ヒゲが生えちまってよお、眉間にもぶっとい毛生えて両さんみてえになってよお、オラもうたまんねぇぞ!って相談をね、前回したんですが。
コメントにちょいちょい書いてある婦人科行けよってのに脅されて婦人科行きましたがな。
初の産婦人科。
受診理由のとこにも「ヒゲが生える体毛が濃い肥満気味、多嚢胞性卵巣症候群の疑いを感じて」ってバッキリ書いてやったよね。
看護師さんに呼ばれて「これ何?」って聞かれたわ。「あのぉ〜ヒゲの方がね生えましてね、みんなが婦人科行けって言うから…」ってくどくど説明したけどたぶん「何言ってんだこのヒゲ女」って思ってただろう。
私、知ってるよ膀胱におしっこ貯めてやるやつやろって思ってパンツ履いて待ってたわけ。
このためにファンタ飲んで準備万端だったのに。
「パンツも脱いでください」って。
変形すんの。「すげえーーーーー!」って叫んだら笑われたわ。
医者のおじ様に向かってM字開脚状態で。なんて下品な機体なんだ。
まさか内診があるとは思ってなくて。
おじ様が苦悩の梨みたいな器具でわたしの超時空要塞をねマクローーーースって。
「膣荒れてますね〜」って。
すげえ心当たり(anond:20171106233237)がある。
歴戦のオナニスト。毎夜に及ぶインメルマンダンスがこんなにも自らを傷つけているなんて。もうやめようって思った。
苦悩の梨抜いたと思ったら今度は指突っ込んできて。
「ここ痛いですか〜?」って。 痛くないの。
私のダイアモンドクレバスに男の指が入るの半年ぶりで。まさか久しぶりの手マンがお医者様だとはな。
もうこれ以上ぐちゅぐちゅするのやめて…ルンピカしちゃうから。
みんなに見られて恥ずかしいのと、お医者様がいいとこ当てるんだまた。
声出たらどーしよ、てか感じてるとかバレたらもうこここれねえなって思って必死に口塞いでた。
で、子宮エコーって腹部だけやと信じてたんだけど、経膣エコーとかあるんすね。
たぶんプローブっぽいの入った。
子宮を投影しながら「うーんたぶん排卵してないですね〜」ってさらっと恐ろしいこと言うた。
卵巣は綺麗って褒められた。私外見で褒められるの卵巣が初めてかも。
これで内診終わりで、おまけに膣錠をずぼっとプレゼントしてくれたよ。
ほんでバルキリーから脱出して採血して、多嚢胞性卵巣症候群といっしょに淋菌とクラミジアもついでに検査しとこうぜ〜って。
結果は来週出るらしいんすけど。
とりあえず卵巣エコー見る限りは多嚢胞性卵巣症候群は無いらしいです。
なんでも「夫も私も子供は嫌いだから、今後も子供は欲しくない。」のだそうだ。
この手の発言はネットでもリアルでも今やありふれたものになってきてる。
ただ個人的にはこの言葉を聞く度に、拭い去れない違和感と言いようのない嫌悪感が溢れ出してくるのだ。
「子供は純真無垢、否が応でも素敵なんだ!子供嫌いな奴なんてマトモじゃない!」なんて綺麗事を吐きたいのではない。
俺自身、子供の相手は得意なほうではないしこの発言の意図は汲み取れる。
この違和感と嫌悪感の原因を掘り下げていくと自分の子供の頃の体験が蘇ってきた。
俺はとにかく子供らしくない子供だった。小学生のうちからこじらせまくっていた。
小難しいニュースを見て背伸びした発言をしたり、大人の矛盾した行動を見て皮肉や嫌味を言ったり、
褒められたら褒められたで、当てこすりで謙遜をしたりするようなマセまくったクソガキだった。
この頃の俺が一番嫌だったのは「子供」というフィルタを通してしか接してこない「大人」だった。
俺がどんなことをしようと「子供」としてカテゴライズされて処理されるのがたまらなく嫌だった。
『俺は年齢の区分としては「子供」なのだろうが、一人の個人なのだ!なぜ対等に接してくれないんだ!』といった具合に。
矛盾を指摘すれば「子供のくせに偉そう」、期待したリアクションが無いと「子供らしくない」、
こちらが敬語で話しかけても猫なで声で「ボクどっから来たの~?」...etc、全て反吐が出るほど嫌だった。
そう、原因はここにあったのだ。
「子供が嫌い」という人は「子供」という自分の中の独断と偏見で構築した「属性」を判断基準にしているのだ。
悲しいかな、俺は大の大人になっても人のことを「属性」で判断する奴が大嫌いなのだと分かった。
思春期から今に至るまで「ゆとり世代」と罵倒され続けてきたことも大きな要因の一つだろう。
「子供」という属性を「男性」や「女性」、「老人」や「外国人」、「高卒」や「特定の職業」などに置き換えてみよう。
ステロタイプで人を判断する、現代社会では到底許される発言ではないはずだ。
でも「子供が嫌い」と発言するのは何故か、まかり通ってしまっている。
その言葉を言うだけなら簡単だけど、それを実践するのって難しいし新人に簡単にできることじゃねえよなって思う
例えば今日三時間かけてその工夫をすることで今後の一ヶ月間の作業が毎日20分短縮される。みたいな時とか
ホワイトカラーは誰がやってるのか気になる
父親を殺さなくては精神的に大人になれない、と思い込んでいたのだが、
実のところあの脳味噌までニコチンにボロボロにされた糞の詰まった肉袋を殺したところで糞とニコチンが散らばるだけで俺が何か変わることができるビジョンが思い浮かばないので、
父殺し=神殺し、みたいな物語類型に自分を当て嵌めていただけなのかもしれない
アメリカのキリスト教の一派で、アーミッシュっていう人々がいるんだけど、
凄く古い生活をしてる。女性は育児家事全般だし、男性は力仕事だし。
開拓時代の生活様式で生きてて、割と寿命が長くて、あと増えてる。
アメリカ人の白人は少子化が進んでる。そんな中で彼らは増えてる。
たぶん『同じ仕事を分け合う形』だと相手の仕事に納得できない女性が増えて少子化が進んじゃうんだなー
そんな形で先進国が衰退し続けて、フェミニズムも弱くなって、ふと古典的な生活様式の宗教国家が勢力を延ばしたりすると面白いなぁ。
まだ僕はファーストキスも済ましていないDT高校生。17歳だった。
当時、階段なんかで、女子高生のパンツは見放題。若者の特権だ。
教室で机に突っ伏して、昨夜の情事の疲れを癒している(ここは妄想)M村さんのパンツが、ひょんな拍子で、臀部あたりが全面的に見えたのだ。
別にここまでは珍しいことではない。膝上からのスカートの短さを競っていた当時、よくある日常のはずだった。
そう、はずだったんだ。
だけどその日は違った。
それもそう珍しいことではない。ブラウスから透けるピンクのブラジャーも我々の日常の一部だ。
その日は、臀部が丸見えだった。
そうさ。今では慣れ親しんだが、当時は初見(当然アクションカメラやデラべっぴんではお馴染み)のTバックだったのだ。
その日は、帰宅して、日課の右腕の鍛練が終わるまでの記憶はあやふやだ。おそらくいつもよりかなり短い上に、参考文書も不要だった。
20年以上昔の思い出でした。
自動車の登場によってそれまでの都市計画が通用しなくなった(コルビュジエ)ように、自動運転の登場により都市の様相は一変する。
<メリット>
現在自動車は96%が遊休時間、完全自動運転の社会では20〜30%の台数で間に合う。
<デメリット>
大学の教授の授業はつまらない。彼らは別に学生にわかってもらおうとなんて思ってないだろう。
極一部だけ、自然と聞ける授業をする先生もいる。何がその他大勢と違うか。
それは別に話が上手だったりするわけではない。
学生の方に姿勢を向けているというか、対話しようとする意思が伝わってくるのだ。だから聞き手も聞きやすい。
俺はこれを「心の矢印が外向きである」と呼んでいる。
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中学生相手に集団授業をするバイトをしている。真面目なので、毎回しっかり準備して挑む。
しかし、事前で考えてきた説明をそのまま吐き出しても、なんか微妙な感じで終わることが少なくない。
その場に適切な?声の大きさとかトーンとか、話のリズムがあって、それに乗せて言葉を吐かなくとうまくいく。気がする。
家で「ここはこういうトーンで話そう」とか考えてきても結局また微妙な感じになる。
そもそも「上手にやろう」と考えた時点でもう心の矢印が内向きなのだ。
最近少しだけ矢印を外向きにできるようになってきた。
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アニラジだけじゃなく、地上波のラジオもちょこちょこ聞くが、やはり一番ラジオが上手だと思う。
もちろん正解はひとつじゃないのだろうが。
何といってもゲストを掘り下げるのが上手である。気持ちいいくらいの深さまで掘ってくれる。
ゲストに対してだけではない。リスナーに対しても矢印を向けている。
その対話を外で聞いているリスナーもちゃんと意識しているのが鷲崎健である。
ゲストに対するリアクションが大きいのは、リスナーに「ここは笑っていいところですよ」と伝えるためだと思う。
だからリスナーは”安心して”笑うことができる。番組の雰囲気の一部にいるような気持ちになる。
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安藤忠雄展。メインの建築の話はまあ正直3%くらいしか理解できなかった。
コンクリートで抽象的なTHE・Tadao Andoの建物だが、その実、立地環境を最も生かすように構成されている。
表参道ヒルズのことも、あのゆるやかな坂の傾斜を「建物内部に取り込もうとした」と言っていた。よくわからんけどすごい。
音声ガイドを聞いていても、住居にすむ人のことをよく考えていたり、一緒に仕事をした人の名前をよく挙げていたのが印象的であった。
独学で頂点に立った天才建築家である以上、自分のこだわりは曲げないみたいな、気難しい気性を想像していたが。
自分の意見が受け入れてもらえなかったり、企画が挫折の連続だったとかの過去も、ちゃんと自分の中で消化しているのだなと感じたり。
あの光の教会も、めちゃくちゃ厳しい依頼の中での仕事だったらしい。
それでも条件を全部満たしたうえで自分の作品を建てた。うーん、見習いたい。
あくまでも心の矢印を外に向けたまま、自分の理想も実現するということか。
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始めはインターネットのアングラ、オタク向けの作品、自分がやりたいことをやるところから始まったが、
《星を追う子ども》を経て、「観客の求めること」に作品を合わせに行けるようになったという。
矢印が外に向いていき大衆を指したとき、《君の名は。》が集大成として結実したのだ。
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以上、心の矢印を外に向けたいの話。
これまで勉強と水泳とオタクしかやってこなかった俺の矢印は内側を向いて錆びついている。
少しずつ還元していく。
どろー