でも学生は答えと解説を見るまでは疑いなく正しく公式を適用してると思っているかもしれない。
相対性理論とかになってくると延々と自分流の理解から脱却できず知恵袋で恥をかいている人がいる。おそらくこれはそれほど安易に決めつけ理解したのではなくむしろ精一杯苦しんでもがいてその自分が正しいと思っている理解に至ったのかもしれない。
でもまっとうと言われる学者はそれを間違いとはっきり考えている。でもその学者の理解もまた思い込みでないとどうやって証明できるんだろうか?知恵袋で恥かいてるやつも学生が苦しんだ公式ぐらいは一般に正しいとされる理解をするかもしれない。学生と知恵袋の人、知恵袋の人と学者、全ては相対的だ。
そういうことを感じさせるのもまた望月新一周りの紛糾である。ある論理的情報とそれに対する理解内容との矛盾は一意的に評価可能なのかということだよ
あるやでという話
クワイン「ないやでという話」
この増田で乱用されてる〜という話という言い回しをこの世で初めて使ったのは誰やでという話。漫画か小説か
スタートアップ村やでという話
まだ東京で消耗してるのあたりのブロガーが初めて使ったのかという話