はてなキーワード: ピュアとは
高校一年生の柴は、イジメの高校デビューをしそうになったところを、上級生の秋山くんに助けられて以来、秋山くんが大好き。ある日とうとう秋山くんに告白するも、秋山くんの不良仲間がぞろぞろ出てきて、柴は拉致されてしまう。
メイン 柴×秋山くん
エロ度はとても高い。エロ危険度も紹介した作品の中でぶっちぎりに高い。性的イジメや性虐待描写やストーカー行為など、インモラルな性表現あり。
真面目系クズ×ダウナー系の不良のカップリングで、しかも衝撃的で凄絶なオープニングからのエロという、のっけからめちゃめちゃ試される作品だが、実はピュアラブほっこり癒し系漫画である。懐かしのヤンキー文化に染まった世界観だが、少女漫画系の表現形態。
秋山くんのキャラが魅力的で、漫画・アニメの二次創作漫画ではお馴染みの、即落ち1コマ萌えのような勢いのある萌えで読者を落としてくる。絵柄の可愛さもあいまって、二次創作からBLに入って商業BLにも興味が出てきた人向け。
番外編の智美ちゃんはひたすら可哀想。智美のナイトメア内の秋山くんと智美ちゃんは、男同士なのに百合感を醸している。百合といえば二次創作を少ししか嗜まない私が言うのもなんだけど。
第1話と番外編の智美ちゃんシリーズは、たぶん商業BL漫画を読まない人から見た商業BL漫画の漠然としたイメージに合致している。しかし本編のエロはあまり痛そうなことはしない。
しかし、高校生同士のエロって今後は倫理的にアウトであまり出てこないのかなあ。商業BLは現在、成人同士のカプがほとんど。(私の観測範囲内)
アラフォーになったサラリーマンの野末は、恋人もなく趣味もなく、マンネリ化した私生活を送っていた。そんな彼に10歳年下の部下・外川が「アンチエイジングしましょう」と提案する。
外川×野末
エロ度低め。単行本の後半になってやっとラブシーンが出てくる。エロはご褒美。
大人の女性向け恋愛漫画のようなBL。エロよりも攻めと受けが近づき関係を深めていく過程を楽しむもの。映画化しないかなー。
商業BLは案外萌えが少ないような気がするけど、これは萌えをガンガン投下してくるBL。受けの野末さんが可愛い。可愛いけど乙女になりすぎない、いいあんばいの匙加減。
やっと書き終わったー。あえてエロありの作品ばかりを紹介したけど、商業BLを読まない人から見た商業BLってこんな感じでしょ? という印象を覆してくれそうな作品をなるべく選んだつもり。
実のところBLはポルノといっていいくらいエロがもりもりにある。けれども、読み手である腐女子たちは自分の読んでるものを棚に上げて男性向けのエロ漫画を非難しがちだ。それはどうしてなのか? 上に挙げた作品たちのエロ描写と男性向けエロ漫画の肌あいの違いからちょっと考えて欲しいと思う。どっちが良いとか悪いとかは言わんけど、やっぱりBLは男同士の恋愛・性愛を描いたものとはいえ、主な書き手と客層が女性で有る以上は、女性を不愉快にしないような表現になっているのだ。
いうても、マイノリティであるゲイを搾取するなとか言われたらぐうの音も出ないし、男性向けとあんまり変わらなさそうなエロのある作品もインモラルな性行為や性暴力を肯定するような作品もあるけれども。
それに、腐女子の一部が非難する男性向けエロ漫画だって、商業BLのように過大エロ広告で印象を歪められているだけで、実はそんなに酷くはないのかもしれないしね。知らんけど。
いわゆるチー牛
工学系だからさ大学には、同族みたいな奴腐るほどいるんだけど、なんか割と彼女いるんすよね。
まぁ大学だし?出会いというか、きっかけがあればまぁピュアな大学生同士付き合うこともあり得るよなぁとも思うんだけど、それと同時に「あれ、今年で大学卒業じゃん」って。
社会人になって、どうやって出会うの?ナンパとか無理だし。いろいろ清濁経験した大人の女性が僕みたいなのを相手にする可能性って大学生以上に少ないなって絶望してる。
そこでさ、そこの既婚者先輩方に聞きたいんですけど、大学で上手く出会いを作れなかったような奴ってどうやって奥さん見つけたんですか?いろんなエピソードを聞いて参考にしたいす。
割と奥さん(not = 彼女)ってのは重要視してます、結構人生設計的な不安もあっての投稿なので。
(おしゃれに気を遣うとか、自分側の努力はもちろんこれから始めていく予定ですが、きっかけというか「増田は知らない(気づいてない・考えが及んでない)だろうけど、こうこうこういうことがあって結婚できたよ」みたいなのが知りたいです)
美少女イラストアイコンのツイ主さん、DMでナンパされる→念のために言うけど、ただの中年男性だぞ!「まだこういうピュアな人がいるのか」
https://togetter.com/li/1746017
この人が本当に女性だったとしてもアイコンは絵なんだからアイコンとそっくりの二次元美少女なわけがないのに勝手に美少女だと思い込んでしまうのはよくあること
はてなでも相手が女だと分かると勝手に即ハボレベルと勘違いしてセクハラコメントする人が多い
画面の向こうにいる女はもしかしたら体重100kg以上あるかもしれないし顔面ニキビだらけで歯なんか黄ばんでるかもしれないし自分の親と同じくらいの年齢かもしれないのにそんな可能性をまったく考えない
地の文が主人公の一人称モノローグ形式の物語で、主人公の内面と作者による主人公の性格設定・他の登場人物からの主人公に対する人物評価が解離していることの何が悪いのか、ということについて追記。
これは地の文に主人公の真の性格が出ているというよりは、おそらく作者の主観(視点)が混ざっている。それが良くない。主人公視点で物語を書くならば、あくまで主人公から見た世界を書くべきだと私は思う。それは外の世界だけでなく主人公本人の内面世界を描くときも主人公の目から見た内面を描くべきだということ。
気立てのよくて親切で気の利く人間が、内心では物事や他人の言動を斜に構えた目で見て一々底意地の悪いジャッジをするだろうか? まあ、現実にはそういう人もいるかもしれないし、そういう人物像を狙って書いているならばそれはそれで構わないのだが、そうではなく、ただ視点というものに関して注意が足りないゆえに無自覚にやらかしている失敗であることが多い。
その斜に構えた視線、というのが誰のものなのかといえば、主人公ではなく作者のものである。俯瞰的な視点で人間関係をシニカルに観察することは、今現在渦中にいる人間(主人公)にはなかなかできない芸当だ。そういう、神の視点ともいうべき視点で物語を書きたいのならば、いくら書きやすくても主人公の一人称文で書くのはよして、三人称で書くべきだ。
でも、三人称文ってなんか偉そうな感じがするから、文章に親しみを持たせたくて、一人称で書いちゃうんだろうな。
それでも一人称で書きたいならどうすればいいのかというと、物語を過去のものとして、主人公が当時を振り返るかたちで書けばいいのだ。その場合、当時の自分と現在の自分で、そのとき起きた物事や他人の言動に対する感想が違ってくる。要は当時の自分と今の自分という二つの視点が入るという難しさがあるけれど、冷静な目で当時のことを分析できるという利点がある。
また、当時の自分と今の自分(地の文)の雰囲気が違っていても、おかしくはない。過去の自分はもっと世界をピュアな目で見ていたが、人生経験を積んだ今となってはだいぶ皮肉的な目線で世界を見るようになった、というのはあり得る。
「我々の本当の関心事は、不幸な事案を学びの機会にすることだからだ。」
今回の小林賢太郎氏への声明においても、SWCは決して解任を求めているのではなく、あくまで謝罪と教育が求められているのだと思っていた。
昨今の「キャンセルカルチャー」とは一線を画すものだと思っていた。
この数年で、趨勢が変わったのだろうか。
でもそのクーパー氏はかつて雑誌『マルコポーロ』がガス室否定論を掲載した時には広告出稿のボイコットまで呼びかけてるんですよ。
結局雑誌は廃刊に追い込まれ版元である文春の社長も辞任することになった。
もちろん「自主廃刊」であってSWCは事前には廃刊を求めていなかった。しかしそれを言えば今回も当初の声明では解任を求めてはいない。
だいたい、廃刊決定後にSWCと文春は共同記者会見まで開いてるわけよ。
本当に「我々の本当の関心事は、不幸な事案を学びの機会にすること」なら次の刊のマルコポーロで正しい内容の特集を組ませるとか色々あったでしょ?
しかしSWCは廃刊決定を受け入れて共同記者会見を行った。それが全てです。
もちろんマルコポーロ記事と今回の小林コントを同列に扱えるかという話はあるでしょう。
でもそれなら欅坂46やBTSの衣装がナチス風に見えるという話と今回の「虐殺ごっこ」を一緒にできるものだろうか?
加えて今回の件は外務省が談話を発表していて一見過剰にも見える反応をしているけど、
1. オリンピックという国際的な大イベント(しかもオリンピックでは過去ユダヤ系の選手がテロに遭った過去がある)で
2. ホロコーストやSWC関連という徹底的な糾弾が行われていた歴史的蓄積がある分野の問題
想像だが欅坂46やBTSは内容的差異もあるところ1の要素も薄く謝罪だけでOKになったんじゃないかね。麻生さんも未だに大臣やってるしな。
しかもアイドルを辞めさせるなんてことをしたら逆風待ったなしだし、「我々の本当の関心事は、不幸な事案を学びの機会にすることだからだ。」は過去のSWCの行いに鑑みればおためごかしである種の宣伝的アピールというかプロパガンダに過ぎずピュアに真に受けるようなものでもあるまい。
ところでこういう事件があると昨今の趨勢に引き付けてつい物事を語りがちだ。キャンセルカルチャーみたいな用語ができるとついその物語の中で解釈してしまう。
確かにネットが発達して過去の発言を拾いやすくなった影響は大きかろう。
しかしポリコレやキャンセルカルチャーという言葉が生まれるずっと前からホロコースト関連での糾弾・追及は凄まじいものがあったんですよ。
上で歴史的蓄積と書いたけど、例えば他のポリコレ事案で外務省が声明まで出すか?女性差別とかでは出さないよね?
そういうずっと続いてきたものを最近の趨勢や運動での解釈に寄り過ぎてしまえば現象の一部分を切り取ってしまうことにはならないだろうか。
これまでの蓄積というか過去に行われた首級狩りを等閑視することにならんか。
それって昔もあった問題なのを忘れて懐古に浸るメンタリティとそこまで変わらなくないか。
世界的には昔からホロコースト関連は厳しく論難されてたし、SWCは昔も今もたぶん未来も強力な圧力団体(価値中立的な言葉です)として君臨し続けるだろうよ。