これは確実に病んでる人ですな
ついにコロナウイルスで初の死者が出た。被害に遭われた方のご冥福をお祈りいたします。
この患者さんの足取りを見ると、次のことがわかってくる。
1月23日に倦怠感を訴えることから、感染したのは、大体1月中旬であるとわかる。
新年早々からコロナウイルスはとっくに日本に上陸済みってことだ。
春節の話があったが、たぶんその前からとっくに上陸済みなんだろう。
でだ、その間に有意に病院に駆け込む人が増えているかということだ。
条件は武漢とあまり変わらない。東京方面だけでなく関西にも来ているんだからもう手前から汚染済みだわな。
思われるにもかかわらず、日本で有意に病院に患者があふれているかというと
そうでもないわけよ。
んでこう思うわけよ。
または普通に風邪と処理されて、大方の人は知らないでとっくにCoiv-19が治っていると。
じゃあ中国はなんなんだってことなんだけど、院内感染とかインフルからのコンボが決まっているのかなと。
寧ろ問題は中国の医療崩壊で、このままではシャレ抜きでグダグダになるよなと。
ふと思ったわけですよ。
二月一日
間もなく、特別展「人、神、自然-ザ・アール・サーニ・コレクションの名品が語る古代世界-」が終了すると気づいたので足を運んだ。自分は美術館に通う習慣を身に着けてから大体十五年が経過しているが、東京国立博物館の東洋館をきちんと観たことはない。いい機会だと思い、東洋館全体をのんびりと回ることにした。
特別展の会場は東洋館の二階にあり、会場そのものは常設展の最初の部分、すなわち中国や西域の仏像のあるあたりを抜けた後にある。特別展の内容そのものは興味深かったが、コレクション全体が雑多なもので構成されているというか、あまりにも時代と地域に幅がありすぎて、どのように展示したらいいのか少し迷っているような印象を受けた。とはいえ、普段はなかなか見られないマヤ文明の仮面などをじっくり見られたし、普段なら絶対しないような比較をする楽しみもあった。知らなかったのだが、グアテマラのほうがメキシコよりも良質の翡翠を産出するらしく、文明の中心地の人々は必死になってそれを求めたり、乏しい材料で何とか良いものを作ろうと苦心したそうである。
で、常設展に関してだが、展示スペースが地下階から五階にまで渡っており、ざっくり見ても三四時間はかかった。その中で特に面白く思われたのは、中国や朝鮮半島の品々だ。というのも、青銅器や勾玉などの作りが、日本とよく似ているところもあればまるで異なっているところもあり、比較する楽しみがあるからだ。また、饕餮の刻まれた祭器の類も自分は好きで、根津美術館に立ち寄った時にはのんびり眺めている。理由はわからないのだが、自分はそれと同じくらいに玉の類にも心惹かれる。西欧の君主たちの王冠も立派だとは思うが、金やダイヤモンドではどうも少しまぶしすぎる。自分が東アジアの文化が好きな人間だからそう感じるのだろうか。
とはいえ、自分が好きなのはどうやら宋代までらしい。どうも、明代になると技巧的になりすぎるというか、色が鮮やかすぎるように感じられる。確かに、黄色などの発色は鮮やかだし、竜のうろこなども実に細かく表現されているのだが、技術的に優れていることが美しさに直結するかどうかは別問題だ。自分としては唐三彩と呼ばれる、赤や緑や土の色を活かした陶器が美しいと思う。ある程度の素朴さがないと、親しみが持てない。台湾で見た、清代の象牙を削って作った細工なども、優れてはいるが技巧をひけらかしすぎているように思われる。
あとは、天然の石を削ってザクロに見立てていたものはよかった。故宮博物館にあった、翡翠だか瑪瑙だかを削って作ったのと同じ発想で、天然の石の色彩や質感を生かしながら表現しているものだ。あとは漆を刻んだものもよい。色がおとなしくて上品だ。
もう一つ興味をひかれたのは、漢代の画像石だ。学生時代の古典の教科書の表紙に出ていたので覚えていたのだが、実物を見たのは初めてである。宴の様子が見て取れるようで、ある者は楽器を弾き、またある者はボードゲームをしている。そのボードゲームの盤は真上から見たように正方形で表現され、遠近法は無視されている。エジプトの絵画と同じで、何が書かれているかがわかりやすいことが、写実性よりも優先されたのだろう。十字軍時代のチェスをする騎士を描いた絵画でも、似たようなことをしていた覚えがある。
そうだ。途中のフロアでは「生誕550年記念 文徴明とその時代」という、また別の企画展をやっていた。自分は書に対しては無知なのだが、解説によれば、文徴明は科挙には合格しなかった人物だそうである。しかし、温厚な人柄と勤勉実直な性格で、やがて文章の校閲に関する職に就いた。九十年の生涯のうち三年しか勤務しなかったが、一流の人々と交わることでその才能を開花させた、とのことだ。人生は仕事だけじゃないよな、という気持ちをまた新たにした。
自分にはそれこそ古代中国の官僚のように、職を退き水墨画に描かれたような山奥に引っ込んで、時折訪れる友人と琴棋書画をたしなむ、みたいな生活にあこがれる傾向があるのだが、ほどほどに働きつつ、土日に友人とボドゲをしたり美術館に足を運んだりするのは、十分近いんじゃないか、って近頃は思っていて、そんな気分になれたのも、今日の気分転換に成功したからなのだろうな、という気がした。
近々、同じ敷地内の法隆寺宝物館にも行こう、と帰りの電車で考えた。あそこのカフェは閉館間際になるとほとんど人がいない穴場なのだ。
二月八日
特別展「出雲と大和」にふらりと向かった。前回の「正倉院の世界」がとてもよかったので、これも行くしかない、と思われたからだ。
おおよそ弥生時代から奈良時代初期にかけての日本美術を楽しめる。特に銅鐸などは、教科書で見たものもたくさんあり、懐かしく思われた。国宝や重要文化財がごろごろとある。三角縁神獣鏡も大量に見ることができた。恥ずかしながら、これが中国の神仙思想と深い関係にあることを知らなかったので(忘れていたので?)、そこに刻まれていたのが解説を読むまで西王母だとはわからなかった。しかし、こう考えると日本への道教的な要素の導入は、かなり早いのだな、と思われた。
他にも多くの埴輪があり、細かく当時の祭祀の様子が説明されていた。これは知らなかったのだが、出雲の周囲では四隅突出型墳丘墓という、独特の形をした古墳が広く分布しているそうである。そういうまじめなことをしかつめらしい顔をしながら読んでいると、自分は振り向く鹿を表現した埴輪に肛門があるのに気づいた。正確には肛門ではないかもしれない。埴輪を焼くうえで必要な技術的な要請から開けられた穴なのかもしれない。しかし、尻に穴が開けられていたのは間違いない。
下世話な話だが、自分は動物の彫刻を見るといつもその性別を確かめたくなる。別に馬の彫刻に陰茎と陰嚢があって何が面白いのかと問われればそれまでなのだが、生真面目な騎馬像にもそういうものがついているかと思うとどことなく愉快な気持ちになる。それから、先週観たような民俗学的なものであっても、素朴な男性像と女性像ではどんな風に性器を表現しているかを確かめるのは、文化ごとの感受性が端的に表現されていてなかなかに面白い。
脱線が続くが、本当に不思議なのは、世界中の文化で男性器と女性器を絵にしたり彫刻にしたりすることが普通に行われているし、中には神々として崇拝することだってあるのに、ギリシア・ローマに由来する彫刻や絵画では、女性器も陰毛もすっかり省かれてしまっていることで、これは男性像の性器も小さいほうがよろしいとされたことと関係しているのだろうか、などと何かと勘ぐってしまうのである。
閑話休題。この特別展で私が一番見たかったのは、七支刀である。「日本書紀」を読んでからぜひ見てみたいと思っていたものだ。刻まれた金の文字はかすかにしか読み取れないが、専門家でも何でもない私が「月十六日丙午」とある部分を読み取れたので楽しかった。だいたい、こういう文字の刻まれたものを見るのは楽しくて、ほんの二つか三つの変体仮名をしっているだけでも、巻物を見る楽しみ増えるというものだ。
ほかにも、神社に奉納された刀剣や武具などもあったが、私はそれらには、古代の品々ほどには心はひかれなかった。あとは、「出雲国風土記」が朗読されているコーナーがあったが、そこでは本当にハ行がファ行で発音されて、チやヅがティやドゥと読まれていた。
帰りは東京駅の田舎そばを食べて帰った。非常に歯ごたえのあるそばだが、定期的に食べたくなる味だ。いつもは昼に寄ることが多いので肉野菜そばか天ぷらそばだけだが、夕飯なので野沢菜と肉味噌れんこんをつけた。ちょっと贅沢をしたので気持ちよく眠れた。
早過ぎない?
酎ハイ2杯ちょっとでもうこれ以上飲めない感覚に陥ってしまった
飲むスピード早くなった(昔はもっとちびちび飲んでた)からそっちが原因なのだろうか
やっぱり酒弱くなっただけかも
飲めないと判断した時点で水に乗り換える判断力は残ってるのだけど(お陰で吐くことはなくなった)、こうやって衝動的に増田に投稿するのを抑える判断力は残ってない(やばい事書いてるわけでもないんだけど)
観た?
どんな映画かっていうとね
WindowsXPのノートPCとガラケーで仕事してる時代が舞台。
かつては日本各地にダム等を建設してきた前田建設(実在の建設会社)。
「予算0円でガチ考察したマジンガーZの格納庫の見積金額を出す」
それが「前田建設ファンタジー営業部」。
自社技術者の協力を得て、広報担当も現場の知識を学び、実際の現場を見学。
図面を引いて、土木工事のプランを立てて、アニメのDVDを繰り返し観て、格納庫の構造を推察して
積算までの進捗を進めていくわけなんだけど
広報チームにいるアサガワ課長以外はアニメオタクのチカダ以外、最初はマジでやる気が無いの
3人ともすごいやる気無いしメンタリティや社会の空気が2003年って感じでなんか懐かしい。
面白かったのが主人公達ってアサガワ課長の暴走に巻き込まれた被害者という立ち位置で
「自社の看板を背負って技術水準を公開するような見積をネットにアップするんだからやるからには半端な物は作るな」
「オタクネタのWebコンテンツを作る事のしょうもなさを非難されている」
と勘違いしてたりする不真面目さ(もしくはオタク属性を自負する事への後ろめたさ)で
社内の技術職の情熱に触れて真面目に「マジンガーZの格納庫の見積を出そう!」って奮闘していくお話。
って感じ。
・専門技術を駆使して自社プロジェクトの達成を目指した事がある人。
・それらを他社に求めて見積を依頼した事がある人。
日本で働く多くのサラリーマンがみんなワハハと笑えるコメディで
何よりも観た友人みんな「面白かった!」って絶賛してるので
増田達にも是非観てほしいと思ったんだ。
車をだしてもらったときにするお礼が義務のように感じてしまっている。
友達と遊ぶとなったとき、大体はみんな電車で来て集まるんだけど、たまにちょっと辺鄙なところにあるカフェとかに行こうとなったときは友達や先輩が車をだしてくれる。
私はペーパードライバーだし運転できる車が手元にないので、せめてもと助手席でナビ役をすることが多い。
車を走らせることもタダではないし、運転が苦ではないと言う人でも、隣に人がいるということに無意識に気をつかってくれているところもあると思う。
だから、心ばかりではあるけれどガソリン代を出したりとか、断られたときは心をこめてお礼を言ったりとかジュースやお菓子を奢ることもある。これは私のエゴではあるけれど、やっぱり助手席に座っているだけの私よりは色んなことに気をつかってくれているし、車もだしてくれているから何かしらのお礼はしたくて私からいつも言い出していることだ。
でも最近、ある一人がそのお礼を当たり前のようにしてくる人がいる。
はじめは「そんなの悪いしいいよ」って断られていたのを、私が「それもなんだかな」と思ってジュースを奢っていた。その子も「ジュースなら嬉しい」と言ってくれていたから、選択も間違ってなかったなと思っていた。
車をだしてくれたときは私から「コンビニに寄らない?」と誘ってそこでジュースを奢る、という流れだったんだけど、今は向こうから何かと理由をつけて「コンビニ行こうよ」って誘ってくるようになった。私の奢るジュース目当てで。
車をだしてくれているから断る理由はなくて今でも奢ってはいるけど、これって向こうから言ってくるともうそれはお礼ではなくないか。
最近はそれが面倒くさくて遊ぶとなっても電車でいける距離にしているんだけど、なんだか私のお礼って本当にエゴでしかなくて都合がいいように使われていたんだなと思って悲しくなってしまった。
みんなは人に車をだしてもらったときは、お礼してるの?
なにしたら正解だったの。
こんきっどさん絵は好みなんだけど話がアホすぎて使えねえ。
5900枚も書いててこれなのか。 https://www.pixiv.net/users/7467087
ぉぃ。やめろ。