私は君たちが豊かな文系教養科目を受講できていることを羨ましく思う。
自分たちまでの世代は文系教養科目というと、オーソドックスで最高の座学か、“学士号しかないのに都の西北で教授になった金髪の胡散臭いインターネット昔話”くらいしかなかった。
ああ、悪魔祓いの話をしてくれるオタク蔑視のクレイジージャーニーもいた。
彼は文化人類学が専門らしいが、弊学のオタクたちの情緒は理解できなかったのかな。
あれほどまでに他者と向き合ってきた学者もオタクとなると未成熟なヒトとしか捉えられないらしい。
さて2016年以降入学の聡明な学生諸氏においては、最近の立看板や張り紙など学費値上げに関連した様々な活動を展開されているようで大いに結構である。
しかし2016年以降入学の学生がリベラルアーツ教育で無限の教養を手に入れているというのは自分の誤解であったのか、もしくはあの素晴らしいリベラルアーツ教育ではあまり社会学に触れる機会がなかったのか、はっきりとはわからないが、ここはひとつ「景観」という概念について述べたい。
学生諸氏が知らないのはNHKニュースおじさんが教えてくれなかったのが悪いのだが、「景観」というのは社会的に共有される財産の一つである。
景観とは誰もが参加しうる実体に関わる価値であるために、スワンボートやまことちゃんハウスは批判されていたのだ。
そもそも大学のキャンパスというのは実際には難しい公共的な立場にある。
完全に公共に開かれた場所ではなく、指定国立大学法人の管理する土地である。
しかしその法人の性質上、ある程度まで公共に開かれて地域に貢献することが望ましい。
また近隣住民が銀杏を拾っているだけで烈火のごとく怒り出す理学部の教授と、自転車走行禁止区域の傘さし子連れ自転車マダムを調停するのも大学法人の責任ではないかと思うが、その問題自体はここでは無関係である。
ここで大学のキャンパスには上記のような公共性が求められているということがわかるだろうか。
つまり学内だから地域社会とは独立である、もしく国立大学なので自由に市民が利用できる、という言説はどちらも間違っていて、端的に不寛容な価値観だと言わざるを得ない。
このような状況の中で「景観」について考えると、大学の中にあってもその景観を破壊することが何を意味するのか。
ここから明らかなように、景観を破壊することはそれを共有する全ての人々の財産を破壊しているということになる。
もちろん大学のキャンパスの中では大学の許可があれば自由に看板を建てられるし、百年記念館の素晴らしい扉にポエムを書きつけることだってできる。
しかしそのような行為によって景観を破壊することは高等教育を受けているような知性の持ち主に要求される倫理において当然許されることではない。
そもそもあの立看板は無許可であったのだが、それは今回述べたこととはあまり関係ない上に、この大学で学生による自治の概念が絶望的に欠落していることと文化的に京都大学を経由していることによって私の語りうるところではない。
ちなみに社会工学科の人は、川喜田二郎によって弊学の学生運動が懐柔させられたという噂の真偽をコメントしてほしい。
話が脱線したが、大学において求められる景観について十分に説明できただろうか。
私は景観とは都市的な文脈の中で位置付けられるものであると考えており、そのため京都大学に立看板を立てることを問題視する立場にはない。
この大学の景観を良いとは言えないが周辺の住宅地は幾分マシな方である。
端的に言おう。
特に百年記念館の扉にダサいポエムを貼ったり、80周年記念館の壁に「ここは80周年記念館です」などと意味不明のダサい案内を貼るのはやめてほしい。
ダサさが問題なのではない。
それがどれだけ格好良くとも、周囲と調和が取れておらず景観を破壊しているのが問題なのである。
施設管理課の人間がどれほどの教育を受けた人間なのかは知る由もないが、おおよそ高等教育を受けた人間のすべきことではないので中卒だと思う。
意図せず大学批判になってしまったが、この日記の目的は2016年以降入学の聡明な学生に景観について考えてほしいということである。
今や街にアニメキャラクターの巨大な広告があってもそれほど問題にはならなくなったことや秋葉原ではそもそも問題ではなかったことを思い出してほしい。
大学教育というものについてよく理解できていない人間が多いようだが、大学は教育を受ける機会を与えるのみである。
「〜を教えてくれないのはおかしい」や「〜を教えるな」など批判にもならないような意味をなさないヒステリーをtwitterに書き殴るのも本当はやめたほうがいい。
そもそも現在行われているようなリベラルアーツ教育が意味をなしていないのは学生に教養が足りていないからである。
高等学校までで教わるような基礎的な知識をロクに覚えてもいないから、議論をしても無が展開されるのみであるのだ。
文系科目を雑に批判して自らの無教養を醜く晒すのではなく高校の教科書などを読むとよろしいかと思う。
確かにクレイジージャーニーやNHKニュースおじさんの施策は最悪だが、大学という場所は自分で勉強することができる場所でもある。
ちょっと気が向いたので給湯室にある棚を整理してたのね。
そしたら
無残で残念みを漂わせている形でひっそりとその棚の中に収まってたの。
犯人は私。
ああ夕方お腹が空いたらと思って食べるのに買って置いておいたんだけど、
見事に忘れてたわ。
お腹が空いたらそれまた食べに来るけど、
2回目棚にしまったときに1回目のおにぎりに気付よ!って感じ。
我ながらなんかいろいろ凹むわ。
ぜんぜんセーフだったわ!
もうそんな私の心の中では
花*花のサヨナラ大好きな人がエンドレスで流れていくのでありました。
ごめんなさい。
涙そうそうだわ。
昨日は台風でタマゴサンド材料が入荷できなくて作れなかったって。
今日は今朝寒かったので
ふーふーして飲みます。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
異議あり! 大体においてのマクロスシリーズに出てくるヒロインの「新人枠」キャラは大体アニメ出演時はアイドル性も演技力も歌唱力も諸々拙いが、その後謎の成長を遂げて結果的に結構なアイドルに成長する! アニメが終了したからと言ってカノジョらの進化は止まらない!
たぶんこれが落ちた理由だな
わかる。
が、人間に欲があるかぎり、余裕を儲けに変えようとする人間が現れるので、いつの時代でも人間社会には余裕が生まれないという気もしている。
そして、そういう構造をあらかじめ持っている(=人間はしょせんはそのような生物である)からこそ、哲学とか倫理とか、アートなどといった、いかにも「人間臭い=動物的ではない」ものも生み出したのかなぁとかも、思う。
人間vs動物(自然状態)というのは、なんか西洋的でちょっといやな気もしないでもないが、ちょっとそんなことを考えたので、横増田した。
単に推測を述べてる(だから語尾が「では」)だけだろう
>なんでこれに星が集まるのかがようわからn
ぶっちゃけ俺もあのトップコメが一番人気は首をかしげないでもないが
お前の話の呑み込みの愚図さの方がいらついてきたわ
映像モノは、映画であれアニメであれ、画面の前に座ってぽかーんとしてても
それなりに楽しめる。だから、わずかな好奇心さえあれば簡単に始められて、
ストーリーはさておき、映像美や音楽だけを味わう感覚でいける。
確か4年前の誕生日プレゼント。大好きな白で、可愛くて、とっても嬉しかったのを覚えています。
思い出の品BOXの中に入れたまま、存在を忘れてしまっていました。
特に今は子供が二人ともまだ小さくて出掛ける際の荷物も出来るだけ少なくしたいというのがあり…
手帳を持ち歩くことがなくなりました。
持ち歩かないとついつい出先でスマホに入力してしまいますよね。
病院で次の予約をした時とか…
色々なツールで分けて管理すると予定がよく分からなくなってしまいます。
中途半端に手帳に書くことはしなくなり、すっかり手帳を使う機会がなくなってしまいました。
でも人に貰ったものは捨てにくいですよね。
“せっかく貰ったのに…”
という気持ちはありますが、使わない物は持っていても仕方がない。
残念ですが、今の私には必要ないので処分することに決めました。
人から頂いたものだと、やっぱり申し訳なくて、捨てにくいですね。
これからはもう家族も友達も誕生日にプレゼントを交換するようなことはないと思うのですが…
本当は社会全体にもっと余裕があればいいんだよね。ただしそれは、お金があればいいという意味ではないよ。
資本主義は文明を発達させる上で非常にパワフルなんだけど「無理無駄をなくし社会を最適化する」方向にパワフルなんで、発達するほど「余裕」は消えていく。そこがマズいんだよなあ。いくらお金が増えても、余裕はどんどん減っていくんだよ。
もちろん構造上「余裕」を計算して入れることはできるんだが、社会にどのくらいの「余裕」が必要かはなかなか決定できない。たとえば「余裕」のない構造のビルにはひずみが生じてひび割れる、それは誰でも見えるけど、社会に生じたひずみ(事件や自殺者等)は複雑系なので人によってさまざまに解釈されるのでどうにでもごまかされちゃう。公園を作ったらどのくらいいじめが減るのか、休日を増やしたらどれくらい自殺者が減るのか、誰も確定的に答えられない。
「未熟」「病」は資本主義社会からの逸脱だけど、肉体的なそれはまだ対応可能なんだよ。でも精神的な未熟や病って、社会主義はもちろん資本主義システムでさえうまく対応できない。まだしも、封建制システムの方が(逃れがたい「社会的役割」を与えたり(身分)強制的に「仕分け・分類」したり(狂)して)対応していたっぽいんで、いっそ封建制と資本主義のハイブリッド型社会を構築すればいいのかな? なんて思ったり思わなかったり。
たとえば、東京を社会保障を限りなくゼロにした資本主義経済特別区として、そこでは社会が激しく動いて活動してる。でも、東京を一歩離れるとガチガチに規制がある社会で、駄菓子屋があって田舎の商店街があって代々続く魚屋があって服屋、靴屋があって、そこに生まれたら後を継ぐことが決まっていて、町から出ることもなく日々を過ごす人がいて、そして20年、50年、100年変わらぬ暮らしがのんびり続いていく。子供らも大人の目の届くところで遊んでいて、そこでは日がな一日ぼーっと空を見ているだけの人も「そういう存在」として社会的役割など期待されずに暮らしている。顔の見えるつき合いの範囲で、村の「おきて」みたいなものも決まってくる。「社会批判」とか「向上心」とかは、そこでは称揚されない(そういう人は東京特別区へ移住させる)。そういう社会をデザインしてみるのもいいのかもしれないね。
まあ残念ながらそうだと思う
ブサイクでもコミュ障でも能力があってバカにされない人、障害者でも自信を持って社会で生きていける人、LGBTをオープンにしても気持ち悪がられない人、おそらく全部一握りでしかない
もちろん、その一握りにとって機会を奪われることが、本人にとっても社会にとっても紛れもない損失であるというのはわかる
しかしそれ以外の、マイナスの個性をひっくり返すに足るモノを持たぬ大勢にとって、申し訳程度の機会を与えられるフリだけをされることが、果たして幸福なのだろうか
正直そうは思えない
具体例を述べよ
糖質だけの村を作ろう!