はてなキーワード: 岡本喜八とは
シン・ゴジラ | シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇 | シン・ウルトラマン | シン・仮面ライダー | (参考)トップをねらえ! | |
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公開日は? | 2016年7月29日 | 2021年3月8日 | 2022年5月13日 | 2023年3月18日 | 1988年10月7日 - 1989年7月7日 |
監督は? | 庵野秀明(総監督) 樋口真嗣(監督・特技監督) | 庵野秀明(総監督) 鶴巻和哉中山勝一 前田真宏 | 樋口真嗣 | 庵野秀明 | 庵野秀明 |
物語の元凶・すべてのはじまりは? | 牧悟郎博士 | 葛城調査隊、もしくはゼーレ | メフィラス(禍威獣を目覚めさせた) | ショッカー創設者の資産家 | 人類そのもの(宇宙怪獣は人類というウイルスを排除する銀河系の免疫機構) |
物語開始で彼は生存している? | ❌厳密には生死不明。 | ❌葛城調査隊は全滅、ゼーレもヱヴァンゲリオンQの時点で消滅。 | ⭕️すべてが終わってもしれっと地球に戻っていそうというファンからの声も。 | ❌明確に拳銃での自死が描写されている。 | ⭕️ |
ラスボスは人間? | ❌ゴジラ(怪獣) | ⭕️碇ゲンドウ(人間) | ❌天体制圧用最終兵器ゼットン(超兵器) | ⭕️緑川イチロー(改造人間) | ❌宇宙怪獣 |
ラスボスは対話で倒される? | ❌電車と瓦礫と凍結剤(博士のヒントをもとに科学を進歩させる) | ⭕️戦闘と対話 | ❌ウルトラマンと人類の共闘(ウルトラマンのヒントをもとに科学を進歩させる) | ⭕️戦闘と対話 | ❌宇宙怪獣を銀河系もろとも吹っ飛ばすカルネアデス計画。対話も何もあったものではない。 |
ラスボスの目的は人類補完計画? | ❌ | ⭕️ | ❌ | ⭕️ | ❌ |
敵を倒すと遺体は消える? | ❌ゴジラの復活の可能性が暗示されている | ⭕️ヱヴァ序破急の時点で使徒を倒すと形象崩壊する。アヤナミレイ(仮称)が崩壊するのはシンジが覚悟を決めるきっかけ | ❌怪獣の後始末が必要そうだった | ⭕️敵も味方も死ぬと泡になって消える | ❌宇宙怪獣の死体が浮遊している |
敵を倒すと血を流す? | ❌ゴジラの出血はなし。着ぐるみ的。 | ⭕️第9の使徒戦では内臓描写もある。ただしシンで出血はあったか覚えていない | ❌怪獣の出血はなし。着ぐるみ的。 | ⭕️ショッカーを倒すと血しぶきが飛ぶ | ❌確か血は流さない。ただしコーチが吐血する描写がある。 |
主人公は涙を流す? | ❌怒りは示すが泣かない | ⭕️綾波を失うときは涙を流す。終盤ではみんな泣いている。渚カヲルも! | ❌怒りは示すが泣かない | ⭕️泣く。ショッカーの多幸感との対比。または優しさ。 | ⭕️泣く。泣きながらも根性を見せる。 |
感情の起伏の少ない女性キャラはいる? | ⭕️尾頭ヒロミ | ⭕️綾波レイ(ただし後半では表情豊か) | ❌強いて言えば神永新二 | ⭕️緑川ルリ子 | ❌アマノ・カズミは感情豊かだと思う |
流暢な英語を日本語に挟むキャラはいる? | ⭕️カヨコ・アン・パタースン | ⭕️真希波・マリ・イラストリアス | ❌ | ⭕️人工知能、サソリオーグ | ❌ |
我に返ってしまう、しかしわざとやっているであろう場面 | ⭕️博士の写真が岡本喜八。カヨコの不自然な日本語・英語。無人在来線爆弾は大好き。 | ⭕️序盤のパリカチコミ作戦で明らかに特撮を意識したピアノ線のようなものが映る。巨大綾波が不自然なCG。登場人物が自分たちは虚構であることを意識し始める。 | ⭕️女性の体臭を嗅ぐウルトラマン。 | ⭕️コウモリオーグ、サソリオーグの安っぽさ。女ショッカーのハイレグレオタード。 | ⭕️原則すべてパロディからできている。 |
寸評 | ゴジラ怖すぎ! みんな有能! | シンジ君よく頑張った! 偉い! | 特撮楽しい! | 視聴者置いてけぼり! | 第7ハッチが開いています! かっこよすぎ! |
⭕️❌を見ると、総監督が庵野秀明の仮面ライダーとエヴァンゲリオン、そうでないゴジラとウルトラマンとの2系統に分かれていそう。
時期的に、というかエヴァの影響は受けているだろうけど
そういえば、ラーゼフォンは「首都消失」「さよならジュピター」「ブルークリスマス」ネタだったよなあ
調律された世界には東京ジュピターもエヴァの使徒に当たるドーレムも当然ムーリアンも存在しない
東京ジュピターが出現して離れ離れになって、自分の彼女だった遥は主人公の代わりに?双子の弟、樹と交際するも別れてしまう
調律された後の世界では主人公と弟が合体したような人物になっている
物語は完全になかったことになっていて、主人公は大学の研究職で出世、(紫東)遙とは普通に結婚、
出産した娘の名前は主人公と世界を再構築する権利を争ったもう一体の神である(如月)久遠になっている
ラーゼフォンはイケメン無双なところが観ててツライけど、フィクションとしては好き
ただ、裏側を調べててちょっと胡散臭い新興宗教っぽく思えたのは気になるけど
作り手側がどういう思想や宗教観なのかは引っ掛かるけど、フィクションとしては面白いし好きなんだよなあ
メカとかそういう設定も好きだった
東京ジュピターによって離れ離れになり、東京ジュピターの中では時間の流れが遅くなるため、
離れ離れになった同い年の二人は年齢差が開いてしまう
少年は東京ジュピターの中で少年のまま、少女はオバサンになってしまう
それでも互いに恋愛関係になり、最終的には再調律によって問題自体がなくなってしまう
シンエヴァは脇道から現れた巨乳眼鏡と結ばれてしまうという点でリアルといえばリアルなんだろう
・すぎむらしんいち『右向け左』
美少女キャラとか出ないし絵柄もオタ受けしないから挙げる者はおるまい
士官学校の話だが鬼軍曹に訓練を受けるシーンばかりで実戦場面ゼロ
主人公は話の最後の最後で出撃するけど敵と戦闘しないまま終わる
主人公らは特攻機に乗るけど戦闘シーンはラストのホンの数分だけ
終盤のホンの数分で主人公が出撃するけど特攻失敗でデッドエンド
「軍隊は三食メシが喰えて嬉しい」とか言ってるだけで戦闘シーンはほとんどないな
やっぱり戦闘シーンはほとんどなくて、しかも戦後に復員してからの話が大部分
――こういう「戦わない軍隊(兵隊)もの」って結構あると思うんだがな。タイトル忘れたけど、昭和の後期にも航空自衛隊の整備士のマンガとかあったよな。通信兵とか衛生兵とか伝令とか戦わない部署って結構あるし
とんでもない役者たちが凄まじい演技でしのぎを削ってる
ただここまで遡らないとマトモな映画が出てこないのは暗澹たる気持ちになる
で、70年代に映画がテレビに負けて階段を下りるようにレベルがガクガク下がってく
80年代に入るとアイドル映画やジブリ映画といった演技のえの字もない稚拙な映画に支持が集まるようになる
これに加えてバブル崩壊以降はテレビでたまたま当たったものの劇場版が粗製乱造されだすようになる
この頃に邦画は完全に死んで今も死んだまま、失われた20年じゃなくて失われた30年だな
今も変わってないでしょ?年間興収ランキングはアニメ・アイドル映画・テレビシリーズの劇場版ばかり
ドラマはシラネ
なんで岡本喜八版の日本のいちばん長い日じゃないねん
>総監督である庵野さんから観客へのメッセージとしか思えないのですが。
違います。あのメッセージは誰が言ったものですか? 牧吾郎さんですね。
ここで牧吾郎さんの写真に注目してください。あのお爺さんは誰ですか? 故岡本喜八監督ですね。
故岡本喜八監督と言えば、庵野監督が最も尊敬する人で、その作品が『シン・ゴジラ』にも多大な影響を与えていることが多方面から指摘されています。
つまりあのメッセージは岡本喜八監督からの、庵野監督に対するメッセージです。
その上で、作中「好き」という言葉があと2回出てきます。それが岡本喜八監督に対する庵野監督の返答です。もう1回観てみてください。
さらにその上で、エヴァンゲリオンTV版最終話と、フェデリコ・フェリーニ『8 1/2』を観ると、今回やりたかったテーマがよく分かると思います。
(1) いつも思うんだけど作品を作るうえでテーマや政治的主張って必然的に生まれてきちゃうもんだと思うんだよね。
(2) 例えば今回だったらゴジラのスペックをどうしようかって話になる。
初代ゴジラを模倣(サンプリング)するなら、ゴジラは歩くだけで半端ない放射線をまき散らし、歩いているだけで子どもを殺傷しまくるレベルになる。
でもそれだと、原発を巡る問題について、原発全否定とも取られかねない強い立場になってしまう。
庵野は今回そちらに舵を切らなかった。普段まき散らす放射線量は少なく、半減期も短いものとした(作中「福音」とも称される)。
岡本喜八『日本のいちばん長い日』を模倣するなら、官僚・政治家が利権争いに夢中で、ぜんぜん協力し合わないでさらに悲惨な状況を招くっていう描き方になる。
でも本作でそれをやってると、結局、災害の問題についてはどうしようもないんだよ、諦めな。みたいなニヒリスティックな立場になる。
エヴァでシンジとアスカを除いて人類をすべて滅ぼしてしまった庵野にとって、別にこういう立場を採ることも可能だった。
しかし今回庵野はそちらに舵を切らなかった。「どんなに大きな危機でも、みんなで立ち向かえば必ず克服できる」というポジティブな結論を採った。
(4) 結局ストーリーを組み立ててる過程で、どういう意見・立場に立つのかっていう選択に迫られることにはなると思うんだよね。
http://anond.hatelabo.jp/20160804171358
自称「中二病を脱した23歳増田」に乗っかる感じでシンゴジラ批判エントリーを書きたくなったおっさんです。
(あたしも10年前の20代の頃はてなのサブカルおじさんが怖かったからねw)
シン・ゴジラは「日本の実写映画」にとってエポックメイキングになりうる最高に素晴らしい作品だと思うが
この大絶賛の嵐に怖くなってきました。左側からのまっとうな批判が見られない。
まずはじめに私の感想とすると「シン・ゴジラ」は素晴らしい映画なのは確かです。
「日本の実写アクションエンタメ映画」でまともな人間ドラマを描けるでしょうか?
民族やイデオロギー宗教対立のない日本。殺人を含む強烈なDISの激突による止揚や
「個人のエゴがイノベーションを起こす」ことを良しとしないし信じない日本社会では
欧米式の人間ドラマなどは描けないのです。大抵は「もののあはれ」みたいなものに落ち着きます。
そこで庵野監督です。庵野監督は人間ドラマが描けません。人間個人に興味が無いのです。
「電子回路、ニューロンのように情報が錯綜し、通電し、組織が機能する」という
(例えばオネアミスのロケット発射の「手続き」や、エヴァ発進の「手続き」、
さまざまな人間が連携して大きなことを成し遂げる瞬間のカタルシス、岡本喜八の沖縄決戦→ネルフ壊滅なら大組織の壮大な敗北
というものに執着している感じです。そして庵野監督はその演出で他を圧倒してきたのです。
通常は連携を2、3回で終わらせるところを、
7、8、9とどんどん数を増やし、しも連携のスピードを高速化する、
それが今回は最高に上手く行ったと思います。無駄な人間ドラマを省き、人の群れを
通常それでは作劇できませんが、ゴジラという巨大な災厄を扱うことによって可能になったのですね。
とまあ、褒めるのはこんな感じで。みんな褒めてるし。在来線爆弾最高です。
ここからは批判というか危惧を書いていきます。(ネタバレ含む)
「シン・ゴジラ」はゴジラを描くとともに、明らかに3・11の震災、
そして福島第一原発(フクイチ)のメルトダウンをなぞって描かれています。
原爆の子であることことからしてそれは避けられないことでありました。
・「想定外」という言葉が何度もでてくるシンゴジラとフクイチ(フクイチ)
・そしてその放射能を測定した市民から憶測が飛び交うシンゴジラとフクイチ
・自体の収集のため米軍が介入してくるシンゴジラ、事態の収集のため米軍が介入しようとするフクイチ
・シンゴジラにホースを突っ込んで冷却材を流すため特攻する自衛隊、
「自衛隊がゴジラを冷やすために特攻して死んでしまっている」ということなんです。
これは3・11の日本政府はやらなかった。フクイチに自衛隊を特攻させれば
「自衛隊員の命」と「福島の土地の数十年の汚染」を引き換えにはできないという判断です。
そこをシンゴジラはやった。映画的には、作劇的には正しいです。
自己犠牲の魅力に惹かれるところもあるんです。
正直「自衛隊がフクイチに特攻して冷却に成功していた」ら、私も絶賛したでしょう。
その特攻を庵野監督はやった。しかも恐ろしいことにあっさりと。
(1番隊が全滅したら「日本映画のよくあるパターンのように感傷にひたる」
ことなくあっさりと2番隊がすぐさま繰り出された。
おそろしいですよ。でもこれがかっこいいんですよ。/
この冷徹な決断力、かっこよさを恐ろしいと思わないとヤヴァイんですよ。
こんなことできるのはスターリンですよ。スターリンのかっこよさに酔うんですか?)
特攻した自衛隊のように、3、11のフクイチでも自衛隊を特攻させるべきだった。」
実際の日本政府はどうでしょうか?フクイチの凍結に成功してますでしょうか?
私からすると今回のシンゴジラ、演出のエポックメイキングであるとともに、
「3・11の災厄に勝利した日本」の「仮想戦記」にみえてしまうんです。
(昔よくあった「第2次大戦で日本軍が勝つシミュレーション小説」の3・11バージョンですね。)
このシンゴジラを見て「日本はまだやれるんだ」と思った人がたくさんいたと聞きます。
いや、やれてなかったでしょ。と言いたい。3・11で負けたでしょ。無残に。情けなく。
仮想戦記で「日本はまだやれる」って酔ってたらだめでしょ。反省しないと。
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↑というような批判が欲しかったのに全く無くて困ってたので自分で書いてみた。
実際庵野監督はどうなんでしょう。「政治的意志表明」と書きましたが
本作も庵野作品らしく、元ネタからテーマを考えると分かりやすい。以下、元ネタと目される作品・事件との比較から本作のテーマを考える。
http://anond.hatelabo.jp/20160731121447
『シン・ゴジラ』は『日本のいちばん長い日』から多大な影響を受けている。激しいカット割りは岡本喜八作品の特徴そのものであるし、日本が重大な危機に直面した際に、どう対応するのかということを題材としている点でも同一である。
しかし、そこで描かれるテーマは異なる。『日本のいちばん長い日』はポツダム宣言受諾を目前に、原爆を2発落とされておきながら、なお利権争いを続ける官僚・政治家の醜悪さが描かれる。そこでは官僚・政治家が一丸となって事態に対処するという姿勢は見られず、最終的な解決は天皇が”ただ独りで”下した「御聖断」によってつけられる。
他方、『シン・ゴジラ』では、責任逃れのために策謀を凝らす政治家・官僚が現れたりはするものの、官僚・政治家・科学者(+ドイツ・中国・米軍)が”一丸となって”ゴジラの問題に対処する。そこには、どんな重大な危機でも、みんなが一丸となって理性を行使すれば必ず解決できる、というポジティブなメッセージがある。
『シン・ゴジラ』のストーリー展開は『エヴァ/ヱヴァ』におけるラミエル戦とそっくりである。すなわち、『エヴァ/ヱヴァ』においては使徒ラミエルを倒すために全国の発電所および送電車が動員され、日本国が一丸となって協力する姿が描かれる。『シン・ゴジラ』においてはゴジラを倒すために全国のプラントおよび化学工場が動員される。
『エヴァ/ヱヴァ』においては、こうした戦いを通じて主人公シンジ君が生きる意味を見出す過程が描かれる。父に捨てられた経験から生きる意味を見失っていたシンジ君は、エヴァに乗って世界を救うことが自分の使命であると自覚していくのだ。
しかし、シンジ君はその後、使徒レリエルとの戦いの過程で、自分が乗っているエヴァがとんでもない化け物であることに気付きはじめ、続くバルディエル戦で親友トウジに重傷を負わせる(漫画版では殺害)に至って、生きる意味を完全に見失う。
そこで描かれるのは「みんなで協力して事態に対処したところでそれらは全く無意味である」というかなりニヒリスティックな結論である。
他方、『シン・ゴジラ』においてはこうしたひねくれたストーリー展開はないため、「みんなが一丸となって協力すれば危機を乗り切れる」というポジティブな結論になっている。
『シン・ゴジラ』においては初代ゴジラをリスペクトすることが明言され、ゴジラのデザインやストーリーに初代ゴジラの影響があることがしばしばインタビューなどで語られている。
『ゴジラ』のテーマの1つは、当時問題となっていた第五福竜丸事件を背景とする、反核兵器の思想である。ゴジラは水爆実験の影響で出現し、東京でゴジラがまき散らした放射線は罪のない児童にまで及んだという描写からこれがうかがえる。
他方、『シン・ゴジラ』でも核及び原子力問題がテーマとされている。ゴジラは海中に投棄された核廃棄物を喰らったことで東京に出現し、原子力エネルギーによって動いている。
しかし、『シン・ゴジラ』ではこの問題に対する姿勢はもう少し複雑なものとなっている。
まず、①原子力で動くゴジラの破壊力はすさまじく、東京は一瞬で火の海にされてしまう。他方、②ゴジラがまき散らす放射線による被害は小さいとされ、③ゴジラのエネルギー源の研究を進めれば現行の原子力発電よりもより安全でクリーンなエネルギーを調達することができることも示唆される。作中ではこのゴジラの2面性を評して「ゴジラは神の化身にして、人類に福音をもたらすもの」とも言われる。
しかし他方で、④国連安保理による核兵器投下はきわめて否定的に描かれる。
ここには、「核兵器の使用には断固として反対するが、原子力の活用については現実的に考えなくてはならない」というメッセージがうかがえる。
以上の検討から、『シン・ゴジラ』のテーマは、「どんな重大な危機でも、みんなが一丸となって理性を行使すれば必ず解決できる」ということと、「核兵器の使用には断固として反対するが、原子力の活用については現実的に考えなくてはならない」という点にある。
◇「私は好きにした。君らも好きにしろ。」は岡本喜八監督から庵野監督へのメッセージ(牧吾郎の写真に岡本喜八監督の写真を採用したのはこのせい)。「この国で好きを通すのは難しい」はこれに対する庵野監督の回答。現代における作品作りの難しさを言っている。
これを踏まえてラストの「そろそろ好きにしたらどうでしょうか」を聞くと趣深い。すなわち、『シン・ゴジラ』は、色々な制約(予算やオールドファンの批判)で自分の好きに映画を作れない監督が、それでも俺は好きな映画を作るんだ!という映画である。結局、TV版の『新世紀エヴァンゲリオン』のラストと同様、フェリーニの『8 1/2』と同じ結論になる。
◇ラスト、血液凝固剤を流し込むシーンは、一見バカバカしいと思ってしまうが、福島第一原発にコンクリートを流し込むという形で実際にやったこと。
◇ラスト、ゴジラは死には至らず、凍結されるにとどまるが、これは同じく凍結状態にある福島第一原発を模している。今後も対処を続けないと、とんでもないことになるよ、という暗喩か。
(1) 孤独な男(シンジ・牧吾郎)が、強大な力(13号機・ゴジラ)を手にして事件を引き起こす。
(2) 危機に対応するのが現実主義的な集団(ゴジラ討滅のために核の使用も辞さない人類・エヴァ殲滅のために初号機を主機として使用するヴィレ)である。
すなわち、両者ともに、危機に対する現実主義的な対応を描いている。トーンの明暗を分けたのは、視点を孤独な男(シンジ)サイドに置くか、現実主義的な集団(日本政府)に置くか、の違い。
妻を放射線で亡くしたことで反原発思想になった結果、日本の学界を追放されてアメリカへ。
国民の生活や命よりカネを優先して原発開発を続ける日本に報復するために、核エネルギーで動くゴジラを出現させた。
その結果、①多数の東京都民が疎開により生活拠点を奪われ、②いつ復活して再び惨禍をもたらすか分からない凍結ゴジラが都のど真ん中に鎮座してしまった。
筆者は半分くらいしか観てないので間違いとかあったら指摘してください。
・庵野秀明『エヴァ(旧世紀版&新劇場版)』 : 同じBGMを使用している。ヤシオリ作戦の内容・名称の元ネタ。
・岡本喜八『日本のいちばん長い日』 : 激しいカット割りの元ネタ。日本が危機に直面した時の官僚・政治家の動向を描く点は同一。監督岡本喜八の写真が本作に登場する牧吾郎の写真として使われている。
・本多猪四郎『ゴジラ(初代)』 : 冒頭に映る古い「東宝」画面、第2形態時の咆哮音、冒頭に襲われる船の名前(「栄光丸」⇒「グローリー丸」)はこれが元ネタ。
・押井守『機動警察パトレイバー the Movie』 : 『シン・ゴジラ』に登場する牧吾郎のあり方が、『機動警察パトレイバー the Movie』に登場する帆場暎一と被る点が多い。①冒頭で海に消える、②事件解決の鍵を握るが、本人は既に死亡しているため、彼の思考の解明に主人公たちが翻弄される、③東京を破壊する動機が匂わされる、等。
・福島第一原発 : ①ラストシーンで凝固剤をクレーンで投入するシーンは、福島第一原発にコンクリートなどを流し込む姿を模しているとの指摘あり。②また、ラストにおいてゴジラは死亡せず凍結されるに留まるが、これは福島の原発事故の現状を表してるとの指摘あり。すなわち、冷温停止状態ではあるが、これからもきちんと処理を続けないと、また放射能汚染の惨禍を生むということ。
・長谷川和彦『太陽を盗んだ男』 : ラスト、石原さとみと長谷川博己が語り合う建物が、菅原文太とジュリーの決戦の場と同じ。ヱヴァ破でこれのサントラを使っていたため、意識して使用した可能性がある。また、制作中の仮題が『日本対俺』であり、これは『シン・ゴジラ』のキャッチコピーである『現実(ニッポン)対虚構(ゴジラ)』に類似する。
・庵野秀明『巨神兵東京に現る』 : 終盤、ゴジラの尻尾から出てくる人型が、『巨神兵東京に現る』に登場する巨神兵に酷似している。
・橋本幸治=中野昭慶『ゴジラ(84年)』 : 今回のシン・ゴジラと同じテーマ(危機に直面した日本がどう対応するか)を扱った作品。第4形態時の咆哮音の元ネタ。『シン・ゴジラ』のキーマンである牧吾郎の初出。
・本多猪四郎『宇宙大戦争(59年)』 : ヤシオリ作戦シーンのビーム作画、ビームSE、BGMの元ネタ。ただし、マーチについては、直接の元ネタは『怪獣大戦争』ではないかとの指摘あり。
・富野由悠季『イデオン』 : ゴジラが、背びれから全方位ミサイルを出し、尻尾からソードを出しているのは、これが元ネタではないかとの指摘あり。
・岡本喜八『沖縄決戦』 : 上述した『日本のいちばん長い日』と同じ理由。ただしこちらはシン・ゴジラと違って民間人の視点からも事件を描く/人の死亡シーンまで描く。また、『シン・ゴジラ』のラスト付近に登場する第32普通科連隊の丹波一佐は、『沖縄決戦』で第32軍長勇参謀長を演じる丹波哲郎が元ネタ。
・佐藤純彌『新幹線大爆破』 : 東京駅で作戦をするシーン、新幹線に爆弾を積んでぶつけるシーンの元ネタ。
・赤井孝美『八岐之大蛇の逆襲』 : 「ヤシオリ」という名称(ヤマタノオロチを酔わせた酒)からすると、ヤシオリ作戦の元ネタはエヴァではなくこちらを挙げるべきであるとの意見あり。また、血液凝固剤を注射ではなく経口投与にしたのは、ヤマタノオロチの伝承に倣ったものか。なお、これに登場する八岐之大蛇は第2形態に似ている。
・山崎豊子『白い巨塔』 : 財前正夫(國村準)、大河内清次(大杉漣)、里見祐介(平泉成)、花森麗子(余貴美子)、東竜太(柄本明)、柳原(矢島健一)、金井(中村育二)の”苗字”の元ネタ。たぶん探せばもっと出てくる。
・安野モヨコ作品 : 矢口蘭堂(長谷川博己)(⇒『ジェリービーンズ』)、カヨコ・アン・パタースン(石原さとみ)、尾頭ヒロミ(市川実日子)、花森麗子(余貴美子)(⇒『ハッピー・マニア』)の”名前”の元ネタ。たぶん探せばもっと出てくる。
エヴァQを今更観て考察を色々読みふけっていたのだけれども、新用語の定義をうんうん唸って考察しているページばかりで、作品のテーマというか結局庵野はこれで何が言いたいわけ?というところを誰も言及していないので自分で書く。
※追記(2016/4/25):はてな内外からたくさんの反響を頂いて驚いた。投稿後、考えが変わったところもある(特に震災の影響を見逃していたこと、ヴィレの分離の意味について)のだけれど、もう一度全部見直して加筆修正する時間が取れない。近いうちに頑張りたい(ここ見てる人も少ないだろうが)。
新劇場版のテーマを考察するにあたって、まず旧世紀版のテーマを確認しておきたい。
結論から言えば、旧世紀版の中心テーマは(1)組織上位の命令とあれば人殺しさえやってしまう人間の悪辣さ、(2)若者を自らのエゴの実現のために利用する大人の悪辣さ、(3)自分の価値を見出せない現代人のコミュニケーション不全、(4)馬鹿は死ななきゃ治らない、の4つである。以下詳述する。
旧世紀版において明かされる最大の謎と言えば、使徒とヒトとがほとんど同じ存在であるということである。そのことはミサトの台詞から良く分かる。
「私たち人間はね、アダムと同じ、リリスと呼ばれる生命体の源から生まれた、18番目の使徒なのよ。他の使徒たちは別の可能性だったの。ヒトの形を捨てた人類なの。」
そして第24話において登場する渚カヲルに至っては、ヒト以上の容姿、能力、パーソナリティを持つ魅力的な存在として現れた。そのことはシンジも認めるところで、以下のように述べている。
「そうだ。生き残るならカヲル君の方だったんだ。僕なんかよりずっと彼の方がいい人だったのに。カヲル君が生き残るべきだったんだ」
しかし周知のように、シンジはこれを殺してしまう。TV版第25話第26話は主としてこの懺悔に費やされるが、そこで繰り返されるのは、ヒトを守るためには命令通りにカヲルを殺害するのは仕方なかったという言葉である。
シンジ 「結局、僕はこれに乗るしかないのか?好きな人を殺してまで。父さんやみんなの言う通りに、またこれに乗って戦えっていうの?母さん、何か言ってよ、答えてよ」
ここには、人殺しさえも上の命令であれば仕方ないとしてしまう人間の悪辣さが表れている。
そしてこの人間の欠陥は、エヴァンゲリオンの元ネタとしてしばしば監督自身が挙げる、岡本喜八『ブルークリスマス』、富野由悠季『イデオン』で繰り返し述べられるテーマでもあり、その両者の背景にあるのは第二次世界大戦である。
なお、エヴァ以降の作品であるが、インドネシアの大量虐殺を扱ったドキュメンタリー『ルック・オブ・サイレンス』においては、被害者の遺族になぜ家族を殺したと問い詰められた加害者が、シンジと同じ言い訳をしているのが分かる。
旧劇場版では、上記のようにシンジにカヲルを殺害させ、深い絶望(=デストルドー)に陥れ、そのデストルドーをトリガーとしてサードインパクトを引き起こしている。
その動機は、ゲンドウについては「ユイに再び会いたい」というもので、ゼーレにいたってはキリスト教的な原罪観から、人間を贖罪させたいというものである。どちらも身勝手な発想に基づくもので、到底人類全てを滅ぼす理由とはなり得ない。
ここには、若者を自己のエゴの実現のために利用する大人の悪辣さが表れている。
なお、エヴァには影響は与えていないが、深作欣二『仁義なき戦い』においては同様のテーマが描かれていて、その背景にはやはり第二次世界大戦がある。
周知のように、シンジは自分の価値をエヴァパイロットであることにしか見出せず、それを失って人に見放されることを非常に恐れている。
TV版最終話はほとんどこのテーマについての議論に費やされている。その一部を引用する。
以上のような問題を抱えた人類は、旧劇場版においてサードインパクトに突入し、シンジとアスカ以外全滅してしまう。
生き残ったシンジは、隣に横たわるアスカの首を絞めてしまう。これは(解釈の余地はあるが)シンジの対人恐怖症がまったく解決されていないことを意味している。馬鹿は死ななきゃ治らないのである。
以上の点を踏まえて、エヴァQでは旧世紀版のテーマをどう扱っているのだろうか。
結論から言うと、シンジは相変わらず人を殺し、大人に利用されている。これは旧世紀版との比較を表にしてみると分かりやすいかもしれない。
旧世紀版 | 新劇場版 | |
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殺した対象 | カヲル君(をはじめとする使徒) | ニアサードインパクト震源地の付近住民 |
殺害の正当化理由 | 上位の命令に従っただけであり仕方がない | 愛する綾波を救うためであり仕方がない |
罪の代償 | 深い絶望 | 周囲の非難 |
贖罪の方法 | 戦自に殺されることを望む | 2本の槍と13号機で世界の修復をする |
上記行為の結果 | ミサトに自殺を阻止され、戦地に送られるが、デストルドーをゲンドウ(とゼーレ)に利用されてサードインパクトが発動。人類はシンジとアスカを除いて滅亡。 | 世界修復の希望をゲンドウに利用されて、フォースインパクトが発動。目の前でカヲルの首が飛ぶ。 |
主な変更点としては、①殺害の正当化理由が「上位に命令されて・・・」という消極的なものから、「綾波を救う」という積極的なものに変化したこと、②贖罪の方法が自殺という消極的なものから、世界の修復という積極的なものに変化したこと、が挙げられる。
さらに、③「(3)自分の価値を見出せない現代人のコミュニケーション不全」という問題がほぼ扱われなくなっている。
これらの変更の結果、エヴァのテーマは(その善し悪しはともかく)矮小なものとなった。すなわち、旧世紀版においては第二次世界大戦により露わとなった「人類の問題点」ともいうべき大問題が扱われていたのに対し、ここで扱われている問題はあくまで「シンジの問題点」である。このことは、愛する者のために人殺しをしてしまうというのはいかにもフィクションが好みそうなところで、現実でこれが問題となる例は少ないということからも分かるだろう。
さらに、「(3)自分の価値を見出せない現代人のコミュニケーション不全」という問題がほぼ扱われなくなったことでテーマはより普遍性を失っている。
上記の点を踏まえた上で、なぜテーマの変化が起こったかを考えてみると、私はエヴァの成功と自身の結婚が背後にあるのではないかと睨んでいる。
エヴァの成功により庵野は自身の生きる価値を見出すことができ、「(3)自分の価値を見出せない現代人のコミュニケーション不全」という問題が解決できてしまった。
さらに結婚により、人殺しの正当化理由として「愛する者を救うため」という理由が俎上に載ったものと推測される。
Qの次回予告においては、次回作では「ファイナルインパクト」が起こることが示唆されている。しかし、それが仮に起きたところで解決される問題は、上記のようなシンジ個人の問題点で、我々からするとどうでもいい問題である。次回作はかなり小規模な作品になるんじゃないかと個人的には思う。