はてなキーワード: 近代文学とは
私はもともと自ら進んで本を読むタイプではなく、現代文の授業も退屈に全く聞いていなかったので、何だか難しそうである日本近代文学というものも全く知らずに生きてきました。文学部とは反対に、実益に価値を置く商学部においてこのような人は多いと思います。それにも関わらず本講義を受講したのは、就活という制約のために労力をそれほどかけることができないという条件に合致し、次に近代文学に触れる可能性のない人生というのは少々勿体無いのものではないかと考え、何か読み始めるためのきっかけになるかもと興味が得られたためです。
この授業はそういう文学初心者には丁度いいものだったように感じます。扱う題材も文豪たちの探偵小説からということで、ある程度プロットがしっかりしていて初心者にもとっつきやすいものでした。また先生もそういう人たちに配慮して少しでも興味を持てるように工夫して授業を行なっていたように思います。大量のパワポの準備や、足を使って村を訪れるなど、手を抜かないところも好印象でした。作品や作者に対する解説や解釈も一歩踏み込んだものが多く、ここまで深い読みがあるのかと感心することも多かったです。
そのおかげか、小中高とあれだけ現代文の授業を毛嫌いしていた私にとっても、この講義は面白く興味深いものとなりました。と同時に、ある小説の一篇を長時間かけて解説させられる普遍的な現代文の授業スタイルがますます害悪のように思えてきました。
またレポートを提出させ、優秀なものをプリントにして共有するというのも良かったです。私の字数を埋めただけのようなレポートに比べて、同じ学生でもなんて中身のあるレポートを書くのかと刺激を受けることもありました。特に氾の妻についてのプロ顔負けの自作小説には驚きました。私も一度くらいプリントに載るようなレポートを書いてみたい気持ちもあったように思いますが、そもそもこれまで二回しかレポートを提出できていないので気のせいだったかもしれません。
そういえば最近、私は講義を受けていなかったらまず読んでいなかった春琴抄を非常に面白く読み進めています。どうやら講義を受けるにあたって近代文学を知るきっかけにしたいという思いは気のせいではなかったようです。あとは単位さえ得られれば当初の目標をほぼ完璧に達成することができそうです。よろしくお願いいたします。
提出日時:2012/01/30 00:27
「著者近影がない」というパターンも含めるべきでは?
本発表ではライトノベルの著者近影を一〇〇〇枚以上取集した調査の結果を報告すると共に、その変遷の意味を論じる。
著者近影は読者に対し著者をいかに提示するのか、という点において大きな役割を果たしている。
我々は漱石や太宰といった作家達の顔を簡単に思い浮かべることが出来る。
著者近影は近代文学においては作家主義を補強する機能を果たしてきた。
しかし、ライトノベルの著者近影は現在、近代文学のそれとはかけ離れたものとなっている。
その変遷には作品と作家、読者との関係がいかに変化していったのかが表れている。
収集したサンプルは以下の通りに分類した。
1、顔が鮮明に映っている。
4、イラストを使用している。
これらを年代順に並べることによりライトノベルの著者近影がどのような変遷を辿ってきたかが明らかになる。
一九九二年以前は、ライトノベルの著者近影も近代文学と同じように著者の顔をはっきりと映していた。
けれど、一九九三年、神坂一が著者近影にイラストを使用したのを一つの契機として、同様の例が増え始める。
その後、二〇〇〇年に時雨沢恵一がモノの写真を使用したことから、身近なモノの写真が著者近影に使用されるようになる。
現在ではライトノベルの著者近影はイラストかモノの写真にほぼ大別される。
メディア論の重要な批評家であるヴァルター・ベンヤミンは肖像写真と接する時、人々は唯一性、一回性ばかりに注目してしまうと論じている。
近代文学はそのような写真の力に依拠し、著者近影によって作家性を強調していた。
しかし、ライトノベルの著者近影はイラスト、あるいは身近なモノの写真へと移り変わった。
授業で近代文学読んでると「あーうちのことだ」って思って冷静でいられなくなる
ひいおばあさんが死ぬまで本当に地獄で、ああやっとこれで楽になるんだ、みんな自由になるんだ…って思ってたけどそんなことなかった
おじいさんおばあさんが家長の座に移っただけだった
何も変わらないどころかもっと悪くなるばかりだ
不動産でお金を儲けて子供にはいい教育を、私立に入れて安心させて
そういうサイクルに乗ってきたことに自信を持ちたくて、孫にまでそれを期待して信じてるのを感じる
小さな頃からお墓まいりのときには「このお墓に入るんだよ」って言われてきたから私は婿をとらなきゃいけないんだーって思ってたけど、全く同じことをすでに母が強いられて焦って結婚して結局何もかもが破綻して、現状離婚すらできない最悪の状態だし
母は経済的に自立していくしかないし、でも好きな男の売れない居酒屋でバイトしてるし、私は母のこと大好きだけど客観的に見ればダメダメだし
私の婚約者は本当にいい人で立派で優しくて思慮深くてこれ以上の人いないって思うけど、彼はおじいさんおばあさんが望むようなタイプではもちろんない
今日も散々遅くまでおじいさんおばあさんに色々追い詰められて、久しぶりに吐き気がするほど泣いた
こういうことっていろんな家にあるのかな?うちだけじゃないんだよね?
おじいさんおばあさんと一緒にいると辛いって言っちゃえばその響きだけでもうヒトデナシだし
早く家を出たい
でもこの家を継いでお墓を守らなくては、そうしなければ祟られる気がする
一番かわいそうなのは母だ
ま、あと何十年かすれば死んじゃうし、そしたら遺産で母と妹とどっかに遊びに行きたいなあ
それまで歯を食いしばって耐えるしかない
私見だが、夏目漱石の三四郎が文壇で評価され、「日本近代文学の祖」になった理由は、案外単純な理由な気がする。
「三四郎に描かれてる帝国大学の学生模様が、文壇主流派にとって『インナーな話』で懐かしかった」から、
分かりやすく書くと、文壇の大御所たちも東京帝国大学の出で、だから夏目漱石の三四郎は「東京帝国大学物語」で、心地良かった。
それまで「東京帝国大学物語」を書いた作家はいなかったから、その意味では夏目漱石の目の付け所はシャープだった。
よく考えたら、東大生の日々を描いた小説って、「三四郎」以降、存在しないんじゃないか?
東大生自身にも責任があるが、東大OBは、「三四郎」みたいなリアルな「東京大学物語」の小説化を怠ってきた、
一方で、ライバルである京大は、最近「鴨川ホルモー」で登場したりしてるのが羨ましい。
実際、東大が舞台の小説は後森鴎外と大江健三郎にしかないようで、このままでは世間は東大は「江川達也のマンガの世界」と誤解しちゃう。
※いや、東大の様子は、東大OBの「私の履歴書」を断片的に繋ぎ合わせれば、判るかな?
「三四郎」時代の東大は、あれはあれで趣きはあるが、工学系統が全く描かれてない点で今の東大とは別物。
せいぜい生糸工業と綿紡工業しか日本になかった三四郎当時の東大工学部と、現代の東大工学部で、「プレゼンス」が雲泥の差なのは当然。
『超権威主義的世界文学百選』http://togetter.com/li/138734というランキングを見て、面白いと思いながらも疑問に思ったことがあって、「20世紀の小説ばっかりじゃん!!」ということで19世紀の小説を重視したランキングを作成してみました。具体的には近代文学の始まり「ドン・キホーテ」(1605,1615)からモダニズムの始まりである「ユリシーズ」(1922)までです。つまり近代文学のモダニズム以前、ということになります。小説を選ぶうえで参考になればと。あと、あくまで個人的な基準に過ぎないことを留意してもらえればと。
1.「ドン・キホーテ」(1605,1615) ミゲル・デ・セルバンテス
2.「ガリヴァー旅行記」(1726) ジョナサン・スウィフト
3.「トム・ジョーンズ」(1749) ヘンリー・フィールディング
4.「紅楼夢」(18世紀中頃) 曹雪芹
5.「トリストラム・シャンディ」(1759~1767) ローレンス・スターン
7.「高慢と偏見」(1813) ジェーン・オースティン
8.「黄金の壺」(1814) E.T.A.ホフマン
10.「いいなづけ」(1825) アレッサンドロ・マンゾーニ
11.「赤と黒」(1830) スタンダール
13.「アッシャー家の崩壊」(1839) エドガー・アラン・ポー
15.「虚栄の市」(1848) ウィリアム・メイクピース・サッカレー
16.「緋文字」(1850) ナサニエル・ホーソーン
17.「デイビッド・コパフィールド」(1850) チャールズ・ディケンズ
18.「白鯨」(1851) ハーマン・メルヴィル
19.「死せる魂」(1855) ニコライ・ゴーゴリ
20.「オーレリア」(1855) ジェラール・ド・ネルヴァル
21.「ボヴァリー夫人」(1857) ギュスターブ・フロベール
22.「晩夏」(1857) アーダルベルト・シュティフター
25.「ミドルマーチ」(1872) ジョージ・エリオット
29.「ブラス・クーバスの死後の回想」(1881) マシャード・デ・アシス
30.「さかしま」(1884) ジョリス=カルル・ユイスマンス
31.「ハックルベリー・フィンの冒険」(1885) マーク・トウェイン
32.「飢え」(1890) クヌート・ハムスン
33.「クォ・ヴァディス」(1895) ヘンリク・シェンキェヴィッチ
36.「シスター・キャリー」(1900) セオドラ・ドライサー
37.「ロード・ジム」(1900) ジョゼフ・コンラッド
38.「ブッデンブロークス家の人々」(1901) トーマス・マン
39.「超男性」(1901) アルフレッド・ジャリ
40.「チャンドス卿の手紙」(1902) フーゴ・フォン・ホーフマンスタール
41.「鳩の翼」(1903) ヘンリー・ジェイムズ
42.「一万一千本の鞭」(1907) ギヨーム・アポリネーム
44.「ハワーズ・エンド」(1910) E.M.フォースター
45.「ペテルブルク」(1913) アンドレイ・ベールイ
46.「変身」(1915) フランツ・カフカ
47.「明暗」(1916) 夏目漱石
48.「ワインズバーグ・オハイオ」(1919) シャーウッド・アンダーソン
49.「われら」(1921) エヴゲーニイ・ザミャーチン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E7%94%B0%E5%BD%B0
長いけど引用。
人文知の現在については、『表象』no.01(2007)における松浦寿輝との対談において、「プラグマティックな工学知とそれによる利潤追求がすべてだ」(テクノキャピタリズム)という発想の全面化により、「人文知の成立する余地が失われた」。「いまや国家もハイ・カルチャーに興味をなくしつつあるし、オタクあがりのIT成金もハイ・カルチャーに興味をもっていない」。残っているのは、「日本における動物的スノッブあるいはスノビッシュな動物としてのオタク、その幼児的倒錯」しかないように見え、実際、「幼児的退行を売り物にするカルチャーが、日本的なオタクの特殊な表現であるということで、世界的に売れてしま」う。「2000年前後に、ドラスティックな変化があった。それまでは近代文学というものが辛うじて生きていた。しかしいまやそういう意味での文学とは違うところ、いわゆるライトノベルやケータイ小説、アニメやゲームのほうが、主流になってしまった。文学もそういうふきさらしの荒野に出てしまったと言う感じははっきりする」
しかし「素直に言って、僕はそういうものは最悪だ」と思うし、「市場の論理がすべてだとは絶対に思わない」。とはいえ、それらへの「反動として、ヨーロッパ的(あるいは東洋的)な古きよき教養に戻るというのも望ましくもなければ可能でもない。亡命知識人の体現するヨーロッパとアメリカの臨界に、20世紀の人文知の最大の可能性があった。それを21世紀にどうやって取り戻せるのかというのが、ひとつのモチーフになる」と述べている。
この鋭さはやはりすごい。
これについこの前の内田樹の話がかぶってくる。
http://blog.tatsuru.com/2011/08/01_1108.php
こちらは引用しないけど、ネット上の言論が暴力的になってきているという彼の印象と、それについての言説。
で、
サブ・カルチャーが社会において力を持つということは社会の教養レヴェルが(全体的に)落ちたということではないのか?
教養の不足、というのは、他者との距離感を錯誤する。わたし、と、あなた、の違いが曖昧にしか感じられなくなってくる。
総理大臣に『バカッ!』ということが、冗談でなくて本気で彼に伝わる、そんな感覚さえもつようになるのでは?
そして政治家もまたひとしく教養を欠き、彼らの十八番であった言葉遊びができなくなって、記者会見で泣き出す?
政治家でない私が政治家と違うのは、互いの囲まれた環境(circumstance)が違うのだから当然で、彼の言葉を理解できないから『理解しようとする』。
今そういうことを皆できなくなってきてるのではないか。
『おマエ氏ね』と書き込むひとは、案外以前より一層、本気で書くようになってきたのではないか。
二人のコトを読んでそんなことをぐるぐる、もやもや、考えた。
簡単に言えば、メディア化なんですよ。
昔、小説を読むってのは金持ちの道楽だったけど、明治が過ぎる辺りに一気に一般化した。
それ以前に、「心中物」とか悲恋が好まれる土壌はあったわけですが、
近代文学の隆盛、そしてその後の三島・太宰時代に至るまでずーっと
それに拍車をかけたのは、カトリック的な「純愛」の勃興ですね。
そういうわけで、上流階級の紡ぐ「物語」の上で「恋愛」っていうフィクショナブルな真実ってのは
既に明治に醸成されていた。
その上、女性解放運動が来ましたよね。家制度に深く結びついた「見合い」みたいな文化は
当然攻撃に晒されることになった。これも文学者たちと目茶目茶深く結びついてる。
これが一気に転換を迎えたのはやっぱ戦後の昭和の頃じゃないですかね。大正くらいから
上流階級の中で萌芽は無論ありましたが。昭和ってのはそういう時代だったかと思います。
思想・文学の中で醸成されたものが、社会の変化とともに一般化した。そういうわけで恋愛結婚が増えたのかと。
こういう動きは純文学に始まったわけだけれど、当然ながらエンタメに飛び火することになる。
そういうわけで、エンターテイメント、あるいは読み物、あるいは創作物と「恋愛」ってのは
日本に於いても欠かせないものとなった。そして、メディアが増えるに連れ
それは「異国の文化」から「愛の理想」へと格上げされたわけです。
現代では考えにくいですが、一昔前の書籍の持つ力ってのはスゴかったから。
そして、そういった創作の土壌が広まっていた以上「純愛」ってものがドラマの主題になっていくことも
そりゃもちろん当然の流れで、もし「恋愛」を広めた罪科を問いたいのならば
だって、あらゆる創作物から「恋愛」を抜いたらどれほどのものが残るか、想像つくでしょ?
ドストエフスキーも川端も、ヘミングウェイもほとんどみんな消滅するわけですよ。
だから今更「ドラマ」なんかに罪を問うてもマジ仕方ない。
必然だったわけです。文学と恋愛、創作物と恋愛が切り離せない以上、しかもその文化をいち早く
輸入して広めたヤツら、そしてその後の創作の基になったヤツが誰かと考えれば
http://anond.hatelabo.jp/20100217011554
日本で恋愛結婚が増えたのは、明治辺りに「恋愛」って価値観が導入されたことが原因。
当時の純文学の書き手なんて、みんなこぞって恋愛賛美・純愛賛美だったじゃないっすか。
キリスト教的価値観とともに持ち込まれたんだね。しかもこれは近代文学の走りでもあった。
「浮雲」辺りの話だね。国木田独歩とか純愛超頑張ってたじゃないっすか。
もう、「近代」の訪れとともに「物語」として輸入されて広まってましたよ。
それが許される社会状況になるとともに、恋愛化が進んだのは寧ろ必然。
ドラマなんて陳腐なもんではなく、もっと昔に始まっとります。あの辺りからの変化に比べたら
現代(昭和以降)の変化なんて、無いも同然。
けど、いつまで経ってもまともな会話ができなかった。
こっちが「AってBだよね」と会話を振ると「Cはどうよ」と話題を反らされる。
「夏目漱石のこころって一部実話なんだよねぇ」「仮面の告白はどうよ」みたいな感じ。
いやお前、前の会話に反応しろよ。
オタク同士の会話なんだから相手が理解できるかどうかギリギリのラインの話題を振るのはお互いに礼儀だろうがゴルァ。
「いいよね、近代文学」と書いてきたんだからそれなり以上の知識を期待されるのは当たり前だろ。
何考えてるんだろうこいつ…… と思って相手のmixiを見てると「彼女いない暦=年齢」の文字が。
今年に入って一番納得した。
この人、会話が出来ないんだ……。
(なお、文章中の例は適当です。)
彼らには圧倒的に時間が足りなかったのではないか。
彼らには圧倒的に物量が足りなかったのではないか。
彼らには圧倒的に勉強が足りなかったのではないか。
ソフィシケイトされそこなった中学時代の叡智の遅れは、近代文学を叙述したたかが一冊の本を読んだ程度で贖われるものなのだろうか。
中高時代普通の人の倍の授業を受けていても、"sophisticate"を「ソフィシケイト」とカタカナ化するぐらいだからまあそこは致命的な問題ではなかろう。
と、からかいだけで終わらせてもいいのだが、単なる揚げ足取りと思われないために一応。
スペルや発音の覚え間違いぐらい誰でもしますよ。本当に重要なのはそこじゃない。そうじゃなくて、学校の授業の時間数が多いことが本当に重要か、ってことです。授業時間なんて人生の中の時間にしてみればたかが知れているわけで、逆に言うと授業中にしか勉強しない人はそれ以上大成しませんよ。普段の時間から勉強する(場合によっては勉強しているという意識すらなく)姿勢が身に付いているかどうか、そこが重要。そういう姿勢を身につけるためにはただひたすら授業時間を増やせというものではない気がするが。
経験上、詰め込み教育を受けたときはその場で習ったことの定着は大きかったが、それ以上に自主的に考えようとする姿勢は退化してしまっていたように思う。せいぜいそういう教育で得られるのはこういうスペルや発音を間違えないことぐらいでしかない。逆に言うと、ブログ主さんの頭の中身は学校の授業だけで得られたものなんかじゃない。
なるほど。数日の議論を読んでみて、水村本の目次を確認してみると、否定派および肯定派がそれぞれの立場に別れた理由が少しわかっってきた。
目次・水村美苗『日本語が亡びるとき』http://books.yahoo.co.jp/book_detail/32157995/
2章 パリでの話
なるほど。本で第4章以降を読んだ人からは、もう知ってるよという反応や具体的提案についての否定的コメントが出てくるのも頷ける。日本語とか英語とかあるいは語学教育とかについて何か語りたくなる人も現れるだろうし、反対に、多文化主義的な観点からのコメントも出てくるだろう。
わたしなどは、8月に読んだからでもあるが、むしろ第1章がとてもおもしく感じられた(そりゃあだって、理論的な解決がこの本にあると思って読む人なんているだろうか。水村さん作品に親しんでいる人はもちろんそんなこと思わないだろうし、煽った人たちの力点もそこにないだろう)。
おそらく、
柄谷周辺の論者の問題意識に沿って書いた議論の向かう先・解決策を期待してこの本を手に取るか、あるいは、「アイオワの青い空の下で「自分たちの言葉」で書く人々」と交流しながら問題の所在を発見するというその出発点に着目するか、これにより、この本の評価はかなり分かれるのではないか。
多分、梅田さんがこの本について語りたくなったのも、水村さんがアイオワで様々な国からやってきた文学者と触れあう内に、日本や日本語についての問題に近づいていったというプロセスを、梅田さんの場合であればシリコンバレーでの経験になるかと思うが、この本を読みながら追体験し共感したからのではないか、とわたしは思った。
第1章のところだが、アイオワに各国の作家とともに招かれて出会った内の一人が、若いころロシア娘と恋に落ちたりもしたことがありその頃学んだロシア語を用いて盆栽に詳しいリトアニアの青年と会話のできるモンゴルの老詩人で、何かの時に水村が老詩人に向かって“You are an important person”といったときに、英語が苦手なのでたどたどしいながらもゆっくりと静かに“Everbody is important”と答える場面やそのほかの場面は、外のものに触れることでいくつかのばらばらの点が繋がり問題が自分のものとして感じられるプロセスとして見ることができ、さすがにマドル・スルーというようなものではないが、問題を自分のものとして受け止める過程はそれなりに緊張し疲れるのだが充実した読書だった。
そういうことが問題となってるのはずっと昔から知っているよ、何この話、古くさい、というのは十分あり得る反応だろう。ただ、問題の所在を個々人がそれぞれ理解するというのはそれとは独立に重要なことだろう。もちろん、この本とは別の入り口でも全然かまわないのだが。
そういう意味では、今回の騒ぎをきっかけに、こういう問題があるんだあ、と思った人にとっては水村さんの本は一つの入り口として悪いものではないと思う。
別の話。
http://d.hatena.ne.jp/Thsc/20081109/p2
話は少しそれるが、これを読んで、まず、「あたし彼女」読もうと思った。
もうひとつ思ったのは、
『新潮』9月号に載った前半部読んだ感想としちゃ、読めたもんじゃないよ。
何の説明もなく日本の文学は一人で幼稚なものになっていっていたと断じている作家が、この『ひとり』をひらがなに開く言語センスすら持ち合わせない作家が、<叡智を求める人>は今の日本文学など読まないなどとぬかしているのだよ。
という記述について。この方の水村本の理解からはそのように読めるし、きっと正しいだろうと思う。
ただ、もうひとつの可能性もあるのではないかとわたしは考えた。(いま新潮および本が手元にないので原文を確認することができない。「一人で」あるいは「ひとりで」が本のどのような箇所でどれくらい用いられれているか確認しないままではあるが、Thscさんの指摘にインスピレーションを受けてわたしの理解を書いてみることにする。)
Thscさんの主張はおそらくこうだろう。
という文の「一人で」は、「おのずから(自ずから)」あるいは「ひとりで勝手に」というニュアンスで用いられていると理解できる。そうであれば、「ひとりで」とひらがなで表記するべきであろう、と。
しかし、もしかすると別の考え方もあるのではないか。
「一人で」と漢字で表記するという点に固有の意味を見ようとするならば、日本語が「ひとりで勝手に」幼稚なものとなっていった、という理解とは別の理解でこの文を読まなければならない。その理解とはこうだ。
水村の議論全体をふまえると、水村は「言語というものは孤立すると衰退する」と考えているのではないだろうか。言語は「一人」になると衰退する。
このようなニュアンスを込めて、ひらがなにせず、あえて漢字を用いて「一人で」と表記したと考えることはできないだろうか。ここではそのような理解の可能性を指摘してみよう(もちろんこれはまだ単なる思いつきの段階であり、実際には、本文で語が使用されている箇所を逐一チェックしていく必要がある)。
ただし、このように考えたとしても、それならば違った書き方をするはずだ、等の疑問は当然に出てくるだろうし、結局のところは、Thscさんの理解が穏当なところだろうとわたしも思う。
別の可能性を指摘しただけでは水村さんが確信犯で「一人で」を用いたことの立証にはならないし、ひらがなか漢字かの選択だけでこのような微細な部分をオミットするのは文章家として正しい態度ではないのだから、いずれにせよ批判されても仕方のないところだろう。
いろんな報道で売り上げが5倍だとか何だとか言われてるんだが、その割に話題にしている人間を全く見かけないのはどういうわけだ?
というか、ワーキングプアと呼ばれる連中にあの手の文学作品を読む時間的精神的余裕があるとは思えんのだが。
Wikpediaの項目によると、読売新聞5/2付の記事がもっとも古いらしく、その3ヶ月前の朝日新聞には、売れているという記述は無いものの作者の小林多喜二を取り上げた記事が存在している。
そして5月中旬から今に至るまで、他の新聞社やメディアもこれに追随するように「蟹工船が売れている=ワーキングプア・格差社会」の論調が見られるようになっているわけだが、その根幹になる「若者に蟹工船が流行中」という事象がちっとも体感できないので、どうも違和感を感じざるを得ないんだよな。
もし誰か知っているのなら、格差の底辺に居るような人達が、上記の5月以前に蟹工船を絶賛しているようなURIを教えて欲しいんだが…。
まあ、そういう人達はネットにすら繋げられないのかも知れんけど。
■■追加■■
http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20080502bk02.htm
プロレタリア文学を代表する小林多喜二(1903??1933)の「蟹工船(かにこうせん)・党生活者」(新潮文庫)が、今年に入って“古典”としては異例の2万7000部を増刷、例年の5倍の勢いで売れている。過酷な労働の現場を描く昭和初期の名作が、「ワーキングプア」が社会問題となる平成の若者を中心に読まれている。
2万7千部ねえ…。それって平成の若者の何パーセントなんだろ…。
■■さらに追加■■
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-03-16/2008031614_02_0.html
青年トークで「蟹工船」エッセーコンテストで大賞を受賞した山口さなえさん(26)は、不当解雇され労働組合も助けてくれなかった経験から「私たち世代が絶望にならざるを得ない構造を、現代の蟹工船として書きたかった」と発言。長く派遣で働いた同準大賞の狗又(いぬまた)ユミカさん(34)は「『蟹工船』に共感するプレカリアート(不安定労働者)を代表して言いたい。『私たちをもっといい船に乗せろ』」と叫びました。
まあ、自分の事をプレカリアートなんて名付けてる時点で色々と染まってる人だとは思うが。
赤旗Webサイトで「蟹工船」で検索をかけると、今年初頭(1??2月)頃に色々とプッシュしている様子が伺える(それ以前となると2005年や2002年と散発的に取り上げられているだけ)。こんな記事があった。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-02-27/2008022701_03_0.html
デビュー作「一九二八年三月十五日」などで「貧困を生み出す社会のしくみに目を向け、これを打破する闘争を主題にしたところに多喜二の最初の大きな飛躍があった」と不破さん。とくに「当時の非正規の臨時工を描いた『蟹工船』がいま若者に読まれ、たたかいの力になっていることに多喜二が喜ぶだろう」と話すと、「ホーッ」と感嘆の声ももれました。
少なくともこの時点で、不破の脳内では若者が蟹工船を読んでいるという事になっていたらしい。赤旗以外のそっち系も調べてみるかな。
■■もっと追加■■
記事の発端は、5/2の読売の記事だと思われるわけで、
今年に入って“古典”としては異例の2万7000部を増刷、例年の5倍の勢いで売れている
これが本当に記事にするような事象なのかどうかを検証すべきなのかも知れんね。特に近代文学なんて元の販売スケールが大きくないんだから、ちょっとした事で数倍に跳ね上がったり数分の一に激減したりというのも珍しくないような気がするし。
2万7千部なんて、どこかの大手書店の営業がプッシュするとか、どこかの活動家が講演会で取り上げたりする程度で軽く到達できそうな数字に見える。あるある大辞典で納豆が売り場から瞬殺されるようなご時世だしな。
それに元の記事では「5倍のペースで売れている」としか書かれてないのに、いつの間にか購入者の大半が若者だという事になってしまっているのも気になる。購入者のプロファイルをどうやって知ったんだろ。中高年をメディアで煽ってちょっと騙くらかすだけでも数万部は軽くいけると思うんだが。赤旗日曜版だって100万部いってるんだし。
あのさあ、ライターだったらリード文に気の利いた文章一つ書けないでどうするよ。狭い業界の技術専門誌だけに書いて生きていくつもり?一般科学雑誌とか、もっとそういう野心はないわけ?そういうとき、古典の素養は必要だよ。
人間はプログラマだけじゃないんだけどね。それに、言ってること理解できてるのかなあ。プログラマにとってのLispや低レベル言語が、日本語を書く人にとっての古典にあたると言っているの。
それはあなたの場合でしょ。文系の人なんかだったら、古典なんて寝てても理解できるけどLispなんて一生理解できないといわれると思うよ。あなたは、自分が理解できなかったものを過度に難しいと思い込んでるだけ。
へー、あなたプレゼンしないんだ。顧客や投資家向けに気の利いたフレーズ一つ思いつかないようでどうするの?
観光が産業として大したことない、というからその点に反論したまで。俺はあなたの論点の不備を一つ一つ指摘してるだけで、自分が一貫した主張をしようとしているわけではない。
日本文学についてはそうかもな。でも、当の近代文学もろくに読んでない奴が、下敷きにだけ手出しても意味ないだろ。まずそっちが先じゃないかな。
じゃあ、ロックやポップス聴いてない奴がクラシック聴いちゃだめなわけか?そんなの勝手だろ。古典の方が近代文学より好きな人間だって沢山いるよ。俺だってそうだが。
あのね、そんな優先順位つけるまでもなく、全部できると言っているの。
あのさあ、「ジェネラリスト」の意味わかってる?いろんな分野に視野横断的に目が効く人のことを「ジェネラリスト」っていうんだよ。数学だけ勉強してれば文学も歴史も語れるっていうのかい?
足りてるわけねーだろ。仕事やりながら勉強してるような状態だよ。これが、高校でやってなきゃ偏微分とかと同レベルの理解度でしかなかったんだと思うとゾッとするね。基礎だけでも仕込まれててよかった。
自分が大学でサボってたことを自慢するなよ。普通はもっと勉強するんだよ。自分が勉強しなかったことを、「高校で教えてくれなかったせいだ!」なんて言ってたら、これだからゆとりはって言われるだけだよ。
数学系でも電子工学系でもねーもん。適当に試験前の一夜漬けで切り抜けてた。終わったら速攻忘れた。あと量子力学なんか何に使うんだよプログラマが。
使わないことは一切勉強しない人なんだ。ふーん。隣接分野から発想って出てくるもんだけどね。忠告しとくけど、俺が挙げたのは工学部のどこでも学びそうな分野だし、それから量子力学知ってると信号処理がわかりやすくなるんだけどね。まあいいや。
俺が思ってるものと比べてるんじゃない。「古典と」比べてんだよ。ちゃんと答えろ。
なんでそんなエラそうなんだ?だから、比べられないって言ってるだろう、何度も。少なくとも答えが自明に出る問題ではないし、客観的に妥当性のある調査ができるとも思えないと言っているの。
例えば、JavaとかRubyとかVBとかPHPとか、そういう種類の言語一種類しか使えないプログラマがいたらどう思う?あまり難しい仕事任せられないって思わない?
古典が読めるってことはまったく評価にならんだろ。プログラマとしては。
無論、最低限の英語力は必須だし、英語力は高ければ高いほどいいが。
最低限、Cとかアセンブラとかできるだけ低レベルに近い言語はある程度使えてほしいし、できればLispみたいな関数型言語とかOSやコンパイラの理論とか、そういうのを知識としてだけでもいいから知っておいてほしいと思うよね?
そんなの情報系の基礎教養だ。微積分学や古典を勉強するよりははるかに楽だし。
だったらどうして、古文や漢文の勉強が自分には意味ないって思うかなあ?日本語で文章を書くのは、仕事上の重要なスキルでしょ。まずその前提がよくわからない。
ビジネス定型文書くのにはもちろん、企画書や仕様書や技術書を書くのにも、古典や漢文の知識なんぞ必要ないだろ。
別に古典教育がどうなろうが観光ビジネスの改革にはならんだろうに。
日本文学についてはそうかもな。でも、当の近代文学もろくに読んでない奴が、下敷きにだけ手出しても意味ないだろ。まずそっちが先じゃないかな。
それとさー、どうしてあれを教えたらこれを教えるのやめろって話になるわけ?両方教えたらいいだけじゃないの。ただでさえゆとり教育なんだからさ。
教育を強化するなら数学優先にすべきだな。あと英語の強化かな。古典なんか最後でいいよ。
それは単なる君の不勉強でしょ。高校までで役に立つこと勉強したいんだったら高専とか工業高校に行くべきなんだし。普通高校ってのはジェネラリストを育成するところなんだからね。
それに、君はたまたま高校で習った行列計算だけで用が足りてるのかもしれないけど、行列の計算だけできても普通は何の役にも立たない。
足りてるわけねーだろ。仕事やりながら勉強してるような状態だよ。これが、高校でやってなきゃ偏微分とかと同レベルの理解度でしかなかったんだと思うとゾッとするね。基礎だけでも仕込まれててよかった。
というか、固有値やベクトル空間を理解せずにどうやって大学を卒業できたんだ?力学も振動論も微分方程式も統計学も信号処理も量子力学も、何一つ理解できないでしょ、それじゃ。
数学系でも電子工学系でもねーもん。適当に試験前の一夜漬けで切り抜けてた。終わったら速攻忘れた。あと量子力学なんか何に使うんだよプログラマが。
信号処理は真面目にやっときゃよかったなとちょっと思うね。今んとこクリティカルにそういうもんが必要になる仕事はやってないが。
俺が思ってるものと比べてるんじゃない。「古典と」比べてんだよ。ちゃんと答えろ。
人が人として獲得してきた物語の歴史において、圧倒的に「事実を元にした」の方が多い。逆に言えば「フィクション」なんてのは近代的作者が発生して以降のごく最近の発明で。物語=作者の内面の発露、ではなく、物語=おもしろくて役に立つ現実、なわけ。
ってゆー。あれだな。私見だけどこいつは性善説。「このおもしろい話をしている人が、誰の得にもならない嘘をついているはずはない」っつー。
たとえば? そうねぇ。世界でもっともヒットした物語である聖書のことを考えてみればすぐわかる。
「聖書がリアルじゃない」って認識がひろまったのはつい最近だろ? まして「聖書が本当だったか検証しよう」「聖書の本当の作者は誰だ?」なんてのも。
で、そーゆー古い意味での物語は、近代以降地下に押し込められたとは言え、常に揺り返しを試みてきているわけ。巷間の昔話、民話。あるいは民俗学で言う「世間話」。ちょっと前だと『本当にあった怖い話』『学校の怪談』ブームとかな。
で、現在。なんか「リゾームと自我の分散」とか言いたくなってくるんだけど、なんだっけ、美嘉だっけ、彼女って「作家」じゃないでしょ。いろんな意味で。近代的作家ってゆーのは確固たる自我と思想と内面と教養があって、「物語」はその従属物ってのがふつーでしょ。最初の方に書いた図の不等号はそういうことなんだけど。たとえバカにされがちなラノベの作家だって、そう意味じゃ立派な「作家」だ。川上未映子は川上未映子でないと『卵と乳』書けないけど、美嘉ってのは誰でも良いでしょ。
そして「恋空」は「昔話」。
それを近代文学の文脈で把握/批判使用とするのは無為なんじゃねぇのかなぁ。と。
で、これと同じ話は報道に対する姿勢とも通底する。
あるいはWeb上のあらゆる情報に対する「釣り?」という反応とも。
両方とも性善説というか、人間の「フィクション許容量」に関する話なんだけどね。
まぁそんな話を途中まで書いたんだけど、あまりの陳腐さに吐き気がして止めて2週間。
スティッキーズに残ってたんだけど、次に書きたいことが出てきたから邪魔だしもういいやっ、で公開してみる。
北風抄 - ”文学賞批判”を批判する
『文学賞メッタ斬り! 受賞作はありません編』(大森望・豊崎由美著、パルコ出版)は、書名どおり芥川賞・直木賞や主要文学賞選考のあり方を”メッタ斬り”する対談であり、ことに、選考委員のお歴々が実はまったく小説を読めていない、批評能力に乏しい─と軽い調子で鼻で笑って斬るところがミソであるようだ。
そのあたりはまあ読み流すとしても、白山市制定の島清恋愛文学賞にまで鉾先が向けられるとなると、ちょっと黙過しにくくなる。
「島田清次郎は二十歳のときに書いた『地上』という小説でベストセラーになったばかりに人生を誤ったんですね」との認識も粗雑に過ぎるが、「最後は早発性痴呆(現在の統合失調症)と診断されて精神病院に収容され、肺結核にかかって三十一歳で死んじゃった。こういう人を記念して恋愛文学賞を創設した白山市はたいへんな勇気があるなと思いました」との発言には大いにひっかかるものがある。
この「たいへんな勇気」が肯定的な意味で使われているのではないことはもちろんだ。この筆法でゆけば、三島由紀夫賞も、”市ヶ谷の自衛隊駐屯地に突入、日本刀で総監に斬りつけ、割腹して果てた人物を記念して文学賞を創設した”出版社はもっと「たいへんな勇気」があったことになる。
『メッタ斬り』の対談者は石川県人が島田に寄せる微妙な心情に全く気付いていない。「島田清次郎の悲劇は何がしか石川県人の心を揺さぶるものを秘めている」(水洞幸夫氏)のであり、夢や理想や栄光を求めて東京へ出たものの、空しく挫折した無数の石川県人と島田が重なり、郷関に残った者ともどもシンパシーを呼び起こされるのかもしれない。私などは、この賞の創設を、痛ましい限りの生を余儀なくされた島田の鎮魂として意義深い、と勝手に解釈している。
『メッタ斬り』の島清恋愛文学賞への批判はそれだけではない。批判の大半は、選考委員のひとりへのかなり激しい誹謗で占められている。名前を秘すのはかえって失礼だから挙げておくが渡辺淳一氏のこと。近代文学の名作をも”メッタ斬り”にした『百年の誤読』でも、豊崎氏は渡辺氏のベストセラー『失楽園』をこっぴどくやっつけた。『メッタ斬り』では、同じくベストセラーになった『愛の流刑地』に罵詈讒謗の集中砲火を浴びせている。
豊崎氏らが『愛の流刑地』を読めないのは勝手だが、だからといって渡辺氏の選考委員としての資質まであげつらうのは行き過ぎも甚だしいと言うべきではないか。失礼千万ではないか。私個人としては、第九回の岩井志麻子氏(『自由戀愛』)、第十回の谷村志穂氏(『海猫』)の受賞など、わが意を得たりとひそかに喜んでいただけに、見当違いの選考委員攻撃には不快を禁じえない。
『メッタ斬り』が巻末で小説群を百点満点で点数評価しているのも賛成できない。文学作品はこんな評価方法にはなじまないはずだ。文学批評なるものは、褒めようと貶そうと、読者にひとつ読んでみようと思わせるのが”芸”であり、点数評価では”芸”も何もあったものではない。『メッタ斬り』が全編真摯な態度に欠け、先に述べたように当世流行の軽い”ノリ”で批評して見せるのも不快。蟷螂の斧に過ぎない地方からの発言だが、とにかく書いておきたい。