はてなキーワード: アメリカ風とは
ピザとピッツァの大きな違いは、アメリカ風かイタリア風かというところにあります。
ピザというのはアメリカにイタリアから来た移民がイタリアのピッツァを広めたものです。
アメリカのピザはパンっぽい生地のものや、サクサクの生地の上にピザソース・プロセスチーズをかけ、
その上に自分のお好みの具材(サラミやシーフードなどなど…)を乗せて作られたものです。
それに対し、イタリアのピッツァは表面はぱりっと、中はモチモチの手延べの生地にトマトソースやモッツァレラチーズなどを乗せて作られたものです。
感覚としてはピザは具材を楽しむもの、ピッツァは生地やを楽しむもので具材はあくまでオマケ的な要素が強いものという感じです。
https://oriver.style/cinema/tcc2016-cb/
先日東京コミコンが開催され、その中でマーベルの副社長であるC.B.セブルスキーさんのトークショーがあったようだ。
該当の記事には多くのブックマークコメントもついており、皆様々な意見を言い合っている。
しかし、この記事で一つ大きな誤解が生まれており、いくつかのコメントはその誤解のために少し的外れな内容になってしまっているように思える。
本記事ではその点についての私見と他国に日本のコンテンツをどう広めるていくかについて書こうと思う。
■マーベル副社長は「日本人よ、日本にしか通用しないものばかりを創るな」などと言っていない。
まず、大きな誤解を招きかねない原因はこの記事のタイトルに原因がある。
マーベル副社長「日本人よ、日本にしか通用しないものばかりを創るな」
と、でかでかと記事タイトルを掲げているが、記事の内容を見るとセブルスキーさんはそんなことを言っていないのがわかる。
という部分は「世界を目指せ!日本の映画産業は小さくまとまりすぎている」という段落の中でまとめられている。
日本の映画産業は小さくまとまりすぎであるというところ。日本のファン、日本の観客のことしか見ていなくて、海外の観客のことを全然考えていない。日本の監督、映画プロデューサー、映画会社はもっとグローバルにやっていくべきなんですよ。だって、日本にはとても優れたストーリー・テリングの伝統があり、日本文化はもっと世界に受け入れられるものなのだから、物事をもっと大きく考えるべき(Think Bigger)でしょう。」
ここでセブルスキーさんが言っていることをよく見るとわかるが
「日本文化はもっと世界に受け入れられるものなのだから、物事をもっと大きく考えるべき(Think Bigger)でしょう。」
つまり、日本の映画・アニメ文化的なものが受けないとは決して言っていない。
これはセブルスキーさんも言っているが、過去の実績からも明らかだ。
マジンガーZやグレンタイザがヨーロッパの一部で受けたり、セイントセイヤがラテンアメリカで受けたり、マッハGOGOGOがアメリカのマニアに受けたのは明らかだが、これらの作品が果たして海外を強く意識した作品だっただろうか。
巨大ロボットに乗りながらも、強く苦悩したデューク・フリードはヨーロッパでの受けを狙ったとはとても思えない。
海外で高名な黒澤明や小津の作品がアメリカ風やヨーロッパ風、あるいは中国風の映画だっただろうか。
事実はその全く逆だ。
黒澤が作った作品で恐らく最も有名な作品である「七人の侍」は時代劇ではないか。
侍が出てきて日本刀で百姓と一緒に戦う映画のどこに西洋らしさがあるのか。
小津の映画は全編が静謐としており日本人らしさに満ち満ちている。
明らかに日本人らしさに溢れているにもかかわらずこれらの映画はそのどれもが海外で受けた。
モチーフに西洋風のものを使っていたとしてもその作品の根幹は日本人らしさで溢れている。
セブルスキーさんは現状存在する日本映画のストーリー・テリングの伝統をそのまま貫けば良いといっているだけだ。
ここで注目すべきなのはむしろ、前半の部分で海外の観客を見ろと言っている部分だ。
海外の観客にコンテンツを届けたり、今現在既に存在する海外の観客が何を思っているのか良く考えろと言っているのだ。
それは、コンテンツの内容をアメリカ向けに変えろとかそういう話ではないはずだ。
例えばクランチロールでアメリカやカナダ、ヨーロッパで受けている作品は何かの一覧を発表していた。
なるほど、バイオレンスが好きなアメリカ人らしいと思うが、であればアメリカで物を売りたいのであれば今後そのような作品を積極的に送り出せばいい。
しかし、そこでアメリカ人におもねって、不自然にアメリカ要素を入れたりするべきではない。
我々日本人の考えるバイオレンスさと、ドリフターズで受けいれられた要素を真剣に考えるべきだ。
アメリカのような作品を作りたいと、アメリカのコンテンツを適当にナメタような態度で作ってもアメリカ人の作った作品に敵うわけがない。
生まれたときからアメリカで育ち、アメリカのものの考え方をしている人のようなことを日本で育ち、日本で生活をしているだけの人ができるわけがないのだ。
骨をうずめる覚悟で何年も生活すればまた別かもしれないが、そんな人がなぜ日本の映画・アニメ産業で物を作らねばならないのか。最早意味不明だ。
日本人は日本人でしかありえず、それ以上でもそれ以下でもない。
それはつまり我々の作る作品は日本人的でしかありえずその枠から出ることは決して出来ない。
かならずどこかに日本人的な部分が混じる。
アメリカが世界的なコンテンツを作ることが出来るのはある社会的な前提条件が存在するからだ。
インディアン/ネイティブアメリカンの生活していた文化やヨーロッパからやってきた文化。
そのどれもが並立して存在しており、また映画製作の現場でも多数の民族の文化が交じり合う。
このような状況を無理やり日本に作り上げたいなら東宝や松竹の社長をアメリカ人にして、フランスの映画監督でも引っ張ってくるしかない。そしてスタッフには多数の外国人スタッフを入れるべきだ。
しかし、残念ながら日本の社会でそのような会社を作り上げるのは難しいだろう。
少なくとも主流にはなりえない。
であるなら、我々は逆に日本人的であることを貫き続けるしかないのだ。
これは日本人の文化SUGEEEEEEEEEEEEEとか日本最高!であるとかそういうことでは決してない。
日本で生まれ、日本で育った日本人が「自分のストーリーを語る」とは一体なんなのか?
それを突き詰めると結局日本で生活した人間の目線から見た作品でしかありえないのだ。
例えば、近年東京で増えてきた外国人と日本人の交流・衝突を描いた映画であるなら語れるだろう。
あるいは「シン・ゴジラ」のような日本のポリティクスを突き詰めた作品をもっと作ってもいい。
細部については理解しやすいようにローカライズするのも構わないだろう。
しかし、将来を見据えるならそういったカルチャーの積み重ねによって理解してくれる人を増やすしかない。
海外では日本被れをweeeabooooといって揶揄する言葉も存在する。
では、ハリウッド映画を毎年のようにバンバン見ている私たち日本人はなんなのだ。
そこらじゅうweeeabooooだらけではないか。
もし本当に日本のコンテンツを海外に広めたいのであれば、文化的衝突を恐れてはならない。
海外の人が日本的なものを作って欲しいという要望を出しているのにもかかわらず
なぜか海外的なものをつくらなければならないと勘違いしてしまう事が日本では多発する。
「日本にはとても優れたストーリー・テリングの伝統があり、日本文化はもっと世界に受け入れられるものなのだから」
という発言を聞いておきながら
というタイトルをつけるのは雑すぎるだろう。
もっと日本人の観客の言っていること、海外の観客の言っていることを良く聞くという地道な
「徹頭徹尾ナンセンス映画でさ、狂気の中では80年代アメリカ風の青やピンクのカラフルな色遣い、現実はすさんで、臭くて、すえた臭いがするような描写で落差をつけててさ」
「今度マーベルヒーローのデッドプールをやるライアンレイノルズって役者が主人公なんだけど」
「ひょんなことで同僚のマドンナをXXしちゃって、そっから統失もっとこじらせて他の同僚も……って話」
「なんつーか、サイコキラー、シリアルキラーって無個性なんだよな。特にパラノイアだから自分で意図したわけじゃなくて、要するにラリパッパの結果、っていうか。映画自体は駄作だったよ。」
「ひとりだけ忘れられない同級生がいるんだ」
「色白で黒髪がツヤツヤで、最近流行りのちょっとだけ目の離れた涼しげな美人で、誰にでも優しくて、泣きぼくろがあった。これは事実。本当の話。しかも賢くて志望は国立医学部だった。浪人後は知らないが絶対に受かったに違いないよ。すごくキレイな人で女神に見えたんだ」
「俺はそのころいじめられてて、何もうまくいかなくて、彼女の隣の席で彼女を解体する妄想ばかりしてたんだ」
「それ以前も以降も、女性を好きになったことはない。解体する妄想も、最高にキレイな人じゃなきゃ意味なくて、牛や豚や鶏を解体する動画を見て、人体の解剖を学んで、人体ならどういう順序で解体すべきか何度も何度も脳内や紙の上でシミュレーションしたんだ」
古代では煮込み料理や生食も行われていたが、12世紀頃から強火力を用いた料理法が一般的となった。国土が広大なこともあって地方ごとの食文化に特徴があるが、油を多用し、強火力で炒めたり揚げたりすることが共通点とされる。華僑の移民に伴い世界中に広まったことで、現地に合わせたバリエーションが豊富である。
多種多様なスパイスを用いるのが特徴。米やナンなどのパンを主食とし、乳製品もよく用いる。インドには「カレー」という言葉はなく、香辛料を使ったインド料理をカレーと呼ぶのは便宜的なものにすぎない。また、左手を使わず右手だけで食事をすることでも有名。
東西交易の中心だったことから、中央アジアの羊肉、地中海の魚介とオリーブオイル、アラビアの小麦、南アジアの米など、各地の食文化を融合したような料理になっている。ヨーグルトを多用するのも特徴。イスラム圏なので豚肉は使われず、もっぱら鶏肉や羊肉が用いられる。
古代ローマ帝国の料理を原型とする。主にパスタやピザが有名。イタリア半島は南北に細長いため、異なる文化や気候に基づいたさまざまな地方料理が存在する。北イタリアではバターやチーズ、ハム、サラミなどを使った濃厚な料理、南イタリアではオリーブ、トマト、魚介などの素材を活かした料理が特徴。
16世紀にカトリーヌ・ド・メディシスによりイタリアの料理と作法がフランスに持ち込まれた。19世紀にアントナン・カレームがフランス料理の基礎を作り上げ、その後にオーギュスト・エスコフィエによって大成された。濃厚なソース、洗練された盛り付け、料理を一品ごとに供することなどが特徴。
ジャガイモを主食としており、フィッシュ・アンド・チップスが有名。その他の代表的な料理としては、ローストビーフやミートパイ、さまざまな種類のプディングなどがある。食材を執拗なまでに加熱すること、テーブルに調味料を並べて客に味付けを任せることなどが特徴。また、植民地であったインドのカレーを世界に広めたのはイギリスである。
イギリス料理をベースに、イタリア料理のピザやパスタをアメリカ風にしたものや、ハンバーガーやフライドチキンなどのファストフード文化、バーベキューやトルティーヤなどのアメリカ先住民の食文化が混じりあっている。ケチャップやチーズを多用するのが特徴。
地方によって差はあるものの、キャッサバやトウモロコシを主食とし、牛肉や豚肉、魚介、様々な豆類を用いる。かつての奴隷が、主人が食べたあとの豚の耳や足を、豆と一緒に塩辛く煮込んだというフェジョアーダが国民食。
という出羽守っぽいのがいるが
アメリカだと基本的に学食で食おうが自前のランチ持ってこようが自由で、
学食の内容が酷い(週一でピザとかな)し、アメリカ風ランチというのも「適当なサンドイッチにまるごとリンゴつけて終了」みたいなものなため
他の子と違うもの食べているといじめられるから敢えて日本風弁当は持たせないとか、
子供の方が他の子と違う日本の弁当を嫌がるという話は聞いた事がある。
勿論学校とかコミュニティとかその場の空気とか色々あるわけで、平気で日本風弁当持って行って何の問題も起こらない子もいるけど。
どこの国でも似たような問題はあるんだなあと思った。
人間、「自分と同じ食事をしている人」に親近感を覚えて「自分と違う文化圏の食事をしている人」に違和感を持つ、ってのは本能的なものらしいね。