎を悪化させたとき、医師はすべてを、氷をも禁じました。
スティーブは普段割り込んだり自分の名前にものを言わせたりすることを嫌っていましたが、
このときだけは、少し特別な扱いをしてほしいと言いました。
「これが特別治療だよ」と私は伝えました。
彼は私のほうを向いて、「もう少し特別にしてほしい」と言いました。
挿管されて喋ることができなかったとき、彼はメモ帳を頼みました。
そしてiPadを病院のベッドに備え付けるための装置のスケッチを描きました。
妻が部屋に入って来るたび、笑みが戻るのが分かりました。
こちらを見上げて、お願いだから、と。
彼が言いたかったのは、医師の禁を破って氷を持ってきてほしいということでした。
私たちは自分が何年生きられるか知りません。
彼はプロジェクトを立ち上げ、それを完了させるようAppleにいる同僚に約束させました。
オランダの造船業者は、豪華なステンレス製の竜骨を組み、板を張るのを待っていました。
私の結婚式でそうしてくれたように、彼女たちと並んで花道に立ちたかったことでしょう。
物語の途中で。
たくさんの物語の途中で。
ガン宣告のあと何年も生きた人についてこう言うのは正しくないかもしれませんが、
スティーブの死は私たちにとって突然でした。
二人の兄弟の死から私が学んだのは、決め手はその人のあり方だということでした。
どんな生き方をしたかが、どんな死に方をするかを決めるのです。
火曜日の朝、彼はパロアルトに早く来てほしいと電話をかけてきました。
声には熱と愛情がこもっていました。
同時に、それは動き出した乗り物に荷物が引っかかってしまったかのようでした。
申し訳なさそうに、本当に申し訳なさそうに、
私たちをおいて旅に出つつあるときのようでした。
「待って。行きます。空港にタクシーで行くから。きっと着くから」
「間に合わないかもしれないから、今のうちに言っておきたいんだ」
視線をそらすことができないかのように、子供たちの目を覗き込んでいました。
昼2時まで、彼の妻は彼を支えてAppleの人と話させることができました。
そのあと、彼はもう起きていられないということがはっきりしました。
呼吸が変わりました。
つらそうに、やっとの思いで息をしていました。
彼がまた歩みを数え、より遠くへ進もうとしているのが分かりました。
これが私が学んだことです。
死がスティーブに訪れたのではありません。
彼が死を成し遂げたのです。
彼はさよならを言い、すまないと言いました。
約束したように一緒に年をとることができなくて、本当にすまない、と。
そして、もっと良い場所へ行くんだと言いました。
フィッシャー医師はその夜を越せるかどうかは五分五分だと言いました。
彼はその夜を越しました。
ローリンはベッドの横に寄り添って、息が長く途切れるたびに彼を引き寄せました。
彼女と私が互いに目を交わすと、彼は深く吐き、息が戻りました。
やらなければならないことでした。
その呼吸は困難な旅路、急峻な山道を思わせました。
山を登っているようでした。
その意志、その使命感、その強さと同時に、
美術家として理想を信じ、のちの美しさを信じる心がありました。
その数時間前に出た言葉が、スティーブの最期の言葉になりました。
船出の前、
彼は妹のパティを見て、
そして皆の肩の向こうを見ました。
自分の話で恐縮だけど。
共働きだったときは二人とも総合職で、収入もほとんど互角だったので
家事の分担は五分五分ってことでウチはやってたし、これで問題なかった。
だって、男独りで生きてても家事はやらなきゃならないし、結婚したからって労働量が二倍になるわけじゃない。
だから、結婚してからの生活はむしろお互いにとって楽だったなぁ。
その後、子どもが出来て「稼ぎも家事も折半」っていう体制が維持できなくなり、
俺は転職して収入をダブルスコアくらいまで上げて、その代わりヨメは仕事を辞めて家事育児に専念した。
現在、俺はスーツをたたむところまで何一つやらないけど、これはこれで分業として上手く回ってる。
俺は基本的に11時前には帰れないような職場、休みは多くて週1って感じだけど、
自宅ではなんにもしなくて済むのでなんとかなってる。ヨメはヨメで家事育児に追われて忙しそうだから
上手いこと両者の負担がバランスしてるんだろーなぁ、と思いつつ。
結局、誰しも生きる環境が違うのだから、家事育児、そして仕事っていうのは
どう分担するか、お互いになるべく無理のかからない、フェアな形をどう構築していくかってはなしだと思うんだよね。
そういうわけで、「これが正しい」みたいなことを決め付けず、状況に合わせてしっかりパートナーと話をしながら