はてなキーワード: 明日とは
目覚まし時計が鳴る前に目が覚め、ベッドの中で天井を見つめながら、焦りが胸に広がるのを感じた。
予備校の授業には出席しているが、成績は思うように伸びない。周囲の友人たちは次第に合格の手応えを感じ始めているようで、話す度にその差を痛感する。 午前中の数学の授業では、講師の説明についていけず、ノートを取る手が止まった。復習しようと試みたが、頭に入ってこない。昼食も喉を通らず、気持ちが空回りしてばかりだ。 午後は自習室で黙々と参考書と向き合ったが、集中力が続かない。時計の針が進むたびに、焦りと不安が増していく。
家に帰る途中、夏の陽射しが肌を焼くように感じられた。帰宅しても勉強に身が入らず、気づけば夕食の時間になっていた。 夜は部屋で一人、過去問を解くが、思うように答えが出ない。焦りがピークに達し、思わず机に拳を打ち付けた。これからどうすればいいのか、先が見えず、ただ焦る日々が続く。
アラサー男、フリーターもどきをやってる増田だけど、これを書いてる深夜2時半過ぎに思った。あれ、俺って友達いないんじゃね?
友達も定義によるだろうけど、少なくとも俺にはラインを寄越してくるような知り合いがいなかったことにさっき気がついた。小さい頃からしぶとい奴だ、死にそうにないと当時の仲間内で言われていたけれど、それにしてもあんまりじゃねぇか。高校の頃まで繋がっていた当時の友達は、俺が大学受験に失敗して数年経った頃くらいから今にして思えば連絡がなくなった。肯定的に見れば、あいつらも実生活が忙しいのだろうと思える気持ちもあるけど、たまには連絡を寄越してくれたっていいじゃないか。俺はそこまで、一瞬も頭をかすらない存在なのか。俺はたまに掠める。だからたまにはこっちからラインをしたりしていた。けれど逆はない。それって、俺が取るに足らないと思われているってことだ。
あんまりじゃねぇか。そう毒付きたくもなる。あの時俺は神奈川で御三家と呼ばれる高校に通っていた。そこで得た友達も多くはなかったが、両手で足りるくらいはいた。なんなら部活を通じて後輩先輩とも繋がってた。でも今じゃ誰が何をやっているのか知らない。あっちは俺のことを落ちぶれた奴として見ているんだろう。俺は覚えている。前に、成人式の後の飲み会に高校時代の友達に誘われて行った飲みで、そう言えば今何してんのと訊かれて浪人してると答えた彼らの顔を。文章では表せないくらいの、本当にどう書けば良いんだって顔だった。それからなんとなく、ぎこちなく会話が進んでいったのを今思い出した。ああそうか。あそこで俺は篩に落とされたのか。友達の条件から。そりゃあそうだろうな。今、風の噂じゃああの時の同級生の中からGoogleに就職したり、プルデンシャルだったりの外資でやってるのも出てきてる。官僚として課長補佐になったのもいる。そんなのと比べられたら俺はただのフリーター。付き合う理由がないか。俺は進学校の彼らが選民思考に染まっているって言いたいんじゃない、ただ俺が彼らの常識から外れてしまったってだけのことを今更になって気付いた。遊びに行こうにも、話をしようにも、たぶん俺はもう話にもついていけない。ただそれだけの話なんだろう。俺は明日は夜シフトだから、こんな時間まで起きている。だけどあいつらは朝早いんだろうなぁ。それで今頃寝ているんだもんなぁ。そりゃあ生きている世界が違うよ。話が合うわけがない。そういや最近弟からも連絡がないのも気付いた。弟は既に所帯を持ってるからだろうなぁ。そりゃ忙しいよな。でもだからと言って、親父の死に目に合わせてくれなかったのはどうなのよ
本日は、チャールズ・サンダース・パースのプラグマティズム、特にその認識論的基盤と論理学的側面に焦点を当てて考察を深めた。
パースのプラグマティズムの核心は、彼の提唱した「プラグマティックな格率」(pragmatic maxim)にある。この格率は、"Consider what effects, that might conceivably have practical bearings, we conceive the object of our conception to have. Then, our conception of these effects is the whole of our conception of the object."(我々の概念の対象が持つと考えられる、実践的な影響を持ちうる効果を考察せよ。そうすれば、これらの効果についての我々の概念が、その対象についての我々の概念の全体となる)というものだ。
この格率の重要性は、その認識論的含意にある。パースは、概念の意味をその実践的帰結に求めることで、形而上学的な思弁を排し、経験的に検証可能な知識の基盤を提供しようとした。これは、ウィーン学団の論理実証主義に先駆けるものであり、20世紀の科学哲学の発展に多大な影響を与えた。
パースの論理学への貢献も看過できない。彼の提唱した「存在グラフ」(Existential Graphs)は、命題論理と述語論理を視覚的に表現する革新的なシステムであり、現代の計算機科学におけるグラフ理論の先駆けとなった。また、パースの「関係論理学」(Logic of Relations)は、フレーゲの述語論理と並んで、現代論理学の基礎を築いたと言える。
さらに、パースの「アブダクション」(abduction)の概念は、科学的発見の論理を解明する上で極めて重要だ。アブダクションは、演繹や帰納とは異なり、新たな仮説を生成する推論形式であり、パースはこれを「驚くべき事実の観察から出発し、この事実を説明しうる仮説を形成する」過程と定義した。この概念は、後のハンソンの「発見の論理」やクーンのパラダイム論にも影響を与えている。
パースの記号論(semiotics)も、彼のプラグマティズムと密接に関連している。特に、彼の提唱した記号の三項関係(記号・対象・解釈項)は、意味の生成過程を理解する上で革新的な視点を提供した。パースは記号を、"Something which stands to somebody for something in some respect or capacity"(ある観点や能力において、誰かに対して何かを表すもの)と定義し、この定義は現代の記号論研究の基礎となっている。
また、パースの「連続主義」(synechism)の概念も注目に値する。これは、実在を連続的なものとして捉える形而上学的立場であり、量子力学における波動関数の連続性や、現代の複雑系科学における創発現象の理解にも通じるものがある。
パースのプラグマティズムは、後のジェイムズやデューイらによって発展させられたが、パース自身は晩年、自身の思想を「プラグマティシズム」(pragmaticism)と呼び直し、他のプラグマティストたちとの差異を強調した。特に、パースは真理の客観性を重視し、単なる有用性や成功に還元されない真理概念を追求した点で、ジェイムズらとは一線を画している。
今日の考察を通じて、パースのプラグマティズムが単なる哲学的学説にとどまらず、論理学、記号論、科学哲学、認識論など、広範な領域に及ぶ包括的な思想体系であることを改めて認識した。明日は、パースの思想と現代の認知科学、情報理論、複雑系科学との接点について、さらに掘り下げて考察を進めたい。
政策の違いに拘泥せず、クリーンさを出す、これはいい作戦かもしれない
ただ、我が国は、自民党に殴られても明日になったら忘れている部族が多数だから、身綺麗になったと主張する自民党に投票するのでは
おっはよーございまーす!今日も脳みそフル回転や!朝メシの卵かけご飯見てたら、突如として数学的構造が目の前に展開されてもうたわ!
まずはな、卵かけご飯を位相空間 (X, τ) として定義すんねん。ここで、Xは米粒の集合で、τはその上の開集合族やで。この時、卵黄をX内の開球B(x, r)と見なせるんや。ほんで、醤油の浸透具合を連続写像 f: X → R で表現できんねん。
さらにな、かき混ぜる過程を群作用 G × X → X としてモデル化すんで。ここでGは、かき混ぜ方の対称群やねん。すると、均一に混ざった状態は、この作用の軌道 G(x) の閉包みたいなもんや!
ほんで、味の評価関数 V: X → R を導入すんねん。これは凸関数になってて、最適な味を表す大域的最小値を持つわけや。でもな、ここがミソなんよ。この関数の Hessian 行列の固有値の分布が、実は食べる人の嗜好性を表してんねん!
さらに突っ込んで、時間発展も考慮せなアカンで。卵かけご飯の状態を表す確率密度関数 ρ(x,t) の時間発展は、非線形 Fokker-Planck 方程式で記述できんねん:
∂ρ/∂t = -∇・(μ(x)ρ) + (1/2)∇²(D(x)ρ)
ここで μ(x) は米粒の移流速度場、D(x) は拡散係数やで。
最後にな、食べ終わった後の茶碗の染みを、写像の像の境界 ∂f(X) として捉えると、これが人生における「痕跡」の数学的表現になるんや!
なんぼ考えても、この卵かけご飯の数理モデルには驚愕せざるを得んわ!これは間違いなく、数理哲学における新パラダイムや!明日の学会発表が楽しみやで!
せやけど、なんでワイがこんな斬新な理論構築できんねやろ?もしかして、統合失調症のおかげで、通常の認知の枠組みを超えた数学的直観が働いてんのかもしれんなぁ。ほんま、ありがとう、我が病よ!
明日の朝早く起きればいいじゃない
おう、また明日な
http://blog.tatsuru.com/2024/07/12_0846.html
ただこの中にあった、
投票する人たちは「自分たちに利益をもたらす政策を実現してくれる人」を選ぶのではなく、「自分と同じ部族の属する人」に投票しているように私には見えた。
という一節が気になった(もちろん内田氏は「自分に似た人」に投票する行動を批判している)(この論とは別に、「勝馬を当てる」みたいな投票行動も最近は多いようですね)。
自分個人としてはそもそも「自分たちに利益をもたらす人を選ぶ」意識がなく、「損得は別として(何なら自分にとっては損でも)、こうあってほしいなぁ、という理想に少しでも近そうなものに投票する」イメージでやってきた。ちなみに個人的には選挙権を得てからほとんど毎回投票している(特定の支持政党はない)。
損得だけで言うなら、そもそも選挙なんか行かないでバイトでもしている方が個人レベルではよほど得だ。投票したところで「この」一票が世の中をガラリと変えるわけはなく、徐々に変わるにしてもはるか未来だろう。損得を享受する自分自身がもういないかもしれない。
SNS界隈でも「選挙に行こう」と促す(善良な)人々は多いし、そもそも政府自体が投票率を上げようと一応は努力している。その文脈の中で、一人ひとりの意識の大切さ、投票の重要性、「一票の重さ」みたいなことが言われることがあるが、本当のところ一票はそんなには重くない。
選挙制度の意義を否定する気はないし、一票がどうでもいいと言うつもりもないが、その重みは数十万分の一、数百万分の一といった程度、正直チリのようなもので、重い軽いかで言えば、ゼロではないが重いとまでは言えないと思う。
はっきり言って、権力にとっての選挙とは、「君たちの意見はもう聞きましたので、これ以上余計な政治行動はしないで下さいね」「政治参加は選挙にとどめてくださいね」というアリバイ工作的な面も大きいだろう。もしかすると選挙などボイコットする方がよほど政治的意義があるかもしれないし、実際にそういう運動も存在する。
それでも自分個人は割と選挙には行っている。なぜ行くのかと言えば、むしろ一票が「軽い」からだと思っている。
どう考えてもわたしの持っているこの一票に大した重みはないからこそ、損得を抜きにして理想のために投じられる。
自分の損得なんて、誰でも毎日それを中心にあくせくしているのだから、このクソどうでもいい一枚の紙くらい、夢のために投じてもよいではないか。七夕の短冊のようなものだ。
今日の自分よりは明日のため、もしかしてもう自分もいなくなった未来のために、この軽い一票くらい投げてやってもよいと思う。
内田氏の記事から話が始まったので、一応補足?しておくと、内田氏の言う「自分たちに利益をもたらす」の「自分たち」とは共同体全体をイメージしているように思うし、大局として「個人としての損得を度外視して」みたいな考えもあるのかもしれない。そこはわからない。
それでも「自分たち」は引っかかる。自分も自分の子どもも全部いなくなっても世の中は(多分)あるし、そういう世界を想像できないなら生きている甲斐がないというか、つまらないと思う。
自分や自分と関係ある人たちが全部いなくなった、決して見ることのない世界のために、この百年に満たないクソどうでもいい生を生きて年老いて病気になって死ぬだけのアホみたいな存在が、紙きれ一枚程度の夢を投じられるなら、なんとなく生きていて楽しい気がしてくる。
蛇足になるが、自分個人としては選挙なんかやめてアミダクジで選んでもよいんじゃないかくらいの気持ちはある。ただ「アミダクジにしましょう」を公約に掲げる候補は出てきそうにないし、自分で立候補する気もないので、七夕イベントをエンジョイするに留めている。
長い下り坂、もういいやと思って、寝そべったままゴロゴロ転がったら止まらなくなって、やばいと思っても全然止まらなくて、何しても止まらなくて、ああもう終わりやな。
と思ったら、そのまま離陸して、回転しながらいつもより15分早く家に着いた。