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はてなキーワード: うぐぅとは

2018-04-23

「あのヒロインも愛したたいやき」

うぐぅ、ボクは味覚に関しては素人だよぅ

anond:20180423114458

2018-04-02

ハルヒの絵は難しいという話

涼宮ハルヒ登場人物が好きで、むかしキャラクターの絵を描く練習していた。

しかし相当時間をかけて丁寧に描いても、なんだか微妙キモくなってしまうのであった。

以来、苦手意識があって、流行も去ったこともあり段々描かなくなっていった。

それが今日なんとなく描いてみたら結構かわいく描けた。

なぜか。

なんてことはない、むかしは目を下に描きすぎていたのだった。うぐぅ

今はデジ絵で簡単に微修正できるので、こんなしょぼいつまづきは皆はしないのだろうか。

色々 予想が できそうで できない未来

2017-12-15

anond:20171215155448

寒い時冷たいもの食べたくなる

冬に外でアイスくって「うぐぅ~」とかいうオッサン

冬に外でアイスくって「うぐぅ~」とかいうオッサン

2017-05-08

うぐぅ」と発するオタクはもうオッサン

ちぃ、覚えた」と発するオタクももうオッサン

「我は放つ~」とか詠唱するオタクも間違いなくオッサン

杉田智和の声色を真似つつ斜に構えた事を言い出すオタク・・・残念ながらもうオッサンだ(アニメ放送開始から11年)

2017-02-06

http://anond.hatelabo.jp/20170205212800

オタクという時、自動的に「アニオタ」やら「ゲーオタ」を指しちゃう人らってなんなんだろな。


ま、それはともかくとして。


ちなみに、昔だって各人バラバラで、マイナーゲーム好きな人ブログ掲示板同好の士を探したものだ。

15年くらい前の話だ。

うぐぅだって「了承(一秒)」だって、通じない人には全然通じなかったし、

そうかと思えば「海を見た。もう怖くない。」が刺さる人もそれなりに居たり、

まぁ楽しかった。


「昔は話が通じた」と勘違いしてるのは、自分が話が合う所(興味のあるところ)へ積極的に顔を出していたからで

そうして繋がった仲間と「今」会話が通じないのは、それぞれ違うものを見てるから


ときメモ時代の友人とはいまだに交友があるが、やってる事も見てるもの全然違う

2016-06-30

エロゲにおける泣きゲー概観

エロゲには泣きゲーというジャンルがある。傾向として18禁要素は少なく、その必然性が薄いこともままあることから時にエロ不要論が主張されたり、あるいは泣きゲーエロゲではないと揶揄する人もいるジャンルである

しかし「一般に、泣いたあと人間は気分がよくなる」(ウィリアムフレイⅡ『涙―人はなぜ泣くのか』)。快楽を得ながら体液を体外に排出する行為エロと称するのであれば、その意味で泣きゲーエロゲの一ジャンルであることは間違いない。

泣きゲーはある日突然出現したものではなく、それはどうプレイヤーの涙を誘ったか技術の積層であり、様式の歴史である。個々の作品論は星の数ほど存在し語り尽くされてきたが、この歴史という点での言及は少ない。当時それは歴史ではなくリアルタイムだったのだから、当然といえば当然ではあるが。

2016年現在、エロゲ論壇は死に、泣きゲーが語られることも少なくなった。

だが、だからこそ、最初からぶっ通してやり直してみることでその変遷について、その後に何が継承されていったのかという点で俯瞰することが出来るのではないか。

ということでやり直したので、増田に書きなぐっておく。

1988~1996年

そもそもエロゲの目的は何かといえば、もちろんエロである。主役はエロCGであり、脇役に過ぎない物語の出来を評価する者などいなかった。

その様子が変わり始めるのは80年代後半、『リップスティックアドベンチャー』(フェアリーテール,1988/5)辺りからであるエロゲが一つの娯楽物語として成立することが示されたことでプレイヤーはその物語性に目を向け始め、脇役だった物語はSFやホラーなど様々な要素を取り入れていく。その一つが「感動」であった。

例として、早くも1991年の『ELLE』(elf)に対して「ホロリとした」という感想が存在する(小林義寛『ゲーマーエロと戯れるか』)。泣ける物語かというと微妙だが、今プレイしても確かに面白いSFエロゲであり、感動的要素が含まれていると言える作品である

人は感動すると涙腺が弛むことがある。逆に言えば、涙腺が弛む種類の感動がある。この点での先行研究として米沢嘉博の『マンガで読む「涙」構造』があるが、そこで昭和の泣ける少女マンガ少年マンガを分析した米沢は、女性は不幸における愛と感動の物語に泣き、男性友情、努力、勝利の感動に泣く、としている。

男性向けであるはずのエロゲはしかし、何を血迷ったか「不幸における愛と感動」を物語に取り込むことに成功する。

DESIRE』(C's ware,1994/7)、『EVE』(C's ware,1995/11)、更に『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』(elf,1996/12)と傑作を連発した剣乃ゆきひろはいずれも物語の中核に少女の悲劇を配した。それは壮大かつ感動的な物語の帰結としての落涙をしばしば生み、その感想に「泣いた」というものが少なくない。

さらに『同級生2』(elf,1995/1)の桜子シナリオにおいていわゆる難病物がエロゲに導入される。それは当時十分に涙を誘うものであったとして、これが泣きゲー元祖だとする説も存在する(小林,前掲)。

努力・勝利の感動が無かったわけではない。例えば『闘神都市2』(ALICESOFT,1994/12)は自分の無力さが生んだ悲劇きっかけに、強くなるために精神をすり潰し、廃人になってでも最後の敵を倒す物語であり、高く評価された。……しかしそこにはやはり「悲劇」がつきまとっている。

「不幸における愛と感動」は、こうしてエロゲで広く受けいれられていく。

1997年

難病物は概ね、主人公ヒロインの仲が深まるにつれて病状が悪化する展開をとる。これを病気に限定せず、「不幸」に一般化したもの涼元悠一は「萌やし泣き」と呼ぶ(涼元悠一ノベルゲームシナリオ作成技法』)。ヒロインとの幸福日常をまず描いてから一気に雰囲気を暗転して二人の不幸な状況を綿密に描写、涙腺の緩んだプレイヤーに最後の一押しをするという、泣きゲーに慣れた人にはお馴染みのそれである

この萌やし泣きは、しかし突如エロゲに登場したわけではない。

前述の闘神都市2には、ごく短いが構造上萌やし泣きと解釈しうるイベントが存在する。同級生2桜子シナリオは難病物である以上もちろん萌やし泣きだが、その不幸描写は非常に短く、またオチが「主人公勘違い」というギャグである。それは手法としては古くから存在しており、変わってきたのは、それを物語上どの割合で展開するかという点であった。

1997年5月、それが一つの分水嶺を超える。『ToHeart』(Leaf)のHMX-12マルチシナリオは、萌やし泣きを1ルート全てを費やして実現した。

おそらくこれが(エロゲ上で)萌やし泣きの威力が十分に発揮された最初の例だろう。彼女の物語は感動的な場面をクライマックスに据え、それ以外の要素――ギャグも皮肉もセンス・オブ・ワンダーも滲ませること無く、ストレートに終わった。そのシンプルさに価値があったと言え、本作は多くのプレイヤーから「泣いた」と絶賛された。

そしてもう一つ、作り手の意思という点でも分水嶺を越えたものが登場する。『MOON.』(Tactics,1997/11)が「鬼畜サイコ涙腺弛まし系ADV」と自ら名乗ったことは、その後の歴史的意味でも強く象徴である。もし泣かすという意思で作られたもの泣きゲーと呼ぶならば、その明示という点で最初泣きゲーは本作と言うこともできるかもしれない。

MOON.は大量のエロシーンを擁し、エキセントリックな人物造形も無く、萌やし泣きでもない。後の作品よりも本作が泣けるし好きだという人もいるが、多くの人を確実に泣かせる威力に本作があと一歩不足したことは事実と思う。

はいエロゲはついに、プレイヤーを泣かすことを主目的とし始めたのである

1998年

ToHeartで泣かせる物語構造確立し、MOON.で泣かす意思が示され、そしてそれは『ONE』(Tactics,1998/5)において結実する。MOON.スタッフが作ったそのエロゲには、萌やし泣きが全ヒロインルートで導入された。

当時の多くのプレイヤーにとって、それは致死量だったと言っていいだろう。

本作はMOON.と変わって18禁要素は非常に薄く、無くても物語は成立する。物語は全ルートで感動と涙が目的に据えられ、それしかない。にも関わらずこれがプレイヤーの絶賛を浴びたことは、「泣かせること」がそれ単独ジャンルを成立させられることを示していた。

今やり直してみると甘い部分も多い。しかし『sense off』(otherwise,2000)、『それは舞い散る桜のように』(BasiL,2002)など、本作の影響下にありつつも秀逸な作品がのちにいくつも生まれたことを考えれば、その影響力と価値を軽んじられる者はいないだろう。

1999年

6月、MOON.を作りONEを作ったチームは独立してKeyと名乗り、『Kanon』をリリースする。これがどれだけの信者を獲得したかは言うまでもないだろう。

特に技術的な面でKanonはONEよりも洗練されている。OPとED、泣かせるための特殊演出などのソフトウェア面はもちろん、泣かすための専用BGMが用意された、という点も大きい。1997年の『アトラク=ナクア』(ALICESOFT,1997/12)は物語のクライマックス、その絶望的状況下で「Going On」が初めて静かに流れ出すことで異様な精神的高揚をプレイヤーに与えたが、これが事前に何度も使われていたら効果は半減していただろう。これと同様のアプローチKanonは泣かすという目的で採っている。

Kanonから3週間後に発売された『加奈』(D.O.,1999/6)もまた、この時代泣きゲー金字塔である。ONEやKanonが物語を中盤過ぎまでギャグで埋め尽くしたのに対し、加奈は10年以上に渡る兄妹の闘病生活を正面からシリアスに描いた難病物であるリアリティのある物語という点で「新しい」泣きゲーだったと言え、今なお評価は高い。

――一方で、ToHeartもONEもKanon加奈も、悪く言えばただのお涙頂戴であるハッピーエンドは奇跡や幸運によってのみ訪れ、主人公たちは運命に翻弄される無力な存在でしかない。こうしたお涙頂戴は今も昔も根強い人気を誇るが、一方で毛嫌いする人がいることも事実である

興味深いことに泣きゲーは、これらのお涙頂戴では泣けない人々をも泣かせようとするかのように、別の「泣かせる何か」の模索を少しずつ始めていく。

2000年

知名度も低く地味だが言及しておきたい良作として、1月に発売された『Lien』(PURPLE,2000/1)がある。不慮の事故幽霊になった主人公とその周囲の人々が残された2週間でその死に向き合い、改めて別れを告げる物語であり、主人公が生き返ることは無い。従ってお涙頂戴の文法に則っているが、しかしその最後において、彼らは前を向き、笑顔で別れを告げる。別れは悲しみしか生まないものではなく、人の強さを示すものでもあることをLienは描いていた。

そして9月、Keyのリリースした『AIR』は約束された勝利を遂げる。物語はもちろん難病物で、ヒロインは最後に死ぬ。その死を「ほとんどなんの意味もない」(東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』)とするならば、これは従来通りのお涙頂戴だろう。

しかし、彼女無意味に死んだことが悲しくてプレイヤーは泣いたのだろうか。

もちろんそういう人もいるだろう。だがかの有名な「ゴール」は、彼女が最後まで努力し、やりきったこと――笑顔幸福記憶を全うしたからこそ、泣いた人も少なからずいたと筆者は考える。最後の別れにおいて、彼女は必死で前を向いていた。

悲劇象徴としての別れの描き方と、それに対する姿勢は少しずつ変化を見せ始める。

2001年

ところで萌やし泣きの多くは幸福8割、不幸2割程度の文量配分で構成される(※数字は筆者の体感であり、根拠はない)。これを反転し、幸福を2割以下、不幸を8割以上にするとどうなるか。

鬱ゲである

MOON.もその一つだが、『DiaboLiQuE』(ALICESOFT,1998/5)や『銀色』(ねこねこソフト,2000/8)など、爆発的に売れることは無くとも鬱ゲーは途切れること無く続いてきた。特に銀色の執拗な鬱展開は秀逸であり、未だ根強くファンがいることも頷けるものである個人的にはDiaboLiQuEももっと評価されていいと思う)。

そして8月、幸福と不幸がほぼ半々、つまり鬱ゲーであり泣きゲーでもある『君が望む永遠』(age,2001/8)が発売される。

男女関係修羅場シリアスに描いたエロゲといえば『WHITE ALBUM』(Leaf,1998/5)が有名だが、そこでは主人公修羅場の矢面に立たされることはない。対して本作のメインシナリオでは主人公は徹底して矢面に立たされ、主人公が別れを切り出すことでのみ悲劇は終幕する。

誰を切り捨てるかは、プレイヤー選択肢が突き付けられることで行われる。だからこそ最後に彼らが再び笑い合える可能性が示されることはプレイヤーを安堵させ、涙を誘った。彼らは奇跡によってではなく、心の強さによって悲劇を克服する。

さらに11月、物語の殆どがギャグで占められ、物語の構造自体は従来の萌やし泣きの延長ながら、にも関わらず枠を踏み越えたものが登場する。『家族計画』(D.O.,2001/11)である

家族に捨てられた連中が偶然集まり、やむなく家族を偽装し、衝突しながら家族になっていき、崩壊し、再び家族になる様が描かれる作品である加奈やAIRでも家族愛は描かれたが、いずれも兄妹あるいは母娘の二者間に閉じている。対して家計は父母兄姉妹という集団の絆を描く。

襲いかかる不幸は彼らの手によって跳ね除けられる。プレイヤーはもはや誰かの不幸にではなく、茉莉がお兄さんになって下さいと訴え、準が最後にスプーンを咥え、その家族としての努力が実ったことに涙する。

なにより家計ではもはや誰一人死ぬことはない。君望もメインシナリオでは誰も死なない。誰かを失う悲しさだけが泣かせる手段ではない。悲劇に敢然と抗い、心の強さで打ち勝つだけでも人は泣くのである

2002年

……などと枠を広げ、新しい要素を貪欲に取り込むパイオニアばかりではない。泣きゲーというジャンルを充実させたのは既存の要素で構成された作品群である

例えば『flutter of birds』(シルキーズ,2001/2)は極めて基本に忠実な難病物だし、特定ルートで萌やし泣きを取り込んだ『みずいろ』(ねこねこソフト,2001/4)や『水夏』(CIRCUS,2001/7)、『グリーングリーン』(GROOVER,2001/10)はいずれも好評を博した。またDESIRE同様、悲劇シナリオの感動としての落涙であれば『腐り姫』(Liar Soft,2002/2)はこの年の作品では秀逸である

また、集団間の絆も広く扱われていく。

うたわれるもの』(Leaf,2002/4)ではSRPGというジャンル上の必然もあるだろうが、家族的な仲間との絆が描かれている。『世界ノ全テ』(たまソフト,2002/4)や『ロケットの夏』(TerraLunar,2002/10)は後半こそ二者間が主軸になるものの、いずれも部活を通して仲間と触れ合うことで主人公が成長し、仲間との絆を育むことで成立する物語である

2003年

ONEとKanonとAIRを足して3で割ったような『SNOW』(Studio Mebius,2003/1)、あるいは『てのひらを、たいように』(Clear,2003/1)では、困難に対する仲間の存在がより大きな価値を持つ。その最後は奇跡による解決はいえ、ヒロインのために仲間全員が努力し、足掻くことでハッピーエンドが訪れる様は「与えられたもの」というより「勝ち取ったもの」という印象が強い。

これらを「みんなは一人のために」とするならば、「一人はみんなのために」もまた登場する。『CROSS†CHANNEL』(FlyingShine,2003/9)である

ToHeart型のよくある学園物語に始まり、それが綱渡りの上で構築されたものであることが明かされ、ばらまかれた伏線が繋がっていく様は見事の一言に尽きる。と同時にそれは、心の壊れた主人公が何度も失敗しながらトラウマを乗り越え、仲間のために自己犠牲を重ね、それによって心を再構築していく物語である。その実に静謐な最後において、そこで彼が平穏と幸福を遂につかんだことに、タイトルの意味と、そして彼が勝ち得たものが明かされることにプレイヤーは涙を流す。

2004年

そして1月、『Fate/stay night』(TYPE-MOON)が発売される。絶望的状況下で静かに流れだす「エミヤ」はプレイヤー凶悪な興奮を与え、「強くなるために精神をすり潰し、廃人になってでも最後の敵を倒す」展開に涙を流した。

そこに「友情、努力、勝利の感動」があることを疑う者はいないだろう。

泣きゲーというとKanonやAIRがよく話題に出されるが、「泣いた」という感想がC†CやFateにも多く存在することは事実である。と同時に、いずれにも物語の重要位置に少女の悲劇と愛が配置されている。

そしてこれまで言及してきた「不幸における愛と感動」の泣きゲーに、努力や勝利が全く存在しないわけでもない。その努力が実ったかどうかの差はあれど、必死の行動があったことはどの作品でも紛れも無い事実である

としてみると、「泣いた」と感想を多く有する作品、すなわち泣きゲーには「不幸における愛と感動」と「友情、努力、勝利の感動」の要素が、両方含まれていると捉えても間違ってはいないだろう。そしてそうだとすれば両者は対立するものではなく、両立するものと言える。

そう捉えるならば泣きゲー歴史とは、時代によって、作品によって、この両者の配分を巡る歴史だった、ということもできるように思う。

2005年以降

いい加減読んでいる人も飽きただろうし2005年以降は割愛するが、一つ言及するなら不意打ちという手法が導入された点である

例えばいかにも安っぽいハーレムものとして始まりながらシリアスなSF展開を経て感動的最後を迎えたり、あるいは陰惨な陵辱物として始まりながら見事に綺麗な純愛物へと変貌したり、泣きゲーとしての姿勢最初は微塵も匂わせず、突如牙を剥くもの2005年以降に目立ち始める(いずれもタイトルは念のため伏せた)。

また泣けるイベントが用意されていても、それが作品としてのクライマックスと一致しないことが珍しくなくなる。中には語るべき物語は全て終わり、エピローグの最後の最後で油断しきったプレイヤーに猛然と襲いかかるものもある(いずれもタイトル以下略)。

昨今、泣きゲーが減ったと言われることがあり、実際、一見してわかりやす泣きゲーを現在はあまり見かけない。しかしプレイヤーを泣かせることが主目的化した時代を超えて、泣きゲーとしての技術や様式は再び物語を盛り上げるための一要素へと還元されていった、というのが現代の流れだとすれば、それは死につつあるのではなく、むしろ要素として広く普及し、遍在したことで目につきにくくなった、ということのようにも思えるのである

おわりに

リアルタイムにこれらを経験した人にしてみれば、有名作を並べただけでなんの面白みもない内容と思う。申し訳ない。が、今20歳前後若者にとってみればFateですら12年前の古典である。「泣きゲー元祖」がなぜ人によって違うのか。なぜ未だにはわわとかうぐぅとか言ってるヤツがいるのか。若者がそんなことを知っている方がおかしいし、それを知るために最初から全部やり直すなど正気の沙汰ではない。

かつて何が起きて、それが今にどうつながっているのか。粗く拙いまとめに過ぎないが、その理解一助として本稿に役立つところがあれば幸いである。加えて「そういや最近エロゲやってねぇなぁ。またちょっとやってみるか」と思うきっかけになれば、それに勝るものはない。

どうか、幸せエロゲライフを。

2016-05-12

嫌だったものが好きになってきた

以前まで性的嗜好の1つのジャンルとして「リョナ」というものに、

なぜこんなもので興奮する人がいるのか、信じられない。犯罪者予備軍ではないか。と思って毛嫌いしていたのだが、

怖いもの見たさのような感覚リョナ二次エロ画像を見ているうちに、なんだか美しさや可愛さが見えてくるようになってしまった。

女の子が殴られて「うぐぅ」や「ひんっ」などの悲鳴をあげて涙ぐんでいる様子に何故か可愛さ、愛らしさを感じ、

まるで普段聞けないエロい喘ぎ声を聞くような、そんな感覚に陥り、気づけば勃起していた。

普段クールだったり強気女性が中々見せない、弱い一面を見ているようで、かわいく見える。

それは殴ったり、暴力的行為で無理やりに引き出していることなのだが、

なんだか興奮する。

今のところ、まだ現実女性にそのような行為をしたいなどという思いは感じない。

このまま進むと現実女性にもそのような感情が芽生えてくるのだろうか。

2016-04-11

うゆゆ~・・・

あまぞんでほしいのみつけたのに

2000えんにとどかないからそうりょうかかっちゃう

いまいまこれいがいでほしいものないから、かうのためらっちゃってけっきょくかわないことにしたの

うぐぅ・・・ざんねんだよお

2016-02-16

http://anond.hatelabo.jp/20160216033452

うぐぅ・・・「おれはほんとにだめだぁ」みたいなオチをまっていたのになんかほっこりしてしまった。くやしい。

2015-10-08

Kanonサントラを聞くのに心地よい季節になってきたね

AIRKanonを、リアルの日付と同じ進行でやろうなんて無意味気持ち悪い試みをしていたのも、今となってはすべてが懐かしい

うぐぅ

2015-08-16

もしかして

世間の人は、長森のだよもん星人とか知らないの?

たい焼き食べるときうぐぅっていう作法も?

まじで?

2013-02-27

とことん女性を信用できないイケメンの話

 先に言っておく。今からする話は、「非常に贅沢」だ。なぜなら、ざっくり言ってしまえば「イケメンが、何故自分モテるか分からない」とひたすら愚痴る話だからである

 これを読んで少しでも嫌悪した人は、とっとと読みとばしやがれ。こちとら、ひたすらブヒって現状に安穏としてやがるキモオタものために、わざわざ時間裂いてキーボードぶっ叩いてんじゃない。悪いことは言わない。読まないほうが賢明だ。

 ……などと書いておきながら、かつては僕もデブオタだった。脂肪の塊で、オタだ。いわゆる鍵っ子で、無駄アクティブだった。うぐぅあぅ~うにゅ~と連呼しながら、昭和記念公園バニラアイスを食し、元町商店街スーパー前のベンチで来るはずのない誰かを待つ。ひたすら己の道を行く、オタだった。ちなみに元町商店街にたいやき屋は無い。クレープ屋はあったが、たい焼きは売ってない。うぐぅ。。

 などと言いつつ、色々あってダイエットをした。ぶっちゃけ彼女が欲しかたから。0.1tあった体重を、60㎏代まで落とした。ただ、それでも彼女はできなかった。だから、今度はオシャレに目覚めた。会社の同期や妹(いずれもパンピー)の助けを借りて、それなりの店で服を買い。美容院で髪の毛を切り、ついでに眉毛も整えるようにあり。おかげさまで、それなりのイケメンになった。少なくとも、事あるごとに「笑顔ステキ」とか言われ、行きつけの飲み屋のおばちゃんに「アンタはカッコいいんだから自信持て」と酒おごられる程度には。

 ただし、いかんせん「イケメンだ」っていう自信が持てない。っていうか、「自分を褒めやがる女性」が信用できない。女性自分をほめればほめるほど、自分キラキラお目目で見れば見るほど、相手が信用できなくなる。「こいつら、僕をおだててるけど。その実ドッキリしかけてるんじゃなかろうか」と疑ってしまう。例えば飲み屋女の子。ひたすら物を貢いで金つぎ込んで、アドレスを交換する。で、いざその子からメールがくると「あぁ、この子僕が気前がいいかメールしてんだ」と思ってしまう。んで、一人幻滅する。これが素人、例えばサークルの後輩だろうと同じ。

 だから彼女なんかできっこない。プロアマわず自分に好意を抱く女性に対して、信用できない。お前ら、アタマおかしいんじゃないの、と。なんでこんな僕を「イケメン」とか「きれい」とか言ってんの、と。

 かつての自分に言いたい。痩せればモテる。オシャレになればモテる。単純に信じていた、かつての自分に。いくら見た目を変えようが、モテないものモテない。いくらモテても、信じきれない。むしろキモオタだろうとデブだろうと、モテてるやつはいる。

 ちなみに痩せるから、男にはなぜかモテる。その点にかけては絶対の自信がある。だから、嗜好さえ変えれば幸せになれるんだろうな、と薄々思いつつ。

2012-07-04

http://anond.hatelabo.jp/20120704144809

変わった喋り方の奴はいるね。ネットのノリ(口癖)そのまま現実に持ってきちゃうようなのとか。

「拙者~でござる」はネタっぽく言ってるケースで一人だけ会ったことがある。

マジメに個性付けとして頑張ってるのだと、「ふもっふ」とか「うぐぅ」とか「~だにょ」とか「キター」は結構遭遇した。俺はおっさんだけど、若いオタも大して変わらないんじゃないかな。

2009-05-26

噂の交通安全協会

免許の更新時にあたかも義務かのように請求されるこの謎の協会の会費。

一度も払ったことない。

巷では建前とは裏腹に天下り団体で浪費されるどうしようもないものだと糾弾されている。

交通安全に関する各種標識とか、啓蒙活動とか、朝夕通学路で交通整理をしてくれる、いわゆる「緑のおばさん」とかもここがやってくれてるんだけど、収入に対する活動内容が薄っぺら過ぎて、警察官僚天下り利権総本山だとか。

なんか、これを払わないのはどうしたらいいですかとかあちこちの掲示板とかでみるけど、自分普通に「入りません。」とか「出しません。」とか、そのときの相手の言い方次第ですけど至極当然のように断って払ってません。はじめからきっぱりと言うと、相手もそれ以上なにもいわないですよ。

ただ一度だけ・・・「協力お願いします。」という言い方をしていたおばさんが、「協力しません。」と言った自分意図を察してか、

少し悲しい顔をして「これは・・・子供の通学路の安全対策や、ランドセルに付けるカバーの配布とかにも使われるものなので・・・是非、お願いできませんか?」と、決してすべてが世間で言われている悪い金になるわけではない、と、乞うようにいわれたときは一瞬「うぐぅ」となったが、再度きっぱりと「それでも駄目です。」と断った。

おばさん、あんたは悪くないよ。

自分にも子供が居るし、交通安全協会理念自体はすばらしいし、通学中の子供トラックに轢かれて5体ぐちゃぐちゃのミンチになったなんて話し聞くと本当に寒気がして予防対策には関心があるけど、ごめんね。

だけど、「紛争の被災者を救済したり、インフラ整備にも支援をしている。」からといって、一方で自爆テロロケット砲で無辜の市民攻撃して紛争を助長しているテロ組織寄付はできないでしょ。(テロ組織が根強いのは、味方にたいしてはそういう草の根支援があるから。)

お金で済むなら地元ロータリー倶楽部に寄付するし、行動で示すなら町内会の通学路パトロールに参加するよ。

まぁ、地元の緑のおばさんもおじさん(?)も、知り合いなので多少ひっかかりはあるが、自分の意思はそうです。

ま、別にびびる必要は何もなくて、きっぱり「入りません。」と言うか、だまって更新料だけ出せば良いんですよ。

免許の更新にはなんの不利益もありませんから。

2008-03-12

有害作品

「準児童ポルノ規制しよう!」「何だと!?横暴だ!?」「我々の運動に反対するということは、あなたは準児童ポルノを好んでいて、それに影響された人が子どもを性的対象としても構わないって言うんですね」「うぐぅ

ミステリー規制しよう!」「何だと!?横暴だ!?」「我々の運動に反対するということは、あなたは人殺し作品を好んでいて、それに影響された人が人を殺しても構わないって言うんですね」「うぐぅ

文学規制しよう!」「聖書規制しよう!」「全ての作品を規制しよう!」「何だと!?横暴だ!?」「我々の運動に反対するということは、あなたは有害作品を好んでいて、それに影響された人が有害な影響を受けても構わないって言うんですね」「有害な影響だけじゃない!人間を豊かにしてくれる良い影響もあるんだ!」「有害な影響はお認めになるんですね?」「有害な影響を与えずに良い影響だけを与えるなんて無理だ!人に影響を与える作品というのは少なからずそういったプラスにもマイナスにもなる力を持っているんだ!」「有害な影響はお認めになるんですね?」「だから――」「我々は有害な影響を重視しているのです。良い影響よりも有害な影響をね。ですから有害な影響を与える可能性がある限り規制します。人に良い影響を与える力を持った作品が全く有害な影響を与えないことは不可能であるというならば、全ての作品を規制するまでです」「うぐぅ

こうして人に何の影響を与えないような有害ではない作品だけが残った。やったね!

どうでもいいけど本気でやるならR.O.Dジョーカーさんみたいに全ての本を焼いて規制するべきだよね。歴史を取り上げて、思想を取り上げて、時の政府に都合の良い歴史思想だけを発行して、均質で考える力を奪った都合の良い人間を作るのが簡単でいい。世界平和になるよ!やったね!つまらないし進歩がなくなるし主権的ではなくなる?人の命は地球より重いんです!平和が何より大事なんです!自由な戦争状態より奴隷平和です!平和原理主義なんです!

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