気持ち悪いとか思っちゃいけないんだね。
仕事でもブログでも、積極的に汚いことでも泥臭いことでも当然の様にやっていける人が成功するんだろうね。
ごめんなさい僕には無理です。
試しに、セロトニン・ノルアドレナリンの材料になるかもと、プロテインも飲むようにしたら随分と効く
ハイになる、狂うってほどではなくだいぶ思考が前向きになってきた気がする
脳にちゃんと血液がいっている感じがする
なんとか社会復帰したい
出産祝いの定番つったらおしゃぶりよりガラガラだけど(おしゃぶりは使わない親や嫌う親も多く贈り物には適さない)、ガラガラに性別なんて無いよ。
そもそも大半は色とりどりのカラフルでド派手なもの(その方が赤ちゃんの反応が良いんだとか何とか)。
ギフト需要が高そうな親好みの上質・お洒落系だと、今度は木のおもちゃで自然の木の風合いを生かして云々とかになる。
ベビー服店で売ってるようなベビー服とガラガラのギフトセットであれば性別分けられてる
(性別が分からない場合用の、真っ白とか黄色とかで性別問わない物もある)けど。
あと子供ってのは一人目だけじゃないんだよ。
二人目なら当然生まれた時から上の子の好みのおもちゃが溢れてる中で育つし出産祝いなんかも一人目より貰えないわけだが、
そもそも元記事が女性に対する偏見と「女性に相手にされない自分」という被害妄想に彩られていて、
受け身で居ることが許されず、口説いた相手に拒否されるリスクを男性だけが一方的に負わされているのが、「男性性役割」であり、「男性差別」の一つなのだと思う。
という「差別」という言葉の拡大解釈から始まっているのでどうしようもないんだけど、この記事に対して自分が
id:Red-Cometとid:fuyu77は普通に差別主義なんですが。選択的"差別主義者の詭弁"に優しいはてなーの知的レベル
というidコールを受けた。
ところが自分には、自分が差別主義者呼ばわりされる理由が全く分からなかった。
例えば一人の女性が居る。そしてAとBという二人の男がいる。問題を単純化するために、男たちはどちらも顔は並レベル、収入も同年代の平均的なランクであるとしよう。そして二人とも、彼女に対して恋心を抱いている。ひとつ違うのは、Aは彼女を口説くのだけど、Bは遠くから見つめているだけで何もしない、ということだ。
この場合に彼女がAを選ばずにBを選ぶということがありうるだろうか。
物理的にありえない。言われなければ好意を持たれているかどうかすら分からない。そんな男をエスパーのように感じ取って愛せというのだろうか。
それを「差別」だと彼は言う。
だけどよく考えてみると、Bに近い男性はそう思うのだろうと分かった。
振られるリスクを背負うことができるAと、リスクを背負うことが出来ないB。言ってみればBは社会的な不具であって、障害者手当的なものを受給すべき存在である、という主張なのだとわたしは理解した。
車いすの方が入りやすいように出入口にスロープを設けるように、非モテに対しても恋愛のバリアフリー化しなければならない、そういうことを言いたいんじゃないだろうかと想像した。
ぼくたちは好きな女性ができたならば、彼女のために何ができるかを考え、喜んでもらうことを行い、そうして彼女からの承認を受けるわけだけど、それは例えばある種の鳥がダンスを踊ってメスを誘うような本能的な行動であって、特に何の特殊技能も必要なく行えることだと思い込んでいる(そうでなければこれほど多くの人が恋愛を成就させているだろうか)。
だから、生まれつきそのような能力が欠如している人が存在することなど思いもよらず、「本人の努力不足だ」とか「勇気がない」などと切り捨ててきたわけだ。確かにこれは「差別」である。体の不具ならば目で見えるけれど、心の不具は目に見えないばかりにさらに根が深い問題なのだと気付かされた。
というブコメに対する、id:nt46からの回答がよく分からなかった。
id:Red-Comet それを選択しなければならないことが、それが差別かどうかだということが、おかしいとわかりませんか?
「それ」を「選択しなければならない」とはどういうことだろうか。誰に選択を強制されているのだろう。社会に?
そもそも女性には選ぶ権利があって、より好ましいと思う男性に惹かれるべきであろう。それが自由意志というものであって、女性に対する差別主義者ではないわたしはそれを尊重したいと思う。
だけどその自由意志を「それは社会に強制されて、そのような判断を行うようになったものだ。本来なら非コミュを愛さなければならない」と主張するのは過激すぎてゾッとしてしまう。「ここにイケメンとブサメンがいる、イケメンを選ぶのはブサメン差別だ!」というわけだ。ちょっとそれは、非モテをこじらせすぎているんじゃないだろうか。女性というものを、奴隷のように好まぬ主人に仕える存在だと思っているのだろうか。
ちなみに『異性をモノのように捉える理由について』と『優劣談義と集団への屈従を好む男性の性質について』については論ずる価値がないので触れないつもりでいたのだが、もしかしたら「恋愛不具の男性だから」女性をモノとして見てしまうのかなあとは思った。
ただこれはこちらの誤解かもしれない。ブコメでは短文過ぎて、わたしの読解力では真意を読み取ることができなかったので、id:nt46は増田で補足して欲しい。
あと、id:inukororiのブコメにはちょっと笑った。
合理的な選択が差別でないかのような主張はいただけないなあ。//たとえば、ろくでもない奴が混じってる可能性が高い部落出身者を排除するのは企業の採用担当にとって合理的だよね。
人を差別主義者だと断じる奴が一番の差別主義者であるという好例。いまのところid:nt46もその仲間のように思えているけど、本当のところはどうなのかな?
「出してぇ!しろいのいっぱいだしてくだしゃいいいいい」
http://anond.hatelabo.jp/20150124122808
ブコメはありがたく全て目を通させて頂きました。考えはまだ拡散してまとまりません。
フェミニズムの延長として、男性にも抑圧されてる面があるんじゃねって視点が出てきたわけで、実はこれはフェミの成果でもあるのよ。
http://b.hatena.ne.jp/entry/239953973/comment/c_shiika
『男性権力の神話』の著者ワレン・ファレル氏は元々フェミニストであり、女性の社会進出を助ける活動を行っていたそうだ。
彼が目指しているのは女性差別と男性差別の双方を撤廃することであり、アンチフェミニズムではない。
フェミニズム議論は「男性は女性を抑圧する加害者である」に留まりがちだが、復讐から一歩進んで、
「なぜ男性は女性を抑圧してきたのか」「男性が抑圧されていなければ男性が女性を抑圧する必要が無くなるのではないか」と、
男性は「美貌の女性」に憧れてそうしたストーリーを消費するわけではない。むしろ、「待ちの姿勢で居る高嶺の花的な美貌の女性を捨て身の献身でもって落とした男性」に憧れるのである。特攻隊についても言及されているが、彼らは別に"天皇および祖先のため"だけに死んだわけではない。家族や守るべきもの、あえて言えば自分が「男らしさ」を発揮できる対象(≒自分より弱い者)のために死んだのだ。死で終わるこの手の物語は言うまでもなく「捨て身の献身」の物語として最上のものである。そしてこの手の物語に最も惹きつけられる人間は、自らの命の価値に自信が持てない人間である。なぜなら、誰かのために死ぬことは、少なくともその誰かの命の価値を自らの生に与えることだから。
http://anond.hatelabo.jp/20150125113634
他人に価値があると言って貰えないと、自らの命の価値に自信が持てないことに、様々な人間関係上の問題の原因があるのだろう。
人間はゲームの初期設定のように平等なスキルポイントと割り振る自由を与えられているわけではなく、
体力10+知力10+魅力10=総合30点の人間と、体力1+知力1+魅力1=総合3点の人間が存在するのが現実だ。
欲するだけの「客体としての価値」が得られなかった人間が、苦しみのはけ口として男女論を使うシーンは多い。
個人的な苦しみが絡むからこそ、多くの男女論は生産的な方向に進まず、ミソジニーとミサンドリーの殴り合いになる。
人種差別も似たようなものなのだろう。「自らの命の価値に自信が持てない」から、無条件に自分よりも命の価値が低い存在を必要とする。
そして、今「強い男女」であったとしても、老化によって「弱い男女」になっていく。
自分は強い・美しい・賢いから生きる価値がある…といった、条件付きの自己存在承認をしていた場合は、
事故や病気、老いなどが原因で「弱い男女」となったとき、精神的なクラッシュを迎える可能性がある。
また、テクノロジーの進歩によって、自分の役割が「商品」に代替され、存在意義が揺らぐ可能性もあるだろう。
親より友人より恋人より、音声アシスタントの方が有益で快適な話し相手になる時代が来るかもしれないのだ。
他人に求めていただくこと、他人に価値を認めていただくこと…そのハードルは昔と比べてどんどん上がっていくだろう。
特攻隊のような捨て身の献身も、「生産性が無い」「時代遅れ」「死ぬしか能が無い」と冷笑するのが今は主流かもしれない。
「女性が待ち」の構図は戦前の男性社会が作ったんだよね。女性から告白するのは「はしたない」ものだったわけで、むしろ抑圧の象徴だったんじゃないかな。
http://b.hatena.ne.jp/entry/239953973/comment/azutokimiya
女性から男性への告白を禁じることによって、よく告白される男性と全く告白されない男性の格差を隠すことができる。
女性は欲望を持たない清廉な存在だというファンタジーも、女性に傷つけられないためのモノ化手法の一つなのだろう。
男性が「女性Aには興味があるが、女性Bには無い」という感想を持つように、
女性も「男性Aには興味があるが、男性Bには無い」という感想を当たり前に持つものだ。
「男性B」扱いされることを恐れすぎる男性は、女性による欲求の表明を抑圧する構造・風潮を作ろうとする。
たかが一人の女性に必要とされなかったことによって、自らの価値が揺らぎすぎることに原因があるのだ。
性差別問題は、「男性には許されて女性には許されない」「女性には許されて男性には許されない」の解体が最終目標となる。
ただ、もし仮にこの解体が上手くいって、男性だけの苦労や女性だけの苦労が無くなったとしても、
客体としての価値が高い「強い男女」と、客体としての価値が低い「弱い男女」の格差は残る。
「強い男女」同士が同僚・友人・恋人・配偶者として求め合い、「弱い男女」は「強い男女」を求めつつあぶれる結果を招くだろう。
「最貧困女子」が話題になったが、弱い男女は客体としてはストレッサーになる場合が多いのだ。
昨日放送されたNHKの「ネクストワールド私たちの未来」では、73歳の高齢男性が篠田麻里子演じる若年女性に恋をする描写があった。
数年前に放送されたNHKスペシャルでも、重度脳性麻痺の40代男性が、「脳性麻痺ではない健常な女性と恋をしたい」と主張していた。
夫に興味を持てなくなった中年女性が、ヨン様や氷川きよし、K-POPアイドルなどに熱を上げるのも、身近で耳にするレベルでよくある話だ。
こうした欲求に対して、釣り合わないだの、みっともないだの、鏡を見ろだの、要は「欲求を持つな」と強要する人々が居る。
しかし「弱い男女」が「強い男女」を求める気持ちは、禁じても無駄なほど強いものであろうし、求めるだけなら権利があるのである。
ただ「強い男女」にも、「弱い男女」からの求めを受け入れるかどうかを決める権利がある。当然の人権だ。
受け入れられなかった側が「高齢者差別」「障害者差別」「ルッキズム」などと怒ったとしても、
弱者に、強者の個人的交友や時間の使い方の選択権を侵害する権利があるわけではない。
いや実はまさに俺も同じような思考を過去にしていて(フェミニズムに走るとか特に)分析が適格過ぎて驚いた。
恋愛経験を経て劣等感が取り除かれたことによってバランス感覚を得たんだけど、もしラッキーチャンスがなかったら過去の自分はずっと蒙昧の闇にいたのだろうかという事が気になっていたんだ。
食品偽装もあるだろうが、食品を買うとき、まず気にするのが、原産国だ。
中国、韓国が入っていると、まず買わないし、原則としてトップバリューは、避ける。
代替え品があれば、それを買うし、無ければ食べない。
しかし、家族が気にせずに中国産を含む菓子類を買ってくるのだ。
それを食べて腹を下したり、嘔吐するぐらいならどうでもいい、蓄積されたあげく、癌を発症する可能性すらある。
知っておきながら、食べる気はしない。
だからといって、昨今、中国産を含む食品を避けることは、ほぼ不可能だ。
気をつけていても、どこかで必ず使われている。少なくとも、わかる範囲で避けたいと思う。
それはそうと、老眼の人には、裏面の文字が見えないという。
一部でも中国産が含まれる食品は、パッケージの色を赤にするとか、でっかく「中国産含む」の表記をするように義務づけて欲しい。
あくまで国家が国民の基本的人権を保障するという大枠の中で個人の責任の議論があるのであって、自己責任と国家による邦人保護が同レベルのように語られるのはおかしい。
「自己責任(だから○○)」の省略されたとこには2パターンあると思ってて、
その意味で、自己責任論の論点が曖昧というのはほんとにその通りだと思う。
どんなに馬鹿な行動の結果であっても、あるいは今回とは関係ないが犯罪の結果であったとしても、国家は粛々と遭難した邦人を公共の福祉に反しない範囲で全力で保護するのが当たり前。