はてなキーワード: 神童とは
肌荒れ、ニキビ跡酷い、不細工、腎臓疾患(ネフローゼ)、発達障害持ち、身長170cmどまりの超低スペック高校1年生です。
遠隔操作ウイルスの容疑者と僕の共通点が沢山あったので挙げてみた
太い眉
彼女いない暦=年齢
いじめられっこ
リアルではおとなしい
公権力が嫌い
猫が好き
自己顕示欲の塊
妙にプライドが高い
女への異常な敵意を持つ
そして僕が通っている学校と容疑者と同じレベルの中学校に同じく中学受験で入学して落ちこぼれた
まさしく僕の生き写しだ。
容疑者は犯罪を起こして叩かれているというよりも根暗で気持ち悪い容姿で世の中から叩かれているように見える。
できる営業職だった父の背中を見て育った。
学校の成績は良かったが、我ながらおとなしい性格だったので、父のような会社員にはなれないだろう、と小学校高学年の頃に悟った。その頃の将来の夢は考古学者。シュリーマンになりたかった。
それから数年。私が中学生のとき。父、癌を患う。一命は取り留めたものの、落ちた体力では、かつてのように仕事はできなくなる。会社はクビになった(病状の割には長く引き止め、部署を移すなど色々と対策もしてくれたが)。大学時代の友人の伝手で、小さな会社で働き出し、そこでも成果を出すものの、癌の転移が発覚。私が高校の時分に早逝した。
その後、母が生命保険や退職金を切り崩して捻出してくれた金で、出来が悪かったにもかかわらず、私は大学に入学した。小学校時代の神童も、今となっては人並以下。考古学者の夢はとうの昔に捨てていた。折からの不況。まったく学問として興味はないが、手に職のつく資格が欲しい、という甘い考えで入った法学部の勉強は、軟弱で夢想癖のある文学少年には想像以上の苦痛だった。そして、情けないことに、胃に穴を空け、単位を大幅に落とし、留年してしまう。
なんとか四年次まで進級するものの、就職活動でまた胃潰瘍になる。入院。今度は留年こそしなかったものの、就職浪人になる。ただでさえ社交性がなく、新卒の下駄でぎりぎり内定が出るか出ないかの身。カウンセリングや話し方講座なども受けてみるものの、大した影響はなく、どうにも上手く行かない日々。ようやく出た内定は、小さな会社の営業職だった。
それから半年が経つ。やはり父は偉大だった。時代のせいもあるのかもしれないが、この過酷な職業に良く耐えられたものだ。先日、あまりの不調にかかった医者に、軽度の鬱病と診断された。
そんな私の現時点での考え。
不器用で、内向的な人間が、幸せに生きられる場所なんて、この世に、ない。
母が無事に逝ったら、私も穏やかに逝けたらよい。そんなことばかり考えている。
http://anond.hatelabo.jp/20121204195754
お付き合いありがとうございました。
はてぶついていて驚いた。とりあえず竜の字は修正します。
最後に読んだの文庫最新刊の時だから忘れていた。クランプ絵変わりすぎで笑た。
左翼描写平気ならとても面白いのでみんなも創竜伝読んでください。みっちゃんかわいいよみっちゃん。
全然関係ないけど普通なら主人公は間違いなく十三塚かミッキーだよなー
研究者畑の家系に産まれた武闘派の異端児「レンジ・ゼロ」(魔法の無効化可能)
コミュ障で元来ヲタコンテンツが好きな人間なのに、無駄に背伸びしてリア充系のグループと体育会系のグループに身を置き、かれこれ10年になる。そんな自分はもう30代半ば。
だけどもう限界だ。少なくとも今まで生きてきた時間と同じか、それ以上の時間をこれからもここで過ごすことを考えたら心底うんざりしてしまった。
なので別のグループを探すことにした。
人の情を全く理解できないのだ。
だから理屈と知識と情報の海で生きてきた。それしかうまくやる方法がなかった。
だけど世の中の多くの場所では、どうやら情を直感的に理解して、適切な対応を余裕でこなせる人=大人とみなされるらしい。社会性を備えた一人前の大人とは、そういうことのようだ。
理屈と知識と情報しか見ない人はマイノリティで、そういう人でも快適に過ごせるコミュニティは少ないと思う。
しかもそういう人は子供の頃いじめに遭うリスクを伴うし、成人しても周りから「あいつはそういう奴なんだ」と区別され、普通のコミュニティでのポジションは低い位置に留め置かれるわけだ。
そしてリア充も体育会系も、普通の人よりさらに情を重んじると来ている。
そう考えると羨ましいのは、18歳くらいで「大人」になってしまうDQNのお兄さん達だ。
すぐに彼女見つけて結婚して子供作って家庭を養う立場になるのはごく自然というか。
その代わり30過ぎた頃には立派なオッサンというかオヤジ化してしまうが、それはそれで貫禄あるから困ってしまう。
「十で神童、十五で才子、二十歳過ぎればただの変人」という育ち方をした自分からしてみたら、これ以上ないくらい青く見える芝生だったり。
とにかく、もう自分は情を重んじる社会で、情が分かったようなフリをして過ごすことに疲れた。
そして疲れる程度に工夫しようとも、ここに身を置く限り、どう頑張っても自分は子供同然なのだ。
子供に社会の重要なポジションを任せる奴なんかいない。せいぜい味噌っかすがいいところだ。
じゃあ死ぬまで子供だったら死ぬまで味噌っかす?そんなんやってられるか。
というわけで、これから「理屈と知識と情報しか見ない、世間一般から見ると子供っぽい人」が構成員の大多数を占めるコミュニティを探すことにした。
これ、「構成員の魔法使い率がやたら高いグループ」と読み替えてもらっても差し支えない。
自分の趣味嗜好に照らし合わせると、キモヲタ方面あるいはネトウヨ方面のグループだろうか。
そもそも自分は「この前の日曜ヒマだったからニコ動で○○系見てたら一日潰れちゃってさドゥフフwwww(秋葉原では「こんにちは最近調子どう?」の意味)」みたいに話しかけられることには全く抵抗感ないし、ガチでコアで濃い人のエンドレス薀蓄に知的()でウケる()相槌を打つことで「友達フラグ」を立てるのだけは得意だったりする(全く自慢にならないが)。
少なくともリア充や体育会系相手に色々気を遣いながら話すよりは全然ストレスを感じない。
10年頑張って結果が出なかったことで諦めがついたというか、諦めるのが遅すぎたくらいだ。
振り返ってみれば、なけなしの自分の強みをもっと活かすべきだった。憧れだけで欲を出した自分がバカだったのだ。
自慢話。
小学生の頃、先生が『良薬口に苦し』の本当の意味知ってるかー?とか質問してきた。俺は即座に手を上げて、「良い人は厳しい」と答えた。
先「○○よく知ってんな。先生知ったの最近だったよ。どこで覚えたんだ?」
俺「そんなの聞いただけでわかる」
先「…。」
実際聞いた瞬間にちょっと考えてすぐに分かった。諺になって残ってるくらいだから言葉通りの意味ではない。何かの例え話のはずでだとしたら何だ?と思ったら即座に答えが浮かんだ。数学が得意なやつなんかは正しい答えには常に確信があるみたいだが、俺の場合は文系の答えにそうした確信があって、それが裏切られたことは滅多にない。ただ、数学の場合はその確信は本物のひらめきなんだろうが、俺の場合文系分野だったから経験上の成功体験の積み重ねによるもので紛い物なのだろうと思う。
これは君が勘違いしている。
日本は、社会人>越えられない壁>学生というレイヤーが確立している。
大学生ってのは、遊んでばっかでケツの青いガキっていうのが社会通念であり、
そんな中のぽっと出な天才なんてのは、評価に値しない。
たとえ灘高卒東大院レゴのプロビルダーなんてのがいたとしても、社会人より格下。
最近じゃこういう考え方は古臭いものとして意識改革が進んでるけど、
宋文洲さんが「成功したけりゃ媚びて利用しろ」と言ったけど、
特に上に書いたような価値観を持っている人間には、そうしないとこっちが潰されるからね。
今塾でバイトをしてるんだけど、テストの解答を見ていて「あーカンニングしたな」って気付くことがある。
自分自身は、小学生時代は神童と呼ばれ、エスカレーター式の中高で落ちぶれて、
なので、何て言ったら彼らのカンニングを止められるのかがわからない。
0点取ったって100点取ったって、一問だけわからなくて95点取った時だって、
それが実力なんだから当然だと思ってた。
父親に「なんでこんな問題もわからないんだ」って手をあげられた時も、
「なんでこんなことで殴られなきゃいけないんだ」ぐらいにしか思ってなかった。
わかるもんはわかる、わかんないもんはわかんない。
それだけのことなのに、なんで他の人間の答えを書き写すんだろう。
批判したいってわけじゃなく、純粋に疑問に思う。
春風ちゃんのツイートで思い出したんだけど、小さい頃私の学校にも全員で遊ぶことを強制するしくみがあった。
全学年1〜6年を縦に割って12個の班を作り、年に何回かその班で遊ぶ週間があったり、遠足にいったりする。
うちの学年は1クラスしかない上に少人数だったので、同じ学年が自分1人だけ…なんて班ができてしまった。
班は年度が変わるごとに再編成が行われるから当然「学年自分だけやん!」の子も毎年変わる。(はずだった)
そのころは低学年のきゃわいー私ちゃんだったので、6年生が話しかけてくれたり、遠足でも先生が一緒にお昼食べてくれたりするからなんとも思わなかった。
てかよく覚えてないけど、単に泣かなかっただけだと思う。
泣かなかったせいなのか分からないけど、次の年も一人だった。その次の年も一人だった。
4年にもなると他学年の子も気軽には声かけてこなくて、先生もそんなには気を使ってくれないし結構つらかった。。。
母親に話して、それ以降その班で遠足がある日は毎年欠席してた。(お母さんに超感謝)
先生はそんなことにも気付かず、結局卒業するまで1人だけ〜の刑を受け続けた。
この年になると1Pなんて何とも思わないんだけど、小学生の自分にとってはきつかったんだよねー。
性格も明るかったし勉強も運動もできる方だったから私が任されたんだろうけど(とでも思わないとやってられない!)
そういえばこういうことこれ以前にもあったな!!
1年生のときにクラスに暴れん坊の男の子がいたんだけど、(今で言えば多動症かな)
隣の席になった女の子がすぐ泣かされて苦情が学校やその男の子の家にいくからか、入学して数ヶ月で何回も席替えをやるはめに。。
で、ある日自分がその子の隣になったんだけど、、
まあお察しの通り学年が変わるまでその子の隣の席だった。。。
授業中しつこく机を揺らしてくるときには
「あと20秒後ならたくさん揺らして良いよ」って言って、ノートに書き終えた後に思う存分揺らさせてあげたり、
「これはお母さんのだからやめて。明日折っても良いやつあげるから。」と言って、
使いにくいほど小さくなった消しゴムや短いえんぴつを翌日あげてた。(なぜだかうちの文房具消費量はすごい)
ちなみに6、7歳の子の力じゃ小さい消しゴムやえんぴつって折れないんだよねぷぷぷ。。
しかしこの件のせいで、先生は前述の1人班の役目とかも私に託したとおもわれるので、
小学生の頃はよく「くそ、、嘘泣きしとけばよかった、、」とか後悔したものです。
叩かれるのを承知で言うと、大学もまあいいとこ出たけど、小学生時代はとくに賢かった。
同じぐらいの子の意味不明なモンスター行動を一休さん的頭の回転で回避したりはできたし、
そもそも友達には恵まれていたのでいくらモンスターがいようとも楽しく過ごせたんだよね。
でもねでもね、冒頭に書いた、班で1人・・・の件!!
あれだけは本当に無理!いまだに先生むかつくわーーー!とかたまに思うぐらい。
1人からのいじわるに我慢できるからって、1人ぼっちが平気な訳じゃないの・・・!!
大人から見たら小学生なんてみんな神童なんだろうけど、この件のせいかわからんが、私いざというとき意識的に余っちゃって自ら辛い思いする時期もあったぞ!
世間一般では、早期に才能を開花させた人のことを言うし。
早期(それも幼少期)の場合、ちょっとした訓練が才能を凌駕する。
こういう場合、本人達も勘違いしてるんだと思うんだけど、親と子供が一つのことに真剣になれれば、それだけで「神童」は生まれる。
習い事をきちんとしてるだけで、世間で言うところの天才は作り出せる。
問題は、それらの人が「本当に才能があったのだろうか?」というところ。
潰れたのだとしたら、それは才能が無いからで、自信を裏づけするだけの伸び代を得られなかっただけなのではないかな?
もちろん、努力と言うのも往々にして才能を凌駕する。
自分自身に暗示をかけることでゆっくりと技術を伸ばす人もいる。
でもそれは、自分の中の柱が揺るがないだけで、才能があったわけではない様にも思う。
凹んでも短期に自信を取り戻せるのは、それに値する伸びを実感できるからだ。
これはちょっと自慢ですが、僕はある分野でかつて神童と謳われてた事がありまして。今は凡人ですが。へへ。
で、僕はその過去の栄光のおかげで、特別才能のある子供達の英才教育現場に従事してきたのだけれども、そこで天才と呼ばれる彼らを見続けて、彼らが(そして思い返せば僕も)必ずと言って良いほど通過する心理的な難所に気がついたので書いておくことにします。ほんとに単純なことだけど。
彼らは成長の過程でまず、自分の中の万能感を認め、飼い慣らさなければならない。それまでの小さなコミュニティでは自分の優位性を再認識し、その存在を確立する手助けをしていた万能感が、渡航や進学で大きなステージに出たとたんに鈍重な重荷になる。万能感の根拠が相対的なものでしかなかったことに気がつくわけですね。
ある種の天才児達はここを乗り越えることが出来ない。万能感を適切な形に処理できないまま現在の自分とのギャップに苦しんで潰れてしまう。天才人生終了。
そしてその万能感を乗り越えると、今度はその反動で無力感が襲ってくる。いままでなぜか自信満々だったけど俺ってゴミじゃね?って思えてきてしまう。それでうじうじ考えて自己否定の論理を組み立て始めるんだけど、実際に周りにもっと凄い天才達がいるわけだからその論理が決して破綻してない。的を射てる。そうなってしまうともうダメ。内向的・後ろ向きになることで才能の推進力が止まってしまう。
思うに「天才性」ってのがあるとすると、それは現在の彼の状態ではなくて、天才なりの将来へ彼を進めていく推進力とか爆発力みたいなものも含めての「天才性」なわけです。上記のような状態の時に上手く制御された万能感をもう一回持ち出してきて自信を回復していけない子は、ここで天才人生が終了。
叔父は幼い頃は神童と呼ばれていたらしいが、僕が知っているのは精神病の男である、と言うことだけだ。叔父は中学生くらいの時におかしくなり、それ以来ずっと、祖母が実家で半分幽閉的に世話をしていたが、祖母が倒れてから叔父の兄弟である母ともう一人の叔父が、共謀して叔父を精神病院に閉じ込めることに決めた。長年閉じ込められてきた叔父には、外で生活できるだけの社会的能力はなかった(何度か外に出ては犯罪まがいの事件を起こしていた)。
うちには祖父の築いた財産があって、それで叔父の入院費はまかなうことが出来た。叔父を精神病に追い込んだのも祖父の厳しさだった、と周囲の人間は信じているから、それが自業自得だ(祖父にとって)と皆思っているのだろう。叔父の人生を心配する人はいたが手を貸そうとする人間は誰もいなかった。僕は幼い頃に何度かあっているがとても怖かったことだけを覚えている。大きくなってからは、会うことさえなかった。
叔父は当然のように未婚であり、祖父も祖母も死んでいたし、小さな頃から誰とも会っていないので、本当に誰からも愛され必要とされていなかったのではないかと思う。母ともう一人の叔父は兄弟としての義務感から彼を何とかしたいと思っていたが、「何とか」というのがなんなのかは具体的な形になっていなかった。少なくとも今の生活を崩すかも知れないリスクを冒してまで、何とかして叔父を助けたいと思っていない。叔父がいるおかげで自分が今幸せなのだと、思っている人はいなかったのだろう。
1ヶ月前、病院から電話がかかってきて、叔父が倒れたという。緊急治療室に運ばれて、違う病院に運ばれた。うちには祖父の築いた財産がまだまだあって、それで移転後の寝たきりの治療費(結構な額だ)も、まかなうことが出来た。
「最高の治療をしています、他の病院では多分助かっていないでしょう!」と医師は自慢げに話した。しかし誰も口にしないけれど、誰もが叔父がこのまま死んでくれることを望んでいたのではないだろうか。生命維持装置を外せば死んでしまう。それを維持するお金はある。でも、義務感以上には、それを維持する動機が誰にもなかった。誰もが自分が手を汚したくないという理由で、生命維持装置の維持を続けてもらっていた。最後、様態が急変して、叔父が結局死んでしまったとき、叔父の義理の弟である父がぼそっと「これでよかった」とつぶやいた。誰も何も言わず、何人かはうなずいた。
不運な、人生だったと思う。失敗した人たちは大勢いたが、悪意のある人は誰もいなかった。愛されてはいたのだろうが、それは正しく叔父を幸運にする方向には導かなかった。
誰からも望まれない人生について考えている。幼い頃は望まれていただろうが、やがて誰からも望まれなくなった人生の終わりについて。
なぜこんなところでマスターベーションをしてるんだ?こいつは!と考えたときに
「衆人環視の中で、生身の女性を視姦ではなく、グラビアを用いてのオナニーが最高なのさ!」という変態の星に生まれた神童であるというよりも、
「自宅や自室でできない、性的に抑圧された環境にいる子なのかもしれない」だとか
「単にマスターベーションがどういうものなのか、公の場ですることはどういうことなのかをわかっていないのかもしれない」だとか、
彼はすでに事を終え、悟りの境地に達したのか、手を止め、雑誌を粗雑に投げ置き、
ジッと見てきた僕という存在を気にしながら店を後にしていった。
瞳は濁っていたように見えた。濁っていたように思う。
グッと入れた体の力が抜けた。
俺も小さい頃、似たようなことをした経験がある。
当時は言葉にできなかったが、「どうせ逮捕されないんだし、仮に捕まったとしても周囲に自分の置かれている異常性を訴える良い機会になる。プライドなんて元々ないんだから行為に勤しむ事にしよう。ああ、どうせ終わった後周囲からまた蔑まされるんだろうな。でもそんな状況はここでやってもやらなくても今までと何ら変わりなく続くだろう。死にたい、死にたい、死にたい(シコシコ)うっ」と考えていた。
彼が何を考えていたのかは知らないし、もしかしたらそれを考える知能すらない池沼だったのかもしれないが、「濁った瞳」という表現をみると過去の自分とどうしても重ね合わせてしまい哀しさを書かずにはいられなくなった。
フンフフ~ンと競馬雑誌を読んでいると、相撲でもやっていそうなくらいに体格のよい、
小学校高学年~中学1年生くらいの男の子が、おもむろにギャンブルコーナーの隣にあったエロ雑誌コーナーを物色し始めた。
「そういうお年頃なんだな、フンフフ~ン」と考えていたのだが、彼は選び出したBOMBのシュリンクを剥き、
見開きページに寝そべっている篠崎愛を縦にして向かい合わせ、一心不乱にマスターベーションを始めたのだった。
目を疑った。
店内はクーラーが効いているとはいえ外は蒸し暑かったので、Tシャツの裾をパタパタと扇いで涼んでいるのかと思ったのだが、
勃起した己のナニを他人にバレぬよう垂直にチンポジを修正するわけでもなく、
堂々と、俗にいう“テントを張った”状態にして、イチモツの頂点をガシガシと擦っていたのだった。
これが大人であったなら、勇気を出して忠告するか、あるいは店員に報告したのちに警察云々…という話になるのかもしれないが、
相手は見るからに未成年。体格はかなりよいが小学生の顔立ちだ。
未成年者だからエロ本は18禁云々…とも思ったのだが、読んでいるのはBOMBの篠崎愛のグラビアだ。
BOMBは何だ?何扱いなんだ?
この子の行為を知らずに通り過ぎる主婦、帰宅途中の女子学生。そして、これから僕を見つけて横に立つであろう彼女。
この子を見たときにどう思うのだろう、どう感じるだろう。
どうするべきなのかという思考を殺して、無視してしまえと競馬雑誌に目を通すも、左目の視野入ってくる彼の右手の動きは激しさ増すばかりだ。
雑誌の記事など、ターザン山本の対談の相手すら頭に入るわけなどない。
なぜこんなところでマスターベーションをしてるんだ?こいつは!と考えたときに
「衆人環視の中で、生身の女性を視姦ではなく、グラビアを用いてのオナニーが最高なのさ!」という変態の星に生まれた神童であるというよりも、
「自宅や自室でできない、性的に抑圧された環境にいる子なのかもしれない」だとか
「単にマスターベーションがどういうものなのか、公の場ですることはどういうことなのかをわかっていないのかもしれない」だとか、
性教育やら家庭環境などの面についての妄想に近いいろんなことが頭をよぎった。
何の解決にもならないが、
『買ってあげるから、駅のトイレとかでしろ』
と言おうと決めて、彼をジッと見つめたときに、
彼はすでに事を終え、悟りの境地に達したのか、手を止め、雑誌を粗雑に投げ置き、
ジッと見てきた僕という存在を気にしながら店を後にしていった。
瞳は濁っていたように見えた。濁っていたように思う。
グッと入れた体の力が抜けた。
笑顔でやって来た彼女を見ても、どうしようもないぐらいに憂鬱な気分のままだった。
いや、憂鬱というよりも、なんとも言いようのない恐怖心のようなものがあった。
バイトでレンタルビデオ屋の店員をしていたから、AVを借りる・借りたい、女の子の裸でオナニーしたいぞ!
っていう男の子なんて山ほど見てきた。なんなら、そういう性的なことに関してはどっちかというと寛容なほうだと思っていたんだけれど、
それよりもはるかに目の前で行われていたことの衝撃が上回っていた。
今後も、彼は外的であれ内的であれ、何らかのキッカケがないかぎり、
マスターベーションを本屋ないしコンビニでグラビアを読みながらすると思う。AVのパッケージでもするかもしれない。
とにかく、自宅以外でオカズのある公の場所でするだろう。
また彼が成長し、今以上の性的欲求が爆発したときにどうなっちゃうのか。
考えなくてもいい、どうでもいいことなのかもしれないが、ゾッとした。
どうにか健全な、健全でスケベな、少なくとも分別ある男子になってくれと願った。
そうならないのなら、誰か第三者が彼をなんとかしてくれと願った。
何もできなかった僕です。何ができるのだろう。
考えすぎなら、それでいい。けれどなぁ。
男の側から見ても、得体の知れない恐怖感ってのがあったんだ。
できる営業職だった父の背中を見て育った。
学校の成績は良かったが、我ながらおとなしい性格だったので、父のような会社員にはなれないだろう、と小学校高学年の頃に悟った。その頃の将来の夢は考古学者。シュリーマンになりたかった。
それから数年。私が中学生のとき。父、癌を患う。一命は取り留めたものの、落ちた体力では、かつてのように仕事はできなくなる。会社はクビになった(病状の割には長く引き止め、部署を移すなど色々と対策もしてくれたが)。大学時代の友人の伝手で、小さな会社で働き出し、そこでも成果を出すものの、癌の転移が発覚。私が高校の時分に早逝した。
その後、母が生命保険や退職金を切り崩して捻出してくれた金で、出来が悪かったにもかかわらず、私は大学に入学した。小学校時代の神童も、今となっては人並以下。考古学者の夢はとうの昔に捨てていた。折からの不況。まったく学問として興味はないが、手に職のつく資格が欲しい、という甘い考えで入った法学部の勉強は、軟弱で夢想癖のある文学少年には想像以上の苦痛だった。そして、情けないことに、胃に穴を空け、単位を大幅に落とし、留年してしまう。
なんとか四年次まで進級するものの、就職活動でまた胃潰瘍になる。入院。今度は留年こそしなかったものの、就職浪人になる。ただでさえ社交性がなく、新卒の下駄でぎりぎり内定が出るか出ないかの身。カウンセリングや話し方講座なども受けてみるものの、大した影響はなく、どうにも上手く行かない日々。ようやく出た内定は、小さな会社の営業職だった。
それから半年が経つ。やはり父は偉大だった。時代のせいもあるのかもしれないが、この過酷な職業に良く耐えられたものだ。先日、あまりの不調にかかった医者に、軽度の鬱病と診断された。
そんな私の現時点での考え。
不器用で、内向的な人間が、幸せに生きられる場所なんて、この世に、ない。
努力しても、変えられないものが、ある。
母が無事に逝ったら、私も穏やかに逝けたらよい。そんなことばかり考えている。
仕事が終わらない
週末も仕事
寝ても覚めても仕事
周りのやめるやめるという雰囲気に流されそう
しかし、お前今会社やめて何すんの?
齢30前にしてやる事も無いの?
弁護士を目指すという夢はとっくに破れ
じゃあ、ともう何度落ちたか分からない司法書士という目標ははるかかなたにあり
手短な資格すらままならない
神童とまでは言わないも、それなりにできた幼少
やればできたのは過去の話
元気があれば何でも出来る
その元気がないから何も出来ない
成功していない人だって努力してたよ
じゃあやんないのか、お前は
何一つなさずに、理想だけを追いかけて実際は指一本動かすのさえ億劫な態度で
口だけのうすっぺらい人間
友達に呼ばれた飲み会で話す話題が圧倒的に足りなかった
伝聞・噂・陰口・愚痴・不満・やっかみ
何これ?こんな話しかできないんじゃそりゃ次から呼ばれなくもなるよ
視野がせまけりゃ、志も低いときたもんだ
自分に自信が無い人を見分ける事って簡単だよって、昔習った
目をあわせられない
今の俺
薄っぺらな自分を見透かされないように
目線をなんとか逸らしてもらうよう、話をしむける
自分に自信が持てなくなってもうすぐ8年
卑屈を通り越すと、反発するのかと思ったけど
全然そんな事は無い
ひん曲がり、先は細くなり、複雑に絡み合って
もはや自分ではどこから手をつけたらいいか、訳がわからない
買わない宝くじの使い道を空想しているようだ
やあ!おいら、オッサンレゲーマー。
あんまり読みたいFF13論がないなあ、と思ったので、自分で書くよ!
「FF13」はゲームシステムとか遊んだことがないので分からないので、設定のみに注目するよ!
まず、主人公が女性。
おいらはこれが全てを象徴していると思う。
いわゆる「邪気眼」というのは、「自分が特別だ」という根拠の超現実を自分でねつ造することだよ。そして、女性って、みんな「自分が特別だ」と思いたい(これに対し、私は違うと反論もある訳だけど、女性としてひとくくりにされたくない、女性の中の例外になりたいという意味では、やはり、「特別な存在になりたい」んだよね)。
霊とか持ち出す人が多いのも似ている、と書くと怒られちゃうかな。
だから、少年漫画雑誌(以下、少年誌)と女性も割と相性がいいんだよね。
必殺技とか超現実的だし、友情とかも別の意味で楽しむ女性が多いんじゃないかな。
もっとも、それに対する後ろめたさ?みたいな物は非難する気にはなれないけどね。エロゲやエロ漫画は別に意味でえげつない物があるしさ。
じゃあ、結局、何が言いたいかというと、「FF13」というのは、逆ベクトルからJRPGにおける「テニスの王子様」に近いんじゃないか?ということ。
JRPGの基礎を作ったドラクエの作者、堀井雄二は「ゲーム界のジャンプ(漫画雑誌のね)」を目指して、ドラクエを作ったらしい(という記事を見た記憶があるけど、定かではないよ。誰かエロい人の補足を待つよ。その後、実際「ファミコンジャンプ」というゲームが出たというオチがあったと思ったけど)。
要するに、JRPGというのは「漫画世界の体験装置」を目指していた訳だよ。
それに対して、WRPG(Western RPG(洋物RPG))は、目指しているのは、システムによる異世界の表現、つまり、TRPGが当初目指していた物を未だに目指しているようにも見える。
つまり、JRPGとWRPGは、全く違う方法論で現実世界との間に緩衝材を入れてファンタジー世界としての適温を作り出しているのではないかな。
例えるなら、
JRPGは、(万能的な)漫画的世界観を緩衝材にして現実をフィルタリングし、異世界体験を生みだそうとしている。
WRPGは、ある一つの(万能的な)システム(例えば、FPSシステムとか)を緩衝材にして現実をフィルタリングし、異世界体験を生みだそうとしている。……ように見える(ごめん。逃げました!)。
で、なんで「テニスの王子様」が出てきたかというと、FFの場合、主人公が「女体化」した時点で、ある一線を越えてしまったような気がするんだよね。
例えば、「テニスの王子様」と「FF13」の楽しみ方って、買わないで、ネタ的、というかお笑い感覚で楽しんでいる人も多い。それって、両性的な感性がおいらたちを変な気分にさせるからなんじゃないかな。誤解を招く言い方かも知れないけれど、「ドラゴンボール」には落ちるけど、「ワンピース」が少年漫画の王道とすると、少年漫画の変態進化形が「テニスの王子様」だと思う。これに対して、FC時代の「ドラゴンクエスト」には落ちるけど、「ドラゴンクエスト9」がJRPGの王道とすると、JRPGの変態進化形が「FF13」なのではないかな。
「逆ベクトルから」というのは、「FF13」は、作者の男性が「(自分のなりたい)女性の主人公を中心とする人間関係」により近づこうとすることに対し、「テニスの王子様」は、作者の女性が「(自分の見たい)少年の主人公達の人間関係」により近づこうとするように見えるからだよ。
だから、関係ないかも知れないけど、個人的には、ジュブナイル小説ブームの終わりくらいに、末期症状的に「織田信長がアンドロギュヌスだった!」みたいな小説が出たように、JRPGもそろそろ終わりに近づいているんじゃないかと思う(少年漫画もそう)。
結局、JRPGは、ジャンプ世代が作ったゲーム群のようにも見える。
とすると、その後コロコロ世代がオモチャっぽいゲームを作った後、いろんな勢力の入り乱れるカオスになる可能性も高いとか?
どうだろう。個人的には、ネットが人を大人にしてしまうような気もするなあ。もう、おいらは村一番の神童、という時代ではないし。ネットを見れば、自分よりも頭の良いやつが幾らでもいるのが分かるしねえ。
そう言う意味では、「ハンターハンター」の上には上がいる、という洋ゲー的な、自分は特別ではないという世界観がそれなりにリアリティがあると思うね。上は上で訳の分からない戦いをしている、みたいな。
結局、おいらはおいらの手持ちの武器を磨いていくしかないや。
あとは、知恵と勇気がおいらの全てよ!
インターネット時代のリアリティはこんな感じじゃないかな。
(とは言え、MMOも問題が沢山あるしなあ)
ちょっと余談を入れると、JRPGにおける物語と自由度のジレンマというのは有名だけど、なぜ、JRPGでは物語が重要視されるか、という点で、最近は「開発工数を削減するため」という視点もあるんじゃないかな。
例えば、面白い漫画のアニメ化や、面白い小説のアニメ化というのは、面白い漫画のゲーム化や面白い小説のゲーム化よりも楽だと思うよ。なぜかというと、アニメの場合、ストーリーという骨格が使い回せるから、脚本の出来が良くなる可能性が高いけど、ゲームの場合、純粋なゲームの駆け引きの面白さというのは、ストーリーとまた別の物だしね。
で、そこで出てきたのがJRPGで、ゲームにストーリーを付加することにより、大体のゲームは、純ゲーム的な駆け引きは緩めのバランス調整にし、ゲームの展開(=ストーリー)で(?)楽しめるようにしたわけ、多分。
ただ、最近は、開発工数削減のためにプレイヤーに自由度を与えないようにするストーリー展開、という気もするなあ。
と、グダグダと書いてきたけど、建設的提案はあえてしなかったよ。
……うそです。出来なかったよ!