鳥人間コンテストやってる人に、「空を飛ぶなら飛行機があるから、君ら無様だよ」って言ったり
ロボットコンテストやってる人に、「ロボットは工業品として企業が作ってるから無意味だよ」って言ったり
そういう人絶対いる
ガッキーも星野源も超かわいいけど、主題歌も好きだけど、ムカつく。
なんでかっていうと、まず「かわいそう」っていうステータスをアクセサリーみたいに扱っているから。
「かわいそう」っていうアクセサリー。
何かしら欠損を抱えたキャラクターじゃないと人気が出ないんだろうと思う。
だから、ちゃんとこの人は「かわいそう」ですよーっていうアクセサリーとして高齢童貞とか、無職とかっていう設定にされる。
きっと高齢童貞SEにも文系院卒無職女にも、それぞれの人生として積み重ねてきたものがあって、
プラスの部分もマイナスの部分を背負っているはずなのに、みくりとひらまさからはそういう積み重ねが感じられない。
だって二人とも、仕事と恋愛のことしか頭にないように見える。そんなのただのリア充()じゃないか。
みくりとひらまさの生活からは、一切趣味のにおいがしない。彼らはいままでどうやって生きてきたんだろう。
ひらまさはまだ、彼の人生の中で積み重ねが見える気がする。
彼が仕事をきちんとやってきたことで、みくりを雇う金銭的余裕が生まれた。
でも、みくりは、彼女が選んで積み重ねてきたものが、彼女をかたちづくっているように見えない。
かわいらしく賢く生まれて、家事をしっかり仕込んでくれる母親に育てられれば、選ばれる。
女は学歴なんかつけるもんじゃないっていうのを地でいってしまっている。
ひらまさがリストラされたら、なにか変わるんだろうか。変わるといいけど。
そもそも、みくりもひらまさも、婚活市場でどう考えても勝ち組だし。
大学院いかせてもらるくらいの金銭的余裕と文化的なものへの理解があるおうちに生まれて、
家事が上手でそこそこ(ガッキーは死ぬほどかわいいけどドラマの設定的に)かわいい26歳って、婚活市場で最高ランクだと思う。
ひらまささんだって、婚活市場では、めちゃめちゃ人気じゃないのかな。
定職についてて、貯金があって、都内の1LDKで優雅に生活してて、
お店の人や家族に横柄な態度をとらなくて…。
何より、女性に対してちゃんと欲情するけど、その性欲を押し付けてこないって、最高に理想じゃないかと思う。
ロマンチックな言葉でうっとりさせたり、スマートにエスコートしてくれたりするのだけが王子様じゃない。
かわいらしく一生懸命家事をやっていれば、いつかお城付きの王子様が迎えに来てくれる。
みくりの「小賢しさ」「分析屋」「自分からなんでも言ってしまう」というキャラクターは、
いまどきの愛されキャラという感じがする。
適度に毒がある人の方がお茶の間に愛されるのと一緒で、人が不快にならない程度の小賢しさがあるくらいの方が
あまりにもバカなことをやるやつがいないアクション映画みたいに安心して見られる。
恋愛至上主義を批判的に描いているようで、結局ロマンチックラブイデオロギーとシンデレラ・ストーリーを強化しまくっている。
セックスなしの、お金もからまない、純粋な恋愛をこのドラマは描き続けている。
ハグしたりキスしたりセックスしたりするまでに昭和の少女漫画並みの時間がかかる。
王子様とヒロインが、お互いに好きであることを確かめることを丁寧に描く、少女漫画。
家事代行に来てもらった女性と、家事代行先の雇用主が運命の相手だったという、なんというロマンチックな話。
書いてて気づいたけど、私が本当にムカついてるのは、ドラマの『逃げ恥』じゃなくて、『逃げ恥』をちょっとでも批判しようものなら、くってかかってきそうなTwitterとかの人たち。
ドラマの『逃げ恥』は現代の少女漫画としてめちゃめちゃ楽しくてそれでいいのに、勝手に社会的ないろいろを重ねて持ち上げて、
批判しづらいように論陣はってる人たちのせいで、ムカついてしまう。
インターネットでも現実でも、『逃げ恥』のこと批判してる人に全然出会えない。
私は文系院卒で男社会で無理やり働いていて、たぶん小賢しい女なんだろうと思うけど、
素敵な素敵な少女漫画の中に、急に登場人物としてエントリーさせられてしまったような居心地の悪さがある。
ドラマとして楽しんでるのとは別に、実存救われねえーって思うけど、それも言えない雰囲気がある。
ドラマで描かれる「小賢しい女」にすら私はなれないんだなって、悲しいを通りこしてムカつく。
今週、「僕にとってみくりさんは簡単に手放せる人じゃないんです」って言うひらまささんに軽率にときめいている私にもムカつく。
コンパに参加して同性の機嫌をうかがって相手に引かれるとか本末転倒では
何かのラジオで、太陽のKomachi Angelを歌う流れになって、
「あの娘は太陽のKomachiAngel」と歌う松来さんの楽しそうな声がすごくすごく印象に残っている。
この曲を聞くたびに、松来さんのことを思い出して、もう流れは思い出せないけど、そのラジオを聴いててただただ楽しかったなあ、って気持ちになれる。
うまく言語化できないし、他と比較してどうのって言ってもしょうがないのかもしれないけど、
それも、パーソナリティ同士や、パーソナリティとスタッフの、その会話の空気がそのままダイレクトにラジオから伝わってくる。
基本的に無茶な編集をしないことや、声だけであることとか、いろんな要因があってそう思えるだけで、
テレビや本だって、この空気感を伝えられないわけじゃないんだろうけど、
僕にとってはラジオってすごい特別で、素敵で、ラジオっていいなーっていっつも思ってる。
だのに、その空気感には、当然時代感とかリアルタイム性とかもあるから、アーカイブ配信とかDJCDを出さない番組があるのは仕方がないんだけど、
この松来さんのラジオをもう一度聞けないのは、やっぱり悲しくて。
だからこそ、今こうしてラジオを聞く耳があって、いろんなラジオを聴けるインターネットに繋がってるうちに、できる限り多くのラジオを聴きたいなあ。
ラジオ…… 好き……
オタク的話題や瞑想関連に興味がないので、負の部分を見ないで済んでいるからかもしれないが、多角度の意見や議論の場として貴重な存在になっている。
DeNA炎上問題を取り上げたヨッピーに短時間で2,000以上ものスターが集まるなんて素晴らしいではないか。はてな村の存在が、ヨッピーを一部で支えているのは間違いないだろう。
GIGAZINEの個人攻撃的な記事は、やり過ぎな点はあるだろうが、DeNAの対応にも大きな問題があり、ある程度の激しさがないと悪事を働いた者勝ちになってしまう。だからといって、個人への誹謗中傷や人格否定が容認されることはないが。
しかしこの問題、Facebook内の一部ではまったく別の世界が広がっている。
当事者に近い人やネット業界経営陣、これら企業に投資していたVC内の人は、DeNAを擁護し、村田氏をかばい、都合良い解釈の投稿を誰かが書くと、皆で「いいね!」をし合っているのだ。
まるで試されてるかのように、「いいね!」をしないといけないかの雰囲気すらある。「旧来メディアが新しく挑戦してる若者やベンチャーを叩いている」なんて意見にも、お仲間いいね!が集まっている。しれっと「これから皆でネットを良くしていこうよ」なんてのを誰かが書こうものなら、お仲間達が一斉に「いいね!」する。
こうした投稿は友だち内でしか共有されない。だから、多くのはてな村民は見ることがないだろう。
しかしこのお仲間いいね!をしている人たちの多くは、ガチャやこの一連の問題で巨額のお金を手にしている。これまでほとんど批判の的になっていないが、今回問題となっている人や企業に投資し、扇動し、大金を手に入れたVCにも大いに責任があると思う。
(参考:nanapi、MERY、iemoの3社だけでも買収額は100億に達するのではないか?他にも、CWは赤字のままIPOに成功している)
はてな村の皆さん、残念ながら貴方がたの怒りは「悪そなヤツは だいたい友達グループ」にはまったく届いておらず、むしろグループ内の結束が強まってる感すらあるのが現状だ。
お仲間グループ内の誰か1人でも「おかしいのではないか?我々こそ率先して反省すべきでは?」と言い出しても良さそうだが、そうならない。他ならぬ、私もそれができていない。彼らは極言してしまうと「情弱から巻き上げて金を儲けない方がアホ」という思考の持ち主なのだ。
自浄作用などを期待することはまったくできないだろう。どうすべきなのか?
http://bylines.news.yahoo.co.jp/yoppy/20161209-00065195/
http://b.hatena.ne.jp/entry/bylines.news.yahoo.co.jp/yoppy/20161209-00065195/
成宮の薬物疑惑からの引退報道まで、好意的な記事が多くて不思議な感じがする
タレントの薬物疑惑なんて言ったら普通はもう少し叩かれたり、悪意ある推察をするような記事も多いと思うのに
引退発表してからの苦労した生い立ちの記事の流れもよく分からない
自分は成宮に悪いイメージ持ってなかったから、疑惑は事実無根であってほしいと思うけど
音楽も、セリフも、ストーリーも、悪くはないがうまくマッチしていないような気がする。
ただ、やっぱり好き嫌いが別れるのは絵によるところが大きいと思う。
美しいか醜いかと言ったら、100人中100人が美しいと言う美麗さだ。
ただ、映画の絵としては特異と言わざるを得ない。
主人公が絵の中心にいないのだ。
背景を美しくみせるための、添え物に過ぎない。
絵に人間賛歌がないから、あんなに練られたストーリーも、セリフも、一つの作品としてまとまらないのだ。
正確には、背景を美しくみせるというのもちょっと違う。
あの映画の絵では、背景ですら、光を、風を、雨を、それを表現するための手段にすぎない。
見えないほど雨が画面を曇らせる。
画面の半分が空。
思い出したのは、歌川広重だった。
中でも、広重は、雨そのものを、雪を、光を、描き、人物も背景もその添え物という新しい表現に挑戦した。
今では、紙も絵具も変色して、容易には気が付かないと思うけど、雨が、光が、雪が、主役の作品を残してる。
版画という、数々の制限の中だからこそ、ストレートな工夫が目に入ってくる。
日本人の目には、「へぇ、面白いなぁ」だが、当時の西洋人には衝撃だった。
おそらく、「君の名は。」も同じに映るだろうと思う。
いろんな記事やツイートを読むたびに、主婦ライターは素人前提という認識がされている。
ライターとして働いていた人が退職して主婦ライターになった場合や、本気でライティングをしたい主婦ライターの場合は主婦と名乗らないほうがいいのだろうか。
コンパのような場で、異性の人から見た目のことで褒めてもらえた時に、
隣の同性から「見た目だけで中身ない人、私嫌いなんだよね〜」と言われたとき、どういう対応したらいいかわからない。
他にも、「あんた見た目でいま得してる分、将来きっと不幸になるよ〜」とか言われたら、反応に困る。
ほかの人(少なくともその隣にいた人)よりも見た目に気遣ってるとは思うし、褒められればそりゃ嬉しい。
とはいえ、その子は、そういう言動を除けば、普段接してる分には優しいし、
仕事は優秀だし尊敬してるから、これからも仲良くやっていきたいとは思ってる。
一応その場では、私浮気性だから〜とか言って性格悪い発言しておいたら(浮気したことないけど)、
合コン相手から引かれ、結果、隣のその子が一番人気になってコンパは終了。
その子は満足そうな顔しててほっとしたし、
腐女子という言葉自体は生き残ってるけれど、最近1つのジャンル、カップリング等に夢中になることを、沼にはまると言う人がとても増えた。
自分自身がヤバイやつになってしまった(腐った)から、周りにヤバい環境があってそれに捕まってしまった(つまり自分自身はそんなヤバくない)、に表現のニュアンスが変わったのはいつからだろう。
「私は残念な奴なのでw」と「ヤバいものにハマっちゃう残念な私w」は似てるようでちょっと違う。どことなく後者の方が自己肯定感が高いような、自虐的な要素が減っている。