学問的に決着が付いた。
そんなことはありえないし、そうだとしてどうなのだろうと常々思う。
今現在の学問的な決着と政治的な決着と本当の真実は同じということはない。
それは歴史が証明している。
とかく歴史というものは不明瞭な部分が多く不確かなことが多い。
大体の部分はこういうことだろうと言うこと。
確からしいと言う話。
なのだから、それを頼りに寄って立つと言うこと自体が危ういものだと思っている。
私達は、自分たちが集めた一部の情報で判断した考えを正しいと思い、相手の集めた情報で判断した考えを間違っていると考える。
自分が正しいと思うのは良いことだが、だからといって本当に正しいという確証など無いのだ。
他の誰某が言ったから正しいと言うこともなければ、あの本に書いてあったから正しいと言うこともない。
じゃあ、どうするかといえば研究し続けるのだ。
全ての情報を確からしいと言う考えでいつまでも調べ続ける。
水素水を笑う人間はいつか恥をかくのかも知れない、聖書の天地創造説を否定する人は終末の日に神に出会うのかも知れない。
まあ、そんなことはどうでも良い。
とにかく、人それぞれに情報を集め確からしいと言う自分なりの事実を作り上げる、そして考えを纏める。
それは良いことだと思う。
しかしながら、それをもって他人をバカ呼ばわりする人間性は持ちたくないものだ。
納得し得る枠組みの上で、論点を整理して、ここまではどうだってことなら素人でも出来る。 論点の根拠になるものが、事実という名の証言なのだろう。 プロセス自体が正しくないなら...
歴史ってそもそも政治的決着しか着かないんじゃないの。 科学的な手続きに従った史料批判ということは可能だけれども、その史料に基づいて事実を再構成して意味付けしていく枠組み...