はてなキーワード: ゴッドハンドとは
結婚。価値観の異なる異性と生活を共にする。考えただけで鳥肌の立つ制約だ。なんでそんなものに手を出すのだろう。さっぱりわからない。みんなは一体どんなモチベーションを持ってるのか。
まず最初に思い浮かぶのが性欲。だけど普通に風俗で満たせるし、というかゴッドハンドとエロコンテンツと妄想が最強だし(風俗嬢のプロの姉ちゃんよりも断然。まして素人にこれを超えられるとは到底思えない)、で結婚にこだわる必要性がない。
奥さんを支えたいという庇護欲?人間なんて複雑で面倒な生き物を選ばなくてもペットを選べばいい。ペットなら複数持てるし。
奥さんを支配したいという征服欲?Sじゃないのでよくわからん。
漠然とした寂しさ?趣味のコミュニティに顔出せばいくらでも紛らわせるし、そもそも多趣味なので寂しさを感じてる時はほとんどない。
将来的に楽するために子どもが欲しい?そういう投資をするよりは自分に投資した方が安上がりだと思うけども。
・・・てな感じで、わざわざ結婚という面倒くさそうなモンに手を出す必要性、必然性というものがさっぱりわからない。なのに世の中には結婚してる男女で溢れてるし、してない人達の中にもそこ目指して進んでる人が多い。不思議でならない。何がそんなに面白いんだろうか。この趣味は依然として大人気を続けているから、その根源を知りたいというか、気になって仕方がない。調べても答えは見つからないし、訊いても適当にぼかされたり感性で理解不能なこと喋られたりしまいには変人扱いしてきたりするし、で未だにわからないでいる。
とりあえず試そうかなとも思ってるんだけど、手軽に試すにはコスト高すぎし、相手も人なんで「もういいです」でやめるわけにもいかないだろうしで試すわけにもいかず。ふーむ。
★子供の社会科教科書を見ると、堂々と「吉野ヶ里遺跡」と「三内丸山遺跡」が載っていて、
激しく「ジェネレーションギャップ」を感じてしまった。
というのも、われわれ世代(40歳代)にとっては、吉野ヶ里や三内丸山は「ニュースの事象」であり、
吉野ヶ里の「発見」が1989、三内丸山の「発見」が1992。
当時自分は大学生ないし社会人で、これら遺跡は「ニュースで知った」ものであり、「教科書で知った」ものではない。
たぶん、今の40代より上の世代は、教科書でこの2つは習っていないはず。
なので、今の40代とか50代では、吉野ヶ里や三内丸山は「そもそも知らない」という人の方が多数派なんじゃないか?
これら世代で吉野ヶ里等を知っているのは、地元民または観光業界人または歴史マニア。
という訳で、
「遺跡が見つかるキッカケは、公共工事や商工業開発が多い」という「生きた授業」を子供相手に展開してやった。
★我々の世代は、せいぜい「登呂遺跡」を覚えておけば、事足りたと思う。
一方、今の子供の世代は、登呂遺跡以外にも吉野ヶ里とか三内丸山とか、覚えることが増えて大変だなあと同情してしまう。
吉野ヶ里とか、工業団地開発を計画しなかったら、遺跡は見つからなかった=教科書の記載も減ったわけでして。
・・・と書こうと思ったら、「登呂遺跡は、教科書によっては、記載を外しているケースもある」らしい。
子供の記憶容量は有限だから、教科書記載事項を巡る「競争」は激しく、スクラップ&ビルドも激しいらしい
・・・となると、おじいちゃんおばあちゃんが、孫を連れて静岡に行って、「これが有名な登呂遺跡だよ」と案内しても、
孫が「何それ?習ってないよ」という世代間すれ違いの悲劇が発生してしまう危険性がある。
※というか、実際静岡の人のブログを見ると「子供の教科書に載ってなくて会話すれ違い」報告有
★「一番歴史学習が大変だった」世代は、「1999頃に歴史を学習していた世代」じゃないか、という気がする。
あの頃は三内丸山も教科書に掲載されたうえ、旧石器時代の記載も「充実」していた。
→その後、毎日新聞のスクープで、旧石器時代の殆どが教科書から削除された
吉野ヶ里や三内丸山クラスの遺跡発掘のニュースが、この20年間聞こえてこない、
そのこと自体が「失われた20年」を象徴している。(公共工事激減と比例)
・・・或いはアベノミクスで、再び吉野ヶ里クラスのが見つかるか?
★登呂遺跡の件、もう少し調べてみたら、実は「登呂遺跡の教科書記載」そのものに「政治的な意義」があったらしい。
登呂遺跡発見の「政治的意義」とは、「日本書紀記載の年代以前に、東日本に稲作が伝わったこと」の立証。つまり「日本書紀の否定」
まあ、実際の学問レベルでは、日本書紀を否定する研究もされていたのかもしれないが、それが義務教育教科書に掲載されることがなかった。
義務教育には日本書紀や古事記が掲載され、子供は歴代天皇の暗記を強要された
つまり、「日本書紀・古事記・歴代天皇暗証の「偽歴史」を教育する」、そういうナンセンスな歴史教育は終了した、
そういう「歴史教育民主化・自由化」「もはや戦前ではない」のシンボルとして登呂遺跡が存在した。天皇の人間宣言と同趣旨
となると、直近の「登呂遺跡の教科書引退」の政治的意義は、歴史教育において「もはや戦後ではない」とアピールする効果。
登呂遺跡の「政治的役割」は、歴史的意義を終えた、ということなのかもしれない。
※GHQが必要以上に登呂遺跡の「意義」を強調するよう、教育介入したような気もする
★縄文時代、旧石器時代の存在は、日本書紀や古事記と真っ向対立。
多分、戦前の教育では縄文や旧石器時代は存在しないことになってた
だから、最大70万年前の旧石器時代の遺跡を発掘した「ゴッドハンド藤村某」などは、世が世なれば不敬罪になってたんじゃないかと心配する。
そもそも日本書紀や古事記の世界では、神がイザナギ・イザナミを作って、それから世界が出来た。
→多分、戦前は「恐竜の存在」は義務教育では認められなかったのではないか?
そう考えると、恐竜をモチーフとした「映画ゴジラ」は、イザナミ・イザナギの世界観を否定する恐竜をモチーフにした、ということで、極めて戦後的な気がする。
もうみんな興味を失ったみたいなので俺用にまとめて終わる。
笹井氏ぜんぜん悪くないじゃん のトラバに生命科学系の研究者達がコメントしていて興味深い。
「コネ採用でなくなったからこそ小保方みたいのが紛れ込むようになったのだ」
という要旨のコメントが興味深かったのだけど消えてしまった・・
確かこれ:http://anond.hatelabo.jp/20140421200041 (記事消えてる)
生命科学系の方がコネとは何か具体的に語ってくれていて興味深い。
http://anond.hatelabo.jp/20140421192907 (一部抜粋)
しかし、生命科学に携わる者が多すぎるし、研究者って頭おかしすぎるやつも多いわけで、
完全に知らないやつをとるのはたいてい躊躇するようだ
だから、一応知ってる人だったり、知ってる人の強いプッシュがあったほうが安心して採用しやすいという面はある
コネというとぎょっとするがどうも「同業者内の評価」のことを言っているらしい。
業績が良くても性格その他に問題があったりすると「なぜかずっとポスドク」みたいなやつ・・・? あああ。
そういえば「あいつゴッドハンド」みたいな噂は同業者内ですごい勢いで広まるよね。
こんなところなのか。個人的には「コネ採用」の方向には戻ることはないと思う。
公正な採用は「変なやつ」が入るリスクがある。だから「変なやつ」を評価して追い出せるシステム作っておきましょう。かな。
(ここで変なやつってのは窃盗とかパワハラとか捏造とかいろいろ含めて)
追加中。
上記トラックバック内で最近の生命科学周辺分野についての解説があったのだけど見つからない。
誰か見つけたら教えてください。
(思いついたら随時微修正)
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全格闘職入場!!
タイガークロー殺しは生きていた!! 更なる研鑚を積みゴッドハンドが甦った!!!
武神!! 格闘盗賊だァ――――!!!
真の みかわしを知らしめたい!! アクロバットスター 格闘旅芸人だァ!!!
ルールの無いケンカがしたいからバウンサー(ボディーガード)を呼び出したのだ!!
デカァァァァァいッ説明不要!! HP360!!! 重さ260!!!
格闘パラディンだ!!!
回復の仕事はどーしたッ 闘士の炎 未だ消えずッ!!
治すも壊すも思いのまま!! 格闘僧侶だ!!!
レンジャー協会にはないしょだ!!!
若き王者が帰ってきたッ
どこへ行っていたンだッ スーパーハイテンションッッ
俺達は君を待っていたッッッ格闘武闘家の登場だ――――――――ッ
加えて負傷者発生に備え超豪華なリザーバーを3名御用意致しました!
……ッッ どーやらもう一名は到着が遅れている様ですが、到着次第ッ皆様にご紹介致しますッッ
を達成したんだけど、共通点に気がついたので自慢まじりに書く。
TOEICの900も、マラソンのサブ4も、ゴルフの100切りも、始めた頃には遠くにみえる。そして、たぶん最初の目標地点。そこを目指すマニュアルはいっぱいあって、それにお金を払う人もいっぱいいる。俺もいっぱい払った。。
YDPは、目標として切りがいい。数字で表されていて到達したか客観的に評価できる。まわりを見渡せば到達した人が必ず目に入る、そんなレベル。
YDPに到達するためには日常のルーティンから、時間を確保しなくちゃいけない。努力が必要。難しいのは、確保すること、続けること。マニュアル通り。その2つぐらいなら出来そうな気がするし、出来た人が近くにいる。そんなレベルがYDP。
TOEIC900なら、一応の英会話は出来る。相手が何を言うか分かる時は問題ない。電話もパターンを知ってれば対応可能。読むのはまず問題なし。メールのやりとり、自分の専門分野で知らない単語は出てこない。書くのも英借文でクリア。
マラソンサブ4なら、「今週末フルマラソン出ます。」って同僚に言える。練習方法を誰かに教えることが出来る。ナイキショップでiPod Sports Kitの前で話しかけられても恥ずかしくない。
ゴルフ100切りなら、突然の週末のラウンドに誘われる。人のパットライン踏んだりしない。自分の球の行方は追える。他の人の球も見つけてあげることが出来る。ラウンドの全てのショットを思い出せる。
でも、TOEIC900なんて、所詮入り口。気の利いたことは一切言えない。映画の細かい筋は追えない。ネイティブと同じに笑えない。いつの間にか主人公の恋人死んでる。YDPに来るまで、こんだけやってきたのに、あと何倍の努力でラスボスに会えるの?
でも、マラソンサブ4なんて、所詮入り口。順位とか考えられないし、週に4,5回走ってこのタイムなんて、もうこれ以上どうやって練習するの?タイムも縮まらなくて、もうモチベーションの限界。
でも、ゴルフ100切りなんて、所詮入り口。握ったら確実にむしられる。パーとかボギーとか、名前が付いている打数で終われない。楽しいというよりストレスたまる。わざわざバックティーからまわる意味が分からない。
英語が出来るって、もうTOEICではかれるレベルじゃないってことを知った。
マラソン2時間前半って、俺がダッシュしてるぐらいのスピードだって知った。
18回パーをとっても負けるとか。
YDPにたどり着いても、達成感とかない。テストの結果とかスコアが出た瞬間だけ達成感を感じてすぐ消える。もうこれ以上努力しなくていいやなんて思えない。どこからも、もう休んでいいよって声が聞こえてこない。もう残りの人生の方が少ないってのに。こんだけやって、やっとの思いでYDPにたどり着いてもそれが通過地点って。
留学する前、「英語はもう勉強しなくてもいい」って自分で分かる瞬間がくると思ってた。そんなものは来なかった。もう帰らなきゃいけないのに。
俺がYDPに到達したこと思い返してみた。どれもこれもそんな瞬間はやってきていない。
1. トップのすごさ。
2. トップとの埋められない距離。始める前は目標がみえなくて距離が測れない。YDPに来て距離が測れると絶望できる。
3. YDPに到達したってことはわかる。
4. YDP到達後、さらに進もうかどうか迷う。成長カーブがプラトーに近づく。
1.国立大学に入る。俺は宮廷の医学部。そこまで行くと、赤門と鉄門の差が分かる。
2. サッカーで天皇杯の地方予選ベスト8ぐらい。本気モードのサッカー部出身者に軽くあしらわれる。Jリーガーはそれよりすごくて、日本代表は… その先考えたくもない。
3. クロールで4km泳げる。距離はいくらでも行くけど、スピードは出ない。
4. 夜中一人で救急病院で当直してても怖くない。トリアージと応急処置は出来る。自分の専門以外の治療は無理。
5. 自分の専門分野の手術が一人できる。やっとゴッドハンドがゴッドな理由が分かる。理由が分かっても真似できない。
6. IF 5点ぐらいの雑誌に投稿できる。留学して基礎実験始めて、ボスの名前借りてやっとこのレベル。CellとかNatureとかScienceとか意味が分からない。
結局、一つに集中してこなかったから、どれもこれも中途半端。中途半端すぎて、自慢なのか自虐なのかすら判断できないレベル。だれもdisってもくれない。
ここまでやっても、こんなもん。掲示板の中の人たちの「明日から本気出す」って強い共感を覚える。向こうからは共感してもらえないけど。
こっちで「灯台みたいな三流大学出て恥ずかしいけど、日本人には面と向かってそれを言えない。」って言ってる人がいる。優越感を感じられるはずと思って頑張ってここまでやってきたのに、まだまだ劣等感は無くならない。
考古学は結構体育会系。掘って掘って掘って、モノを整理して整理して整理して・・・。
っていう果てしなく地味な作業の反復が99%。あんま理論構築する人が多くなくて、よくわかんないものが出てくると
「祭祀が使ったんだよ」で終わりにする傾向が強い。物質主義で融通が利かない。とにかく「モノ」と年代別・場所別の整理。
学部生、院生は基本「安価な労働力」もしくは「奴隷」として扱われ、来る日も来る日もなんか掘る。コネ社会の傾向強し。
それに対して文化人類学はマジドリーマー。
基本なにやってもOK。「援交女子高生にインタビューしまくって書いた日本人論」とかもあり。
理論構成のテンプレートになってるハゲのホモが「そもそもおまえ、その元データ創作じゃねーの?」という疑いあり。
基本、データはいい加減な場合が多く、もう一人理論構成のテンプレになってるこないだ死んだ長生き爺さんも
「え、実は元データには例外いっぱいあるよ?意図的に無視してね?」ということが明らかになってたりする。
みんなを「おお!そのとおりだ!」と思わせれば勝ちなので、考古学におけるゴッドハンドさん的な理論構築をする人が多い。
よく言えば、考古学は実物と実証を。文化人類学は理論構築を重んじる。
自分の適性に合ったほうに行かないとホントに後悔するよ。
文化人類学者になる方法はそんなに難しくないよ。ある程度以上の大学に入って一生懸命勉強して
将来の不安を見てみぬふりしてればいいだけ。
学問的に決着が付いた。
そんなことはありえないし、そうだとしてどうなのだろうと常々思う。
今現在の学問的な決着と政治的な決着と本当の真実は同じということはない。
それは歴史が証明している。
とかく歴史というものは不明瞭な部分が多く不確かなことが多い。
大体の部分はこういうことだろうと言うこと。
確からしいと言う話。
なのだから、それを頼りに寄って立つと言うこと自体が危ういものだと思っている。
私達は、自分たちが集めた一部の情報で判断した考えを正しいと思い、相手の集めた情報で判断した考えを間違っていると考える。
自分が正しいと思うのは良いことだが、だからといって本当に正しいという確証など無いのだ。
他の誰某が言ったから正しいと言うこともなければ、あの本に書いてあったから正しいと言うこともない。
じゃあ、どうするかといえば研究し続けるのだ。
全ての情報を確からしいと言う考えでいつまでも調べ続ける。
水素水を笑う人間はいつか恥をかくのかも知れない、聖書の天地創造説を否定する人は終末の日に神に出会うのかも知れない。
まあ、そんなことはどうでも良い。
とにかく、人それぞれに情報を集め確からしいと言う自分なりの事実を作り上げる、そして考えを纏める。
それは良いことだと思う。
しかしながら、それをもって他人をバカ呼ばわりする人間性は持ちたくないものだ。