はてなキーワード: 安息とは
http://anond.hatelabo.jp/20140306104852
『自分で自分が認められる』ようになれ、そのために頑張って努力する。
かなり核心をついた意見だと思うのですが『自分で自分が認められる』ようになるには、
実は『他人に自分が認められる』ことが必要になると思っています。
エリクソンという有名な心理学者が提唱した「青年期の課題」でも同じことが述べられています。
社会との関係のなかで自分がどう言う人間か定義できなければ、心理的に不安定な状態になってしまう。
新しい自我同一性(ego identity) ―― 自分がどんな人間かということ ―― を確立することが課題となり、
これに失敗すると役割混乱が起こって同一性拡散(identity diffusion)という病理が生ずる。
ごちゃ、ごちゃ書いてしまいましたが、
自分にしかできない仕事をして周りの人から感謝されると、とっても人生充実している様な感じがするのではないか、ということです。
文章を見る限り、十分努力もした。
じゃあ、どうすればいいの?というのがここでの問題。
(そこで元増田の次の増田は、神様が欲しい!と言った訳です。神様僕のことを認めてください!とね。)
二人の元増田がどういう状況にいるかわからないから、何とも言えないのですが、基本的な方針としては、
「元増田のことを求めている人たちを探すことじゃないかな」と思う訳です。
十分頑張ったって言ったのにできなかったんだってば!と言いたくなるかと思いますが、
努力の仕方を変えてみるのも一策ではないかということです。
それはどんな些細なことでも、ボランティア活動などでも構わないと思うのです。
もちろんそれをするゆとりが無いんじゃないかと言うのは気になるのですが。
(余談)
他のやり方としては、
①増田の取ったキリスト教的なアプローチ、つまり神様を定義するやり方、
③右翼的な活動に参加して、社会との結びつきを得て、一時的な安息間を得るやり方、
があるかと思います。
あなたは我慢しすぎです。戦わないと・・・精神的に壊されますよ。
このさい離婚もありです -- 諦めていた人生に希望が見出せる。また安息感に満たされる。
>>妻が自分を大切に考えていないことが主な理由。
モラハラ体質の特徴として
・正しい主張をした方が勝つわけじゃない
・重要なのは自分の言ってる事が正しかろうと、間違っていようと とにかく相手を説き伏せてしまう弁論力
・相手に致命傷を与えずに勝つ。バランスを保ちましょう。
・経済的主導権を握る
現実では見たことがない、訪れたことがないはずの場所に自分がいるということが何度もある。
窓がなく知り合いも居ない大学の後ろの方の席にいる。講義が終わったように周りがざわざわしだしたと思ったら、自分は焦燥感を覚えてその場を離れ、電車に乗る。
快速で8駅離れた駅まで乗り、そこから普通で3駅戻ると、閉塞感のある田舎の駅につく。大学の下宿先の木造アパートがある駅だ。
ここまでは、この設定の場合では共通している。しかし、ここから分岐する。
・砂利道を進んで下宿先に戻ると、大部屋がふすまのような木の引き戸に仕切られた一角へ体を下ろす。戸のすりガラスから周りの様子を伺えるが、誰もいないようだ。
・荷物を持って下宿先を後にする。砂利道を歩いて駅へ向かい(分岐1)、また電車に乗り大学へ向かうが、折り返しの駅でどの電車に乗ればいいのか分からなくなる。赤い■のマークが付いている路線表記の看板を見ながら電車に乗ると、名古屋についた。(分岐2)
・(分岐1の続き)どうやら忘れ物をしたようで、下宿先に戻らないといけない。戻るとやはり誰もおらず、焦燥感が訪れる。トイレに入ると、なぜかは分からないがものすごい恐怖感に襲われ、扉を叩くがなかなか開かない。やっとのことでトイレから出ると、転がるように下宿を後にし、砂利道を駆け出す。
・(分岐2の続きa)名古屋は夜になっていて、幹線道路のわきのネオンを横目に、坂道をとぼとぼと歩いていた。駅の地下街には行きつけのゲームセンターがあり、そこへ向かえば安息が得られるだろう(ゲーセン編割愛)
・(分岐2の続きb)名古屋は夜になっていて、幹線道路のわきのネオンを横目に、坂道をとぼとぼと歩いていた。夜なのでもう店は閉まりかけているが、どうしても本屋に行きたい。行きつけの本屋ビルの閉店まであと数十分というところだが、なんとか滑り込み、目的のフロアへ向かう(本屋編割愛)
と、だらだら書いたが、こういった夢をよく見る。祭りの最中に大量発生するゾンビからどうやって逃げるのか、などもよくあるシチュエーションだ。このバスに乗ればあの場面へ着き、前はああだったので今回は違う選択をしよう、などADVのような夢が多い。(大体夢のなかで、前の夢の結果を知っている)
特に電車に乗る部分は、路線から乗っている時間からどういった乗り換えなのかなど細かく覚えていて、現実でも(同じ環境があれば)夢の目的地へたどり着けると思う。
全部現実では訪れたことのない、見たことのない場所であるため、とても興味深い。(名古屋という場所は、名古屋と認識しているが現実の名古屋とは地形も景観も全く違う。現実では名古屋には何度も行ったことがある)
オカルト的な面白さもあるのだけど、トイレの下りを書いている時に尋常じゃない悪寒と震えが来たので、こういうのはあんまり考えないほうがいいのかもしれないと素人ながら思った。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1952346
↑のコメント書き写し
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『兵士たちは答えた』
怒涛の如き 鉄の隊伍
近衛師団の 行軍中に
敬愛する あの方が
兵士たちを 訪ねられた
君たちは戦いに自信はあるのか、と
将軍さまが優しく お聞きになられた時
兵士たちは皆 勝利すると答えた
「わたしの兵士を見ると 元気が出る」とおっしゃられる
将軍さまを 仰ぎ見て
(間奏)
軍団の砲の 雷鳴ですら
これよりさらに 高かろうか
勝利だけを 轟かす
兵士たちの 力強い誓い
「祖国は君たちを 信じているぞ」と仰られる時
ああ 兵士たちは
ああ 答えた
私達の…
祖国と答えた
『あの日の兵士を見よ』
この地に幸福な日々が流れて
明るい窓辺に 笑いがあふれても
生死を分ける決戦の その日がある
その日がある
ああ、あの日の 兵士を見よ
祖国のために 命を捧げて
いかに戦ったのかを
この一身の全てを捧げて 守っていこうと
兵士は誓いで 胸を燃やし
研ぎ澄まされた 銃剣を持って生きる
持って生きる
ああ、あの日の 兵士を見よ
祖国のために 命を捧げて
いかに戦ったのかを
何もない日に百日を全てつぎ込むより
決戦の一日が より貴重だ
兵士はその信念を 胸に抱いて
戦って勝つ
ああ、あの日の 兵士を見よ
祖国のために 命を捧げて
いかに戦ったのかを
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学生時代、一緒に切磋琢磨するサークルの友人、先輩後輩はいたが、自分は誰かにとっていなくてはならない存在ではないことに気がついた。
最後の飲み会でも、自分も参加はしていたし、酒を呑み交わして語らいあってもいたが、この場に自分はいなかったとしても同窓や後輩たちは少し心配するだけで、きっと同じように楽しめていたのだろうと、一歩引いて考えてしまった。
逆に自分がいないと盛り上がらないとか、自分がいないことで場が成り立たなくなってしまうほどの存在だったらと考えると、それも迷惑を掛けてしまうので、不要でよかったと思う。
社会人になって、学生時代から付き合っていた彼女と仕事の関係で遠距離になり、段々と付き合う意味が消えていき苦しんでいく彼女を見ているのに耐えられなくなって、仕事を捨てて彼女を取るというドラマのようなかっこいいことも出来ず、別れを切り出した。彼女は彼女を選ばなかったことに対する落胆か、遠距離の孤独に理解を示したことに対する安堵か、どちらが強かったかあるいは等しかったのかは分からないけれど、ごめんなさい、ありがとうと言って別れを受け入れた。
彼女にとってお互いに最も必要な存在にはなれなかったけれど、そうなってくれる別の相手を見つけてくれたら、悔しくはあるが、嬉しくもある。大事な存在には幸せになっていてほしい。自分が幸せにしてあげられなかった代わりに、そう願う。
更に月日は経って、別の相手と付き合うことになり、結婚して子供もできた。この新しい家族のために頑張ろうと思っていたが、ちょっとした不信からお互いを尊重して認め合いながら生活を共にするという環境が保てなくなり、子供の生活を考えて我慢することも考慮したが、笑顔の無い家庭に育つ子供も不幸であろうと思い、離婚に至った。(笑顔を作る仮面夫婦になるという選択肢もあったろうが、僕はそこまで器用でも心が強くもなかった。)
まだ子供も小さいので、もし早いうちに新しい父親が現れて、せめて母子ともに幸せになってくれれば、と思う。これについては、たかだか養育費を払っているだけの分際で父親の役目も果たさず何を偉そうに、と自分でも思っている。ただ、幸せを願っていることだけは言いたかった。
また独り身になり、上記のような経験や責任を抱えながらも、未だに心を許せ合えそうな人と友人になろうとしたり、告白をしてより近い存在になることを試みたりしている。しかしこの歳になると最も心を許せる相手となことは容易いことではなく(既にそのような友人が別にいることが殆ど)、告白も失敗する。そのような失敗の経験、あるいは必要とはされていないと気づく瞬間を経る度に、また必要な存在にはなれなかった、または必要とされる期間が終わった、と周りがすうっと一歩遠くなる感覚に襲われる。
これだけを聞くと必要な存在となるべく十分な努力ができなかった男の言い訳にしか聞こえないかもしれない。ただ、自分が必要ではないことが必ずしも悪いことではなく、例えば自分が離れたサークル・コミュニティで後輩たちがめいめい活躍して盛り上げていたり、自分の部署の部下がすっかり成長して自分が不在でもしっかり仕事を回しているのを見ると、少なくとも自分の働きで組織を壊してはいなかった、迷惑を掛けていなかったと、安心する。
かつて家族を作りかけることができたように、必要とされ合える存在をまたいずれ持つことができたらきっと安心するだろう。
ただ、もしもうそのような機会が得られなかったとしても、今まで接した家族、友人、先輩後輩、同僚や部下、全ての人たちが必要な存在と共にいられて、心の安息を得てくれることを願ってやまない。自分が幸せになれない分、皆が幸せになってくれなければ、自分はただ不幸なだけで救われない。
心の安息は得たいが、他人の幸せを願えなくなるような鈍感にはなりたくない。日々揺れながら生きている。今のところは、とりあえず、いなくてもいい存在である自分自身を、こうして自分なりに受け入れてやりたい。
どうか幸せでいてください。私は幸せではなくとも、あなたは幸せでいてください。
蛇足になることを恐れつつも。
批判や肯定や慰めのコメント、ありがとうございます。どなたかが言われていたように、現実世界で言われたらイラっとする系の吐露だったので増田に書きました。
基本的には前を向いて生きています。必要とされるよう努力をし、いろんな感情だったり困難な仕事だったりと付き合う/乗り越えるために友人/恋人を必要とし、自分なりには助け合って生きています。
友人とバカ話をして笑い合うこともあります。ただたまに、時節と心情の揺れの組み合わせが悪く、かつ自分の(きっと主に自分が傷つかないために)自省する性格も災いしてこの文章のような諦めの気持ちが強くなることがあります。苦しかったので、誰かに何かを言ってもらいたく、書いてしまいました。ですので、これだけコメントがあったことがとても嬉しく、どの種のコメントでも正直に気持ちを伝えてくださっているものはとても心に響きました。ありがとうございます。
もし同じように八方が塞がったような心情の人がいたら、自分にも同じ気持ちはあると、励ましてやりたいと思います。皆さんもぜひそうしてあげてください。
深夜だったし、ちょうど読みたい漫画(『アフロ田中』シリーズと『のりりん』)があったのだ。
手続きを済ませて番号25番の部屋へ行った。少しは寝たかったので床タイプ(フラットタイプ)の個室だ。
さて、ネットカフェでは、個室に入る瞬間どうしても隣の個室がちょっと見えてしまう。
座ってしまえばなんてことないのだが、入る瞬間は目線が高く、隣が見えてしまう。これはネカフェを利用した人なら何となく理解していただけるだろう。
今回もそんな感じだったのだが、なんと左隣の個室のやつが全裸で寝ていた。
いや、正確には全裸ではなかった。ヘッドホンだけしていた。衣服は棚の上だ。
彼は都会の片隅のビルの、のぞけば見えてしまう仕切りの裡から、全身をありのままおちんちん含めて、その身体を虚空へ擲っていたのだ。
さてどうしたものか。というか聞きたいのだが、これはどうすればよかったのだろうか?
まずネットカフェで全裸になるのはOKなのか?ホテルでは勿論OKだ。でもネカフェでは?よくネカフェでオナニーする是非が問われるが、全裸はいいのか?そんなことを考えた。
マジで教えてほしい。
『中退アフロ田中』を棚から持ってきつつ、もう一度男を見る。すがすがしいほどにすやすやと寝ている。
一糸まとわずその身のままにささやかな安息のまどろみに湿潤し、一帯の持つ雰囲気と完全に自己を溶融させんがばかりだ。ネカフェ個室の曇りガラスが、全面肌色に染まっている。
初めの問いと関わることだが、この全裸野郎が全裸であることを知っているのは私だけのようだった。もし何かの拍子で誰かが近くを通ったら無言で親指を立てるしぐさで「隣を見ろ」と示唆したものだが、あいにく店員含めて誰も通りかからない。
『のりりん』を棚から持ってくるとき、だんだん慣れてきた私は彼のおちんちんを見てみた。自分のはまぁよく見ることもあるが、他人のはあまり見たことがなかった。小学生のときとかはそれなりに見たことあっのだろうが。
感想は、尾玉なみえ『少年エスパーねじめ』のヒロイン練川えすてる((練川えすてるは『ねじめ』の主人公「ねじめ」と友人のエスパー「へびくん」のおちんちんを並べてみる機会があって、そのときに男性器に個性があることに気付いた。私も気付いた。))の言葉をかりると「それぞれ個性があるう」だ。
朝になると、彼は消えていた。彼は自分が全裸だと気付いた時何を思ったのだろうか。「恥ずかしい」とか、「やってしまった」とか思ったのだろうか。今となってはわからない。ただ私は、漫画を読む以上のことを体験することができた。個性だ。彼はぬらりひょんのように、誰も知らないうちに鮮やかに空間を盗み出したのだ、と感じだ。まぁああはなりたくないが、これって結構すげえことだと思う。
ああ、君らは一様に面白くない。本当に、つまらない。ロクに酒も飲めず、リアルで他人を魅了する技能も持たず、普段キーボードを前にして語る勢いも、他人の目を見ればたちどころに失われる。服装も髪型もメイクもイケてなければ、クラブで踊り狂うこともない。そのくせ一丁前に音楽を語り、恋愛を語り、社会を語る。時に開き直り、自虐に酔う。(ふぁぼでも欲しいのだろうか?)そして殴り合いの喧嘩もせず、無鉄砲なセックスに学ぶこともない。いつも鼻声でひそひそ話し、机上の理論を重んじ、実(じつ)を批評せずクソ下らない批評を二次批評し、バーチャル世界に安息を求め、それを「生」だと勘違いする。ついでにRADWIMPSが好きだ。はっきり言おう。君らはキショい。
トゥギャッターなどを見ていると、ごく稀に例外はいるが、普通、そんな奴に面白いツイートができるわけがない。そしてマトモなツイートができない代わり、安易な散文詩モドキか下らないネタか「メタ批評」だか、何だか知らないが、分かりきった、まるで喜怒哀楽や生活や人生に関係のないテクストを書く。世界を揺り動かすことなんて簡単なのに、それすら考えず、やろうとしない。ただひたすら小さなコミュニティでくだらないリツイートの連鎖で同意を要求し、鬱をぶちまけ、インターネットで身に付けた(アホか)小さな小さな自信を拡大させて生きている。ねえ、ここには何もないよ。ツイッターなんて、唯のツールだ。
僕は金輪際オフに出ることはないし、<スカイプ>なるもので見知らぬ人と話すこともない。時間の無駄だ。そしてこれは個人的な決別宣言であり、恐れ多くも「真理を突くようなもの」とは無縁のものだ。君らはこんなバカの言うことに何ら惑わされることなく、君らの創り上げた世界で安心して楽しんでいればいい。本当に楽しんでくれ。おそらく、それが真実だ。