はてなキーワード: 視点とは
自分は相手のことが好きだけど、相手は自分のことが好きじゃないってことがどういうことか向き合ったことあるか?
自分はただ一目会えれば疲れや悩みが吹っ飛ぶほど嬉しくて、同じ場所に入れたとしたら夢みたいに幸せな気分になるとしても、
相手からしたら夢みたいに幸せになる相手は別にいることもあるし、すくなくとも自分に対してそういう気持ちにはならない。
自分の視点だとロミオとジュリエットみたいにロマンチックな2人に感じられるかもしれけど、相手からしたら別の物語なんだよ。
それが失恋。
そのうえで、本当に相手の気持を思うなら、家の近くをうろついたりしない。
怖がらせるのが分かるから。
増田がしてるのはもはや恋じゃなくて執着。
全部自己完結してると悪い方向にしか繋がっていかないから、リアルの人間に聞いてみるべき。大学生なら相談センターのカウンセラーとか。仲いい友達は似たような思考でエコーチェンバーになるケースがあるから、他の視点を取り入れる気持ちで聞くのがいい。
ヘアスタイルとか服装とか努力してるのはすごくいいと思う、あとはやってるかもしれないけど眉毛整えることも意識してみてほしい。
男女は得意分野が生来身体のつくり的に違うし、考え方も千差万別だから、寛容になって自分も他人もどうでもいいくらいで受け入れられるようになれば楽だと思う。攻撃的な態度とか挙動不審な態度って結構貫通するし警戒されるよ
今回の反応はフェミvsアンフェみたいな構図じゃなくて、ブクマカのいつものコミュ障なところが発揮されてるだけだと思う
まず大前提として、良い大人は困ってるお婆ちゃんを気にかけるのは当然のことながら、彼女のことも普通にケアするし(平均的なコミュ力があれは両立は別に難しくないのよね)、それを非難されたところで気にしない(そもそもネットに書いたりしない、という話は置いといて)。元増田は「お婆ちゃんを助けた自分は正しい。認めない奴は悪だ」って態度だからまあもう一歩足りないよね
で、ブクマカの反応をまとめると、増田と似た視点で「正しいものは正しい、文句言う奴は倫理観が無い」みたいなゼロイチ思考の人と、"良い大人"の視点で「善行は良いけど増田も幼いよね、頑張れ」と言ってる人がいる感じ。後者はちょっと相対主義にすぎる気もするが、前者は視野が狭すぎるのでもうちょっと想像力と寛容性を持つべきなのは間違いない
どれだけ嫌な事があろうが、満足している瞬間が少しでもあればそれだけで人生を肯定出来る。それは自己実現の喜びであってもいいし町中で買える喜びであってもよくて、重みは問題ではない。
そもそも重みなどない。快不快を勘定しようとする事自体がナンセンスだ。限界効用だのアドレナリンの分泌量だのと数字を持ち出してお茶を濁した所で、我々が常に瞬間的に感じている快不快とは定性的なものなのだから。
こういう風に考えれば、生きることに対して割と無条件に近い状態で希望を持てるような気がする。というよりは悲観に屈しないといった方が正確かもしれない。
こうありたいような気もする。安直なヒューマニズムとはまた違うと思う。リアリストを気取っていてその実単にペシミストでしかない奴は嫌いだし。おれはニヒリストではあるけれど、ああいう連中はいけ好かない。
ただあんまり無闇矢鱈に人生は素晴らしいと考えるのも、それはそれでなんかなって思う。少しでも引っかかりがあるのなら、そこを無視して人生バンザイと言うのも自分に不誠実な気がする。
やっぱりなんとなく心の中に秤をイメージして、総体的に納得ある人生を送れているかを気にしてしまう。
自分の望む生き方を出来てる人はこういう考えでも別に問題無いんだろうけど、そうでなきゃ辛い。
辛さをバネに、とかそういう気にもあんまならんし。
不快な気持ちに特別な意味を見出したり、道具として支配してやろうってのもなんかなあって思う。嫌なことをただただ嫌なだなあと受け止めるのも大事に思えてならない。 まあ嫌なことは嫌だし、大して楽しくもないのに面倒臭さだったり不快さだったりを抑えながら生活に追われるくらいだったら死んだ方がマシだろ……
みたいな考えが頭の中をぐるぐるぐるぐる回ってる。
結婚でもするなりして他人への奉仕に生きよう、なんてのはありがちだけど、それを実践してる人が果たして幸せそうかというと微妙なところはある。他人な上に立場も違えばもちろん視点そのものが違うし、そういう人らの人生のほんの一部しか見てないから何とも言えんのだけど。
nessko 森茉莉はそういう自分を客観視して自嘲自虐的におもしろがる視点も持ってたけど。逆に、姫野カオルコは『謎の毒親』読むと、お母堂によく似てらっしゃるのに無自覚と感じて、距離を取って見るようになりましたよ。
確かに、ポリコレの要素が入ることで物語の自由度が制限されることもあるかもしれない。けれど、それが本質的に作品の面白さを損なうかどうかは、また別の話だ。たとえば、昔ながらの冒険譚に多様なキャラクターを加えることで、新しい視点や深みが生まれることもある。多様な背景を持つキャラクターたちが、それぞれの価値観や経験を持ち寄ることで、物語が豊かになる場合もある。
俺が最近読んだ小説でもそうだった。主役は、障害を持つ探偵と彼の友人であるトランスジェンダーの医師。最初は、これもポリコレかと斜に構えていたけれど、読んでいるうちに、彼らの背景が、物語の中で重要な要素として機能しており、むしろ物語に深みを与えている感じがした。
一方で、ポリコレを意識しすぎて、不自然に感じる作品もある。登場人物がステレオタイプに描かれ、ただの象徴として扱われているように感じる時だ。そんな時、確かにつまらなくなる。キャラクターがただの「役割」以上の存在にならないと、物語は深まらないし、感情移入もしづらい。大切なのは、キャラクターが生き生きとしていて、その存在が物語にとって不可欠であることだ。
結局、ポリコレが作品をつまらなくするかどうかは、作り手の力量にかかっている。キャラクターやテーマをどう描くか、どれだけ物語に自然に溶け込ませるかが肝心だ。そして、受け取り手の気持ちも重要だ。読者や視聴者が作品に対してオープンな心を持っていれば、新たな視点や価値観に触れることで、むしろ作品の楽しみが増すこともある。
アサクリが史実に忠実か否かについてはちょっと複雑で、見る視点によってどちらも正しいのよ。
アサクリの開発が自ら「時代考証頑張ってるよ!」と喧伝していて、
実際に当時の風俗や建築等の再現は評価されたし、史跡を巡るだけの教材用ゲームが出たり、
ノートルダム大聖堂が改修工事中に火事で一部焼失した際には参考にされたりしたのよね。
※追記:当時参考に出来るかもと話題になっただけで、実際には参考にされていないようです。
一方、ゲーム自体のメインシナリオはかつて超技術を有した人外が興した先史文明の存在を前提に、
テンプル騎士団VSアサシン教団(とその前身となる結社)の暗闘が紀元前から現代まで続けられており、
人のDNAから祖先の記憶を読み込んで再体験することで隠された闇に迫るみたいなもので、
劇中に神様やアトランティスが出たり、現実となる現代編で何千年生きたキャラが出たりもしたわけよ。
で、批判している人は前段の要素を重視し、反論している人は後段の要素を重視しているという状況なの。
UBI自身が考証頑張っていることをゲームの特色として上げており、
今回話題となった新作に際しても、過去作のその辺を評価していたゲームさんぽの中の人を公式アンバサダーに採用したりしているわけで、
創作では”普通”側にいるクラスメイトたちと馴染めない主要キャラの対比をよく見るが視点がクラスメイトにあっても結局うっすらと周りとの馴染めなさが描かれるような気がしている 彼らも群体ではないので
結局安心できる居場所なんかないし漠然とした”普通”には手が届かない そのくせ侮蔑を含んだ「普通」の範疇からも抜け出せない
一々東京が何にしても1番である事を常々言ってくる程度の上流階級ぶってる世田谷オバさんと同じレベルという印象になってしまっている
関西の食文化、特に和食に優れたものがあるのは確かとして、東京の一流店は普通に同レベルに高い
どっちも世田谷オバさんは知らんだろうけど
アメリカが「ヨーロッパから逃げ出した移民の移住先」であって、「文化という視点では到底太刀打ちできないことに異論はない」というのも世田谷田舎オバさん程度の視点
世田谷オバさんヘミングウェイなんて原書はおろか日本語だってどうせ読んでないだろうしジャズなんか聞いたこともないだろう
類は友を呼ぶ
東京以上に安全で清潔で文化資本やエンタメの集積があり、住環境も整い、交通移動手段が超高度に発達し、緑も多く、食文化も高度に発達し、経済的にも豊かな都市があるのなら知りたい
これに対して自分の考えをつらつらとまとめてみたので
興味がある人は見てほしい。
ちなみに自分は九州出身、東京在住10年目のサラリーマンだ。東京と他の都市との比較についてはフラットに見れていると思う。
この投稿で安全、清潔、エンタメ、交通手段が発達していて経済的に豊かであるという点については強く同意している。だからこうして自分も住み続けているし移住する考えも今のところ無い。
よくある『文化資本』の解釈としては美術館や博物館、立派な図書館やコンサートホールが多数ありそこで開催される催しに気軽に参加できるという点や、マイナーなジャンルの文化でも人口が多いため一定の需要があり、その需要のもとにお店が成り立つといったものである。
しかしほんとうにこれらは文化であると言えるのだろうか?自分としてはこれらは全て文化ではなくどちらかというとエンタメであり、消費される事を前提とした工業製品のようなものだと認識した。
これらを文化として捉えて口に出す人々はほぼ例外なく消費するお客様の立場としてこれらを文化として捉えており、自分たちの手で作るといった皆無に等しいからだ。美術館の展示においても商業的な最高の見込みのある展示物をよそから借りてくるor他所で作られた東京で保管しているものを展示しているだけなのだ。
そういった商業性第一主義の中で商業的に優れたものをありがたがるという点で文化ではなくエンタメだと考えた。無論エンタメという視点で捉えれば東京は世界でも5本の指に入る優れた都市であると思うが、それが文化か?と言われると疑問が残ってしまう。
食文化についても同様にミシュランの星獲得店数が世界一や高級店の数、価格帯を持って優れているとする人が多いがそうは思わない。それも同様に商業的に正しいとお墨付きがついたものをありがたがって消費しているにすぎないからだ。
「東京は世界一」類の話をされると「とりあえず関西に負けてないか?」と思うことが多い。シンガポールやNYの前にまず大阪や神戸を見ましょう。ここに挙がっているもの大半で東京は日本一でさえない。
(今回は文化面について掘り下げているので他の項目については触れないので悪しからず)
食に限らず日本文化の本拠地はやはり関西にあると考えるし、文化という観点で捉えると関西が優れていると思うり日本の歴史上首都は千年以上前から関西にありそこを中心に今の日本につながる文化が作り出されてきたからだ。中心が江戸に移った後も上方文化として文化をひと足先に作ってきたのも関西だ。
東京の人はよく、関西は文化(特に食について)が乏しいとか言うが、そういう人は串カツたこ焼きお好み焼きぐらいにしか理解ができないのだろう。和食、日本料理の原点はやはり京都や大阪にあり、日本酒なども発祥はそっちの方にある。そらが理解ができない時点で勝ち目がないのだ。
この話をわかりやすく置き換えると東京=アメリカ、関西含む西日本=ヨーロッパの関係に似ていると思う。
アメリカは近現代以降に建国してそれ以降急速な発展を遂げて世界一の国になった。世界一の国には優れたエンタメが無数にあり、商業的に成功している。
しかしそもそもアメリカはヨーロッパから逃げ出した移民の移住先であり、地名ですらヨーロッパ各地の地名が由来になっている。ニューヨークですらそうだ。
アメリカはイギリスやフランスやイタリアよりもエンタメという視点で捉えると優れているが、文化という視点では到底太刀打ちできないことに異論はないと思う。
それは上記の3カ国だけでなく他の無数の国々も同様に。
日本や中国も文化という視点ではアメリカを圧倒的に凌駕するだろう。
東京と関西の関係も上記の言い換えでだいたいの説明がつくだろう。
長くなったが東京という街全体の全てがエンターテイメントであり、それが世界でも五本の指に入る優れた街である事を誇りに思ってほしい。
だが、エンタメと文化は違うものであること、日本国内でも東京が1番になれない分野があることも理解してほしいと思ったのでこのような記事を書いてみたが意見を聞きたい。
職場にいる東京生まれ東京育ちの上流階級ぶってる世田谷オバさんが一々東京が何にしても1番である事を常々言ってくるのが鬱陶しく鬱憤が溜まっていたところこの論争に行き着いたという背景もある。
〈追記〉
思いの外反響がたくさんあってびっくり。
また、現代の東京の文化というものも否定していません。それらはエンタメに当たると指摘しており、エンタメは日本一どころか世界一ですらあると思っています。
ではなぜ文化とエンタメを分けたかというと元の引用があえて分けて記載をしており、実際に自分も地続きではありますが別物だと考えています。
エンタメが積み重なって長い時間をかけて定着することで文化になると考えています。
古い例で言えば源氏物語はただの異常性癖恋愛小説ですし、枕草子はおばちゃんの愚痴を綴ったTwitterみたいなもんだと思います。
ただ、どなたかのコメントにあったように現代はエンタメの消費スピードが早く盛り上がっては消えての繰り返しで定着がなされていないことから文化に昇華する前に次の流行の爆発が起きて焼畑農業みたいな事を繰り返しているのでエンタメ→文化への流れが途絶えつつあると思っています。
そういうことからエンタメ面では首都圏を含めた東京が圧倒的に上ですが、それが文化かというと違う気がします。
あと、Twitter民がミシュランの店数や美術館などの箱物が多く展示が充実していることを文化資本の例としてあげるのをよく見かけるのでそうでは無いだろ?と言いたいところから始まっています、
政治の話をすると人の本性が見えるのだろうか。伯父と都知事選の候補者について話す機会があった。
元々右寄りの人間であるということは知っていたが、純粋に候補者についての見解を聞きたくて気軽に話を振った。
「百合子蓮舫石丸がトップ3みたいだけど、学歴詐称女と二重国籍女とフェミシンパ市長がトップ3じゃちょっとな、どう思いますかね」という聞き方をしたら「まず桜井、次に田母神」とバッサリ言ってきた。
自分も保守寄りの人間で、在日韓国人に利権があることはおかしいと思っているし、外国人参政権なんてもってのほかだ。碌にルールも作らず移民だ共生だという自民党のやり方はおかしいと思っている。
原発は再稼働するべきだし減税もすべきだし、閣議決定でLGBT増進法を通してしまうのだって絶対におかしい。
でも個人的に桜井誠はやりすぎだ。なにせ政治活動をして逮捕されたことのある人間だ。
「桜井誠は在特会の創設者で、ちょっと極端じゃなかろうか」と言ったその瞬間、伯父は豹変した。「なにが極端なんだ!言ってみろ!法律を守ろうと言ってるだけだ!」激昂して掴みかかってきた。
在特会のことは昔から知っていたが、暴力沙汰を起こして逮捕されたニュースを見て、「この人たちが目指すところとはちょっと違うな、関わるべきではないな」と思った。10年以上前のことだ。でもそんなことは、伯父に激昂された時にはとっくに忘れていた。
法律を守れって言いながら破ってるじゃないかって、忘れてなければ言い返してやりたかったな。
「覚えてません」って答えちゃって勝ち誇ったように「じゃあ極端とか言うな」って言われたの、正直悔しかった。
意見が違うからと手を出した時点で暴力革命を是とする伯父が大嫌いな共産党と同じやり口じゃないか?
「極端かもしれないと思ったからそれが正しいのかどうか話したいのであって、そもそもわたしは自分の視点を常に疑っている。でも桜井誠のやり方で票が集まるのか、この国をよりよく変えていけるのか疑問だと思ってる」って言ったら言い返してこなかった。
自分が正しいと思っていることが本当に正しいのか、どう思うのか、どうしていくべきなのか、どういう人間がリーダーにふさわしいのかという建設的な話がしたかったが、ムリだった。
父とはそういう話ができたから、その父の弟ともできると思ったが、間違っていた。
なんでも相談に乗るよ、というスタンスの叔父だったが正直失望した。人間として見習うところのある人だと思っていたが、軽蔑すらした。
自分の意見や考えていることが絶対に正しくて、そうでない人間には手を出してもいいと思っているのは絶対に間違っている。
例え公安に監視されている共産党だって、思想だけなら自由なのが日本だ。思想を暴力で押し付けることは、この国の在り方そのものを否定することに繋がりかねない。
自分も正しいし相手も正しい、という前提と信頼がないと建設的な会話はできないということを思い知った。身近にこんな人がいたとは正直まったく思わなかった。
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自由民主主義の国のトップに立つ者にはバランス感覚が必要だと思う。親戚同士でだってこんな望まない対立をしてしまうのに、1億人が集まったらみんな考えることなんてバラバラだ。
守るべきものを守り、変えるべきものを変える、民意をまとめるバランス感覚が優れていなければリーダーたりえないと思う(安倍首相は本当にバランスをとるのが上手だったと思う)。
それこそ日本第一党が主張する核武装論などバランスから逸脱してはいないだろうか。もちろん今にも戦争を起こしそうなお隣の野蛮の極み近平ランドを放置しておいていいはずがない。
だけどバランスをとるべきだ。日本人の多数が核武装を望むのであればすればいいが、今はそうじゃない。平和ボケしているだけかもしれないが、国民の多数が望んでいないことは国民に望まれないことで、主張しても支持されないことだ。
近平ランド以外の隣国に対してもそうだ。相手を必要以上に刺激してしまわないだろうか。たとえば隣国がNATOに加盟すると決めたら侵略した国は日本とも隣国だ。日本が核武装したら彼らはどうするのだろうか。それがきっかけで世界の構図が変わりかねなくはないだろうか。戦争の引き金になることや国際関係のバランスを考慮できているのか?
しかしだからといって「9条がある!自衛隊は不要!」などと主張して悪意のある国のされるがままになれば奪われるだけでこれもまたバランス感覚がない。
また、日本人になくて朝鮮人にある権利を否定することと、人種差別をしていいことも当然違う。むしろまったく別問題だ。人種差別をするような政治活動家は一歩間違えればヒトラーだ。
新大久保に集まって「ゴ○ブリ」などと汚い言葉を吐くのは良識のある人間として超えてはいけないラインだろう。
やっぱりわたしの視点からすると桜井誠や在特会は極端だ。バランスがとれているとは全く思わない。
相手がそうだから自分もそうしていいという考え方もあるだろうが、日本は法治国家だ。変えるべきことは暴力ではなく選挙で変えなければならない。
国がそうだということは当然だとして、これは家族という社会の中でもそうだろう。暴力には訴えず、話し合って、皆がよりよく生きていける日本にしないといけない。
日本人として、和を以て尊しとなせるように生きていきたい。そうしていくと誓った。
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今回のことがきっかけで「保守とは永遠の微調整」という言葉を知った。有本氏は「保守というのは極端なものを嫌うものだ」と言っていた。どちらの言葉も非常にしっくりきている。
「平等にあつかえ」と
「公平(フェア)にあつかえ」と
「俺を虐げるな」
何もかも間違ってる
このような固定化された社会的・構造的な有形無形の事象を彼らは差別と呼ぶ
オタクが社会から固定化した構造的な排除・迫害を受けているか?否という訳
だから、彼らにしてみれば、「差別と認められるほど酷い目にあって出直せ」となる
「加害者は黙れ」と
侮蔑や偏見も差別と呼ぶし、固定化を助長する表現物も差別を構成する
だが、差別を構成する要素に偏見があるが、その逆、偏見があるから差別とはならない
だから、彼らにしてみれば「ジャップオスを偏見で罵倒する」のは何の問題も発生しない
それは偏見で描かれるジャップオスが被差別クラスタではないから
自明な事だ
話は変わるが
元来、無敵の弱者として他者を罵倒してきた女性様とその騎士団は
自分よりも弱者属性の強いLGBTと対峙する事で、これまでの戦略が使えなくなっている
でも相対主義的にはどんな状況であれ弱者はいるんだからそんな言い分に何の価値もないんだよな
つまり現状を1として弱者を減らし続けたときにn年後には1より大きくなることはない
だから例えば技能実習生とか移民とか、貧困環境の親がゴミな家庭であっても学業がよろしければ学費免除とかルートを用意するんだよな
なるべく既存のそれとか最小限の労力でアレできるアレにしといて、そちら側で補強するというビジネスモデルは
なるべくリスクをおさえて○○を最低限の数出し続けるにはいいが・・申請発案系がダメだよなぁ。
世間的にはそちら側のスキルがないことになってるというか、両立しないものだと世間は思ってるからな。
連〇加えるかだな。。。。。。。。。。。。。。。。それにしても1,2つ○○たたきこまないと埒があかない。でも
社会性の獲得や精神的自立を阻害するようなコンテンツを子供に与えることはある種の虐待じゃないかなと思うんだよね
男性の自殺率が高いのは「弱い」からだけなのか? 統計データから読み解く複雑な背景
確かに、厚生労働省の統計によると、2021年の日本の自殺者数は男性が女性の約3倍と、先進国の中でも高い水準となっています。しかし、単純に「男性は弱いから自殺する」と断言するのは適切ではありません。自殺という複雑な問題には、様々な要因が絡み合っているからです。
男性は古くから、「家計を支える」「家族を守る」といった強い責任感やプレッシャーを背負ってきました。近年、ジェンダーロール意識は変化しつつありますが、社会全体ではまだまだ男性優位な考え方が根強く残っています。
男性は、問題を抱え込んでも外見に出さずに我慢する傾向があります。周囲に助けを求めることを恥じたり、弱みを見せることを恐れたりする気持ちから、一人で悩みを抱え込んでしまうのです。
女性は、うつ病などのメンタルヘルス疾患を発症しやすい傾向がありますが、男性は受診率が低いという課題があります。周囲の理解不足や、男性特有の「弱音を吐かない」という気質などが原因と考えられています。
4. 死への手段
男性は、首吊りや飛び降りなど、より致死性の高い手段で自殺する傾向があります。一方、女性は薬物過剰摂取など、比較的手段の致死性が低い方法を選ぶことが多いです。
5. 経済格差
近年、男性の非正規雇用労働者が増加しており、経済的な困窮が自殺のリスクを高める要因となっています。
近年、男性もDV被害者として浮き彫りになってきています。パートナーからの暴力は、精神的なダメージだけでなく、経済的な困窮や社会的な孤立にも繋がり、自殺のリスクを高めます。
このように、男性の自殺率が高い背景には、ジェンダーロールや社会的なプレッシャー、問題への対処方法の違い、メンタルヘルスへのアクセスの差、死への手段の違い、経済格差、DV被害など、様々な要因が複雑に絡み合っています。
「弱い」という単純な言葉で片付けるのではなく、それぞれの背景にある社会的な問題や課題に目を向け、多角的な視点から対策を検討していくことが重要です。
自殺は、単一の原因ではなく、様々な要因が絡み合って起こる複雑な問題であることを強調する。
男性の自殺率が高い背景には、ジェンダーロールや社会的なプレッシャー、問題への対処方法の違い、メンタルヘルスへのアクセスの差、死への手段の違い、経済格差、DV被害など、様々な要因があることを説明する。
男性の自殺を防ぐためには、ジェンダーロール意識の改革、男性向けのメンタルヘルスサービスの充実、DV防止対策の強化など、社会全体で取り組む必要があることを訴える。