はてなキーワード: 岩井志麻子とは
もともと腕を切ってたブスのメンヘラだけど岩井志麻子さんのニュースに対してものすごく傷ついた。私のお気持ちの話です。
はてなではそこそこ批判がされてるけどTwitterを検索してみたら「言い得て妙」っていうコメントがいっぱいあった。
私に関わることだから特別にセンシティブになってるだけっていうのは分かってるんだけど、「手首を切るブス」というワードが面白ワードとして消費されてるのが辛い。自業自得だけれど夏が来てみんなそろそろ半袖だけど跡が出るから半袖で外を歩くのはもう一生無理だなーと毎日考えて悩んでしまう人間からすると、パワーワードとか言われて面白おかしくされてるのがしんどい。
ネトウヨの人たちが韓国に対してどういう認識をしてるかどういうひどい言葉を吐いてきたか知ってるから、その人たちが手首を切る人と韓国を一緒じゃんって笑ってるのがしんどい。
岩井志麻子は男の気を引くために手首を切る女の人のことを笑っているわけで私のような精神疾患からくるリストカットのことじゃないのかもしれないけど、この二つに境なんてないんじゃないかと思ってるので自分のことを嘲笑されているようでしんどい。これは私の考えで、精神疾患からくるリストカットとかまってもらうためのリストカットは全く違うと考える人もいるかもしれない。
岩井志麻子は韓国人の夫と結婚してるんだからヘイトじゃないっていう人もよくわからない。韓国人と結婚したら韓国のことを貶していいのか?日本人と結婚した韓国人に「日本っていうのは○○(ネガティブなワード)みたいなもん」って言われたら嫌じゃないのか?自分でネガティブなワードって言ってしまってるね。やっぱりリストカットに対して世間は当たり前によく思ってないし、それを一番思ってるのは自分だし、なんか書いてて辛くなってきた。
自分に返ってくる影響も考えられないような奴なんだからそりゃ言うわな
こいつは自分の○んこのおかしなところも、体のたるんでるところも、全身のほくろの位置もくまなくオープンソースにする気満々なんだろ。
自分の情報価値が0なのを知ってて、情報価値のある相手のデータを暴露するというやり口が気持ち悪い。
mememememiti 私は岩井志麻子さんリスペクトしてますからね。反撃されようが私が社会的に制裁されようが、将来的にネタにする。もちろん正直な人の事やオフレコと言われた事などは、ネタにしません。
プライベートで会ってる間の内容は”基本全部”オフレコというのが大半の人の認識だと思うがな。
おまえの「オフレコなら話さない」に賛同する人はほとんどいねーと思うぞ。
たとえ嘘つきでもお前が騙されている限り正直な人なんだろ?
おまえの機嫌を損ねたら全部暴露するってことじゃねーか。
ぼくもとっても好きでした。
彼女には、ひとが生きることのかなしみときらめき、狡さと気高さ、繊細さと大胆さといったさまざまな相反するものが共存していたと思います。そしてそれは、非常に人間らしいものです。
普通の人はそういうものを隠して、こそこそと適当に暮らしているものですが、彼女はまるっきりむき出しにしています。だからみんなの目をひくし、嫌われもする。ときには「世間を騒がせる」こともある。
でもそんなの、まったく問題ないよ。世界は空気の読めないやつがドライブするんだ。
はしごたんは、つまんない借金なんてすぐに自己破産して、その他の面倒なものも全部ぶん投げて東京に出てくるといいと思う。あるいはいっそ、上海とかニューヨークとかにいっちゃうとかね。田舎にいるのはほんとにもったいないです。
都会で何をするかだけど、一例ですが、小説家はどうでしょう。たとえば岩井志麻子とか、ロールモデルになるかもね。彼女のデビューは35歳です。はしごたんの文章力なら可能性はけっこうあるはず。
いずれにしても、健康に気をつけてがんばってほしいな。応援してます。
以上、ウェブでだまって見ていただけの一読者より。
北風抄 - ”文学賞批判”を批判する
『文学賞メッタ斬り! 受賞作はありません編』(大森望・豊崎由美著、パルコ出版)は、書名どおり芥川賞・直木賞や主要文学賞選考のあり方を”メッタ斬り”する対談であり、ことに、選考委員のお歴々が実はまったく小説を読めていない、批評能力に乏しい─と軽い調子で鼻で笑って斬るところがミソであるようだ。
そのあたりはまあ読み流すとしても、白山市制定の島清恋愛文学賞にまで鉾先が向けられるとなると、ちょっと黙過しにくくなる。
「島田清次郎は二十歳のときに書いた『地上』という小説でベストセラーになったばかりに人生を誤ったんですね」との認識も粗雑に過ぎるが、「最後は早発性痴呆(現在の統合失調症)と診断されて精神病院に収容され、肺結核にかかって三十一歳で死んじゃった。こういう人を記念して恋愛文学賞を創設した白山市はたいへんな勇気があるなと思いました」との発言には大いにひっかかるものがある。
この「たいへんな勇気」が肯定的な意味で使われているのではないことはもちろんだ。この筆法でゆけば、三島由紀夫賞も、”市ヶ谷の自衛隊駐屯地に突入、日本刀で総監に斬りつけ、割腹して果てた人物を記念して文学賞を創設した”出版社はもっと「たいへんな勇気」があったことになる。
『メッタ斬り』の対談者は石川県人が島田に寄せる微妙な心情に全く気付いていない。「島田清次郎の悲劇は何がしか石川県人の心を揺さぶるものを秘めている」(水洞幸夫氏)のであり、夢や理想や栄光を求めて東京へ出たものの、空しく挫折した無数の石川県人と島田が重なり、郷関に残った者ともどもシンパシーを呼び起こされるのかもしれない。私などは、この賞の創設を、痛ましい限りの生を余儀なくされた島田の鎮魂として意義深い、と勝手に解釈している。
『メッタ斬り』の島清恋愛文学賞への批判はそれだけではない。批判の大半は、選考委員のひとりへのかなり激しい誹謗で占められている。名前を秘すのはかえって失礼だから挙げておくが渡辺淳一氏のこと。近代文学の名作をも”メッタ斬り”にした『百年の誤読』でも、豊崎氏は渡辺氏のベストセラー『失楽園』をこっぴどくやっつけた。『メッタ斬り』では、同じくベストセラーになった『愛の流刑地』に罵詈讒謗の集中砲火を浴びせている。
豊崎氏らが『愛の流刑地』を読めないのは勝手だが、だからといって渡辺氏の選考委員としての資質まであげつらうのは行き過ぎも甚だしいと言うべきではないか。失礼千万ではないか。私個人としては、第九回の岩井志麻子氏(『自由戀愛』)、第十回の谷村志穂氏(『海猫』)の受賞など、わが意を得たりとひそかに喜んでいただけに、見当違いの選考委員攻撃には不快を禁じえない。
『メッタ斬り』が巻末で小説群を百点満点で点数評価しているのも賛成できない。文学作品はこんな評価方法にはなじまないはずだ。文学批評なるものは、褒めようと貶そうと、読者にひとつ読んでみようと思わせるのが”芸”であり、点数評価では”芸”も何もあったものではない。『メッタ斬り』が全編真摯な態度に欠け、先に述べたように当世流行の軽い”ノリ”で批評して見せるのも不快。蟷螂の斧に過ぎない地方からの発言だが、とにかく書いておきたい。