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2011-12-16

告解の部屋

僕はクリスチャンだがフーゾクに通う習慣がある。ソープとかヘルスとかだ。3ヶ月も女の子に触れないと世界中の何もかもを憎むようになるので、それが嫌でフーゾクに行ってしまう。オナニーでは収まらない、というかオナニーするともっとひどく世界を憎むようになる。女の子からだが必要なのだ彼女を作って結婚すればいいのかもしれないが、昔恋愛に失敗してそれきりやり直せずにいる。

客としてお店に行き、女の子イエス・キリスト宣べ伝えたことが3度ある。こんな話は教会ではできないのでここに書く。

1度目は洗礼を受けて2年くらい。店で写真を見てずっと気になっていた女の子を指名して、遊んで帰ってきて、すごく不思議な気分になった。それまでにたぶん200人くらいの女の子と遊んできたけど、あんな女の子に会ったことがない。全く説明できないけど、不思議な気分になった。

それで、キリスト教書店で安い伝道聖書を買ってその女の子をもう一度指名し、服も脱がずに「イエス・キリストを貴女の救い主として受け入れますか?」と聞いた。すると彼女は言った。

「私のようなものでもよろしいのですか?」

僕は驚いた。そんな返事が返ってくると思わなかったのだ。聖母マリアというのはこんな人だったのかもしれないと思いながら「もちろんです」と答えて彼女に手を置いて祈った。彼女は喜んだ。それから半年くらい彼女は店を続けていたがクリスマスの前に辞めた。弟の学費のためにこの仕事をしている、と彼女は言っていた。彼女はぼくの好みだったが、ぼくはそれきり彼女とは遊ばなかった。

2度目はそれから5年くらい、出張先での話だ。適当に入ってついた女の子が良かったので、一月後だったか、指名で予約した。予定から2時間待たされて、遅れてきた女の子に謝られながら服を脱いで身体を洗ってもらったのだが、彼女が言うには「占いって信じますか?」

借金が少しあってこの仕事をしているそうだ。遠距離恋愛の年下の彼氏がいるのだが最近もうダメかと思っている。そんなところに客で来たのがクリスチャンカトリック)でバツイチで娘がひとりいる男性なのだという。お互いに気に入っていてつき合って、結婚しようかと考えているのだけれど迷っている、という。で占い師のところに行って相談していて、出勤が遅れたのだそうだ。

身体も洗ってもらったのだが、僕は言った。「それは、男に信仰があってちゃんと神さまに聞き従う気があれば、神さまが正しく導いて下さるだろう。ところでオレはクリスチャンだ。よかったら貴女と彼氏とのために祈ろう。イエス・キリストを貴女の救い主として受け入れますか?」もちろん彼女は信じると答えたので僕は手を置いて祈った。それで、時間もなくなったので、僕はそのまま帰ってきた。お金を払って待たされて、手を置いて祈ってきただけだ。仕方ない。それからしばらくして彼女はお店を辞めた(ことをお店のサイトで知った)。

3度目はそれから2年くらい。単位制高校卒業して大学入学金を稼いでいるという18歳の女の子だった。なんというか、前しか見えない、バカな子だった。僕は気に入った女の子はあまり変えない。その子が在籍している間はその子しか遊ばなかったが、クリスマスの頃に遊びに行って、「こういう店で働いたことが後の人生でわざわいにならないよう、オレが祈ってやろう。イエス・キリストを救い主として受け入れなさい。」と言った。素直な子なので(分かってなかっただけかもしれないが)彼女は受け入れた。それと、「貴女は下手すると一生この世界で暮らすことになりそうだから、もし3月の時点でお金が足りなかったら連絡してきなさい。出してやろう」と言って実名メールアドレスの入った、当時勤めていた会社名刺を渡した。

3月電話がかかってきて「ごめんなさい、足りないので出して下さい」と言う。いくら足りないときくと40万円と言う。あの仕事を5ヶ月やって60万円しか稼げなかったのか!?と思うが「身体を壊して病院で40万円使った」と言う。あとで知ったことだが、その子は本番禁止の店で本番をさせるといってネット上で有名だったのだ。子どもができておろしたのかもしれない。出すよというと「なんで他人の私にそこまでして下さるんですか?」ときくので「自分から言い出してしまたかです」と答える。神さまがこうしろと言っている、とは思わなかった。20万円程度で済むと思っていたのだ。僕がバカだったのだ。指定口座に40万円入金した。後悔はしたが、彼女に対しては悔しくなかった。一度神さまの名前を出しているのだから彼女が僕をだましたのであれば、彼女はそのせいで苦しんでいるだろう。今はちゃんと学校に行っていると信じたい、いやちゃんと学校に行っていたら、今頃卒業しているはずだけれど。ちなみにその店はつぶれて今はない。

こういうことは、やっているときには「火の中からつかみ出してでも救い、」という聖書のことばを思い浮かべるのだけれど、あとで考えると「自分クリスチャンであることを思い出して、自分のやっていることを恥ずかしく思え」という神さまのみこころだったのだろうか、とも思う。

2011-12-01

http://anond.hatelabo.jp/20111201145030

元増田が好みそうな答えとしては「ぶっこわれてしまった日常であることを再確認するための作品の数々。ということにでもなろうか。

いつも「絶望した!」と叫んでいる「学校先生」とか、立川日常生活を営んでいる「イエス・キリスト」と「シッタルダ」とか、最近の作者が、いったい、自分の「何」を暗喩しているのか、理解に苦しむ設定や展開が多いけれど。

少なくとも表面上は「いつもネガティブなことを言っても、シカトされない世界が欲しい」とか、「偉人をまったくそぐわない環境に置いたら、どんなことが起こるか」といった、実験みたいなもんだ。

日本社会「日常」を欲する。

といった状態になっているんだとすると、ものすごく、やばい気がするっては、元増田同意だが。

2011-03-18

サンデルならどうする?

「120人の重症患者たちを全員搬出していたら、おそらく自分は死んでしまうだろう。」

そんな状況下においての正義とは何なのか?サンデルなら何て言うのか?

自分が助かれば他の数千人の患者たちの命を救うことが出来るが、そのために120人を犠牲にしてもいいのか?

120全員を救うことは出来ないかもしれないが、自分の命を投げ打ってでも、職務を全うしわずかな命でも救うことがベターか?

日本法律では、命の重さが公平でないことは、ゆとり教育世代の我々でも習ったはずだ。

働き盛りの20代人間事故した場合と、死にぞこないの100歳の老人の場合では、賠償金の額が違う。

また、二浪して20歳で医学部合格するのは認められても、退職後60代で医学部に入学することは出来ない。

命がフェアだと思って感情論に走るやつはクソだと心底思う。

あんたの命とオウムの麻原の命は、同等の価値があると言っていいのか?

アメリカ白人主義団体KKKの団員と俺たちの命は同等の価値があるのか?

エジプトリビアで血を流している人間がいて、イラクでは自爆テロに巻き込まれて死んだ人たちが

数千人いても、それを対岸の火事だと思っていた日本人たちが、他人の命の重さについて議論するのは

滑稽なこと。

感情で考えるのは簡単なこと。何のための法律か?

俺たちはイエス・キリストブッダ立法のもとで生活しているんじゃない。

もし職場放棄した医者がいるとしたら、裁くのは我々ではない。

憲法に則って裁判官が決めることだ。

2010-12-02

ちょっと世界史に詳しい増田さん教えてください

イエス・キリストが実は白人じゃなかった可能性は大いにあるんですか?

2010-08-15

CASSHERN~なぜキャシャーンは人を激怒させるのか?

 なぜキャシャーンは人を激怒させるのか?

 単に、紀里谷和明監督への嫉妬か、妬み・嫉み・恨みなのか。

 しかし、例えば僕などは日記をみてもらえれば判るようにキリキリ監督尋常ではないレベルの妬み・嫉み・恨みを抱いているが、それとこれとは別で、「CASSHERN」という映画じたいは素晴らしく面白い!と手放しで絶賛してるし、一発目でいきなりこんな凄い映画を作れてしまう紀里谷監督リアルに天才なのでこれからも凄い映画を作り続けてほしいです!と応援してしまうのである。

 つまり嫉妬の要素というのは、この際、さほど重要ではない。

  CASSHERNは、人間感情の、何かこうクリティカルな部分を直撃する映画なのだ。それゆえに、そのクリティカル・ヒットを受容できる人はハマるし、受容できない人は切れるのだろう。(受容はできるけど、もうこの手の話は飽きた、という人もいるだろう。しかしそのような人は、呆れ果てることはあっても、切れたりはしない)

 CASSHERNクリティカルさというのは、そう、ブライセリフに集約されている。

「つまり、憎しみとは、人間也!」

 さらに、キャシャーンキャシャーンで、「人間が生きていることじたいが、人を傷つけることになる」という意味モノローグを語っている。

人間の性は、悪だ(人間性悪説

人間は、生きていることそれじたいが罪悪だ(原罪論)

 これはキリスト教的な「罪」の論理であり、無神論が主流の日本では受け入れられる余地の少ないテーマといえる。性善説ベースとなっている日本でいきなり「お前の存在じたいが罪だ」といわれれば、切れる人が多いのも当然だろう。しかもこれ、漫画映画である。「敦煌」とか「砂の器」じゃないのである。アニメだよ、キャシャーンだよ。なんで漫画映画で、そんな説教されんといかんねん!という人もたくさんいるはずだ。

 しかも、紀里谷は、これらの作品のテーマを、役者にセリフとして語らせてしまうのである。これがまた、この類のテーマを受容したくない人にとっては、許しがたい行為なのである。セリフで語りさえしなければ、スルーできたはずだからだ。人間は、自分の見たいものしか認識しない。従って、通常、映画を観ていても自我を脅かすようなテーマが提出されても、その部分を認識せずにフィルターをかけて消してしまうことができる。しかし、「言葉」で投げつけられてしまうと、そうはいかない。紀里谷は確信犯的にこの映画を観た全ての人間

「憎しみとは、人間也!」

 というテーマを強制的に植えつけることによって、この映画テーマを曲解される可能性をふさいでいるわけだ。

 このテーマを容認できない人にとっては、監督独善、ということになるのだろう。

 

 さて、この映画は、キリスト教的な救世主の受難を描いている。

 伊勢谷友介が演じる東鉄也は、一度死ぬが、LCLのようでもあり命のワインのようでもある赤いプールに肉体を沈められることにより、再び復活する。この赤いプールの中で行われる復活劇は、あたかもパプテスマのヨハネによる洗礼儀式のようでもある。この復活により、鉄也は自らを救世主キャシャーンと名乗ることになる。もちろん、上月博士三橋達也演じる老医師、鉄也の母みどりの幻影などが、復活した鉄也に「君の復活には、何か意味があるはずだ」「この街を守れるのか」「人々の争いを止めるのです」と、鉄也を救世主の道へと導こうとアシストするわけである。

 しかし、鉄也は救世主キャシャーンとなっても、奇跡を起こすことはできず、人々はみな挫折して死ぬ。そして鉄也自身も傷つき、血まみれとなっていく。鋼鉄の扉の隙間からバラシンに刀で心臓あたりを抉られるシーンは、あたかも十字架にかけられたイエスのごとくだ。

 しかもキャシャーン抽象的に人類の業を贖罪するという存在ではない。鉄也自身が生前、殺人という罪悪を犯しているのだ。「反戦映画」ともうけとられがちなこ映画は、実は、戦争だけに反対している映画ではない。「人間存在そのものが罪だ」というテーマをもっとも端的に表現できる場こそが戦争という極限状態なので、戦場における戦闘の結果としての殺人という光景が何度も繰り返されるのだ。

 最後に鉄也は戦場で犯した自らの罪業を認識して、懺悔する。

 が、この映画の恐ろしいというか念入りなところは、懺悔したはずの鉄也がさらにダメ押しともいうべき父殺しという罪を背負うことである。母親を寝取り、父を殺すというのは、いうまでもなくエディプス・コンプレックスなのだが、鉄也は最終的に父殺しを達成することによって、人類の原罪をことごとく背負って自殺することになる。

 では、鉄也の懺悔無駄だったのか? そう、無駄だったのだ。この映画テーマは「憎しみとは、人間也!」なのだから。従って、鉄也は、キリストの如く原罪を背負って血に塗れ、死んでいくしかないのだ。キリストと違う点は、人類の原罪を肩代わりしたのではなく、自ら原罪を犯して死んでいくという点だけだろう。もちろん鉄也は単なる殺人犯というわけではなく、「戦争」や「愛する人を殺した殺人犯への復讐」といったどうしようもない事情がある。決して、悪意で殺人を犯したわけではない。人間存在そのものが悪なのだから、生きる限り、どうにもならない、どうしようもないのだ…したがって、救世主になるべくして復活させられた鉄也の地獄巡りは、ドアーズ「The End」の如く、母を寝取り、父を殺して完結する。「地獄の黙示録」を参照するまでもなく、フロイトの絶対的な影響下にある現代のキリストは、エディプス・コンプレックスの持ち主でなければならない。フロイトによれば、エディプス・コンプレックスこそが、人類の原罪意識の大本にあるのだから。

 さらに、鉄也の父親・東博士が下層階級の出身であったことも最後に明らかになる。東博士は下層階級出身でありながら、政府側について少数民族を抑圧する側にまわり、最終的には鉄也の最大の敵となる。このあたりも、なにやらイエスキリスト物語を髣髴とさせる。

 だから、キリスト教圏では、この映画日本からやってきた現代の救世主譚として評価されるかもしれない。

 過去に、日本アニメ映画では似たようなテーマが何度も描かれている。いうまでもなく「イデオン」と「エヴァ」がそれだが、エヴァでは、主人公のシンジ救世主となるべく人類の原罪を背負う……という流れの物語だったはずが、最後にシンジ人類の原罪を背負わずに話が途切れてしまった。「エヴァ」は、「人間の性は、悪だ」という自らのテーマに向き合うことができなかったのである。キャシャーンは、エヴァと非常に似た構造映画であるが、主人公の手を父親の血に染めさせることによって、エヴァが途中で放棄したテーマを完結させた作品であるといえる。

 もう一つ、近作で似たような映画がある。それは「マトリックス」だ。この作品は3部作だが、それぞれ救世主ネオ誕生・生・そして死を描いている。ネオもまたキリストの如く、一度死んで復活する。だが、最後には人類の原罪を背負って死ぬ道を選ぶのだ。終盤、ネオは目を焼かれて失明し、エディプス王の如く盲目となる。機械触手に支えられて死んでゆくシーンは、やはり十字架にかけられたイエスを髣髴とさせる。

 ただ、マトリックスは「何も語らない」「観客に考えさせる」というスタイルを貫いたのに対して、キャシャーンは「全てをセリフで語りつくす」「観客に議論の余地を与えない」というまったく逆のスタイルで作られている。このスタイルこそが、一種の押し付けがましさ・説教臭さ・青臭さ・傲慢さと受け取られ、反発される一因になっているのだろうと思う。だが、この説教臭さ、愚直なまでの必死さこそが、かつての邦画ひとつの魅力だったのではないだろうか。邦画黄金時代には、説教映画が多数製作されていた。「新幹線大爆破」の宇津井健のウェットな説教や、「ノストラダムスの大予言」や「人間革命」で丹波哲郎が繰り出す強引極まりないオレ流説教。かつて、日本人はこれらの説教映画で感動して泣いていたはずである。みんな、かつては馬鹿だったのだ。

 80年代以後、邦画から泥臭さが消えていくとともに、邦画の魅力は失われていった。特に、角川春樹逮捕ホイチョイ・プロダクション的なテレビ局誘導の企画映画のブーム化以後は、有能な監督には集客力が無く、大作はどれも質を伴わない、という状況が長らく続いていた。例えば、世界レベルで評価されている黒澤清三池崇史が、「デビルマン」を監督させてもらえないのである。宇多田ヒカルの夫であるということ以外、ほとんど映画界では実績が無く、世間にもあまり知られていなかったPV監督が従来の邦画システムとはまったく無関係なところで突然作り出した「CASSHERN」は、そういう硬直した邦画とりまく閉塞構造をいきなり破壊した作品といえるのだ。

 無論、システムの面だけではなく、愚直なまでに真剣かつ本気というそ姿勢もまた、古くて新しいスタイルではないかと思われる。むしろこちら(熱さ)のほうが重要で、80年代から長らく続いていたシラケ世代は2001年あたりを境に終息しつつあり、70年代を最後に滅んでいたはずの愚直な熱さが求められる時代が復活しているのだ。アントニオ猪木が「馬鹿になれ」というフレーズカリスマ化したのも単にジャイアント馬場がいなくなったからというだけではない(主にプロレスと関係ない人たちに猪木が評価されているのだから。むしろ保守的プロレスファンは旧来のプロレスシステム破壊する存在である猪木を嫌っている。このあたり、CASSHERNの評価とも重なってみえる)。「馬鹿になれ」という熱くて愚かで泥臭い姿勢こそが、閉塞しつつあった日本の気分にマッチしていたのではないか。

 従来なら「大人げのない幼稚な愚直さ」と嘲笑のネタにされるような熱いキャラクターカリスマ化していく作品としては、「最強伝説黒沢」というコミックもある。この漫画の主人公の黒沢は、中学生と本気で決闘するようなどうしようもない中年なのだが、その必死さ、熱さが、周囲の人間(主に、シラケきった若者世代)の心をわしづかみにしていく、というストーリーのようだ。

 すでに我々には、冷笑や嘲笑で生きていけるほどの余裕が無いのだろう。すべてから距離を置き、自我を脅かすものすべてを嘲笑して生きていくライフスタイルは、「勝ち組」「負け組」が明確化されてしまった現代日本ではもう限界なのだ。そうなれば、道は二つ。「感動など、無い」「自分には何の値打ちもない」という悲惨な現状に気づいて、馬鹿になり、泥にまみれて足掻く道。もう一つは、「自分がこうなったのは、すべて、外部に責任がある」と犯人探しの旅に出る道だ。

 僕がCASSHERNを支持するのは、紀里谷監督製作姿勢そのものが、前者の道を示しているからだ。紀里谷の才能を持ってすれば、もっとソツなく、映像美とアクションに徹した娯楽映画を作ることだって可能だったはずだ。だが、あえてこんな熱くて泥臭くて人に嫌がられる映画を作ってしまった。というより、作らざるを得なかったのだろう。その過剰ともいえる熱さが、CASSHERN賛否両論喧々諤々と騒がれる原動力となっていることは疑いない。こんな熱い邦画は、しばらく見なかった。いったい、いつ以来なのだろうか。

 そしてこの映画テーマもまた、後者の道…「犯人探しの旅に出る道」を遮断するべくして設定されている。そして紀里谷は、それでも「犯人探しの旅に出る道」への抜け道を探そうとする人間に、抜け道すら与えない。テーマをそのままセリフとして喋らせることによって。つまり紀里谷にとっては、作品の映画としての完成度よりも、テーマを訴えることのほうが重要だったわけで、紀里谷はここでも熱い。

 このCASSHERNがどうしようもなく発散させている愚直さ、熱さこそが、実は人々に求めらていたのではないか、と思われるのだ。この映画は、冷笑させることを観た人間に許さない出鱈目な熱さを持っている。いやまあ突っ込みどころはあまりにも満載なんですが…あちこち破綻しまくってるし。だが、それだけでは絶対に済まされない映画なのだ。だからこそ、嘲笑で片付けられる人間よりもマジ切れする人間のほうが圧倒的に多いわけなのだ。僕は紀里谷監督に、もっともっと熱い映画を作り倒してもらいたい。僕自身は、熱さは持っていても、作品を作る社会的能力が皆無なので……。

(04/5/1 本田

2010-03-24

「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」という幻想について

ttp://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20090204/migi

 最近、私が見たそんな「謎」は「右の頬を打たれたら左の頬をも向けなさい “But whoever strikes you on your right cheek, turn to him the other also.”」という言葉です。新約聖書マタイ伝の中に書かれているイエス・キリスト言葉です。この言葉を聞いた人が書いた、「あれ?ふつう右利きの人がほとんどですよね?だとしたら、右の手で相手をぶつんだから、(頬をぶたれる側の人からすれば)左の頬を打たれることになるんじゃないですか?最初に、右の頬を打たれたらってヘンじゃないですか?」という疑問を眺めたのです。…確かに、不思議です。世の中の90%くらいの人が右利きだということを考えると、ぶたれる頬は「左頬」が自然です。相手から「右頬」を打たれる、というのは何だか不自然です…?



 そこで、Wikipedia の”Turn the other cheek”の項や、「右頬を…」という言葉を解説した文章を読んでみると、とても興味深い(もっとも支持されている)説を知りました。それは、この言葉で勝たれているのが、「右手の甲で相手の右頬を打つ」という状況だった、ということです。確かに、右手の甲で相手の顔を払うように打つのであれば、(頬をぶたれる側からすれば)右頬が打たれることになります。そして、古代ユダヤ世界では、「手の甲で相手の頬をたたく」ということは、非常に相手を侮辱する行為で、自分より「階級・地位」が下である者に対してのみ行うことが許されていた、というのです。また、当時は左手は「悪い」側の手とみなされていて、自分の主張などを行う際には使うことができませんでした。だから、「右手の甲で相手の頬を打つ」というのは、「自分より地位が下のものを、侮辱しつつ叱責する」という目的で「ごく自然に行われていた」行為であった、というわけです。なるほど、だとすると、「最初に、右の頬を打たれたらってヘンじゃないですか?」という疑問は氷解します。…だとすると、今度は次の疑問が湧いてきます。「さらに奥にある疑問」が浮かんでくるはずです。「右の頬を打たれたら左の頬をも向けなさい」という言葉は、一体どんなことを言おうとしてるのでしょうか?



 「左の頬を向けられ」たら、(右頬を打った)相手はどうするでしょう?左手は使えませんから、左の手の甲で「左頬」を打つことはできません。だとすると、右手の掌で相手の左頬を打つことになります。…しかし、(自分より相手の地位が下だとみなす行為である)手の甲で相手を打つのではなく、「掌で相手を打つ」ということは、相手を自分と対等だとみなすことです。つまり、「自分より身分が下」だと蔑んでいる相手を、「自分と同等の人間である」と認める行為になってしまうわけです。(頬を打った側の人は)大きなジレンマを抱えてしまうことになるのです。



 つまり、この言葉は、単なる「相手の暴力差別に対して服従・無抵抗になれ」という意味ではなく、「暴力は使わず、根本意味におけるより強い抵抗を示せ」という言葉であった、というわけです。旧約聖書の「目には目を」という「報復行為」と対比されることが多いために、私はこれまで単なる「無抵抗主義を示す言葉」だと思っていたわけです。しかし、実はそうではなかった…ということがとても面白く、興味深く感じたのです。

2010-02-22

[][][]tameniikiru関連

http://anond.hatelabo.jp/20100221123714の続き。これは一大事です!!

id:ucnow

id:tameniikiru(http://k.hatena.ne.jp/tameniikiru/)に続き、id:ucnowが同様のキーワード編集を行っています。両者とも統一協会関係者です。

http://k.hatena.ne.jp/ucnow/

http://d.hatena.ne.jp/ucnow/ (統一教会記録帳:ロビー教会ウオッチ)

統一教会
以下、本部公式サイトの「統一教会が目指すもの」より引用。
………………………………………………………………………
統一教会は「神様の真の愛を相続しよう」をテーマに、「ために生きる」
人格の育成と祝福結婚による理想家庭の実現に取り組んでいます。

 また、そのような理想家庭を世界中に拡げることを通して、人種民族文化国家の壁を超えた人類家族世界を目指しています。
………………………………………………………………………

http://d.hatena.ne.jp/keywordlog?klid=1149516

世界基督教統一神霊協会
+一般的には「統一教」の名で知られる。
-[[合同結婚式]]及び[[霊感商法]]を行なっていることなどについて「カルト」として社会的批判の的になっており、裁判で敗訴してもいる。
+世界統一運動は、東西冷戦終焉への貢献、対立する宗教宗派和解、次世代リーダーの育成、
+開発途上国への支援活動、日韓トンネル・国際ハイウエー構想などで、世界有識者から
+評価を受けている反面、
+[[合同結婚式]]及び[[霊感商法]]を行なっていることなどについて、一部で「カルト」という見方もある。
-「世界基督教統一神霊協会」という正式名は多くの教派に分かれた基督教を一つに統一するという意味がこめられているが、[[モルモン教]]、[[エホバの証人]]と並んで統一教会バチカン法王庁によってキリスト教系三大[[異端]]とされている。
+「世界基督教統一神霊協会」という正式名は多くの教派に分かれた基督教を一つに統一するという意味がこめられているが、
+現在は「統一教」を呼称として、キリスト教のみならず、仏教イスラム教、諸宗教平和統一を目指している。
- 教義としては、三位一体説・イエスによる救済を否定し、教祖・[[文鮮明]]が再臨の[[キリスト]]([[メシア]])と主張している。また、対外的には旧約・新約聖書経典としているが、”教理解説書”とされる『原理講論』が実質的には経典のように扱われてきた。2001年からは文鮮明説教集を集めた『天聖経』が新しい聖書として意義づけられた。
+教義としては、三位一体説・イエスによる救済は一部否定し(イエス十字架上で殺されるためにこられたのではなく、本来は、神の創造理想である家庭理想恒久平和を実現するためにこられたと主張)、教祖・[[文鮮明]]がイエスから使命を引き継ぎ、[[キリスト]]([[メシア]])として、家庭理想恒久平和実現に尽力している、と主張している。また、対外的には旧約・新約聖書経典としているが、”教理解説書”とされる『原理講論』が実質的には経典のように扱われてきた。原理講論に収録されている、統一原理には「神様が本来願われた理想世界」「なぜ戦争犯罪、不幸がなくならいのか」「本質的課題を解決し、平和理想を実現する方法」等が収録されているという。
-多数の関連団体・企業が存在し、霊感商法などに利用されていると指摘されている。

http://d.hatena.ne.jp/keywordlog?klid=1149518

# URL世界基督教統一神霊協会統一教会)公式ホームページ http://www.ucjp.org/
# URL世界基督教統一神霊協会統一教会YouTube公式チャンネル http://www.youtube.com/user/UCJAPANch
# URL日本統一教会公式モバイルサイト http://m.ucjp.org/
# URL統一教会紹介ビデオ 「神様の真の愛を相続しよう」 http://www.youtube.com/watch?v=HfzqfHWuEr4
# URL統一教会 情報リンク集! http://uc8.info/
# URL統一教会 最新ニュース情報局! http://d.hatena.ne.jp/tameniikiru/
# URL統一教会立教会 http://www.uc-adachi.com/
# URL統一教会 杉並教会 http://www.suginami-ch.org/

http://d.hatena.ne.jp/keywordlog?klid=1149520 時点のURL

文鮮明
-自らを聖書に預言された「再臨のキリストメシア)」と主張している。
-全人類の親の立場にあるという意味から「真の父母」と称している。
-朝鮮日本に併合されていた1920年に、平安北道の定州(現在北朝鮮領)の閑村に住む農家の次男として生まれる。
-日本留学し、早稲田高等学校電気学科で学んだ。この頃、朝鮮日本からの独立を目指す抗日の地下活動を行い、特高警察からもマークされていたという。
-本名は文龍明(ムン・ヨンミョン)だが、20代で宗教活動を初めてから、鮮明と名乗るようになる。(龍は聖書悪魔シンボルとされているので、それを嫌ってどちらもキリストシンボルである魚と羊を含む「鮮」の文字を用いるようになったのではないかと言われる。)
+ 1920年1月6日(陰暦)、韓半島の平安北道定州郡に文慶裕氏と金慶継夫人の次男として生まれ、熱心なクリスチャンとして育つ。1935年4月17日の朝、イエス・キリストの霊が現れ、神のみ旨を完成しなければならない使命があるという啓示を受ける。
- 今日まで韓国日本アメリカにおいて6度投獄された経験を持つ。戦前韓国教祖女性信者性的な関係をもって罪を清める”血分け”を行う「混淫派」、「霊体交換派」等の影響を受けて、自らも「血分け」を行ってきたという昔からの根強い噂があるが、教団は一切そのような事実はないと全面否定している。
-朝鮮戦争が終わって間もない1954年に「世界基督教統一神霊協会」(統一教会)を韓国で設立した。
+  1954年5月1日ソウルに「世界基督教統一神霊協会」を創立。1960年4月11日(陰暦3月16日)には、韓鶴子女史と聖婚式を挙行された。 1968年には世界共産主義の脅威から守るために「国際勝共連合」を創設。その後も「世界平和教授アカデミー」(73年)、「世界平和宗教連合」(91 年)、「世界平和連合」(91年)、「世界平和家庭連合」(96年)などの国際平和機関を次々に創設し、各分野において世界的な貢献をされる。言論界においても、1978年から毎年「世界言論人会議」を主催されるとともに、米国で「ワシントンタイムズ」(82年)や韓国で「世界日報」(89年)を発刊。
+ 1990年4月モスクワで開催された「第11回世界言論人会議」では、クレムリンゴルバチョフ大統領と会談。91年12月6日には電撃的に北朝鮮を訪問され金日成主席歴史的な会談をした。
-1970年代にはアメリカに進出し、大規模な大会を行ったり、政界を初め各界への浸透を図った。
-1984年には脱税の罪で1年6か月の懲役刑を受けた。
-このことにより、1年以上の懲役あるいは禁固刑を受けた外国人は入国できないとした入国管理法の規定により、日本への入国ができなくなっている。
-1990年代半ばからは長男の元嫁や実の娘により、マスメデイア等で本人や息子の男女関係等のスキャンダル告発された。
+ 92年8月に挙行された「世界文化体育大典」では、国際会議に参加するため世界から集まってきた学者文化人を前に「メシヤ宣布」を行い、自らが再臨主であることを公に宣言された。
-2006年からは韓国に戻り、信者献金で建てた王宮に住み、息子たちによる後継者体制を整えつつある。
-2008年、搭乗したヘリコプター事故で負傷。
+ 2009年3月、自叙伝『平和を愛する世界人として』を韓国で刊行し、ベストセラーに。
+日本アメリカでも翻訳され話題を呼んでいる。

http://d.hatena.ne.jp/keywordlog?klid=1149521

編集傾向

統一協会にとって批判的な編集部分を減らすように書き換えています。

2009-10-23

http://anond.hatelabo.jp/20091023090528

人様に見せるべきではない汚い裸の知らんおっさんが入ってきてもOKなんだ。

意味が分からない?もしかしてイエス・キリストのこと?そうならばちあたりすぎる。神罰が降るぞ。

2009-04-24

親に愛されなかった(かもしれない)イエス・キリスト

先日見た舞台パンフレットで

キリストの処刑を見守りながらただ涙を流すだけだったマリアは冷たい。

母親なら自分で身代わりになっても止めようとするのではないか」という趣旨記述があった。

無茶を言うなぁと思いながらも、どこか説得力を感じたのは

イエス子供の時、神殿神童ぶりを発揮しているのを見て

マリア違和感を覚えた(大意)』といったエピソードを思い出したからだ。

(詳しくは各自がどっかで確認するように;ルカ記2章41節あたりから)

ヨセフにしてみれば、自分子供ではないことがはっきりしているし、

血を分けた子は他にも沢山いるとなれば、そちらに感情移入もしてしまうだろう。

そして唯一つながりを持つマリアまで、こんな状態だとしたら

イエス・キリスト少年時代は、親の愛情に満たされていたとは

とても言えない状態だったのかもしれない。

だとしたら、真綿にくるまれて育った幸福王子釈迦とは

実に対照的なのだが、

どうして二人とも、同じようなルートを歩むことになったのやら。

2009-02-16

イエス・キリストは神を指すポインタ

キリスト教の教義の中で難解だと言われる、三位一体Wikipediaによれば、「父なる神と子と聖霊が一体(唯一の神)であるとする教理」。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E4%BD%8D%E4%B8%80%E4%BD%93

高校時代から思っているのだが、これ、そんなに難しい概念なのだろうか?要するに、「父なる神」と「イエス・キリスト」と「聖霊」という3つのポインタがあって、みな一つの「神」という実体を指しています、ということだけでしょ?プログラミングをやっていれば、すぐに理解できる概念だと思うし、実際、プログラミングの例を引き合いに出して教えるのが手っ取り早いと思うのだけど、そうやって三位一体を教えている事例を見たことがないので、増田に書いてみた。英語圏では、とても誰か既にやっていそうな予感なんだけど、誰か知ってたら教えて。Java風に書くと、次のような感じ。(ポインタじゃなくて参照だけど。)

final class God {

private static God singleton;

private Singleton(){};

public static synchronized God getInstance(){

if(singleton == null){

singleton = new God();

}

return singleton;

}

}

class World{

God Father = God.getInstance();

God JesusChrist = God.getInstance();

God HolySpirit = God.getInstance();

}

簡単に書いておくと、三位一体キリスト教の基本的な教義で、いわゆるキリスト教は、どの宗派でもこれを認めているものが多い。なんでこの教義が基本的かというと、歴史上の人物であるイエス・キリストが、単なる人ではなく実は神でもあった、ということを信じることに繋がるから。「キリスト歴史上の偉人で神の教えを説いてくれたけど、単なる人で神ではない」という考え方も出来て、実際、この考え方が広まったことがあったが、325年のニケーア公会議というので異端になった。

2009-01-16

ニーチェイエス・キリストを否定していない

にわかによくある勘違いね。

否定しているのは当時のキリスト教会。

いまの感覚じゃ想像つかないかもしれんけど、当時のキリスト教会は巨大な権威成功者であり権力者であり、典型的な強者だったわけ。

で、自分に都合のいい勝手ルールをつくっては大衆を操りうまい汁を吸っていた。

ニーチェはそんな教会や、それに媚びてすり寄るものたちを畜群と呼んで切り捨てた。

実は倫理そのものは否定していないし、その証拠にイエス・キリスト本人についてはむしろ肯定的。

キリスト教会的な権力によるモラル操作やその追随者に対する辛らつな批判だったわけよ。

2008-11-17

http://anond.hatelabo.jp/20081116145930

「お前らは間違っててオレは正しい」メソッドを使ってるという意味では、このエントリもまた批判対象と同じく「そんな言い方では伝わらない」書き方になってはいないだろうか。


わがまま言ってる子どもシバく親を、横あいから殴り倒して

「叩かれたからって納得する子どもなんていません!」

と自信満々に叫ぶ人、みたいな。



だから、私たちはまず「私はあなたの○○は認めよう。しかし…」というスタンスで、双方が共有できる地点を見つけるというやり方でスタートすべきである。でなければ、あなたの抱えるイライラは解消されないのではないか?


だから私は言おう。【あなたのそのイライラは間違っていない。ただその解消法が、多くの「疑似科学イライラしている人たち」と同じく、間違っていただけだ。】と。


例のエントリ不毛な言い争いになっているなあ、とは確かに思う。「疑似科学批判」に感情的になる余り『宗教の全てを批判する』ような物言いになってる人が、増田のような人から、「科学教の狂信者」じみていると批判されるのも当然だと思う。だが、そういう批判をしちゃうと「あんた信仰が悪だといいたいのか善だといいたいのか」と逆にツッコまれることになるでしょう?

要するに疑似科学は「科学のコロモ」を利用してるから「科学的に」批判されるのであって、個人が何の根拠もなく信仰としてイワシの頭を神様として崇め奉ろうが涙を流して喜ぼうが、そもそも何の問題も無い。科学宗教は異なる価値観を持っている、ということさえ押さえておけば、そもそも問題は発生しない。たとえばイエス・キリストの復活を「科学的に批判」したところで聖書価値が少しも変わらないことは言うまでもないし、逆に言えば科学的であったからといってその「信仰としての価値」が増すわけでもない。そこをハッキリ切り分けておけば、何の不満もない。イエス・キリストの復活を科学的に証明せねば、と必死になるキリスト教徒がいたとしたら、それはおかしい。「科学的に証明されなければあなたはそれを信じられないのか?それはあなたの信仰が浅いということではないのか?」と。


つまり問題は、科学を偽装するという行為が、信仰として低劣だというその一点だけにある。


批判者よ。安心せよ。『科学に頼ろうとする信仰』が生まれるほど、科学に対する人々の信頼は揺るぎない。

信者よ。科学に頼ろうとするな。頼ろうとするその弱い信仰心を恥じよ。

2008-10-25

オープンソース宗教改革 および、新しい政治システム樹立

知っている限りの、古典的な例

宗教改革

ルターは、ヘブライ語と、ギリシャ語で書かれていた聖書ドイツ語翻訳しました。

たくさんの人が聖書を読むことができるようになりました。

一冊の本があり。

100人の人がそれを読んだら、

100通りの読み方があります。

イエス・キリストが行ったこと。いったこと。

イエス・キリスト弟子が行ったこと、いったこと。

なにを、幹とみて、なにを葉っぱとみるかも、読む人によって違ってきます。

オープンソースになった聖書というテキストを読み、

読み方を、基準にして、

いろいろな、グループができる。

聖書オープンソース→さまざまな聖書解釈の成立→カトリックの読み方が、権威として絶対ではなくなる。

聖書解釈をことにする人間が、

それぞれの解釈を絶対だと主張する。

聖書の読み方が違う人間同士で、テキスト意味解釈をめぐる論争にとどまらないで、

物理的な戦争が始まる。

戦争を通じて、戦争に加担するすべての人が、消耗する。

??己の聖書解釈の絶対性を、世界に知らしめるために、戦争をして、体を滅ぼす

??己の聖書解釈は、ほかの人に強制すべきではないという妥協をうけいれて、自分の体を温存する。

このどちらがいいかを天秤にかける。

多数の人たちは、??を選んだ。

聖書というテキストからどういう意味を読み取るかは、それぞれの個人の自由。

でも、その意味の取り方を、ほかの人にも強制するのは、違法だという社会システムを構築する。

聖書のOpensourceがもたらしたもの。

カトリックという権威の失墜。

聖書解釈の多様化

多様化の生成ゆえの軋轢

個人の自由を政治的に保障する制度の樹立

2008-10-01

http://anond.hatelabo.jp/20081001001643

キリスト教の救済
イエス・キリストアダム以来延々と続く人類の罪を一身に背負って十字架にかけられたことで、人類の罪は贖罪されたのだと考える。イエス・キリストを信じる、というのは、要するにイエス人類の罪を贖罪したのだということを信じるということ。イエスを信じることによって、その人の罪もイエスによって贖われることになるので、死して後、最後の審判のときが来ても、地獄に落とされずに済むかもしれない。
阿弥陀浄土教)の救済
昔現世にいた王様が誓願を立てて修行したのちにブッダ如来)となったのが阿弥陀如来。で、阿弥陀如来はその誓願において自分に帰依する者は残らず西方浄土に導いて成仏の道を歩ませよう、と誓った。この阿弥陀如来への帰依を表すのが「南無阿弥陀仏」という念仏で、法然の場合はとにかく念仏を唱えれば浄土へ行けるのだ、という手軽さが衆生にウケた。親鸞はそこからさらに先に進んで、阿弥陀仏による絶対他力への信仰という形をとる。いたずらな・中途半端な自力本願は阿弥陀仏への帰依の邪魔となるだけなので、戒律すらも構うことなく、阿弥陀仏へのひたすらの帰依を行うことこそが救いなのだとした。さかしらな善人面をした修行者よりも、自らの性根が悪であることを自覚した「悪人」のほうが、かえって浄土への道は近い、としたのが浄土真宗の「悪人正機」。

こうやってまとめてみると、キリスト教=罪と贖罪思想仏教=苦(一切皆苦)と涅槃思想、というように分けられるかもしれない。

付記:

 悪いことをする→「それはあなたの罪になるよ」というのがキリスト教

 悪いことをする→「だからあなたは苦しい(苦しむ)んだよ」というのが仏教

 良いことをする→「神の意志に沿った行いをしているよ」というのがキリスト教

 良いことをする→「だからあなたは嬉しい(楽しい)気持ちなんだよ」というのが仏教

2008-08-09

http://anond.hatelabo.jp/20080809150511

あー、他人に愚痴りたいけど、愚痴ることが「迷惑で、やってはいけないことだ」というのが自分の中で道徳になっているから、他人に対して文句が言えなくてストレスが溜まる、みたいな状況?

だとすれば、優しい人なんだね。


なんかそういう「戒律を守らないと成立しない関係」みたいなのが重荷になってそう。ただ、そういう戒律を守れない自分が許せない、みたいな意識があるとなると難しいなあ。

宗派を変えて、愚痴ったって良いんだって意識を持つようにするか、さもなきゃ懺悔室代わりに増田を使うのが一番良いんじゃないかな。

人間誰でもイエス・キリストみたいになれるわけがないんだし。

2007-11-27

おーい、はしごたんよ。

 聞く耳を持ってくれるかどうかはわからないけど、一応書くだけ書いてみるぞ。


 今のおまえさんの様子を見ていると、俺はなんとなく20世紀ユダヤ人歴史連想してしまうんだ。

 イスラエルを建国した当時、ユダヤ人と言うのは確かに虐げられた民族以外の何物でもなかった。でも、それから60年間の歴史を見通して、現在イスラエルはどうだろうか。むしろ他人を虐げる側に回って、しかもその行為を

「かつて自分達は虐げられていたから、自分達の生存のためには全てが許容される」

という形で正当化しているのではないだろうか。

 現在イスラエルの全てを肯定して無批判に包み込むだけが、イスラエルとそれに関係する全ての人を救う道だとは、俺にはとても思えない。イスラエル政府パレスチナアラブ人を扱うやり方が、ホロコースト体験によって全て正当化されるとも思えない。

 はしごたんに対しても、俺は同じことを思う。俺はおまえさんの過去を追体験することなんて出来ないが、それを軽んじる気は全くない。でもそれは、おまえさんの過去に関わっていない人を攻撃の的とすることを正当化するのだろうか?


 まあ、イスラエルの話は脇に置いておくとしてもだ。


 そんなおまえさんを誰かが全肯定して包み込んでくれるなら、確かにその時は気持ちがいいかもしれない。救われた気にだってなるかもしれない。それを否定はしない。

 でもさ……その後どうすんの?

 もしその後を考えずに、その場その場の救済だけに人生の全力を集中するとなれば、例え一晩であれ二晩であれ、おまえさんはMasaoに人生の全ての重みをかけた救済を求めるってことになるんじゃないの。そんなむちゃくちゃヘビーな荷物を他人に負わせて、いったいどうすんのよ。

 それに、その一日か二日が終わった時、おまえさんは相手(Masaoであれ誰であれ)に背負わせた人生の重い荷物をもう一度背負いなおして、帰りの電車に揺られて帰らなきゃならないわけだけど、一度降ろした荷物をもう一度背負って、家路につくことが出来るの?

 はっきり言って、いまのはしごたんにそれが出来るとは、とても思えない。一度重荷を降ろして身軽になって救われたと感じた人が

「さあ、これで救済の時間は終わったから、また重荷を背負って帰りなさい」

と言われて、はいそうですかとはなかなか言えないと思うぞ。

 イエス・キリストは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28新共同訳)と言ったけど、もしその数日後にイエスが「さあ、私はこれでいなくなるから、また重荷を背負って家に帰りなさい」なんて言おうものなら、多分その途端に教団は分裂して、その後のキリスト教なんて生まれてなかったろうな。

 実際には当のイエスが処刑された後でさえ、遺された人々は復活神話まで作り上げて、重荷を軽くしてくれた神の子の下になおも留まり続けようとしたんだ。この時に遺された使徒たちによる伝道がその後のキリスト教会発展の土台を作り上げたんだけど、早い話が、イエス本人がいなくとも重荷を恒常的に降ろしておけるような場として、教会システムを整備したわけだ。

 要は、一度降ろした重荷をもう一度担ぎ上げることは、誰にだってなかなか出来ることじゃないってことだよ。はしごたんに限った話じゃなくてさ。


 自分で自分の感情を完全にコントロールするなんて、神ならぬ人間の身にはたぶん無理だと俺は思う。俺自身だってそうだし。

 今は“その後”の感情をコントロールする自信があるのかもしれないけど、俺は今現在の自信をそんなに当てにしない方がいいと思うな。

 まあ、少し考えてみてよ。

2007-07-06

キリスト教ではいつから「快楽=悪」になったんだろう

http://anond.hatelabo.jp/20070706162353

でも当のイエス・キリスト様は食べたり飲んだりが嫌いってわけじゃなくて、「奇跡で水をブドー酒に変える」「奇跡でわずかのパンと魚を増やして数千人の群衆に配る」とかの伝説が残ってたり、あんまり快く思わない連中からは「食い意地の張った大酒飲み」みたいに言われてたりするんだよな。

それがいつから「快楽=悪」になったんだろう? ストア派みたいなギリシャ哲学の影響?

2007-05-15

http://anond.hatelabo.jp/20070515071801

たとえば、月ロケットに、事もあろうに……とにかくいろんなところでギリシャ神話欧米社会で活躍している。

ってのと信仰は違うと思うよ。ギリシャ神話とかローマ神話はお伽話とかファンタジーであって信仰の対象じゃないでしょ?

それに、一神教だからといって異教の神を認めないわけじゃなくて、キリスト教徒イスラム教徒は、それぞれの神の存在とかは認めていても、信仰の対象じゃないというか、「複数の神を信仰する」って感覚が分らないんだと思う。

でも、たぶんそれは「多神教」という言葉にとらわれているだけだと思うけど。イエス・キリスト像、聖母マリア像、どちらにも祈るように、教義に複数の神がいて、複数の神に祈ってるだけだと思うけど。

ただ、初詣お盆がある日本の考え方は良く分らないんだろうな(笑)

2007-02-27

http://anond.hatelabo.jp/20070227103138

自分の頭が良いのか悪いのかがわかりません。

頭の「良し悪し」とは、どういうことを意味するのか、自分なりにで良いから定義してくれ。

話はそれからだ。


たとえば「詐欺師」は頭良いのか悪いのか?

イエス・キリストは頭良いのか悪いのか?


オイラは「自分が人生で大切だと思うものを知って、それを手に入れるための最善の方法を見つけ、努力できる能力」のことを「頭の良さ」だと定義しているが、それに基づくと前者馬鹿後者は頭良い、となる。でもそうは思わない人だって一杯いるだろうしな。

2007-02-22

韓国】「沖縄韓国人が開拓した国」??新羅・于山国が沖繩を670年間支配していた

http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/926131.html

この記事を読みながらふと思ったのだが、アメリカバチカンにも2ちゃんねるがあったらこんなスレが立っていたかもしれない。

日本】「イエス・キリスト日本で死んだ」??青森キリストの墓

どんなレスがつくのか少し興味が沸いた。

2007-02-19

ご利益って信じる?

「神」って言われてなにを重い浮かべる?

近所の神社?その境内にある神木

たぶん違うよね。

日本で神っていうと、神話アマテラススサノオゼウスとかサタンとかか、もしくはイエス・キリストアッラーのような、人の形をしたものを指していて、「存在しますか?」って聞かれると、作り話だからね、証拠はないからね、っていう考えになるんじゃなかろうか。

でも、たとえば、「この岩に触るとご利益があるんです」なんていわれると、触る人は多いし、お守りを買う人は多いし、初詣をして、賽銭をなげ、幸せを祈るよね。

その時、だれに祈るのだろう。だれのご利益なのだろう。別に、岩や木を神とは思ってないのに。

そんな時、はっきりしたなにかがあるとかじゃなく、はっきりしない、空気とか雰囲気とか気持ちとか、そういうものの延長としての、「なにか」が、その場や物に「宿っている」って思う。そこにはリアルな人物ではなく、仮想化された人物、つまり擬人化があると思うんだよね。それを指して神様という。


あと、「宗教

フス派が敗北して弾圧されて、カトリック一色になって

その調査結果ってどうなの?

日本も同じようなことがあったね。キリシタン弾圧とか檀家制度とか神仏分離とか。

そういう宗教が力によって強制された時、儀式や建前として受け入れても、そこに神はいないと思うんだよね。

そういう歴史現在宗教に引き継がれていると神ってのが薄くなるのかな?って思ったけどどうかな。


あと、あのグラフにない中国がどうなってるのか気になる。

仏教とか儒教の国はどうなんだろう。日本もそうだけど、ご先祖って神じゃないんだよね(いや、そういう考え方があるのは知ってますが)。

それがかなり大きな影響を与えると思うんだよね。

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