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2023-11-13

anond:20231112141933

岡潔は家でも背広だったというから、私も部屋では背広に着替えています

2023-01-22

数学者無名具合に疑問

第一線の数学者は他のどの科学者よりも難しい問題を達成していると思うのだが、特に現代数学において誰でも知っているというような人が全然いない事実にひっかかるものがある。

マルクスみたいな経済学者とか、ファーブルみたいな生物学者など、他の学問には数学者よりは高度なことはしてないというのに一般の人でも知っているという人がいるのに、これはどういうことなのか。

数学者で有名といったら、せいぜいピラゴラスといったような古代人、現代数学でいえばリーマンとかラプラスとかだ。

これらの人物共通するのは小学校から大学までのカリキュラムで扱う理論公式発見者かどうかということに過ぎない。

特に古代人が考えたことは現代から見れば易しいものなので義務教育の内容に採用されやすい。だからあのへんの時代人物数学者でも知名度が高い人がいることになる。

ようするに言いたいのは数学者の有名無名はただ単に教育制度次第になっているということだ。

高度な現代数学でも岡潔望月新一と有名な人はいるじゃないかと言う人もいるかもしれないが、あれらが有名なのも、実績の価値が正しく一般の人にも伝わって認知度が高まってきたというものではない。

岡潔なら統合失調症だったなかで戦時下を生き抜いたこと、望月新一なら自分コネを使って論文掲載させたこと。

そういう生き様センセーショナルなところがもっぱら庶民の関心を呼び起こしているに過ぎないのだ。

ポアンカレみたいな「未解決問題を解いた人」というわかりやすラベリングを持った人間が有名なのも本質的には上述したのと同じところにあるのだろう。認知している人の多くが業績の概要価値だけでも正しく理解してるか疑わしい。実績の内容に関する関心ではなく、未解決問題を解いたという一点で共通認識化されているように思われる。

ちょっと単純化が過ぎるかもしれないが、数学以外の科学者土俵はもっぱら実験実証なかにあると思う。

実験により、何かをしたらこういう結果が出た、という目に見える因果関係を把握する力さえあれば誰でもその分野の大学者になれる素質はあるとさえ言える。

もちろん実際に誰もが知ってる大学者になれるかどうかはもちろん有用な結果をはじき出す実験にこぎつけられたらという話になるが、どちらにせよ彼らは比較的易しい具象の中で研究対象と戦っているということには違いない。

一方で数学ときたら現時点で新規性のある高度な数学論文をしたためるには何万ページという論文が語る知見に対する確かな理解の積み上げが無いと無理だろう。

理解する過程においても数千ページ目にあたるある論文理解できないとなったときどこに理解の欠落があるか今まで読んだ論文から探しなおさなければならないわけである

理論構造自体も目に見えるようなわかりやす因果関係から成っているのではなく、抽象的なわけだから知識の欠落がなかったとしてもその理解純粋に難しい。

しかし高度な論文作成はその先にあるのだからこの数学研究というものは果てのない作業なのである

望月もそのような作業を経てついにはIUTの創出という高みに至ったはずである

そして望月以外にも当然少なくとも月ごとには相当数、同程度の高みから発した高度な内容の論文が公開されているはずだが彼らの中から一般人にも有名という人は現れて来ない。

ようするに現代数学者天才である。あの手の分野の数学者受験勉強を全くせず東大に悠々と合格するような人間がざらであるらしい。もっと現代数学者絶対数が少ないのだから「ざら」というのは数ではなく割合問題なのであろうけど。

そんな数学よりは高度な理解力を要しない学問では誰からも知っている人が出てきているのに、現代数学ではせいぜい専門家の間で有名という程度にしかなれないというのは理不尽なことだと思う。

私にはそれほどの数学の才能はないので数学ができる人間に対して劣等感がある。

から劣等感元凶である彼らにはせめてとことん栄誉ある立場にあってほしいのだ。

彼らすら大して評価されないのでは彼らと違って能力のない私には何も救いがないではないか

あるいはこういうことなのかもしれない。既存知識理解するという力と新しい見識を発見する力というのは異なるものなのではないかと。

まり数学の功績は高度な理解力の上に成り立っているものだけども、高度な理解力をもった彼らがもし別分野を志していたとしたら果たして一般の人の記憶にも残る大学者になれていたのかどうか。

現代数学者チョムスキー生成文法もその理論を考え出した背景にある理論も含めてその気にさせれば簡単理解してしまうだろうが、かといってもし彼らがチョムスキーと同時代に生まれ言語学を志していたらチョムスキーを出し抜いてあのような文法理論創造できたのだろうか。漢字世界白川静みたいな業績を打ち立てることができただろうか。丸山真男のような戦後思想史巨人になれただろうか。

理解力は結局脳の処理能力という量的な要素に還元されるものに思われるが、理論創造というものはどのような分野にしても大胆なひらめきがものを言い、これなるもの量化などもちろんできない、一種特殊能力なのではなかろうか。

数学はむしろ知見が論理的に緻密な状態でに充実に蓄積されているのに比べ、他学問の知見は相対的には雑駁というかなんというか、とにかくそういったところから新しい理論を考え出すのには数学以上に何かアクロバティックな部分が必要にも思える。

コペルニクスだったか海上水平線帆船が見えなくなる事実から地球が丸いということを歴史最初に悟った人物らしいが、彼のような発見は彼より多くの知識を持った、つまり理解している天文学者には出来ないはずだと朝日新聞の轡田だかい論説委員の本に書いてあったと思う。

本当だろうか。現代数学者がその時代に生まれても無理だったのだろうか。でももしそういう発見という意味での知性が特殊な力なのなら、ここは素直に認めておくべきことなのかもしれない。数学者こそ昔の偉人発見した事実ベース論文をしたためることができているだけで、彼らがいなかったらならば今のような仕事はまるでおぼつかないものになっていたかもしれない。

ただしコペルニクスデカルトみたいなあの手の啓蒙思想の潮流で偉人扱いされている人がもしも今生まれたら、史実でその発見をしたときインパクトと同じぐらいのインパクトを持った発見ができるのだろうかという疑問はある。

しかしできないのだとしてもそれは役割問題なのだということになるんだろう。コペルニクスにはその特殊能力をもって彼にしかできない発見をしたのだし、現代数学者も彼らの理解力をもって高度な論文を発表している。それでよしとするべきことなのだろうか。19世紀から20世紀イギリスでは優秀な人間天文物理学に行くものだという常識・慣習があったのも引っかかる。

学者としての優秀さというのは最終的には理解力のような計り知れるものではない、ひらめく力・直感センスで決まると認識があった証左なのだろうか。

そうであるなら私についてもまだまだ人生これからで、数学以外の学問でひらめきを発揮する道はあるのかもしれない。

そうだとすれば劣等感を抱く前提条件も崩れ、数学者一般に知られていようといまいが気にする問題ではなくなってしまうはずであるけれど、ここまで掘り下げて考えてしまったので、まあそれはそれとしてこの疑問は解消されるまでことあるごとに私を悶々と悩ませるには違いない。

まあそれでも既存知識理解することにおいては絶大な才能があること、つまり学者がどんな難解な理論提唱しようがたちまち理解してしまうという意味で、あらゆる人に対してタイムラグはあるにしてもそれを無視した見かけ上はどちらの方が物事をよく理解してるかということについては遅れを取ることがないという点にはやっぱり羨やむものあるかなノー勉東大に受かる素質というのも素直に?率直に?畏敬の念に駆られてしまう。

dorawiiより

2022-12-22

anond:20221222174625

解決問題に関する問題ならペレリマン岡潔も出してるけどどっち方が読むの手間がかかるんかね。あるいは絶対的な難しさの順位はないのかね。

ペレリマンかについて少なくともテレビ教養番組とかだと「論文読むのには時間がかかるか」という焦点での言及はなされないからそこらへんの難易の上下関係がよくわからんのよね。

少なくともある特定論文が「ものすごく難しい」と言われてるからって、ああ他のどんな論文よりも難しいんだなって考えちゃうのは間違ってると言うか印象操作に乗せられてる気がするんだよね。

2022-05-29

anond:20220529133643

オタクに関する話がメインで自分が頭良いとは言ってないんだが。

統合失調症にかかる程度の人間だし(岡潔をディスってるわけではない)そのせいで強制的受験受けさせられなくさせられて不戦敗してるし自分の頭がある程度でしかないのは俺自身が認めるところ。

お前も頭よくないだろ。

2022-05-27

典型的な統語失調症の文章(文系のなかでは知識に広がりがあるというか頭はいいのかもしれんが)

数学者岡潔情緒論をたまたま動画で見たのですが、ところどころ自分共通する結論に達しているところがあり、なるほどやっぱりなあと頭を何度か頷かせました。

数学抽象度が高い技術ですが、既存のそれら諸技術

は、やはり情報補完という技術の域をあまり出ない技術だと思いました。岡潔の言う情緒から発生する智よりもそれら技術抽象度が低いのです。

とは言っても、欧米人が大好きな緻密な論理も、その発展物であるコンピュータも、情緒ないし直感も、相反するようで、内実それら二つの智は地続きで人の頭の中で常に相補相乗して何かしらの筋肉運動へと変換されていますから、これらの捉え方は政治における右翼左翼といった不毛な論争をするための物差しのようであり、事を知るきっかけみたいなものでもあり、機会と思考拡張以上でも以下でもない一種流行的なら認識手法であると割り切って観察すれば何か穏やかな感じがします。

自分は高度な数学どころか高校生くらいの数学も、概念をチラホラと知るくらいで、まともな計算訓練をしたことがないですが、論理カンストしたと自分で思ったタイミングがあります論理カンストするとは、「人間人間である以上は習熟し得ない、もしくはまったく到達し得ない知の領域までの論理的な到達手法発見した」というような意味で使っています。もちろん、現実的時間内での到達手法です。もしそうでないなら、無限時間エネルギーを想定しさえすれば誰でも簡単論理カンストできてしまます

その観点から観れば、今この社会の中を生きる多くの大人たちは、車輪の再発明を、時代と共にアップデートされた道具を使って、ちょっと違う色や形や量や時間の使い方でもって何度も再現しているだけのように観えます。これは継承という親から子へ引き継がれていく営みに対する喜びや自己満足の歩みであり、多くの場合その歩みの中に真なる野心などないということがうかがえます本質的には、一人一人が自分の体と感覚とその時代にある新しい道具を使って先人の追体験をしているだけという場合ほとんどということです。そうした営みに対して尋常ではない対価が与えられるのが欧米人主導で生み出された現代社会です。

しかしこうした継承ないし営みは、ネタは出尽くしているから当然といえば当然であり、例えば元素の数が大きく変わったりしたわけでもなく、物理法則が変わったわけでもなく、人間もつ感覚器の細胞の数や種類が誤差を超越して変化したわけでもありません。仮にそれらが変化したとしたら多くのこと、もしくは全てゼロからやり直しかもしれません。しかし、今のように先に進まないのであればいっそゼロにすれば良いのではないかとさえ思う時もあります

中世という名の暗黒の時代を乗り越えた人類現在、白黒の時代を生きています。この白黒の時代はいつまで続くのでしょうか。

制御を失った先には必ず痛みがあります。我々には身体中のあちこちに痛覚がありますが、この痛覚の上限を超えて与えられた刺激は周辺組織の量的な死と連続して繋がっています。我々は痛覚を頼りにこの死から免れて生き延びてきました。反面、代謝という緩やかな死は快楽でした。

現代社会ますます死の恐怖が増大してきているように思います。欲を与えられ、欲を満たす手段も与えられ、それに付随するように死への恐怖も増大したのです。過剰な欲は、死を過剰に恐ろしく禍々しいものへと変えます情緒を失った人間とは実に愚かです。

どこか暖かい南の国のビーチでセクシー水着を着た美女たちに囲まれてパフパフコンテストを開催したいです。一体どの美女が一番パフパフがうまいのでしょうか。

この世界観、設定、気軽さ、これはまさにメタバースです。メタバースなんて言ってますが、元々が人間一人一人の頭の中は小宇宙ですからメタバース的な世界観の中を我々は生きています最近だとイスラエル歴史学者であるハラリさんのサピエンス全史で国家というフィクションへの言及があったようですが、共同幻想論は30年以上も前に日本人提唱していました。そのルーツ海外かもしれませんが、そんなことは鶏卵問題の彼方でしょう。

いずれにしてもユビキタスIoTと言ったり、真ん中分け(エロ分けとも言われた)がセンターパートとか言われたり、言葉の額面が時代や状況に合わせて最適化されていきます不思議なことに呼び方が変わると人が肯定感をもって動き出すという事もあるようで、パフパフ コンテストにも早急に新しい名前必要です。

パフパフ コンテストの新しい名前を教えてください。

2021-12-30

anond:20211230091838

理系という分野は、こういった情緒だとか感情だとかいったものはすべて排除する。

岡潔を思い出すなど。

2018-02-14

独立研究者 森田真生は山師

しかしたら数年前に決着のついてる話かもしれないが森田真生の話をする。

一応どういう人か簡単説明しておく。Wikipediaや本人のHPによれば「独立研究者」という肩書

大学等の研究機関に属さずに数学テーマとした研究をしている在野の研究者

著作もいくつかあり、中でも「数学する身体」という本は小林秀雄賞をとっているらしい。

また「数学演奏会」なるイベントを定期的に開いているとのこと。

僕はこの人の著作を読んだこともないし、「数学演奏会」に行ったこともないので正直あまり知らない。

ただ僕が簡単アクセスできるこの人の情報から判断するにこの人は胡散臭い

多分この人が話題になったのは結構前の事だと思うが、今更書くのは僕が注意を向けたのが最近の事だからだ。

前々から書店に陳列される著作を通じて存在は知っていたが読んだことは無かった。

本の見た目からして一般向けの啓蒙書という感じなのでスルーしていた。

しか最近知り合いがこの人の名を挙げたので気になって調べてみたら思ったよりも浅薄で、

数学の専門知識の無い人をおかしな方向に誘導しているように見えたので、注意喚起意味を込めてこの文章を書くことにした。

森田問題点は単純で「数学知識があまり無いのに、まるで数学を知っているかのように語っている」というのに尽きる。

これだけだと説得力もないし、内容も不明瞭なので森田数学知識があまり無いと判断する根拠を記す。

何をもって知識が無いと判断するかは難しいところだが大きく、森田の語る内容が表層的という点からそう判断した。

森田はTEDで講演している。是非見てほしい。(他にもいくつかYouTube森田動画があがっている。)

森田のTEDでの講演

https://www.youtube.com/watch?v=Hx6ZNEWydCU

浅すぎないだろうか。この内容を話すのに数学の専門知識必要な部分は一つもない。

一貫して根拠のないフワッとした話ばかりで最終的には岡潔を引いて「数学とは自分内面出会うことだ」などと言うが、

説明あやふや哲学的にもお粗末なものだ。

かにトーク性質からしてあまりテクニカルな話はできない。

ただ専門知識仮定しなくても実りある話はできる。

次のフィールズメダリストのVillaniによるTEDでの講演を見てほしい。

https://www.ted.com/talks/cedric_villani_what_s_so_sexy_about_math?language=ja

この講演は本当に凄い。専門的なバックグラウンドもつ話を一般人向けの話にうまく落とし込んでいる。

Villaniが例外的に上手い部分はあるとはいえ、一般人向けにある程度深い数学の話をするのが不可能ではないことが分かる。

森田が誰にでもできる程度の講演しかしないのはその程度の知識しかいからだと思っている。

森田研究者というが論文特に書いていないため、知識の程度はわからない。

検索で引っかかる唯一の森田による大学数学レベル記述は「哲学者のための圏論入門」というタイトルpdfだが、

内容としては圏論哲学系の人に紹介するものなので、その目的からしても当然のことだが入門的内容のまとめに過ぎず、

ここから知識の程度を測るのは難しい。これをあえて書いたのはこのpdf存在森田知識証左になると考える人いるかもしれないため。

これくらいは数学科卒なら大抵書ける。

また森田の話に出てくる数学者はグロタンディーク岡潔マクレーンチューリングウィッテングロモフ等といった

ビッグネームばかりでしかも分野もばらけているというのも不思議だ。

何らかの研究対象があればその分野で一流の研究者名前が挙がっていいはずだと思うのだが。

他にも本人のTwitterなどを多少見たが、特定の分野に対する造詣は感じられないし、一般啓蒙書的な数学理解を超えるものは見られない。

森田知識がない分には一向に構わないが、無い知識数学を語らないでほしい。

数学を語るのが数学者だけの特権と言うつもりは全くないが、専門知識を語るのは難しいことだということを強調したい。

数学書を理解するのは一定の訓練で出来るようになるが、その内容をテキストから離れた自分文脈に組み込んで話すのはずっと難しい。

しかしそれが出来なくては一般人のレベルに専門知識を落とし込むことは出来ない。森田はこのレベルには達していない。

数学について語るのではなく、自身数学観について語るのは構わないが、それならばビッグネーム名前を借りるべきでは無く、

徹頭徹尾自分言葉で語るべきだろう。権威の名を出して森田数学観を語れば、一般人にはそれが独自見解と気づくのは難しいのではないか

僕には森田数学観とこれまで数学者によって積み上げられてきた数学は大きく異なると思う。

数学に関心を持つ人が森田数学観に感化されて、数学を学ぶ機会を逃してしまうとすればそれは不幸なことだ。

2015-10-11

和製アパルトヘイトの話

私が住むシェアハウスには、トイレ風呂が2つずつある。

管理人日本人が、それぞれ1つずつのトイレ風呂を『日本人用』にしてしまった。

シェアハウスの住人の半数以上はベトナム人

日本人用』のトイレ風呂には鍵がかけられ、鍵を持っていないベトナム人は使えない。

通報した( https://www.jinken.go.jp/soudan/PC_AD/0101.html )。

まだ法務省から返信はない。返事は早くても連休明けだろう。

数学者である岡潔言葉を思い出した。

著書『春宵十話』の「宗教について」というくだりに出てくる彼の言葉だ。

少し長いが引用する。

太平洋戦争が始まったとき、私はその知らせを北海道で聞いた。その時とっさに、日本は滅びると思った。そうして戦時中はずっと研究の中に、つまり理性の世界に閉じこもって暮らした。ところが戦争が済んでみると、負けたけれども国は滅びなかった。そのかわり、これまで死なばもろともと誓い合っていた日本人どうしが、われがちにと食糧の奪い合いを始め、人の心はすさみ果てた。私にはこれがどうしても見ていられなくなり、自分研究に閉じこもるという逃避の仕方ができなくなって救いを求めるようになった。生きるに生きられず、死ぬ死ねないという気持ちだった。これが私が宗教の門にはいった動機であった。(中略)戦争中を生き抜くためには理想だけで十分だったけれども、戦後を生き抜くためにはこれだけでは足りず、ぜひ宗教必要だった。(中略)宗教はある、ないの問題ではなく、いる、いらないの問題だと思う」

私は信仰を持たないが、終戦直後岡潔感情はよく分かる。

見て見ぬふりができなくなり、救いを求めるような心持ちだ。

相手が神ならぬ"お上"というのがなんとも情けないが、他にあてはなかった。

必罰。

2014-04-24

イメージ力を鍛える6つの方法

本題に入る前に少しシリアスな話題があるので聞いてほしい。

男女にイメージについて聞くと面白い。男はほぼ例外なく目を閉じても真っ暗と答え、女は半数がありありとイメージできると答える。これはなぜか?

一方男性率の高い理数系の学部ではイメージを軽視する伝統的風潮が根深い。これはプラトンから来てるのだがな。本質直観すべきでありイメージなど些末も些末、ゴミクズ同然という考え。対する女性率の高い芸術系学校ではイメージ尊重する。『脳の右側で描け』に始まるイメ描きの連綿たる伝統があり、ナンシー関記憶スケッチアカデミーは今や市民権を獲得した。

ここに来て先ほどの問いの答えが見えてくる。性差よりも習慣の問題なのだこれは。そして男である諸君は驚くほどイメージを軽視している。だから真っ暗なのに輪をかけて真っ暗。糅てて加えて真っ暗なのだ

そこで世の中の男性に活、いや喝を入れようというのが本記事であるシリアスでもなんでもないくだらない前置きは終わりにしてちゃっちゃと本題に入ろう。

1ブラインド詰将棋

煮ても焼いてもまずこれをやりなさいというのがこれ。詰将棋マニアの巷間では「ブラ詰」とも呼ばれる。早い話が目隠し詰将棋である脳内詰将棋という蔑称、いや別称もある。

こまけーこたーいいとして大切なことだけ言うと、これには2つのスタイルがあって1つがアイマスクをして符号の読み上げを聞くものでこちらが本格的なやり方。(そもそも符号ってなんだよってレベルの人はggるなりしてください)

もう1つが手軽な方法詰将棋の盤面または印刷された紙を見て5秒で初形と持ち駒を覚えて目を閉じて脳内で解く方法であるほとんどの人はこっちでやったほうが身のため世のため人のため。最初詰将棋入門書をテキトーに購入して1手詰めや3手詰めから始めるとよろしい。

2暗算(四則計算とは言ってない)

先ほど理数系のイメージ軽視に賽を投げかけたが分かってる人は分かってる。暗算が得意なタイプがそれだ。私は一流大学数学科を出て現在底辺大学数学科にいるのでよく分かるが数学畑では手を動かすことをモットーとする物理畑とは正反対計算が軽視される。しかし一流の世界ともなると話は別でノイマンのような暗算の達人が割といる。数学天才には二種類いてラマヌジャンのような数覚がずば抜けたタイプは案外少数派なんだ。数論は数学女王岡潔晩年は『情緒創造』を著している。

底辺大学だと数学論理学問といったことを平気で言う先生もいる。論理は当たり前の大前提であり無味乾燥なつまらないものだ。そう世間計算がつまらないと思われてるのと同じくらいに。実際、数学ではなくコンピュータサイエンス計算理論を学べば分かるし学ばなくてもある程度想像がつくだろうが論理とは計算であってそれ以外の何者でもない。計算論理もつまらないそのことには全く同意するが無価値というわけでもない。忘れもしない卒業の日同級生になぜ暗算をするのかと訊かれて私は暗算で扱う数学対象に親しむためと即答し彼または彼女もっと早く教えてよと地団駄を踏んでいた。

数学素養がない人たちへ。最初アイマスクを着用せずJSJC(俗に言う小中学生)が学んでいる幾何パズル問題(『目で解く幾何シリーズなど)をやり次第に他分野や高校数学大学数学科数学工業系の応用数学に守備を広げる。意識高い系より意識広い系で頼む。

3カメ

数学科には将棋ならまだしも美術に造詣が深い先生結構多いがそれに比べて写真芸術に関心のある人は拍子抜けするほど少ないと思う。つまり数学的美と将棋の美はクロスオーバーするが数学的美と写真芸術の美はオーバーラップしないということだということだ。つまり詰将棋暗算の不足分を補うのにカメラはやはり大事なんだよなあ。

芸術論において言い古された表現だが音楽は音の瞬間の芸術であり写真は光の瞬間の芸術である。だからシャッターチャンスやチラリズムという言葉が端的に表しているのは瞬間性。写真家は人物や風景をとるとき手でフレームを作る。このあたり詳しく書かれた文献が少ないがこの切り取り方には必ず意味がある。単になんとなくバランスがいいからそう切り取るのではない。シャッターチャンスという言葉から誤解されがちだが確かに瞬間のおもしろさを切り取るのが写真芸術であるが決しておもしろい瞬間を切り取るのではない。この違いが大切でおもしろものはわざわざ写真にしなくてもおもしろいのであって思い出アルバム程度の価値しかなく芸術たりえない。つまりおしろき こともなき世を おもしろく すみなしものは 心なりけりで、おもしろさを能動的に発見しそのおもしろさを表現するには今この瞬間しかないしかもこうフレームを切り取るしかないと断言できるのである。そんな見方を学べるのはカメラくらいしかない。数学では学べないし絵画もにているようで全く違う。写実的絵画であれそこで必要とされるのはある種の演出でありもっと乱暴に言えば捏造であるから、あるがままの良さをうまく切り取って見せる写真的な見方とは根本が違う。

そんな見方を身につけて日常の「あれ」「おや」「あら」「おっ」と思う点が増えるとそれが理解記憶のフックになる。理解というのは必ず興味から始まるだろう?しかし興味は洪水のように訪れて過ぎ去っていく。つまりアイデアマンはメモして興味を書き留める。だからメモする時間と労力すら惜しいのでだから「これならここが気になる」とフックをつけて興味をブックマークしておくことで未来理解記憶きっかけになる。そういう面白い体験をしているんだよカメラマンという種族は。

結語

以上簡単に見てきたがどれ1つとっても始めたその日から人生を揺るがす劇的な効果があるので試してみてほしい。また6つの方法は相補的な働きをするようチョイスされており、1つでも欠かすのはもったいないので6つ全部試してもらえるともっとうれしい。

 
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