はてなキーワード: 帰属意識とは
メンヘラだなこれは。
受験生なのに一日の勉強時間が10時間を超えたことがない。怠惰すぎる生活を送っている。勉強とスクリーンタイムが同じ時間ってやばい。
でもやばいってわかっていながらも、この世界で生きていく覚悟というか、意志というか、帰属意識というか、そう言ったものがなさすぎてどうでもいいやって言う気分になってくる。この世界や自分が生きていくこと、社会的地位に執着がない。学校の講演会で「守るもの、大切にしたいものが無くなって全部どうでもよくなった人が犯罪を起こす」みたいな話を聞いたけど、今はその犯罪者の気持ちがちょっとわかりかけている。精神状態的に、環境によっては絶対コミットしてたと思う。
勉強しててもわかってるのにミスしまくるし、理系なのに理系科目できないし、最初の方でミスって後になってから気づくけどでも時間的に後戻りできないみたいなのがしょっちゅうだし。その辺のストレスを発散しようと思ってキットカット食べまくってしかも運動しないから確実に太っていっているし。
個人的にはやや単純すぎ怪しいと思う
一般に、反グローバリストは当事者性への立場とかやウチ・ソトの区別が単純で
グローバリストはそれがないということだ、という視点は一理ある
でも俺は余り支持していない
支持政策がグローバリスト的でもドメスティック的でも、ウチ・ソトの直感的な区別に起因する好き嫌いは強固で
グローバリストはその基準が国や見た目ではなく、知能指数や道徳的振る舞い、会話の高度さなどで判定されているという結果が出ていた
排他性はどっちも同じぐらいだという
例えば、キリスト教保守の宗教家とかが彼らなりの問題意識で社会運動すると
グローバリストが脊髄反射で「胡散臭い、詐欺だ、偽善だ」と言うパターンはある
要するに、集団全体の利得のために、道徳規範や協力を説く相手を
別に集団に帰属してるんじゃないかとか、個人の利益のためじゃないか、と直感的に反発するのが偽善を感じる機能だ
この判定が厳しすぎたり、単純すぎるのが活動家嫌いだろうか
一理ある
だが逆にグローバリスト活動家は帰属集団を人類全体にとっているだろうか?
これはかなり怪しい
「帰属集団を世界全体にとっているというお題目を掲げた、実際には一部の集団」に帰属意識をもっているだけかもしれない
というか教育や親、周囲の環境の影響を受けているだけならそのパターンは実際に多い
グレタさんが活動家になった第一要因は親が活動家だったからだろう
犯罪被害者の手記を毎日読んでいる人間は被害者と自己同一化してしまうことも多い
そうでない人間との違いは、心の傾向ではなく毎日手記を読んだかどうかだろう
活動家嫌いも幼少期から毎日環境保護活動してたら偽善だと感じなくなるかもしれない
決定しているのは生育歴やらの環境要因だ
そういった経験もなく、純粋な共感性しやすさで行う人間も居るだろうが、それは詐欺に騙されるのと外形的には違いはない
共感性が高いと見るか知能が低いと見るか
というわけで俺なりの結論を述べると、特定の活動家に偽善だと思うのはごく普通、正常範囲内の心の動きであり
特定の活動家を支持するような人間も、別の問題には偽善を感じている場合も多いし
それを分けるのは主に、その特定の問題に幼少期にどれぐらいコミットしたかとか教育歴とかなどで
心の性質による傾向の違いだけで説明すべきかと言われると否だと思う
何でも当事者性を感じて、他人の活動に偽善を感じない人がいたら
詐欺に騙されまくったり
むしろ特定の活動家にもなれず、様々な社会問題を毎日気にして精神病になってしまうだろう
だが正常な低さと言えるだろう
母子家庭で育った。
勉強する意味もわからず勉強に励んでいた。おかげで中学時代は成績自体はそこそこだった。
たが高校時代、思春期の頃に自分の将来についてちゃんと考えることが出来なくて
成績は急落、一浪した。母子家庭で一浪、それを許してくれる母親に感謝し心を入れ替えて勉強した。
全ては自分のため、そして家族の一員として期待に応えるためだった。翌年、志望校には合格できた。
以前の自分は家族の期待には応えるように行動していた。実際自分は、自分自身よりも他人のために行動するときのほうが集中していた。
だがその結果、自己肯定する能力は人より劣ってた。就活も苦労した。拠り所を家族のためだと思って頑張った。やがて内定は得られた。
自分には趣味があった。他人には話しにくい趣味だが自分の思春期の言いようのないストレスのはけ口として
何度も心の支えとして機能していた。生憎 お金はそこまでかからないので中高大になってもそれを続けていたし
就職してからは、友人とも会うこともなくなり益々のめり込んでいた。どこかで常人の閾値を超えてしまっていたようだ。
数年前にその知見を活かして本を出さないかと出版社から打診があった。あの日の青天の霹靂のような瞬間を今でも覚えている。
二つ返事で執筆開始。好評だったのかその一冊以外にもその後も何度か仕事があり、現在はリーマンと二足の草鞋で活動している。
その当時の話だが、出版したことが嬉しくなって母親に話した。しかし母は別にその趣味に理解は示さなかった。それ自体は別に良いのだ。
それよりも今度帰ったのなら一緒にゴルフでもしないかと誘ってきた。どうやら一緒にコースを周るのが夢だったそうだ。
執筆があるからと断った。生憎 ゴルフには全く興味がなかった。母親の思い通りに、家族に帰属意識を持たない故の行動だった。
母は兄弟姉妹のなかで唯一 このようなわけの分からぬ趣味を持った自分が理解できなかったと思う。母の描く理想にはなれなかった。
家族を離れ地方に就職し一般的な社会の荒波に揉まれた自分は、いつしか家族に感謝はしても併合する気持ちが無くなっていた。
話は変わるが自分は進撃の巨人のエレンに非常に共感している。自分の自由のためになら何だってする精神は日々の生活で活かしている。
例えば自分は会社で、献立が決まった弁当を頼むことがない。必ずコンビニで買う。理由は自分で食べるものは、自分で選びたいからだ。
献立の決まった弁当は、考えることを止めた人間の選択だと本気で思っている。もしその日死んだら絶対にその事で自分は後悔すると思う。
たとえ自分が選んだ事で不幸が生じても、その選択を選んだ事自体に後悔はしない。同僚にこの話をして理解してもらった事はないが気にもしない。
冒険の反対が「母」というのは正しいと思う。家族という帰属組織の中で生きていた自分にとっては15年くらい
住んでた6畳半のアパートは正に牢獄のようなものだったと振り返れる。敢えて嫌味のようにその事を告げるつもりはない。だが未だに牢獄の中で
生活せざるを得ない母には同情している。せめて役割めいた母ではなく、本名で向き合えたらもっと話せるのになと思う。難しいんだけどね。
「俺の目に止まっただろ?」と言ってる連中がウジャウジャいてキツすぎるわ。
お前ら、何様のつもりだよ。
本文も読まねえカス共の目に止まって何の得がある?
マジでやべえよ。
日本SUGEEEEEEEEEを日頃馬鹿にしまくってるくせに自分たちは俺たちSUGEEEEEEEEEEEEEEEしてるわけだ。
つまり、お前らは自分の生まれた国に対して帰属意識を感じられないようなはぐれ者であり、そして自分たちを追放した奴らを蔑んでいながら、自分たちはソイツらと同じことしてることにも気づかない馬鹿ってことだよね?
いっそ言葉が通じないほうが良かったとすら言えるな。
だが、逆にここで言えることがある。
それが日本というキモイナルシストの集まり国家の中だけに留まったことだ。
つまり逆なんだよな。
「こんな馬鹿どもがこの島国にはウジャウジャいるってことが、世界に気づかれるリスクが減る」が俺たちが日本語を扱うメリットなんだよ。
これって割とオタク文化やギャル文化じゃ実際に起きてることなんだぜ?
なんでアイツらが独自の表現を使うかって言うと、そういった言葉を使うことで一般人から近づかれるのを防いでるんだよ。
でも、外からは理解できないような言葉を使って意味不明なことを言って、それを意味不明って笑われる分には「あいつら、俺達の言葉が分からないんでござるなあwwww」「マジヤバwwwww言葉通じない奴らに何言われても興味ネーしwwwww」で終わらせられる。
つまり意図的に言葉を通じなくすることで、言葉が通じてないからバカにされただけって言い訳を用意してるんだよね。
そうすることが生存戦略として界隈や個々人の経験に深く刻まれてるから、すぐに意味不明な造語を乱発したがるわけよ。
日本人の持つ恥の概念の歪さが産んだ恥の上塗りシステムがヒエラルキー下層にありがちな造語症もどきなわけね。
日本人っていう情けないナルシー下等民族にとって、日本語というのはまさにこの効果を最大限に発揮する最高の道具な訳。
つまり、日本語を使うメリットは「恥をかいてないと思い込むためのバリアとして有効」になるんだよね。
良かったじゃん。
超絶情けねえゴミみたいな代物だがな。
とあるブログがブクマ数を集めていて、さらに文章力が褒められていてうれしい。
著者の方は、ネットで出会った中で一番文章がうまい人ではないかと前々から思っていたのだ。
話は急に飛ぶが、この文章力の秘訣はプロレスではないかと思っている。
自分は全くプロレスを知らないのであくまで想像だが、でも間違いないと確信している。
他のブロガーやライターの文章でも躍動的な比喩、リズム感、笑いのテンポ感覚に感動するものは作者が皆、プロレス好きなのだ。
逆に、目の付け所はいいんだけども文章自体はなあ・・・という人はたいていプロレスファンじゃないのだ。
どうやらプロレスには、雑誌や書籍上で熱く語られる「文字のプロレス」という文化があるらしい。
熱心なプロレスファンはそれらを読み込み、咀嚼し、そしてあの卓越した文章力を身に着けたのではないかと考えている。
嘘だと思ったら、好きな文章を書くブロガーなりライターなりがプロレスファンかどうかを調べてほしい。
「あぁ^~心がぴょんぴょんするんじゃぁ^~」のコピペも有名だが、それ以外にもゲイの書く名文はネットでもたまに話題に上がる。
タモリ倶楽部でもゲイ雑誌の惹句が特集されたりと、やはり高い文章力を誇る界隈なのである。
こうした「学校文化」とは離れた場所で、単なる美文麗文とは違う「生きた名文」が教育される土壌があったことに、なんだかわくわくする。
とても豊かで憧れすら感じる。
他にも文章力の高い界隈はあるのだろうか。あるなら教えてほしい。なんとなくでもその片鱗を感じてみたい。
釣りは一時期はまっていたが、そこまで文化は発展していなかったように思う。むしろ鼻につく文章が多かったイメージがある。
「紙上での釣り」では(漫画だけど)釣りキチ三平があまりにも偉大過ぎたのだろうか。
しかし、今のネット時代ではそういった文化自体が廃れていくようで、当事者ではないくせに妙に残念な気持ちである。
ネットはスラングが流行ることはあっても、文章の構成力を育ててくれる場には結局ならなかったようだ。
趣味嗜好の垣根自体も薄くなり、趣味への帰属意識もなくなっていくのだろう。
それはもちろん良い部分もあるのだが、やはり寂しい。